中央アジアの政治事情と
イスラーム過激派問題
宇山 智彦 

T 再び現れたゲリラたちとタジク反対派連合


<ゲリラの再来>

 
昨年八〜十月に日本人技師らの拉致事件を起こしたイスラーム過激派のゲリラが、再び中央アジアに現れた。一段と磨きをかけた軍事能力を発揮しながら。
 事の始まりは、ウズベキスタン南部のスルハンダリヤ州サリアシヤ地区で、七月二六日に六人の牧夫が行方不明になったことだった。現場はタジキスタン国境に近い山岳地帯であり、ウズベキスタンの治安当局はすぐにゲリラによる拉致の可能性を考えたに違いない。三一日にゲリラが発見され、八月五日には戦闘が始まった。昨年の拉致事件を起こした「ウズベキスタン・イスラーム運動」の指導者たちは、今度の事件も自分たちのグループによるものだと認めた。
 同じく八月五日にゲリラは、ウズベキスタン東部のカムチク峠に姿を見せた。これは、同国の人口の四分の一以上が暮らすフェルガナ盆地と、首都タシケントとを直接結ぶ唯一の道が通る、重要な場所である。また、タジキスタン北部の山地のあちこちでゲリラが目撃されたという情報も伝えられた。そして、昨年日本人などの拉致事件が起きたクルグズスタン(キルギス)のバトケン州でも一一日にゲリラと治安部隊との戦闘が始まった。これは初めは西端のレイレク地区だけだったが、一八日から二〇日にかけて、昨年の拉致事件の舞台となったバトケン地区ホジャ・アチカン村と、さらに東のオシュ州チョン・アライ地区にもゲリラが現れた。
 一九日にはタシケントの東方約八〇キロにあるブルチムッラ村で、ゲリラと軍の交戦が始まった。これはタシケント市民の憩いの場として名高いチムガンのすぐそばで、大勢の子供たちが避難する騒ぎになった。ここからは二〇キロも行けばカザフスタン国境であり、同国も警戒を強めている。二三日にはアンディジャン州パイトゥグ市で、所属不明の武装勢力と警察の銃撃戦があった。このほか、アフガニスタンからタジキスタンに越境しようとするゲリラと、タジキスタン駐留ロシア国境警備隊との衝突も起きている。
 千人規模のゲリラが一団となって現れた昨年と違い、今年は、大体数十人ずつのグループがあちこちに現れている。外国人を長期間人質にとる戦法ではないため(アメリカ人やドイツ人などの登山家が一時拉致されたが、まもなく解放された)、日本ではあまり報道されていないが、現地の軍や警察には、昨年を上回る死者が短期間で出ている。ゲリラの機動性と殺傷能力は一段と増し、中央アジアの安全保障に昨年以上の脅威をもたらしているのだ。
 中央アジアはもともと民族紛争や宗教紛争が激しい地域だとイメージする人もいるようだが、それは偏見である。内戦を経験したタジキスタン以外は、ソ連崩壊後さまざまな問題を抱えつつも平和に国造りをしてきた。今回も、ゲリラが動いているのは(パイトゥグを除けば)タジキスタンの近くの山岳地帯だけで、ほとんどの地域の人々は平穏に暮らしている。
 それにしてもなぜ、ゲリラは昨年に続き今年も現れたのか。


