アルマ=アタ事件再考
―事件の性質と民族間関係への影響―

地田 徹朗
北海道中央アジア研究会第2回例会(2000年7月22日)における報告


 本発表では、1986年12月17日から19日にかけて、ソヴィエト連邦構成共和国の一つであるカザフ共和国の首都アルマ=アタで発生した、カザフ人を中心とする市民と治安部隊との間での暴動事件、いわゆる「アルマ=アタ事件」の性質とその民族間関係への影響について論じた。


 アルマ=アタ事件は従来、その後に噴出する「民族紛争の最初の原因」であるとか、長年にわたりソ連邦中央から無視されてきた諸民族の憤りを示す「最初の兆候」であると言われてきたが、事件に関してきちんとした考察がなされていないような議論が多い。
その一方で、アルマ=アタ事件に焦点を当てた研究も存在していたが、やはりその記述も不十分なものが多かった。
今回の報告は、事件内のデモ隊および治安部隊の動きに加え、従来あまり議論されてこなかった、アルマ=アタ事件の背後にある政治的な動向にも焦点を当て、事件に対して新たな視点を導入することを目指すものである。

 アルマ=アタ事件は大まかに分けて次の4つの段階に区別されると考えられる。


@カザフ人を中心とする市民による平和的デモ(12月17日8:00〜15:00)
Aデモ隊・治安当局双方の動きがエスカレートしていく過程(12月17日15:00〜24:00)
B事件が民族間紛争の色合いを帯びる過程(12月18日)
Cアルマ=アタ事件の他市への飛び火(12月19日〜25日)


 アルマ=アタ事件の直接の契機になったのは、ほぼ四半世紀にわたりカザフスタン共産党のトップを務めてきたディンムハメド・クナーエフのカザフスタン共産党中央委員会第一書記(以下、「党第一書記」と略す)からの解任と、 前ウリヤノフスク州党委員会第一書記ゲンナジー・コールビンの同職への就任という、事件の前日12月16日の第5回カザフスタン共産党中央委員会総会決議であった。
従来、クナーエフとその側近たちによるデモの煽動が疑われてきた。
しかし、クナーエフ自身は後継者問題をある程度自分の都合の良いように解決しており、彼自身がデモを煽動するという根拠は見当たらない。

 実際のデモの組織は、人事決議が行われた当日の夕刻以降、アルマ=アタ市内の各大学の寮で行われた。
そこではこの人事決議に関して討議する集会が開かれ、大部分のカザフ人学生がこれに反対の意を表したという。
そして、翌日にブレジネフ広場においてデモを行うことが決定され、そのためのアジビラやプラカード、横断幕などが翌朝までに作られた。 ただし、このような集会の組織の際に、 党幹部などによる何らかの煽動があったのかどうか、この点はいまだ不明である。

 200人から300人程度の最初のデモ隊は12月17日午前7時から8時にかけて現れた。この人数は時を経るに連れ増加することになる(最終的には1万人以上と言われている)。
ただし、この段階でのデモ隊の雰囲気はいたって平和的で、その要求も強烈なカザフ・ナショナリズムを唱導するようなものではなかったということは確認されている。
確かにデモ隊の中には、自らの経済的困窮を改善するようにとの要求や、カザフ語の共和国内でのプレゼンス向上を求める要求などを掲げる者もあった。

しかし、デモ隊を一つにまとめ上げていたものは、前日の人事決議に反対の意を表するということだったと言える。
そして、カザフスタンにおいて豊富な経験があり、カザフスタンにとって有益な指導者をカザフスタン共産党のトップに据えて欲しいという、まず第一に「カザフスタン」というものを考慮した市民の「領域的なナショナリズム」が事件当初は主流であった。
このように当初のデモは平和的なものであったにもかかわらず、当局側は過剰に反応し、迅速にデモ隊を民警などからなる治安部隊で包囲、デモ隊解散への説得をはじめた。

15:00過ぎからデモ隊と当局側の人物との対話も試みられているが、 デモ隊の要求に対して当局側の人物(ナザルバーエフやカマリデノフなど)は強圧的な態度に出るだけで全く応じるそぶりすら見せなかった。
このような当局側の中途半端な対応が事態を悪化させ、当局側が一方的に対話を打ち切ると、デモ隊側の怒りが爆発。 投石などから治安部隊への攻撃が始まった。

18:00には治安部隊のデモ隊解散を目的とした武力行使にゴーサインが出され、双方の攻撃は時間を経るにつれてエスカレートしていった。デモ隊は治安部隊から発煙筒や信号ロケットなどの特殊装備を奪って攻撃を加えたし、広場周辺の建物の破壊や放火も行った。

これに対し、治安部隊は警棒を用いた攻撃から、消防車による放水作戦も実施した。 そして、最終的に工兵シャベルや警察犬を用いたデモ隊の完全掃討が実施され、24:00頃までには、いったんデモ隊は四散した(深夜の時間帯にも引き続き、デモ隊の移動および治安部隊による弾圧はあったようだが)。
 ここまでは、デモ隊と治安部隊の間での暴動という形で事件は推移していた。

しかし、翌12月18日早朝以降、事件は民族間紛争の性質を帯びることとなる。その直接の契機となったのが、労働者を中心とした自警団の動員であった。
これはコールビン自身のイニシアチヴで、12月18日深夜に行われた党・経済アクチーフでの承認を経て結成されたようである。
アルマ=アタの労働者の大半がロシア人であったため、必然的に自警団の構成メンバーもロシア人中心となった。 彼らには最初から木や鉄の棒、ケーブル、ゴムホースなどの武器が配布され、8:00までにはアルマ=アタ市内各所に配備されている。

