「『新冷戦』・世界株安下のロシア経済」

田 畑伸一郎
『日 本経済新聞』(2008年10月3日)「経済教室」


ポイント
 ・ロシアの経済成長、対先進国貿易が原動力
 ・西側との経済関係悪化は双方にダメージ
 ・金融不安の影響は先進国よりは少ない


 ブラジル、ロシア、インド、中国 (BRICs)の一角として、ロシアに対する関心は2000年代に入って急速に高まってきた。ところがここにきて、グルジアとの紛争で、ロシアと先進国と の関係悪化が懸念されている。さらに、米金融危機に端を発した世界的な株式市場の動揺で、世界経済の先行きが一段と不安視される中で、ロシアもその影響を 大きく受ける可能性が強まっている。わが国、特に日本企業はロシアに対しどのような姿勢で臨むべきだろうか。
 対グルジア問題の影響に限っていえば、筆者の考えはかなり楽観的である。すなわち、ロシア経済と先進国経済との相互依存関係は極めて強く、ロシアと先 進国との関係悪化が止めどもなく進む可能性は、経済的な見地からはあまり想定できない。したがって、急いで対ロ姿勢を修正する必要性はないと思われる。
 そもそも筆者には、「新冷戦が始まったら、ロシアとの経済関係はどうなるか」といった問題の立て方自体に違和感がある。冷戦時代ですらソ連と西側との経 済関係は途絶しなかった。特に1960年代末からのデタント(緊張緩和)の流れの中では、東西貿易は急拡大し、西欧のソ連からの原油・天然ガス輸入体制が 確立。西側先進国のソ連への機械・設備の輸出も無視できない大きさとなった。
 79年のソ連のアフガニスタン侵攻や81年のポーランドの戒厳令公布の際に、米国を中心として、ソ連に対する経済制裁が呼びかけられた。しかし、西側諸 国の足並みは必ずしもそろわなかった。それは、ソ連・東欧との経済関係が密だった西欧諸国と、それほどではなかった米国との立場の違いが大きかったためだ が、今回も基本的な構図は変わっていない。
 とはいえ、現在のロシア経済が相互依存という形で世界経済に完全に組み込まれていることは、深刻な世界不況が生じた場合には、当然、ロシアもその影響を 強く受けることを意味する。世界経済の先行きについては不透明な要素が多いが、相互依存関係の現状と今後については考察を試みることが可能であろう。以下 ではこの点を考えたい。
 ロシア経済は、2000年以降、年平均7%の経済成長を続けている。これは、エネルギー輸出と消費財輸入という形での先進国との貿易関係に大きく依存す るものだ。ロシアは原油ではサウジアラビアに次ぐ世界2位、天然ガスでは世界1位の生産・輸出国である。国際通貨基金(IMF)の統計によれば、原油価格 は2000年以降の8年間で年平均18.8%上昇。天然ガス価格も原油価格に連動して高騰したので、ロシアは膨大な「棚ぼた利益」を得てきた。近年では、 ロシアの輸出の3割は原油で、天然ガスと石油製品を加えた3品目で約6割を占めており、ロシアの輸出額は原油価格に比例する形で著増している。
 原油価格高騰で交易条件が改善し、国内所得、そして国内需要が大きく増えているわけだが、そのかなりの部分は輸入で満たされている。これは、ルーブル高 の進展によるところが大きい。輸出の増加で、貿易収支・経常収支の黒字が著しく増大した結果、対ドルレートで見ると、2000年以降の8年間にルーブルは 実質で3.1倍、年平均15.0%切り上がった。
 急増している輸入の多くは最終消費向けである。輸入品の中では機械・設備が過半を占めるが、ロシアでは投資率(総固定資本形成の国内総生産比)が07年 時点でも21.1%にとどまっており、機械輸入の約半分は、自動車や家電などの消費財である。
 ロシアの通関統計によると、07年のロシアの貿易の中で対経済協力開発機構(OECD)諸国の比率は、輸出で65.6%、輸入で61.9%だった。いう までもなく、こうした貿易関係は相互依存関係であり、一方が他方に恩恵を施しているわけではない。例えばエネルギーに関し、ロシアから先進国への輸出がな くなれば、ロシアは成長源を失うが、先進国もエネルギー源を失ってしまう。
