原 暉之(はら てるゆき)

A)個人研究活動 (うち主要学術研究業績一覧
B)共同研究活動
C)受賞など
D)学歴と職歴
E)「私のスラブ研究センター点検評価」
F)専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集


A)個人研究活動

1.研究主題:ロシア近現代史、ロシア極東地域研究、日露関係史

2.研究領域

あえて強調するまでもないが、ロシアという研究対象は、ヨーロッパとアジアにまたがる 広大な版図のもとに諸地域を複合的に包摂する<帝国>的な世界であり、その性格は帝政期 からソ連邦期を経て今日のロシア連邦期まで一貫している。この研究対象を全体として解明 するための手がかりとして、<帝国>を構成する特定地域に焦点をあて、その地域の特質を <帝国>の全体構造のなかに位置づける作業は有効性を主張しうるであろう。また、このよ うに考えるならばロシアを対象とする歴史研究において、いわばマクロヒストリー(巨視の 歴史)とミクロヒストリー(微視の歴史)の往復作用に自覚的に取り組むことが不可欠の方 法となる。私の場合は、このような観点から<帝国>の東部辺境、とりわけロシア極東と呼 ばれる地域に焦点をあて、その地域的特質を把握することをもって自分の研究領域としてき た。自明のことではあるが、ロシア極東はロシアの政治・経済・文化の中心からの遠隔性と ともに、近隣アジア諸国との至近性という地理的特徴において際だっており、さらに後者に 関連して、日露の政治的・経済的・文化的接点という特徴からみても目本でのロシア研究に とってとりわけ重要な地域をなしている。

ロシア極東地域は、ロシアと日本、中国、朝鮮との接点をなすというその特質に即して、 複眼的な解明を要する地域であり、しかも長期にわたって外国人研究者のアクセス困難な地域でもあったため、近現代史に限定しただけでもロシアの外部世界、とくに日本では研究が 大きく立ち遅れ、未解明のテーマを数多く抱えている。英語圏では、アメリカの歴史家 J.ステファンの労作(John J. Stephan,Russian Far East: A History, Stanford,1994)が今のところ 唯一の包括的な通史である。ロシア極東との歴史的なつながりの深さにもかかわらず、日本 にはこの労作に匹敵するロシア極東の通史が存在しないだけでなく、政治的・経済的に最も 注目を集めるべきサハリン州、クリル列島に限っても、現代の日本人の手になる通史が存在 しない。このような理由からしても、日本のロシア極東地域研究、ロシア極東近現代史研究 に対する期待は日本国内からも、また国際的に見ても客観的にいって大きいといわねばならない。

つぎに、この研究領域における私の関わりについて、過去に遡って自己点検を試みる。

[1]スラブ研究センターにおける私の研究歴はすでに15年目を数えるが、センターに着 任した当初の研究分野は、ロシア極東における革命後の内戦と干渉戦(日本側からいえば「シ ベリア出兵」)期に集中していた。この分野で世に問うた最初の研究成果は、原暉之『シベ リア出兵:革命と干渉、1917-1922』(筑摩書房、1989年、574+25ページ)である。先行研 究としては、細谷千博『シベリア出兵の史的研究』(有斐閣、1955年)が最も重要であった。 細谷は国際政治学の観点から、主として日米の外交資料に基づいて連合国出兵に至る政治過 程を分析し、戦後日本の国際政治史研究に画期をなす業績を残したのである。これに対して、 私はロシア近現代史の観点から、国際場裡の政治過程と地域社会の構造変動との絡み合いの 中でロシア極東・シベリアにおける革命、内戦、干渉戦の実相を捉えることを主張した。拙 著『シベリア出兵』において著者の学問的意図が成功しているか否かはなお今後の評価に委 ねられているが、ほぼ半世紀前の細谷の研究と同様、刊行後10年を経た『シベリア出兵』は 現時点で後続の研究者によって越えられるに至っていない。ただし、今日の観点からすれば 同書がいくつもの点で増補と修正を要する著作であることは自覚している。