<謎だったゲリラの居場所>

 
そもそも、昨年十月に人質をタジキスタンで解放したあと、ゲリラはアフガニスタンのターリバーン政権の支配地域に移動したというのが、タジキスタンの公式発表だった。しかしターリバーン側は老人や女性・子供しか来ていないと反論し、ゲリラの居場所は謎だった。ところが今年の春になって、やはりゲリラのかなりの部分がタジキスタンにいることが判明したのである。そして同国のイスラーム運動の指導者たちが再び説得し、五月初めにようやくアフガニスタンに去ったことになっていた。この発表も疑われたが、同時にもしゲリラがアフガニスタン集結したとすれば、国境を接するウズベキスタンのスルハンダリヤ州を攻撃するかもしれないという指摘もあった。
 今回最初にゲリラが現れたのがスルハンダリヤ州なので、やはりアフガニスタンから入ってきたという見方も当初はあった。しかし現場は州の中でも北に位置しており、アフガニスタン国境からは一八〇キロほど離れていて、その間を気づかれずに移動できたとは考えにくい。むしろ、一〇キロも離れていないタジキスタンから来たと考える方が分かりやすい。もっとも、既に四〜五年前からイスラーム過激派が現場の山村で幅をきかせていて、今回たまたま発覚しただけだという説もあり、さまざまな時期に少しずつやって来た可能性もある。
 ゲリラが出現したほかの場所も、パイトゥグ以外はみなタジキスタン国境から七〇キロ以内に位置する。タジキスタン側は領内のゲリラの存在を否定しているが、たとえ現在はいないとしても、事実に反する発表をしてまでゲリラに領内で越冬させ、取り締まるわけでもなくアフガニスタンに移送したのはなぜかという問題は残る。ゲリラの再来の理由は、タジキスタンという国の事情と関係ありそうである。


<タジキスタン内戦の対立構図>

 
タジキスタンで内戦が始まったのは一九九二年である。当時の共産党政府と、民主化・民族運動とイスラーム運動が連合した反対派との対立だった。もともと反対派の中心は民主化運動だったが、対立が先鋭化していくにつれ、農村部での動員力が強いイスラーム運動の比重が大きくなった。一時は反対派を加えた連立政府が作られたが、ウズベキスタンとロシアの支援を受けた共産党勢力は権力の独占をもくろみ、九三年三月までに、クラーブ・マフィアやウズベク人を含む部隊の武力で反対派を排撃した。
 実はこの対立は、単なるイデオロギー対立ではなかった。タジク人は地域によって習俗を(場合によっては言語も)異にしているが、そうした地域の区別によってソ連時代にエリートやマフィアの閥が出来上がり、その間の権力争いが内戦の背景にあったのだ。共産党勢力の基盤は北部のレニナーバード州(州都フジャンド)と南部のクラーブ、西部のヒサールであり、ソ連時代はレニナーバード出身者が有力だったが、九三年以降は内戦の兵力を多く提供したクラーブ出身者が実権を握った。ラフマーノフ大統領もクラーブ出身である。他方反対派の基盤は、東部のガルムとバダフシャーンだった。
 アフガニスタンに逃げた反対派は、同国のラッバーニー政権(マスード派。民族的にはタジク人)の支援を受けながら、盛んに越境攻撃を繰り返し、徐々にタジキスタン国内に帰っていった。国内に残っていた支持者たちも呼応した。反対派の戦闘拠点は、もともとイスラーム運動の力が強いうえ、地形が険しく隠れやすいガルムであった。
 反対派武装勢力の総司令官は、一九六〇年生まれの元国営農場長、ミールザー・ズィヤーエフ。そしてその脇には、彼より九歳年下ながら、ひときわ目つきの厳しいウズベク人の副官がいたはずだ。ジュマバイ・ホジエフ、またの名をジュマ・ナマンガニー。ウズベキスタンのナマンガンから流れてきたよそ者だが、ガルム地方のハイト村付近を実質的に支配する実力者であった。
 他方で政府と反対派の交渉が粘り強く続けられ、九七年六月に政府とタジク反対派連合(UTO)の間で和平協定が結ばれた。これで内戦が少なくとも形式上は終わり、UTOの代表を三割加えた政府の形成が始まった。しかしその人選は難航した。UTOはズィヤーエフを国防相にするよう求めたが、政府は拒否し続けた。ちなみに九八年七月に国連タジキスタン監視団員として勤務中だった国際政治学者、秋野豊氏がガルム地方西部で殺されたのは、ズィヤーエフと会った直後だった。そのため、何らかの勢力が彼の評判を落とすために行った犯行ではないか、という説もあった。ズィヤーエフは結局、非常事態相になった。