そして、昨日弾圧を受けたカザフ人中心のデモ隊も武器を手に持ってブレジネフ広場に集結。
こうして、カザフ人対ロシア人という民族間紛争の構図ができあがった。
つまり、コールビンやモスクワの党幹部は意図的に民族間紛争を煽ったと考えられる。こうした民族間紛争の様相はデモという枠組みを超えて市内随所に広がっていった。 市内は騒然とした雰囲気となり、暴動の範囲は市内全域に広がった。

デモ当初の「領域的なナショナリズム」はこの頃までには影を潜め、カザフ人およびロシア人の「エスニックなナショナリズム」が前面に押し出されたと言えるだろう。
そして、20:30にデモ隊掃討の「吹雪作戦」が実施され、21:30頃にはデモ隊は一気に、そして前日にも増して凄惨に掃討された。

こうした事件の様相をさらに悪化させたのは、カザフスタンに関しては全く素人であったコールビンとソ連邦中央のイニシアチヴで、 事件の動向を大きく左右するような諸決定の多くがなされたことである。

それでも、12月17日の午前中はミロシヒン(党第二書記)やカマリデノフ(党第三書記)などもコールビンに助言する役割を果たしていた。 しかし、同日の午後以降、コールビン自らのイニシアチヴが強まっていく。正規軍派遣の要請や特殊装備の配備はコールビン自身が命令(もちろんモスクワとは綿密に連絡を取っていたが)しており、 地元の党幹部は事後的に承認を求められるだけだったという。


そして、12月17日19:30にはモスクワからソ連邦中央の事件への責任者としてソ連共産党中央委員会職員(カザフスタン担当)であるラズーモフ、ミシェンコ、ソ連邦内務大臣代行エリーソフらがアルマ=アタ入りし、 この段階から事件の処理に関する決定権が明らかに地元の党幹部から奪われ始めた。上述した通り、労働者自警団の動員はコールビン自身のイニシアチヴが強く、ラズーモフらもこれに積極的にコミットしていた。

そして、12月18日夕方からは政治局員であり元カザフスタン共産党第二書記のミハイル・ソロメンツェフにデモ隊掃討の全権が委ねられ、地元の党幹部は完全に排除されるに至った。

 翌12月19日にはアルマ=アタ市の状況はほぼ正常化するが、事件に関する情報は報道や口伝えなどによってカザフスタンに遍く迅速に広まった。 そして、これらの影響を受け、ジェズカズガン、カラガンダ、パブロダール、チムケントなどの諸都市でも小規模ではあるがアルマ=アタと同様のデモが行われ、同じく治安部隊によって弾圧された。つまり、アルマ=アタ事件は全カザフスタン的な事件にまで発展したと言える。

ただし、以上の議論の中で問題となるのは、「何故、当局は意図的に『エスニックなナショナリズム』、民族間紛争を煽動せねばならなかったのか」というその根拠であろう。
もちろん、このようなことの根拠を示す証拠資料はあるはずがないし、例えあったとしても、現段階では公開されるはずがない。
しかし、ここ がアルマ=アタ事件の性質を述べる上での大きな鍵となる部分であることは疑いない。よって、仮説ではあるが、私なりの考えを示したい。

1986年段階ではペレストロイカもそれほど進展しておらず、改革を着実に全国へ行き渡らせるために、相対的に自由を享受していたと考えられる地方の指導者たちをソ連邦中央に従属させることが、ゴルバチョフにとって急務であったと考えられる。
クナーエフの辞任後に、リガチョフのクライアントであり中央の政策を徹底的に履行していたことで定評のあったコールビンをカザフスタン共産党のトップに据えるということは、このような「再中央集権化」を進める上で大きな一歩を踏み出すということを、ソ連邦中央もねらっていたようだ。

また、クナーエフを頂点としたカザフ人中心のパトロン=クライアント関係やその間での汚職の傾向に業を煮やしていたソ連邦中央は、コールビンに徹底した党規律の再確立を期待していたと言えよう。その中には、カザフスタンにおけるロシア人のプレゼンスの向上ということも当然含まれていたと考えられる。そのような中で、突然アルマ=アタ事件は発生した。  事件当初、アルマ=アタに不案内であったコールビンは、地元共産党幹部からの助言を仰いだ。

しかし、ある程度対応に慣れてくると、ソ連邦中央の力添えも得て、まずは地元の(特にカザフ人の)共産党幹部を排除し、自らの指導力の確立を党内に印象付けた。

そこに、ソ連邦中央からの幹部団がアルマ=アタ入りし、彼らとの連携を強めることによって、コールビンとソ連邦中央の結びつきの強さの印象付けをねらったと考えられる。

さらに、警告されたにもかかわらず、コールビンはロシア人を中心とした労働者自警団の動員にゴーサインを出すこととなる。これによって、ロシア人は「善」、カザフ人は「悪」という構図を作り出し、その後に行われるカザフ人官僚の大量解任、党紀粛正への良い口実を、市民の間にも印象付けることをねらったのではなかろうか。

そこには、「民族」というものに最も保守的な思考態度で臨まねばならない党統制委員会議長という職についていた、ソロメンツェフの助言も大きかったと考えられる。
また、最終的にこのようなコールビン=ソロメンツェフの思惑は、民族問題をまさに認めることにより、諸民族の規律を正すことを目指していたと考えられるゴルバチョフの利害とも一致したのではなかろうか。

しかし、歴史が雄弁に語っているように、このような方針は逆に民族間対立の顕在化を全ソ連邦にアピールすることとなり、各共和国の最終的な遠心的傾向をさらに強めることとなった。アルマ=アタ事件はこのような意味でも大きな歴史の分岐点となったと言えるのではなかろうか。