[2]こうして私はロシア近現代史の本格的な研究をロシア極東・シベリアの革命・内戦・干渉戦の時代(1917~1922年)から着手したが、その研究過程で、対象とした時代に先行および後続する諸時代について認識の空白を早急に埋めるべきことを痛感した。そこから、 後続の時代については1930年代のグラーグ(強制収容所)、とくにロシア極東の最北部にあ るコリマ収容所に関連するテーマを追求することを考え、先行する時代については、1860 年代にはじまる沿海州の植民と開発、その過程における要港ウラジオストクの歴史的役割に 関連するテーマの掘り下げを自らに課した。研究成果としては、前者に関しては、原暉之『イ ンディギルカ号の悲劇:1930年代のロシア極東』(筑摩書房、1993年、313ページ)など、 後者に関しては、同『ウラジオストク物語:ロシアとアジアが交わる街』(三省堂、1998 年、324+7ぺ一ジ)などを発表した。もとよりこれらの著作においても、依拠した資料の制 約、分析と叙述の不十分性は否定できず、アルヒーフ資料の検討等を踏まえた今後の増補と 修正が不可欠である。これはとくに1930年代について論じた著書について言える。とはいえζ ロシア極東という辺境が、一方ではロシアのく帝国>的全体構造の中で、また他方では近隣 アジア諸国との関連で歴史的に如何なる位置づけ、意味づけを与えられてきたかという問題 を提起している点で、辺境から全国を照射することによってロシアの歴史像を豊かにすると ともに、従来忘れられていた日露関係史の知られざるページに光を当てることを通じて、日 露関係史の研究にも一定の貢献をなすことができた、と自己評価している。

3.現在進行中の研究

現在進行中の研究は、4つの分野に分かれる。第1は極東共和国の研究、第2は在外ロシア (亡命ロシア)の研究、第3はロシア東洋学とロシア正教宣教団の研究、第4は日露戦争の研究である。こう書くと、いかにも散漫に研究を進めているように受け取られかねないが、こ れまでの研究成果を踏まえた今後の見通しを構想するとき、いずれも欠かせない構成要素をなすと考えている。

[1]極東共和国の研究:これはロシア極東における革命・内戦・干渉戦期研究の一部であ り、拙著『シベリア出兵』の続編に当たる部分の研究ともいえる。ソ連邦崩壊以前のペレス トロイカ期に刊行された同書は、立脚した資料のレベルでも大きな制約を負っているだけで なく、翻って考えれば分析枠組みの面でも時代の制約から自由ではなかった。その後のソ連 邦崩壊と時を同じくする「アルヒーフ革命」と歴史の見直しを踏まえると、同書の内容も再 検討が避けられない。また、ロシア極東における日本の軍事干渉は1918年8月の出兵から1922 年10月の撤兵までの長期にわたったが、同書は1920年半ばまでを分析・叙述し、それ以後の 極東共和国期については概観を与えるにとどまっている。そこ、で1992~93年のモスクワ長期 出張中はもっぱら党アルヒーフ、外務省アルヒーフ等に通い、同書で二次資料に拠らざるを えなかった部分の分析を一次資料によってチェックするとともに、1920年後半以後の局面に ついても関連資料の収集につとめ、とくに極東共和国の政治過程研究に不可欠の党極東ビュ ロー文書を精読した。その後一時中断することになったが、かって収集した資料の読み直し を進めることができるようになった。新たに発掘した資料に立脚して、極東共和国の成立か ら解消までを国内的・国際的諸要因の絡み合う過程の総体として分析・叙述するのが本研究である。

[2]在外ロシア(亡命ロシア)の研究:ロシア革命に続く内戦の結果、一方にはソビエト ・ロシアが、他方には在外(亡命)ロシアが成立した。後者について、ロシア本国はもとよ り日本でも長らくロシア史研究者は然るべき関心を払ってこなかったが、ソ連邦崩壊後には これを重視するようになり、流行の研究テーマの観さえ呈するに至った。以前からシベリア 内戦史に関わってきた立場から、私は長與進教授を研究代表者とする科学研究費基盤研究 (B)「来目ロシア人の歴史と文化をめぐる総合的研究」のプロジェクトチームに「シベリ ア内戦と亡命ロシア」という研究テーマをもって研究分担者として参画している。また、こ の研究は、かつて研究代表者として関わった科学研究費総合研究(A)「黒木親慶文書の研 究」において調査した黒木親慶文書の中のアタマン・セミョーノフ関係資料の研究とも接続 している。後者の研究成果は未公刊のままなので、ロシア外の旧白軍関係者に焦点をあてた 研究を進める中でセミョーノフ研究を活かす。1938年に発表されたセミョーノフの自伝の訳 稿を監修し、訳注をつけて刊行する計画がほとんど出来上がったまま1994年以来中断しているので、本研究に合わせて計画の完成をめざすことも視野にある。