<タジク反対派連合とゲリラの関係>

 反対派武装勢力の扱いも難しい問題だった。選択肢は政府軍に編入するか、軍事以外の職業に戻らせるかであるが、山中にこもった荒くれ者たちはなかなか言うことを聞かない。特に問題なのは、ナマンガニーほか数百人いたウズベク人だった。あとで述べるような事情から、彼らが平和的にウズベキスタンに帰ることはできないのである。反対派の武装解除の期限は、九九年七月末日と設定された。ナマンガニーたちにとっては、新しい活路を開く決断の時だったに違いない。七月二九日、彼らはウズベキスタンを目指して、途中のクルグズスタンに侵入した。地元の役人を人質に取ったりクルグズスタン軍と戦ったりした彼らは、驚くべきことに八月二三日になっても避難していなかった日本人技師らを、やすやすと拉致した。
 二カ月後に人質が解放されるまでの交渉では、UTOの指導者ヌーリーや、ズィヤーエフの説得が効果を発揮したと見られる。しかし同時に彼らはナマンガニーらに温情を持ち続け、無理に追放しようとはしなかった。そして今年の夏、ナマンガニーらは再び現れた。
 UTOがナマンガニーらを保護ないし操作しているという疑惑は、以前からウズベキスタンのカリモフ政権などが主張してきたものである。理屈から言えば、今後タジキスタンの国造りの中でUTOが重要な位置を占め続けようとするなら、ゲリラ支援に手を染めて信頼を落とすのは不合理に思える。
 しかしタジキスタンの内政事情は、一筋縄ではいかない。九九年十一月の大統領選挙の際、UTOは直前までボイコットしながら一転して参加し、結局二・八%しか得票できなかった。また今年二月の下院選挙でも、大統領派の二党が四六議席得たのに対し、UTOのイスラーム復興党は二議席しか得られなかった。UTO側からは、大統領派が選挙結果を操作したという疑惑の声があがった。普通ならこれは、大統領派によるUTOの排除、ないし両者の深刻な対立に結びつくであろう。しかし実際はその後目立った対立は起きていない。裏で何か取引があるのではないか。たとえば、UTOが大統領派の権力を認めるかわりに、大統領派はUTOの兵力温存を認める、というような。
 そして今回新たに浮上したのは、タジキスタンの大統領派がUTOと共にゲリラの動きに関係しているという疑惑である。これは事件をめぐる関係各国の情報戦争の中から出てきた説で、もちろんタジキスタン側は疑惑を全面否定しており、真相は闇の中である。しかし疑惑が出てくる背景には、中央アジア諸国の間の複雑な関係がある。



U ゲリラ問題を取り巻く各国の権謀術数


<タジキスタン政府がゲリラを支援?>

 
まずは前回触れた、タジキスタンの政権がゲリラの動きに関係しているという説をまとめよう。
 この説によれば、アフガニスタンにいた「ウズベキスタン・イスラーム運動」のゲリラがタジキスタンに入ったのは六月であり、彼らがタジキスタン各地の仲間を集めてウズベキスタン国境およびクルグズスタン国境に向かった。その際、ゲリラの国境通過を助けたのも、タジキスタン領内の移動を手引きしたのも、タジキスタンの国防省と非常事態省、国境警備委員会だったという。
 そしてこの作戦を取りしきったのは、UTO出身のズィヤーエフ非常事態相など省庁の関係者のほか、ラフマーノフ政権のナンバー2の上院議長兼ドゥシャンベ市長、ウバイドゥッラーエフだと言われる。彼はラフマーノフと同郷のクラーブ出身で、古くから政権の中枢にいた。ラフマーノフ自身はゲリラのウズベキスタン侵入のニュースが伝わる直前から、ロシアの黒海沿岸の町ソチで休暇を過ごし、事件の深刻化にも関わらず帰ろうとしなかったが(その間ウバイドゥッラーエフが大統領代行)、これもこの説に従えば、ゲリラの動きを予め知っていて、責任逃れをするためだったということになろう。
 また、大統領派とUTO、ウズベク・ゲリラを結びつけているのは麻薬取引の利権だとも言われる。こうした一連の疑惑が、内戦は終わったとはいえ、タジキスタンをアフガニスタンと並ぶ中央アジアの問題児にしてしまっている。
 繰り返すが、タジキスタン側はこうした見方を全面否定しており、真相は分からない。しかし、タジキスタンがウズベキスタンを不安定化させるためにゲリラを支援しているという説が出てきてもおかしくないほど、両国の関係が複雑なのは事実である。


