井上 紘一(いのうえ こういち)

A)個人研究活動 (うち主要学術研究業績一覧
B)共同研究活動
C)受賞など
D)学歴と職歴
E)「私のスラブ研究センター点検評価」
F)専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集


A) 個人研究活動

1. 研究主題: 民族学、シベリア研究、ピウスツキ研究

2. 研究領域

私が近年進めている個人研究は、いずれも従来から取り組んできた仕事の継続であるが、 以下の 4 領域にほぼ集約される。

1) 民族学理論研究

この領域では主として、民族学の基本概念である「民族」の問題を考察してきた。 この曖昧模糊として、いまだに明確な定義が下されていない事象を、いかに把握するかという問題である。 私はかねがね、シロコゴロフの「エトノス論」を踏まえて、自然・社会環境へ適応してゆく単位をエトノスと措定することで、太古に遡るその発祥から、近代国家における「ネイション」に至るまで、人類史を整合的に説明しうる理論が構築できるのではないか、と考えている。 概略的に言えばエトノスが「広義の」民族に、そして「ネイション」は「狭義の」民族にそれぞれ該当するから、平易な日本語で民族を論ずるのは至難の業であるが、立論の困難は、無論、語彙の問題ではなくて、事象そのものの複雑さにある。 私の研究はいまだに、先行研究の紹介という域を脱していない。

2) シベリア民族学史

この領域では、帝政末期に公刊されたプィピン著『ロシア民族学史』の 4 巻『ベロルジヤ・シベリア』 (ペテルブルグ、1892) を別格として、批判に耐えうる作品は余り多くない。 就中、現代のロシアで展開されているソ連期の総括をめぐる議論も当分は決着がつかぬであろう。 かくて、資料や研究の蓄積で遜色はあるものの、外国人執筆者が独自の見解を開陳する好機と考えられる。 但し、私の細々たる個人研究では将があかぬから、今後は共同研究を組織して取り組む必要があろう。

3) トナカイ飼育論

寒冷地域に成立した唯一の牧畜活動であるトナカイ飼育が、どのように発生・発展したか、その過程でどのような独自文化が創出されてきたか、またその現状は如何、といった諸問題と取り組んでいる。 1980 年代半ぱ以降、それまで外国人研究者には閉ざされていた中国東北部やシベリアがフィールドとして開放されて、今なおトナカイ飼育が保持されている奥地でも現地調査が可能となった。 私は老骨に鞭打ってフィールドワークに邁進して いる。

近年は、イルクーツク州最北部でトナカイ飼育に従事するエウェンキ、「寒極」と称されるサハ共和国 (ヤクーチヤ) 中央山岳帯に暮らすエウェン、ヤマル・ネネツ自治管区のコミ、サハリン州北部のウイルタを訪ねる機会があったが、コミの場合を除いて、いずれのトナカイ飼育も衰退をきわめ、いかに自らの生存を確保すべきかを、飼育者自身が自問自答していた。 トナカイ飼育衰退の背景には、ソ連期を通じて支出されてきた政府補助金が、90 年代半ぱに廃止された事実もさることながら、産業開発に伴う自然破壊や環境汚染が軒並みに介在している。 産業開発とトナカイ飼育がまさに反比例の関係にあることを、現地では改めて実感するに至った。 トナカイ飼育の保持は環境保全にほかならぬことが、端なくも確認されたのである。 トナカイ飼育の類型論からみて、いまだその現場に私の足が及んでいないのは、モンゴル共和国北西部のツァータンとブリヤーチや共和国南西部のトファラルによって代表される、南シベリアの森林型トナカイ飼育だけとなった。