[3]口シア東洋学とロシア正教宣教団の研究:拙著『ウラジオストク物語』に集約された 私のウラジオストク都市史研究は、義勇艦隊とシベリア横断鉄道に代表されるロシア東西交 通の歴史であるとか、上下水道と海港検疫などをめぐるロシア公衆衛生の歴史であるとか、 総督府・陸海軍と都市自治体・住民とあいだの軍民関係の歴史といった今後の解明が期待で きるいくつもの研究テーマを押し出すことになった。1899年に設立されたウラジオストクの 東洋学院(極東大学の前身)における東洋学研究というテーマもその一つである。東洋学院 は同時代において膨大な量の学術研究上の論文集(紀要)を公刊しただけでなく、教授会議 事録を含む活動報告をも公表していたので、その分析からウラジオストク東洋学院の研究と 教育がどのようなものであったかを論ずることが可能となっている。この研究は、ロシアの 東洋学を全体として明らかにする上でも一つの貢献をなすことができると考えている。また この研究は、今年度が最終年度となる科学研究費基盤研究(B)「近現代ロシアにおける国 家・教会・社会:ロシア正教会と宣教団」のプロジェクト研究の成果とも接続するものとし て位置づけている。ロシアにおける東洋学の研究教育は正教会の宣教と密接な関係にあった からであり、その関係を明らかにすることは「ロシアの中のアジア」と「アジアの中のロシア」という問題領域を考える上で一つの鍵となるかもしれない。

[4]日露戦争の研究:これは未だ緒についたばかりの段階にあるが、西暦2004年に迎える 日露戦争の開戦100周年、2005年に迎えるポーツマス条約締結100周年を目前に控えて、一つ には日露の政治外交史の専門家を共同研究に組織すること、もう一つとしては日本史、アジ ア史、ロシア史を問わず日露戦争史研究を志す日本の若手研究者を育成することを主眼にお いてプロジェクト研究の準備を進めつつある。この研究では、ロシアの極東政策を中心に日 露戦争史の再検討を目指し{またそうした作業を通じて、日露戦争の当事国である日本の日 露戦争研究の立ち遅れを克服し、同時にそれを純軍事史や諜報戦史といった狭い視野から解 放することを目標に設定している。

4.主要学術研究業績一覧

1)著作

(1)単著

(3)編著

2)学術論文

(1)単著

3)その他の業績

(1)研究ノート等

(2)書評
(4)その他

B) 共同研究活動

1.共同研究の企画と運営(代表者として)

1)科研費などの研究プロジェクト

(1)1994~1995年度科研費総合研究(A)「黒木親慶文書の研究」
(2)1995~1997年度科研費重点領域研究「スラブ・ユーラシアの変動:自存と共存 の条件」計画研究班「地域と地域統合の歴史認識」
(3)1999~2001年度科研費基盤研究(B)「近現代ロシアにおける国家・教会・社 会:ロシア正教会と宣教団」

2)学会などでのパネル組織

(1)1997年度夏期国際シンポジウム第5-Bセッション「地域とアイデンティティ」 組織と司会
(2)1997年度冬期研究報告会第4セッション「スラブ研究の未来」組織と司会
(3)2000年度冬期シンポジウムセッション2-1「日露間の歴史的絆」組織と司会
(4)2000年度冬期シンポジウムセッション4「日露関係の歴史から」組織と討論者
(5)2001年度夏期国際シンポジウムプレ・セッション「アジア太平洋地域におけるロシア人社会」組織と司会

3)その他の共同研究活動の企画と組織

なし

2.共同研究への分担者としての参加

(1)1990年度~現在東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所一般研究プロジェクト「東アジアの社会変容と国際関係」共同研究員
(2)2001~2004年度科研費基盤研究(B)「来日ロシア人の歴史と文化をめぐる総合的 研究」研究分担者(研究代表者:長與進早稲田大学政治経済学部教授)

C)受賞など

1999年度アジア太平洋賞特別賞(著書『ウラジオストク物語:ロシアとアジアが交わる街』 三省堂、1998年に対して)
D)学歴と職歴

学歴:1942年生まれ、1966年東京大学文学部西洋史学科卒、1968年東京大学大学院社会学 研究科修士課程修了、1971年同博士課程単位取得退学
職歴:1971年愛知県立大学外国語学部講師、1974年同助教授、1983年回教授、1987年北海 道大学スラブ研究センター教授
E)「私のスラブ研究センター点検評価」