 国際エネルギー機関(IEA)の統計から計算すると、98年から07年までの期間で世界の石油生産増加量の実に41.2%を担ったのがロシアの増産だっ た。したがって、グローバル化の中で、あるいは、ソ連崩壊後の国際経済関係再編の中で、著しく深まったロシアと先進国との相互依存関係が急速に変化するこ とは予測できないし、また、万が一そうなった場合の双方へのダメージは相当大きいだろう。
 今後のロシア経済、あるいは、上記のような相互依存関係を考える上で重要なのは、原油価格とルーブルの為替レートの動向である。今後の原油価格について 予測するのは無謀であるが、98年の1バレル13ドル,あるいは03年以前の同30ドル以下といった水準にまで下がることは,世界の原油需要の極端な減少 でも想定しない限り,予測できない。他方,2000-07年の年平均20%近い高騰が来年以降続くことも考えづらい。筆者は,わずかな上昇あるいは1バレ ル70-100ドル程度で推移するならば,ルーブル高の進行が緩むことで,ロシア経済は輸入代替による経済成長に転換していくのではないかとみている。
 上述のように、原油高騰による国内需要増加が輸入に向かってきたのは、ルーブル高の進行によるところが大きく、このことが、国内製造業の発展を妨げてい た。すなわち、天然資源の輸出によって自国通貨が上昇して工業製品の競争力が弱まり、国内製造業が衰退するという「オランダ病」がロシアに典型的に現れた わけである(オランダ病については、拙編著『石油・ガスとロシア経済』 参照)。原油高騰が止まれば、ロシアの貿易収支・経常収支の黒字増大が抑制され(あ るいは、黒字が減少し)、ルーブル高の進展が止まる(あるいは、ルーブル安に転じる)ことが容易に予測できる。
 それでも、一定のエネルギー輸出収入のおかげで、ロシアの購買力はそれほど衰えないだろうし、その購買力の国産品に向かう割合が今後は増えていくと筆者 は予測している。98年のロシア通貨・金融危機の際にルーブルが実質的に2分の1に切り下がったため、繊維産業などを含めて、ロシアの製造業生産が一時的 に回復したことがあった。そのときは、ルーブルレートがその後急速に切り上がったため、輸入代替生産の発展は長続きしなかった。
 その当時と現在との違いの1つは、ロシア国内における外資による生産規模である。確かに、ロシアへの外国投資は、投資環境の悪さなど周知の理由により、 非常に活発に行われているとはいえず、また、07年においても直接外国投資の半分はエネルギー採掘部門への投資であり、製造業部門への投資は全体の6分の 1程度にすぎなかった。しかし、それでも、04-07年の製造業部門への直接投資は合計で156億ドルに達しており,これには,トヨタ自動車や日産自動車 などの自動車関連の投資も含まれる。
 これまでは、ロシア国内の外資系企業は、ルーブル高のもと、年々安くなる輸入品と競争しなければならなかったが、ルーブル上昇が一段落すれば、今後は生 産をより拡大する可能性が出てくるだろう。これが、今後、輸入代替生産が伸びると予測する根拠の1つである。外資系企業に先導される形とはいえ、国内製造 業が発展することは、ロシア経済にとって悪いことではない。このように、ロシアの今後の経済成長にとって、やはり先進国からの投資の受け入れが鍵を握って いるのである。もちろん、これには、腐敗・汚職をはじめとする投資環境の悪さという問題の解決が大前提となっている。
 世界不況と対グルジア紛争という2つの問題の影響を受けて、ロシアでも株価やルーブルの対ドル相場の下落、それに伴う外貨準備の減少などが生じている。 こうした現象が今後どれだけ続くかは、グルジア問題以上に、世界経済の行方に左右されるであろう。しかし、ロシアでは幸か不幸か金融セクターはまだ実体セ クター(生産部門)と緊密に結び付いているわけではない。また、外貨準備は9月1日現在世界3位の5816億ドルの水準であり,世界の金融不安の影響を他 国よりも強く受けることになるとはなかなか考えられない。


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