4) ブロニスワフ・ピウスツキ研究

1980 年代初頭、有志が語らって発足させた研究組織「ピウスツキ業績復元・評価国際委員会」 (略称 ICRAP) は、ピウスツキが蝋管蓄音機で採録したアイヌ・フォークロア音声情報の再生・解読、その他の学術業績の博捜、彼の全生涯の究明、そしてこれら全てを包摂する形での「ピウスツキ遺産」の評価を課題とした。 蝋管に録音された音声情報の再生作業が順調に進捗して終了した 1985 年、ICRAP は北海道大学で第 1 回国際シンポジウムを開催した。 国際シンポはその後もサハリンの第 2 回 (1991)、ポーランドでの第 3 回 (1999) と継続されて、第 4 回の開催が早くも取り沙汰されている。 なお ICRAP が 1986 年に決定した、既刊・未刊著作を包摂する『ピウスツキ著作集』の刊行は、全 7 巻の出版事業として編集作業が進められており、1998 年には 1-2 巻が上梓された (A. F. Majewicz, ed., The Collected Works of Bronislaw Pilsudski, vol.1,The Aborigines of Sakhalin; vol.2, Materials for the Study of the Ainu Language and Folklore (Cracow,1912), Berlin-New York: Mouton de Gruyter, 1998)。

ICRAP の事業として私が分担するのは、ピウスツキ評伝の執筆と、極東民族誌における彼の関連著作の評価・位置づけである。 私は元来、主として前者の課題に取り組み、3 回の国際シンポではこの課題で報告を続け、また関連する論文も執筆してきたが、2000 年からは 3 年計画で、科研費による共同研究プロジェクト 「ピウスツキによる極東先住民研究の全体像を求めて」 を主宰している。 これは両課題を並行して追求するプロジェクトである。

この領域における近年の仕事として特筆さるべきは、日本からの情報発信を志して創刊したピウスツキ研究誌 Pilsudskiana de Sapporo 第 1 号の刊行 (1999) である。 そのタイトル "Dear Father!": A collection of B. Pilsudski's Letters, et alii は、1 号所載の「父親宛ピウスツキ書簡」に因んで命名したものである。 ヴィルニュスのリトワニア科学アカデミー図書館は約 50 通の「家族宛書簡」 (1887-1914) を所蔵するが、創刊号では最初の 12 通 (1887-1889) を翻刻刊行した。 「家族宛書簡」は Pilsudskiana de Sapporo 誌 3 号でその完全版を公刊する予定である。

ピウスツキの足跡を辿る旅は 1991 年にサハリンで既に試みているが、ヨーロッパでの足跡調査は昨年と今年の 2 年がかりで、ようやく果たすことができた。 2000 年はポーランドとスイスで、ピウスツキゆかりの町を歴訪した。 とりわけ前者ではクラクフとザコパネ、また後者でもヌシャテルでは、ピウスツキがかつて暮らした建物が現存で、周囲の風景ともどもデジタル・ビデオに収録した。 スイスのフリブールでは、第 1 次大戦中にピウスツキらがスイスで編纂した『ポーランド百科事典』 (仏文) を実見する機会に恵まれて、ピウスツキの論文数点を新たに発見することとなった。 2001 年のウクライナ、ロシア、リトワニア、フランスヘの旅でも、西ウクライナのリヴィウ、ペテルブルグ、リトワニアのヴィルニュスとザラヴァス (ピウスツキの生地) では、同様にゆかりの家屋を確認して記録に収めることができた。

以上のように、ピウスツキ評伝を執筆するための基礎工事では一定の進展が認められるものの、その完成までは「目暮れて道遠し」という感慨が一入である。

3.現在進行中の研究

1) サハリン原住民研究

1998 年から 3 年間実施された科研プロジェクト 「サハリン大陸棚石油・天然ガスの『開発と環境』に関する学際的研究」 (研究代表者: 村上隆北大教授) に研究分担者として参加し、「石油・天然ガス開発の原住民に対する影響」という課題で現地調査を 2 回実施した。 2000 年に実施した第 2 回の調査では、関係する開発会社、行政、社会団体、原住民団体の代表や、原住民の個人を対象として、個別の事情聴取を試みた。 開発プロジェクト「サハリンⅡ」にかかわる「モリクパック」の操業開始直後であったにもかかわらず、直接に影響を受ける可能性のある原住民の間でも情報周知度はきわめて低く、ましてや合意形成は全く認められなかった。 事情聴取でのやり取りは、被調査者の同意が得られた場合、その全てをデジタル・ビデオに収録した。 したがって、私の調査報告は、ビデオ記録を起こしたロシア語テキストの和訳で構成されている。