<タジキスタンの怨念>
 

前にも触れたように、九二〜九三年にタジキスタンの共産党勢力が反対派を排撃する際には、ウズベキスタンの後押しがあった。しかし政権内で、ウズベキスタンとの結びつきが強いレニナーバード出身者の地位が下がり、クラーブ出身者に権力が集まったのは、ウズベキスタンにとって好ましくなかった。また、ウズベキスタンのカリモフ政権は一時タジキスタンの政府と反対派の仲介に乗り出したが、結局仲介の主導権を国連やロシア、イランに奪われ、面目を失った。さらに和平の結果イスラーム復興党が政権に加わることになったのは、国内のイスラーム運動弾圧を進めていたカリモフ政権にとって由々しき事態だった。九八年五月にカリモフはラフマーノフとエリツィン・ロシア大統領(当時)に提案して反「イスラーム原理主義」同盟を作るが、これは一時的にラフマーノフ政権とUTOの対立を誘発した。
 またタジキスタンの政府系勢力の中にも、クラーブ閥を好ましく思わない人々が出てきた。その代表格の一人がフダイベルディエフ大佐である。彼は九六年一〜二月に南西部で蜂起して首都ドゥシャンベ郊外を攻め、当時の首相と、第一副首相だったウバイドゥッラーエフらを辞任に追い込んだ。彼は九七年一月にも軍事行動を行ったが、九八年十一月にはレニナーバード州で大規模な反乱を起こした。ラフマーノフ政権はこれを、失脚した元首相アブドゥッラージャーノフが、ウズベキスタンの支援のもとに組織した反乱と見た。
 その後フダイベルディエフはウズベキスタンに「亡命」し、再起の機会を窺っていると見られる。先ほど紹介した説によれば、ラフマーノフ政権がナマンガニーらのゲリラ支援に乗り出したのは、まさにこの反乱のあとだった。ウズベキスタンがタジキスタンに介入し続けるなら、タジキスタンもウズベキスタンの不安定化に手を貸してしまえ、というわけだ。
 そもそもタジキスタンでは大統領派でもUTO側でも、内戦はタジク人同士の内輪もめではなく、ウズベキスタンなど外国の介入によるものだと言いたがる人が多い。これは、最近まで戦っていた人々が和解するために第三者を共通の敵としようというレトリックでもあるが、しばしば大国・周辺国の思惑に翻弄されてきた小国タジキスタンの人々の怨念は、決して無視できない。そして、どちらにより大きな責任があるかは別としても、ウズベキスタンとタジキスタンの相互不信が、ゲリラ事件の解決を妨げているのは確かである。


<ウズベキスタンの大国志向>

 
ウズベキスタンが介入する可能性があるのは、タジキスタンだけではない。ウズベキスタンは独立当初から中央アジアのリーダーになろうという意識が強く、そのイメージを日本など諸外国に売り込んできた。しかし実際には中央アジア諸国はいずれも自分たちの主権を強化することに力を尽くしており、ウズベキスタンが他国に影響力を及ぼす余地はあまりない。
 「イスラーム原理主義」問題は、大国になりたくてなれないでいるウズベキスタンのフラストレーション解消に使える側面がある。「原理主義」取り締まりを錦の御旗にして、隣国への介入を正当化できるからだ。九七年十二月にナマンガンで殺人事件が起きた時、ウズベキスタン当局は証拠はないながらイスラーム過激派の犯行と断定し、クルグズスタン領内に勝手に入り込んで容疑者を逮捕した。九九年二月にタシケントで爆弾テロ事件が起きたあとには、クルグズスタンとの国境警備強化のついでに、ウズベキスタン側が領土を増やす形で国境線標識をずらしたという疑惑が問題になった。
 昨年のゲリラ事件の際には、ウズベキスタン空軍はクルグズスタンの同意を得てゲリラの拠点とされる場所を爆撃しただけでなく、同意を得ていないタジキスタン領内をも空爆した。結局クルグズスタン領内でも誤爆を起こして空爆は中止されたが、のちにカリモフは、「ロシアがチェチェンとダゲスタンでやっているのと同じように、ウズベキスタンはタジキスタン内のテロリスト拠点を攻撃する権利がある」と述べており、隣国の主権無視が意図的だったことが分かる。また十二月以降、カザフスタンとの間でも国境警備と領土拡張をめぐるトラブルが起きた。
 もっともこうした揺さぶりは、確かにウズベキスタンの軍事力・警察力の優位を示すことはできたものの、隣国の政治に影響力を行使することにつながったわけではない。より重要なのは、テロ対策のための各国協調を通して、ウズベキスタンが存在感を増したことだ。そしてここには、ロシアの存在が大きく関わっている。