翻って見ると1987年4月にスラブ研究センターに着任して以来、今年(2001年)3月まで14 年間のうち、私ははからずもその半分に当たる7年間を部局長(センター長3年間、附属図書館長4年間)として過ごした。当然ながら部局長在任中は部局長の職務に専念することが求 められるため、研究や教育を留守にせざるをえない。それでも3年間にわたりセンター長と してセンターの改組拡充に尽力することができたのは、センターにとって大いにやり甲斐の ある仕事ではあった。一方、図書館長として過ごした4年間はどうであったか。全学の図書 館利用環境の改善、情報基盤の整備等に多大の時間を費やしただけでなく、就任時に総長か ら言われた耳に快い約束とは異なり、図書館にほとんど全く関係のない大学の行政領域の仕 事にも必要以上にしばしば駆り出された。これまた余儀ないことと諦めてはいたが、正直言 って4年間の図書館長在任は疲労困憊が残った。とりわけ、行政的な思考環境によって分断 される研究時間は、たとえ物理的にそれが確保できたにしても概して生産性の低下は否めな いということを痛感せざるをえなかった。その上、図書館長を退任したのちの今もなお125 年史編集室の室長という職務を解かれていない。そのような事情ゆえ、着任後15年目の現在 であるが正味の研究時間は決して長くないし、そうした変則を前提にしながら研究のアクテ ィビティーを維持することは本人の主観がどうであれ客観的にいって難しい。

とはいいながら、少人数で研究教育を運営しているセンターの一員である以上、このよう な泣き言めいた言い訳が通用するとは思わない。専任研究員セミナーをはじめとするセンタ ーの研究活動に対して、この数年きわめて消極的な対応しかできていないことについてはセ ンターの同僚たちから猛省を促されているところであり、それを甘受せざるをえない。ここ まではセンター内の私に対する自己評価である。それでは私の側からのセンターの評価はど のようなものであるのか。

現在のセンター専任研究員はその生年によって、1940年代世代、1950年代世代、1960年代 世代の3部分から構成されている。私自身は年長世代の中では最年少に属するが、その私を 含めて年長世代は遅かれ早かれ相次いで定年退職し、本格的な世代交代を迎える。センター の部門再編は容易に実現しないが、遠くない将来に起こる専任研究員の欠員補充人事ではセ ンターの分野構成とその再編に関して本格的な論議が必要であり、センターの将来構想はこ の問題を抜きにすべきではない。その際に一つの焦点になると思われるのは研究と教育とい う古くて新しい問題であろう。スラブ社会文化論専修の大学院(修士・博士)教育は近年は じまったばかりなので今から着手するのは時期尚早だが、いずれ数年後には大学院教育とい う要素を十分に踏まえた分野構成の見直しが不可避となるであろう。また、今から占う必要 は必ずしもないが、本格的な世代交代に際してどの世代にターゲットを当てた欠員補充を行 うのが妥当であるのか、現状ではセンター専任研究員の年齢構成はバランスがとれていてと くに問題を感じないが、将来それをどうするのかという点は考えておいた方がよい。私自身 は、適材が見出されるなら、現在の中堅世代ではなく若年世代を積極的に加え、同世代内で 競わせるのがセンターの活力源になると思う。最近の人事はこのことを示している。

現在のセンターで問題が最も集中している部分があるとすれば、それは情報資料部であろ う。上位振り替えもまた容易に実現しない昨今の事態は、情報資料部の抱える問題を先送り させるに恰好の言い訳にはなっている。つまり外側の要因によって、現状が保たれていると も言える。しかし、部門再編と研究部の増強をどのようにして実現するのかを真剣に考える とき、情報資料部の将来について、内側からの説得力ある論理を構築することが必至となろ う。ただこの問題は、研究支援体制の帰趨について文科省の大方針が不透明である点も絡ん でいるので、現状では取り扱い難いのも事実であろう。

事務部に関しては現状に不満があるわけではないが、センターの研究教育活動を支援する 体制が抜本的に改善されることが望ましい。センターが国際的に見ても高度の活動を展開す ることが全学から期待されているのだとすれば、全学レベルで検討して欲しいことは闇雲に 文・理融合などを唱えることではなく、まずもって既存の部局縦割りを見直し、センターの 事務体制を抜本的に改善することである。


F)専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集

1996年度

「19世紀末のロシア:極東の視点から」 (1996年12月20目開催)
コメンテーター:秋月俊幸

1999年度

「函館とウラジオストク:日露交流の歴史から」 (1999年11月12日開催)
コメンテーター:荒井信雄(札幌国際大学)