この研究プロジェクトは昨年度で終了し、私も調査報告を提出済みとはいえ、とりわけ「サハリンⅡ」の石油生産はこれから本格操業に入るため、予期せぬ事故が予想された被害を原住民に与えることが懸念される。 また原住民側の進める対応策、とりわけ土地所有権確立の成否は、事故に際して補償請求の当事者となれるかどうかを左右することになる。 「石油・天然ガス開発の原住民に対する影響」がこのように波乱含みである以上、今後の動静に対する注視は最低限の道義的責務と考えている。 今後は、現地調査を継続するための方途を鋭意追求する所存である。

2) ピウスツキ研究

科研プロジェクト 「ピウスツキによる極東先住民研究の全体像を求めて」 では、Pilsudskiana de Sapporo 誌 2、3 号の編集作業が並行して進行中である。 第 2 号は、ヴラヂヴォストクの「沿海地方国家文書館」が所蔵する沿海州行政部、ヴラヂヴォストク市警察、プリアムール総督府、アムール州軍務知事官房、サハリン島長官官房、サハリン島測候所・医務部長関係資料から、ピウスツキにかかわる文書を抜粋して収録する。 これらはピウスツキのロシア極東時代 (1877-1906) に関する重要情報である。 第 3 号では、前項で簡単に触れたように、ピウスツキが 1877 年から 1914 年にかけて家族に送った書簡約 50 通をまとめて掲載する。 そのうち、最初の 3 年間にかかわる 12 通は Pilsudskiana de Sapporo 誌 1 号で発表済みであるが、マイクロフィルムを起こしたプリント版に拠った関係で、判読不能個所がかなり残ってしまった。 創刊号に [Preprint] と付記した所以である。 今回は、リトワニア科学アカデミー図書館の古文書閲覧室に通って、最初の 12 通のみならず全書簡の原文にも逐一当たって判読の正確を期したから、完全版を公刊できるものと考えている。

いま一つは『樺太アイヌの民具』の出版である。 この出版計画は長いこと刊行の目処が立たなかったが、幸いなことに、学術振興会から刊行助成が得られたので、目下その編集作業に忙殺されている。 これはピウスツキが 19 世紀末から 20 世紀初めにかけてサハリンで収集した樺太アイヌの民具 102 点を収録するもので、ユジノ・サハリンスクでの第 2 回「ピウスツキ・シンポジウム」 (1991) 開催に併せて実施された特別展の図録に当たる。 図録は、サハリン州郷土博物館のラティシェフ館長と私の共編で、ロシア語・英語・日本語の 3 語併記という異例な形で来春には上梓される見通しである。

3) シベリア民族学史

この領域では、私が特に重要な作品とみなす 2 冊の原書をぼつぼつ繕いている。 その一つは N. M. ヤードリンツェフ (1842-94) の著作『植民地としてのシベリア』 (ペテルブルグ、1882) である。 「シベリア征服」 300 周年を記念する出版物とはいえ、ロシア人中心主義の視座に囚われることなく、シベリア原住民を身内として叙述するあたりに、「地方主義者」ヤードリンツェフの面目が窺える好著である。 いま一つは、デカブリストとして東シベリアのチタへ流刑となった D. I. ザヴァリーシン (1804-92) が残した『あるデカブリストの手記』 (ペテルブルグ、1906) である。

シベリア民族学史において、20 世紀が重要であることは言うをまたないが、シベリアに対する植民地としての統治が次第に固まってゆく 19 世紀の意味は、従来ややもすると過小評価されてきた嫌いがある。 その意味で、代表的な 19 世紀の知識人による両作品を改めて精読する必要を痛感する次第である。 但し、ザヴァリーシンの手記は興味に任せて訳出を試みているものの、両著作にかかわる私自身の研究成果は、遺憾ながらまだ一件も公刊されていない。