<ロシアの思惑>

 ロシアもまたソ連崩壊後、中央アジアを含む旧ソ連の「盟主」であり続けるはずだったのに影響力が低下し、フラストレーションをためてきた。特にウズベキスタンがロシアと距離を置く政策を取っていたため、ロシアのプレゼンスは主に小国タジキスタンへの影響力という形でしか示せなかった。
 このようにロシアもウズベキスタンも影響力をふるえない状況から、両国が共同して存在感を示す、「共同ヘゲモニー」(故・秋野豊氏の言葉)の路線に転換するきっかけとなったのが、昨夏のゲリラ事件である。その際クルグズスタンはロシアの軍事援助に頼ろうとしたが、逆にロシアのセルゲーエフ国防相はタシケントを訪れ、ウズベキスタンの果たすべき役割を強調した。今年一月のCISサミットでは、カリモフらが提案した宗教的過激派との闘争プログラムを、プーチン・ロシア大統領代行が高く評価した。五月にはプーチンは大統領就任後初めての外遊先にウズベキスタンを選び、軍事協力について話し合った。
 今年のゲリラ事件でもロシアは対策に積極的に関わろうとしているが、首脳級の話し合いではプーチンは失敗を犯した。彼は同時期にソチで保養していたラフマーノフとまず会い、その後八月一八〜一九日にヤルタのCIS非公式サミットでイスラーム過激派問題を協議するはずだったが、カリモフとアカエフ・クルグズスタン大統領が、事件の深刻化で国を離れられないとして参加しなかったため、実質的な話し合いができなかった。これは、プーチンがゲリラに甘いラフマーノフに先に会い、批判もしなかったことが、カリモフとアカエフを不快にさせたからだという観測がある。二〇日にクルグズスタンの首都ビシケクで改めて関係国首脳の会議が行われたが、原潜「クルスク」の事故でプーチンは出席できなかった。
 それでもロシアはウズベキスタンにゲリラ撃退のための軍事技術援助をする予定で、プレゼンス増大を喜ぶような論調もロシアのマスコミにはある。ただ、ゲリラ対策での両国の協力がどこまで深化するか、それ以外の政治・経済の諸分野で両国の影響力が拡大するか否かは未知であり、「共同ヘゲモニー」路線が確立するかどうかはまだ観察が必要である。


<ターリバーンとビン・ラーディンの影>

 
さて、「ウズベキスタン・イスラーム運動」ゲリラの側はどのような勢力に支えられているのだろうか。先に触れたタジキスタンとの関係と並んでよく指摘されるのは、アフガニスタンのターリバーンとのつながりである。ゲリラの政治的指導者であるタヒル・ユルダシェフ(一九六七年生)はアフガニスタンにいるようだし、ゲリラの訓練基地がターリバーン支配地域にあるのもほぼ間違いない。今回のゲリラ出現が、マスード派などに対するターリバーンの猛攻と時期を同じくして起きたのも、偶然ではないかも知れない。
 ただターリバーンがウズベク・ゲリラを積極的に支援しているのか、それとも「客人」として自由な行動を許しているだけなのかは判断しにくい。もともとマスード派と親しいUTOに属していたゲリラが、マスード派の仇敵ターリバーンの支援を受けるのは、十分あり得る話ではあるが一定の矛盾を含んでいる。
 ゲリラのスポークスマンによれば、アフガニスタンを拠点とする国際テロリスト、ビン・ラーディンや、ブハラ・ハン国(一九二〇年まで存在)の最後の王の子孫など旧ソ連以外に住むウズベク人が、ゲリラに資金提供をしているという。またパキスタンやサウジアラビアの秘密警察が関与しているという説もある。この種の情報の信憑性については何とも言えないが、今回現れたゲリラはヘリコプターや高射砲などの武器を豊富に持っていると見られ、有力な資金源があるのは確かだろう。
 ゲリラの構成も国際的だ。ウズベク人のほか多数のタジク人がいるし、クルグズスタンで捕らえられたゲリラの一人は、ロシアのクルガン州出身のバシキール人だった。チェチェン人、アラブ人、パキスタン人などもいるらしい。ムスリム地域のあちこちに、ゲリラを集めるネットワークが存在していると見られる。カザフスタンやクルグズスタンにもゲリラの秘密基地があるという説もある。
 しかし、外部の支援を受けているとしても、「ウズベキスタン・イスラーム運動」がウズベク人を主体とし、カリモフ政権を最大の標的にした運動であることは変わりない。そのような運動がなぜ出てきたのか。そこには、ウズベキスタンをはじめとする中央アジア諸国の政治体制の、どのような問題点が反映されているのか。それが次節の検討課題である。



V 権威主義体制とイスラーム運動の力比べ


<警察国家ウズベキスタン>

 
国家には軍や警察といった暴力機構がつきものである。いわゆる民主国家の場合、これらは国民の安全のためのものと考えられている。しかし現実の世界の大多数を占める非民主国家では、暴力こそが国家権力の基盤であり、国民の安全のために必要な水準をはるかに超えて「力」が誇示される。町中では警官や諜報員が人々の生活に目を光らせ、政治的な異論を排除するため、あるいは国民に恐怖心を与え従順にならせるために、罪のない人を拘留し刑に処す。
 ソ連もそうした国の一つだった。そしてペレストロイカとソ連崩壊が、警察国家を倒すはずだった。しかし中央アジア諸国は独立直後から、あるいは数年たってから、民主化をやめ、権威主義体制を固めるようになり、それと共に警察力による市民生活や言論への統制も再び強まっていった。
 中でも統制が厳しいのが、ウズベキスタンとトルクメニスタンである。ウズベキスタンのカリモフ大統領は独立後、着々と競争相手や反対派を排除していった。まず九二年一月、タシケント閥を率いるミルサイドフ副大統領を辞任に追い込んだ。次いで翌年にかけて、「ビルリク(統一)」運動や「エルク(自由)」党など、民主派組織の活動家の多くを逮捕するか亡命させた。
 カリモフ政権はその後も反対派に関係しうる人々をたびたび逮捕し、国内での反対派の組織化を阻んでいる。逮捕者が拷問を受けることも多いらしい。もっとも死刑は頻繁ではなく(あらゆる種類の罪状で九九年に執行された死刑は、確認できる範囲で六件)、即決裁判で銃殺刑を多用する中国などと比べれば救いはあるが。イスラーム過激派の問題も、こうしたカリモフ政権の反対派弾圧という背景のもとに理解する必要がある。


<ソ連時代に始まったイスラーム運動>

 
過激派は別として、思想面でのイスラーム運動が中央アジアに現れたのはそう新しいことではない。無神論が宣伝されたソ連時代にもイスラーム信仰はある程度保たれていたが、特にブレジネフ時代にイデオロギー統制が形式化すると、非公式のイスラーム学者たちがフェルガナ盆地などで権威を持つようになった。彼らは政治に関与しなかったが、ソビエト体制を諸悪の根源と考える一部の弟子はこれを不満とし、七〇年代末にイスラーム国家樹立の必要性を唱え、「ムジャッディディーヤ(革新派)」という運動を起こした。これがラディカルなイスラーム運動の始まりである。現在のUTOの指導者ヌーリーも、この頃から運動を始めている。
 これらは思想的な運動であり非暴力的だったが、ソ連崩壊前後には実力行使を伴う別系統の運動が現れた。たとえば「アダラト(正義)」や「タウバ(悔悟)」は、イスラーム法に反する行為をしたと見なされる人々を勝手に捕縛した。そしてその指導者のうちの二人が、現在ゲリラを率いているナマンガニーとユルダシェフである。
 「アダラト」と「タウバ」の主要メンバーは、九二年春に逮捕されるか国外に逃亡し、いったん国内での基盤を失った。ナマンガニーらがタジキスタン内戦に身を投じ、戦闘技術を身につけていったのは、前に述べた通りである。