4. 主要学術研究業績一覧

1) 著作

(1) 単著

(3) 編著

2) 学術論文

(1) 単著

(1) 共著

3) その他の業績

(1) 研究ノート等

(2) 翻訳

(4) その他


B) 共同研究活動

1. 共同研究の企画と運営 (代表者として)

1) 科研費などの研究プロジェクト

(1) 「民族の問題と共存の条件」 (重点領域研究 「スラブ・ユーラシアの変動:自存と共存の条件」 領域研究、1995-1997 年度実施)
(2) 基盤研究 (B)(1) 「ピウスツキによる極東先住民研究の全体像を求めて」 (2000 年度から 2002 年度まで実施予定)

2) 学会などでのパネル組織

(1) スラブ研究センター 1997 年度夏期国際シンポジウム 「共存のモデルを求めて: スラブ・ユーラシアの変動に見る民族の諸相」の企画と組織 (1997 年 7 月 16 日-18 日、北海道大学スラブ研究センターにて実施)

3) その他の共同研究活動の企画と組織

なし

2.共同研究への分担者としての参加

(1) 国際学術研究 「シベリア牧畜民の民族学的研究」 (研究代表者: 斎藤農二名古屋市立大学教授、1993-1995 年度実施)
(2) 国際学術研究 「サハリン大陸棚石油・天然ガスの『開発と環境』に関する学際的研究」 (研究代表者: 村上隆北大教授、1998-2000 年度実施)

C) 受賞など

なし


D) 学歴と職歴

学歴: 1940 年生まれ、1964 年東京外国語大学ロシア科卒、1966 年東京大学教養学部教養学科卒、1974 年東京大学大学院社会学研究科文化人類学専攻修士課程修了
職歴: 1975 年北海道大学文学部附属北方文化研究施設助手、1983 年中部大学国際関係学部助教授、1984 年同教授、1994 年北海道大学スラブ研究センター教授


E) 「私のスラブ研究センター点検評価」

1) センターの共同研究

1995 年から 3 年がかりで実施された「重点領域研究」は、スラ研にとって空前絶後の大事業であったが、あとから振り返ってみてもスラ研の針路を切り直すための大きな節目となったように思われる。 あらゆる組織は、あたかも蛇が脱皮を重ねるごとく、あるいは月が満ち欠けを繰り返すように、一定の時間が経過するごとに更新を図らねばならない。 ましてや専任研究員 11 名という小所帯のスラ研は、メンバーの交代もそう頻繁にない以上、たとえ「重点領域研究」ほどの規模は望めぬとしても、10 年に一度くらいは脱皮を図らねばならないだろう。

北海道大学では今年から学内経費配分で実験系・非実験系の区別を止めてしまった。 実験系に区分されていたスラ研は、この結果、非実験系の扱いを受けることとなり、予算面で大きな痛手を蒙った。 また COE 拠点形成プログラムも今年で中止と決まり、来年以降は更なる緊縮財政を覚悟せねばならない。 かくなる上は競争的資金の調達に努力する以外にないが、科学研究費補助金に関する限り、現有定員当たりの採択件数はこのところ軒並みに 9 割前後を維持していて、制度上も限界に近い情況である。 つらつら考えるに、経費面に関してはスラ研の現状が、法人化後の国立大学の情況を先取りする観なきにしもあらずである。 とはいえ、今後とも創意工夫を重ねて、先駆者の役割を演じつづける以外に道はあるまい。

「専任研究員セミナー」は今後も維持さるべきである。 これは 1991 年以降、内部的取り決めにより、自己点検・内部評価を意図して実施されてきたが、ここ数年もかなり厳しく運営されており、所期の成果をあげていると評価できるからである。 専任研究員は年に一度、事前にペーパーを配布した上で、全研究員が出席するセミナーの席で、特別に依頼したスラ研外の専門家によるコメントを受けるとともに、出席者が開陳する講評の矢面に立たされることになる。 まさに真剣勝負の場にいるという実感があるが、願わくは今後とも、これまで同様に情念の伴わぬ、学問的批判の場として維持されるよう求めたい。

スラ研はこのところ、すべての専任研究員が年長者から順繰りにセンター長を務めるという輪番制を不文律としている。 人事審査に際してもセンター長の務まる人物という条件が考慮されるから、これはこれで論理的にも一貫しているが、見立て誤認は避けがたいし、所詮人間には得手・不得手がつきものである。 どうしてもセンター長には向かぬ人間 (これは、例えば私の自らに対する認識であり、センター長を経験したのちの総括でもある) をそのポストに就けることは、スラ研自体にとっても、決して賢明かつ合理的な選択ではあるまい。 いわんや、国立大学の行方に法人化や大幅な改組・改編が必至とされる「動乱期」にあっては、むしろ危険な選択ともなり兼ねない。 したがって、輪番制はそろそろ見直すべき時機ではないだろうか。


F) 専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集

1996 年度

「アルタイ地方における世直し運動」 (1996 年 12 月 20 日開催)

「オイロトの民を求めて: アルタイのブルハニズム序説」, 『民族の生成と論理』 (岩波講座・文化人類学), 5:229-263 (1997) として既刊
コメンテーター: 煎本 孝 (北海道大学文学部)

1997 年度

「L. Stemberg and B. Piłsudski: Their Scientific and Personal Encounters」(1997 年 12 月 8 日開催)

Pilsudskiana de Sapporo, No.1:132-155 (Slavic Resealch Center, Hokkaido University) (1999) に既刊
コメンテーター: 谷本一之 (道立アイヌ民族文化研究センター)

今回の専任研究員セミナーで発表された論文の一つ 「L.Stemberg and B. Piłsudski - Their Scientinc and Personal Encounters -」は、昨年の 11 月に、ニューヨークの American Museum of Natural History で開催された F. Boas と彼によってオルガナイズされた Jesup North Pacific Expedition の 100 年記念の会議で報告されたものである。 私もその会議に出席していたが、井上氏の発表は、Piłsudski と Sternberg の交した 101 通の書簡を読み込み、あらためて、2 人のシベリア流刑の民族学者の関係 (さらに Bachelor、F. Boas との) を明らかにし、特にギリヤク研究についての貢献、これまでともすると Sternberg の業績の影にかくれていた Piłsudski のギリヤク研究に光を当てた点で高く評価されていた。

もう一つの論文 「B. ピウスツキと函館」 は、前記論文のタイトルにならえば 「W. Sieroszewski and B.Piłsudski - their scientific and personal encounters in Hakodate (or Hokkaido?) -」ということになろう。 つまり、ここでもシベリア流刑を経験する民族学者、「ヤクートの人たち」の大著を持つ同国の Sieroszewski との函館での出会い (1903 年) と、胆振、日高での調査の様子が、彼らに白老で会い、その後若干行動を共にした飯島桂の記録 (北海道紀行)を加え、之に Sieroszewski の「回想録」の記述によって刻明に描かれている。 ここにも Bachelor が登場するが、平取に暮らすアイヌ研究の碩学として著名な Bachelor の、樺太アイヌの千徳太郎を含めたこのロシア調査団に対する批判的な言説 (自伝: 我が記憶をたどりて) から浮かび上がってくるロシアの間諜説に対して井上氏は、Sieroszewski については部分的に肯定しながらも、Piłsudski については「善意の同伴者」としての学術研究への純粋な興味による来道であることを強調している。

2 つの論文からは、国家のイデオロギーによって抑圧されてきた民族、個人に対する井上氏の関心と強い同情心が肉声となって聴こえてくる。 特に「不本意な旅路」の果てにパリーで客死した Piłsudski への思い入れの深さが、"He was a man of sentiment and a perfect humanitarian" 等の叙述から伝わってくる。

1998 年度

「Constructing Cultures Then and Now: A Centenary Conference Celebrating Franz Boas and The Jesup North Pacific Expedition」 (1998 年 12 月 10 日開催)