<弾圧がもたらしたイスラーム運動の過激化>

 
他方「ムジャッディディーヤ」系の導師たちは、モスクでの説教によって人気を集めていった。実はカリモフ政権は、民主派やイスラーム派の政治組織を排除する一方で、政権の正統性維持にイスラームをシンボル的に使うため、政治組織の形を取らないイスラーム復興には当初寛容だったのだ。しかし何万人もの聴衆を集め、政権のイデオロギーと全く違う言葉で説教をする導師たちの権威は、やがて政権に脅威を感じさせた。九五年以降、有名な導師が公安に連行されてそのまま消息を絶つ事件や、モスクの閉鎖、顎髭を生やした男子学生やベールをかぶった女子学生の退学処分などが相次いだ。断っておくが、この時点ではイスラーム過激派のテロ事件は起きておらず、こうした弾圧はテロ対策として行われたものではない。
 イスラーム運動はイスラーム法による統治を唱え現代国家の原理を否定するものであり、その扱いは確かに難しい。しかしトルコのように、世俗主義国家とイスラーム運動が時に衝突しながらも何とか共存していくという選択肢もある。だがカリモフ政権は共存の可能性を探ることなく、力で排除する道を選んだ。それは、民主派に対して以前から取ってきた方法の延長線上にあった。
 カリモフ政権がイスラーム運動について述べる際の言説には、ある特徴があった。運動家たちを、「外来の思想にかぶれた」「暴力的な」人々として戯画化することである。政権は彼らを「ワッハーブ派」と呼ぶ。ワッハーブ派は言うまでもなくサウジアラビアの公式イデオロギーである。しかし「ムジャッディディーヤ」や「アダラト」などは、ワッハーブ派から思想的影響を多少受けたものの、基本的には中央アジアで自生したもので、ワッハーブ派ではない。
 また九〇年代半ばの時点では、ウズベキスタン内のイスラーム運動は非暴力的で、国外にいるナマンガニーらの影響力もごく小さかった。しかしモスクが次々と閉鎖されると、信仰を語り合い宗教の知識を得る場所に飢えた若者たちに、イスラームを教えると言ってナマンガニーのエージェントが近づいた。本来ならモスクに通い敬虔な生活を送るはずだった若者たちが、タジキスタンやアフガニスタンのゲリラ基地に集められ、銃を持つようになった。こうして力をつけた「ウズベキスタン・イスラーム運動」が、ウズベキスタンにイスラーム国家を作ることを唱え、昨年から繰り返し侵入を試みているのだ。外国と結びついた暴力的なイスラーム過激派、というカリモフ政権の戯画の中に作られた存在は、自己実現する予言として現実化した。