"F. Boas and an `Unfinished Jesup' on the Sakhalin Island: Shedding New Light on B. Laufer and B. Piłsudski," in: Laurel Kendall & Igor Krupnik, eds., Constructing Cultures Then and Now: Celebrating Franz Boas and the Centenary of the Jesup North Pacific Expedition, 1897-1902 , vol.1. Historical Perspectives, 20pp., New York: American Museum of Natural History [in press]
コメンテーター: 池上二良 (北海道大学名誉教授)

このたびの会議において討議にかけられた井上紘一氏の発表 "F. Boas and an `Unfinished Jesup' on the Sakhalin Island: Shedding New Light on B. Piłsudski" は、Jesup North Pacific Expedition の参加者の一員である B. Laufer のサハリンにおけるニブフ (ギリヤク)、ウイルタ (オロッコ)、アイヌの民族学的調査に関する研究史的検証といえる。 井上氏は Laufer の調査研究の踏査コースを詳しくたどって紹介し、調査では形質測定、wax cylinder による録音、写真撮影、生活用品の収集をおこなったことにもふれている。 しかし、その研究調査の成果については井上氏は Laufer のサハリン踏査は unsuccessful であったとしているが、今後 Laufer の実地調査で得られた資料がなおさらに発見されることもありうることも考慮し、またそれを期待し、終局的な結論を避けるとしている点には慎重な配慮がうかがわれ、井上氏の見方はおおむね妥当といえよう。

なお、井上氏は B. Piłsudki という人物の伝記的研究を長年深くおこなって来たが、この発表においても、かれと Boas の書簡を通して Piłsudki のアイヌ調査に関する両人の関係を述べている。

Laufer がオロッコという種族は存在しないといったと言うが、このことについては、元来、ウイルタ族に対するアイヌ語の名称に由来する日本語のオロッコ (古くはヲロッコと書く) の名称が、やはりこの名称を使う間宮林蔵の「東鮭紀行」を掲載する Ph. Fr. von Siebold の "Nippon" によって欧州に紹介された。 L. Schrenck はウイルタ族を大陸の Oltscha 族と同じものとみて、サハリンの Oltscha とも訳すが、また "Nippon" の Orotsko によってドイツ語名として Orokon と記した。 Piłsudki も英語名として Orok (複数形 Oroks) をつかった。 しかし、Laufer が上述のように、オロッコはいないとしたのは、かれがこの名称を (おそらくウイルタと自称する本人たちから) 採取できなかったことによるのであろう。 このことはこの種族の有無の問題でなく、名称の問題だったとみられる。

墓制について、棺の遺体の方向は、Piłsudki は足を東に向けると記し、Laufer は顔を東へ向けると記し、同様であり、ともに誤りではないといえよう。 しかし、ウイルタには、本来、東西南北の方角の区別はないとみられ、筆者はウイルタから日の入る方向 (よみの国の方) へ使者のあたまをおくときいており、この記述の方が本来的であろう。 ただしこの事項は井上氏の発表とは直接には関係しない。

サハリンの地名として記された Natro という語形は、サハリンには Tro という地名があり、これにロシア語の前置詞の na がついたものと井上氏はみるというが、この分析は、かつて大槻玄沢が「環海異聞」のなかでナアツカという地名をアツカにロシヤ語のナがついたものと分析しているのと同じで大変興味深い。

1999 年度

「`Dear Father!': B. Piłsudski's Letters from the Petro-Pavlovsky Fortress」 (2000 年 3 月 8 日開催)

Proceedings of the 3rd International Conference on B. Piłsudski and His Scholarly Heritage (Aug. 30 - Sept. 3, Krakow and Zakopane, Poland), Poznan: Adam Mickiewicz University に収録予定
コメンテーター: 沢田和彦 (埼玉大学)
  1. 井上氏のペーパーは、1999 年 8 月 30 日から 9 月 3 日までポーランドのクラクフとザコパネで開催された第 3 回国際 B. ピウスツキ会議で報告したもので、氏が自ら編集、刊行した《Pilsudskiana de Sapporo》No.1 の一部をなすものである。 これは従来ピウスツキ研究者にも知られていなかった貴重な資料の紹介である。 また英文で書かれた本ペーパーに見られる、氏の卓抜な英語力も指摘しておかねばならない。
  2. 本ペーパーはまた井上氏の研究の一貫性をも示している。 これは、参考資料の「ピウスツキ関係書目」中の論文「ブロニスワフ・ピウスツキの不本意な旅路」につながるものである。
  3. 井上氏による資料の分析方法が卓抜である。 例えば氏は、ピウスツキの父が彼に面会に来た日を 1887 年 4 月 4 日頃だとし、従来のポーランドの研究者の説を正している。
  4. 井上氏が英語に翻訳したピウスツキの手紙の重要個所の引用は、元のロシア語も添えた方が親切だろう。
  5. ピウスツキがツァーリ暗殺未遂事件に確信犯として加わったのか、あるいは単に状況に引き込まれただけなのか、という問題を判ずるのに、これら二通の手紙だけだは無理があるのではないか。 それは井上氏の言う検閲の問題 (ペーパー 2 頁) だけではない。 二通の手紙は、極刑を覚悟した判決直後の時期と、15 年の流刑 (後に 10 年に減刑されるが) という重刑を宣告されてサハリンへ出発する直前の時期という、いずれも極限状況で書かれた手紙である。 これらの手紙で一番強く感じられるのは、父に対して申し訳ないという気持ちである。 (11、12、14、16 頁)。 ちなみに手紙に表れる、父による「キリストの愛と神」の言及も、死刑を念頭においてのことだろう。 上記の問題を検討するにあたっては、ピウスツキの他の書簡や著作中の発言、知人たちのピウスツキ評も取り上げるべきである。
  6. ピウスツキが革命家か否かという二項対立の立て方 (1 頁) 自体が、果たして解決可能だろうか。 井上氏の言うように、彼が革命のシンパだったことは間違いない。 ピウスツキの日本滞在時のロシア人・ポーランド人革命家、中国人革命家や日本の社会主義者達との交流や、「ヴォーリャ」紙発行への彼の援助を見れば、それは明らかだ。 だがピウスツキが純然たる筋金入りの革命家ではなかったことも事実である。 二葉亭四迷がロシア人・ポーランド人革命家たちに絶望した後も彼との交友は続いたこと、またピウスツキが自分のことを「弱い性格」 (5、9 頁) と規定し、二葉亭が彼のことを「年を取った小児」と表現していることからもそれはうかがえる。 さらにピウスツキ本人が自分と革命運動の関わりをどう捉えていたか、を考える必要があるだろう。 シェロシェフスキの回想によれば、ピウスツキは革命運動に怖じ気づいて逃げ出したのだといい、横山源之助の回想によれば、ピウスツキは革命運動の巻き添えになったと言っていたという。
  7. ピウスツキ研究の先を急ぎ、その伝記を早く書き上げてほしい。 ピウスツキという人物の全貌を把握し、その生涯と活動を総括できる人間は現在全世界で 4 人 (ポーランドに 2 人、サハリンに 1 人、日本に 1 人) のみ、その一人が井上氏だからだ。

【質 問】

  1. 今回井上氏が部分的に紹介したリトアニア科学アカデミー図書館のアーカイブ所蔵のピウスツキ書簡 165 枚は、計何通になるのか。 またその中に彼の日本滞在中のものが含まれているのか。
  2. ピウスツキはその後父と再会できたのか。 井上氏の注によれば父は 1902 年に没したので、恐らく再び会えなかったのではないかと思われるが。

2000 年度

「2000 年秋、サハリンにて: 石油・天然ガス開発の原住民に及ぼす影響をめぐる意見聴取」 (2001 年 3 月 28 日開催)

「石油・天然ガス開発の原住民に及ぼす影響」 (村上隆編 『サハリン大陸棚石油・天然ガス開発にともなう「開発と環境」に関する学際的研究』, 57-116, 北海道大学スラブ研究センター, 2001) として既刊
コメンテーター: 大島 稔 (小樽商科大学)