<権威主義体制の強さと弱さ>

 
イスラーム運動の弾圧と過激化が、反対派全般の排除や権威主義体制強化の文脈の中で進行してきたとすれば、次に考えるべきは、ウズベキスタンなどの中央アジア諸国がなぜ権威主義的な道を歩んでいるのかという問題である。
 日本人には、経済改革を効率的に進めるには政府への権力集中はよいことだと解釈する人が少なくない。しかし中央アジアの実情は、政府の指導が民間の力を引き出すという東アジア的経済成長のイメージにはそぐわない。ウズベキスタンでは民営化は形式的にしか行われておらず、産業を部門ごとに政府が管理するソ連型システムが温存されている。これはソ連崩壊後の経済の混乱を抑えるのには役立ったが、経営の非効率による生産性の低さという、ソ連経済と同じ問題に直面することを免れないだろう。またカザフスタンの場合、産業に対する政府の系統的な指導は放棄され、民営化が進められているが、特定の企業と大統領の側近が癒着し、利権グループ間の争いが混乱を生んでいる。
 現在の権威主義体制の成立は根本的には、共産党というソ連時代の権力基盤がなくなったあとで、大統領を支える基盤を新たに作り強化する動きとして説明できる。その基盤が、ウズベキスタンでは警察などの官僚機構、カザフスタンでは大統領の側近と経済人が作る利権グループなのだ。反対派はウズベキスタンでは物理的に排除され、カザフスタンやクルグズスタンでは、反対派組織や政府批判の言論は存在するものの、力を広げられないよう選挙制度やマスメディアに様々な仕掛けが作られている。国民には、所詮すべては「お上」が決めるのだということで政治的無関心が広がる。
 確かに、欧米型の民主主義を全面的に導入するのは不可能であり、混乱も生むだろう。「強い大統領」のイメージが国民の多くに安心感を与えること、国民の政治的無関心のために政治・経済上の問題が大規模な対立に至らないことなど、権威主義体制が社会の安定を保つ面も否定できない。
 しかし同時に権威主義体制は、いくつもの大きな不安定要因を抱えている。すべてが大統領一人に従属する仕組みになっているために、次代の有能な指導者となる人物が育ちにくく、現大統領が失脚または死亡した際には、後継者争いの混乱が予想される。
 また特にウズベキスタンのような体制で問題なのは、国民の率直な意見を聞く世論調査も、民意を反映するマスメディアも存在しないため、体制に不満を持つのがどういう人々なのか把握できないことだ。一口に体制に不満を持つ人々といっても、不満の理由と程度、不満を表現するのに暴力を認めるかどうかはまちまちで、それによって対処の方法も変わらなければならない。ところがそうした区別が分からないため、何か起きると過激派も穏健派も一緒に弾圧される。また端的には、「ウズベキスタン・イスラーム運動」の支持者がどのくらいいるか見当がつかないので、単にイスラーム運動のビラを受け取っただけで逮捕されるようなことになる。こうしたことは、政権に恨みを持つ人々を意味もなく増やし、過激派予備軍を増強させかねない。


<ゲリラ事件の教訓と見通し>

 
手に入る情報と見聞から判断する限り、ウズベキスタンでイスラーム過激派を支持する人はわずかだと思われる。ソ連時代の無神論政策の影響で、宗教に無関心な人、宗教と政治を結びつけるべきでないと考える人は多い。テロに対する嫌悪ももちろん強い。また非暴力的なイスラーム運動にしても、国民から広く権威を認められた指導者を輩出できておらず、イラン型の革命によるイスラーム政権樹立は当面考えられない。
 しかし政権に恨みを持つ一部の人々がゲリラと野合する可能性はあるし、支持者の少ないゲリラでも、武力で情勢を不安定化させることはできる。一番心配すべきことは、これに乗じて、地縁などに基づく政治的な派閥同士の抗争が激化したり、外国が介入したりして内乱が起きる可能性だろう。
 テロリストに対しては、断固として戦わなければならない。しかし過激派が力を伸ばした基盤を根元から治療するには、テロリストでないイスラーム運動家や一般信徒、非宗教的な反対派と対話し、言論統制を部分的にゆるめて、国民の不満が健全に表出される回路を作る必要がある。それが、ゲリラ事件の教訓であるはずだ。
 だが現実にはカリモフ政権は、すべての問題を「力」で解決する姿勢を変えていない。プーチン登場時のロシアでも見られたように、力強い指導者が「敵」を無慈悲に倒しながら秩序ある社会を作っていく、という信仰は中央アジアで特に強いため、政権は現在の路線に自信を持っている。カザフスタンやクルグズスタン、トルクメニスタンでも、反対派への圧力は強まりこそすれ、弱まってはいない。こうした路線が「成功」して、時折ゲリラに悩まされつつも、少数者への弾圧のもとで多数者の安定が概ね保障されていくというのは、ある程度現実的な見通しではある。しかしそれが破綻して、テロや派閥抗争が頻発し、人々の不満が予測できない形で爆発する可能性もまた排除できない。


(2000年9月1日脱稿)