松里 公孝 (まつざと きみたか)

A)個人研究活動 (うち主要学術研究業績一覧 ) B)共同研究活動
C)受賞など D)学歴と職歴
E)「私のスラブ研究センター点検評価」 F)専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集


A) 個人研究活動

1. 研究主題: ロシア・ソビエト史

2. 研究領域

1997 年から 98 年にかけては、1996 年に学位取得された博士論文「総力戦争と地方統治: 第一次世界大戦期ロシアにおける食糧事業と農事指導」の各部分を発表する作業が残っていた (第一の柱)。 その後は、主に、1994 年以来行なっている脱共産主義諸国の地方政治・投票地理学・地方政党政治に関する研究 (第二の柱)、1995-96 年のアメリカ・ウクライナ留学時に開始した近代ロシア帝国 (特に右岸ウクライナ) の民族関係史研究 (第三の柱) に従事した。 まず、第一の柱は、1996 年にロシアの農学者について Russian Review に、1997 年に協同組合集荷の戦時調達への転用について『農民学年報』 (露語) に、1998 年に戦時中の地域間紛争に関する論文をコロラド大学出版から出された論文集に、また博士論文全体の要旨を Jahrbücher für Geschichte Osteuropas に発表して完了した。 なお、上記の地域間紛争に関する論文の露語版は 2001 年に私が編集して出版されたゼムストヴォに関する露語論文集『ゼムストヴォ現象: 政治学的アプローチ』に収録された。 また、博士論文と関連したものとして、ロシアの農民共同体に関する史学史をまとめ、和田春樹氏の還暦記念論文集 (露語) に発表した。

第二の柱については、以前、私はロシアのロシア人州を主に研究したが、1998-99 年度に科学研究費補助金・基盤研究 B 「ロシア連邦ヴォルガ中流域エリートの比較研究」を受けたことをきっかけとしてロシアの民族共和国に研究対象を移した。 たとえばタタルスタンの政治体制についての私の見解は、Communist Studies and Transition Politics に発表された (2001)。 同様に、私は 1997 年以来、ウクライナのリージョン政治・地方自治制度の現地調査を行ってきたが、1999-2001 年度に科学研究費補助金・国際学術調査「脱共産主義諸国におけるリージョン・サブリージョン政治」の研究代表者となったことに加速されて、2000 年にはクルグズスタン、2001 年にはリトアニアとベラルーシで地方政治の現地調査を行った。 2001 年には、以上を総括して脱共産主義諸国のリージョン・サブリージョン政治を鳥瞰する論文が Communist and Post-Communist Studies に発表された。 私が提唱した命題は、「脱共産主義過程の地方政治・全国政治は、共産主義時代の地方ボス政治がカシキスモに転化された度合いと態様によって規定される」ということである。

投票地理学については、上記の地方エリート論との関連で選挙結果を見る方法をロシアとウクライナに適用した。 たとえばウクライナの大統領選挙に見る投票地理学は、 Post-Soviet Geography and Economics に発表された (2001)。 また、脱共産主義政治学においては、地方政治の政党化を当該地方政治の競争性から説明する見解が有力だったのに対し、アメリカ政治学から援用した政治間関係の概念を用いて、むしろ異なるレベルの政治間関係が公式政党旗揚げの原動力になることを論証した。

第三の柱については、1997 年以来、右岸ウクライナに関連して 3 本の論文を書いた。 なかでも Ab Imperio に発表された露語論文「ポーランド・ファクター」は、雑誌の影響力の大きさもあって、賛否両論を呼んでいるようである。 また科学研究費補助金・基盤研究 A 「東欧・中央ユーラシアにおける近代とネイション」に参加して、右岸ウクライナとヴォルガ中流域において国際研究協力を進めている。

しかし、第一、第二の柱に比べると、第三の柱は自分のオリジナルな概念化が遅れているように感じられる。 たとえば、私は帝国民族という概念を提唱したが、歴史的民族と非歴史的民族を峻別する事自体はハプスブルク研究、ロシア帝国研究において常識的な方法であり、「いったいどこが新しいのか。 歴史的民族のうち特にブリリアントな過去を持つと自負する民族を帝国民族と呼んでいるに過ぎないではないか」という批判が当然予想される。 研究の到達点としては、西部ゼムストヴォ問題や西部の農民改革といったこれまで研究されてこなかったトピックを選んだ上での事実究明の段階にあると言える。

過去 5 年間、日本にウクライナ研究を普及させるために尽力した。 また、ロシアで発達したリージョノロジーの方法をウクライナに普及するために、ロシアとウクライナの研究者間の協力関係を強化することに努めた。

3. 現在進行中の研究

1) ロシアの地方政治研究には飽きたので、できるだけ早く日本語で業績をまとめて完了する。 今後は、内政と外交の接点としてのボーダー・リージョン研究のみを行う。 対象としては、バルト地域、西部ウクライナ、ロシア極東が考えられる。 論点としては、たどえば、「リトアニア政治におけるカリーニングラード・ファクター」などが考えられる。

バルト諸国政治は日本ではほとんど研究されていないので、少なくともリトアニアとラトヴィアについては、私が今後 5 年間で研究の橋頭堡を築く。 少なくともリトアニア語は修得する。

2) 上記の研究と密接に関連しているが、旧社会主義諸国の政治経済体制が「EU 型」と「CIS 型」とに二極分化した理由を、「外世界との接触の仕方の違い」という観点から考察する。 私は、過去 5 年間に、政治各層間関係を基準にした旧社会主義諸国の類型論を提唱したが、「外世界との接触のあり方」という視点は、それに匹敵するほどの類型論を形成す る可能性を秘めている。

3) ロシア帝国西部の民族関係史については、まず、文書館での調査を右岸ウクライナに限定することなく、ベラルーシやリトアニアに視野を拡大する。 論点としては、すでに着手している西部ゼムストヴォ問題、農民行政機構改革に加えて、次のような問題にとりくむ。

(1) 帝国全体の総督府との比較を視野に入れつつ、北西・南西地方総督府を研究する。
(2) ポーランド本土との比較をも視野に入れつつ、旧ジェチポスポリタ東部辺境 (ガリツィヤ、リトアニア、右岸ウクライナ) におけるシュラフタ主義の近代民族主義への転化 (あるいは転化の失敗) 過程を相互に比較する。
(3) 第一国会開設以降の右岸ウクライナ 3 県における選挙・政党政治。
(4) ウクライナ土着の政治思想、すなわち「マロルーシ主義」としてのロシア民族主義。 つまり、東スラブ 3 民族を「ロシア人」と考え、ウクライナ人をその支族と考える点を中軸としてウクライナ右翼を研究する。
(5) 西部諸県におけるカトリック史。
(6) ウクライナ史学史における、リピンスキー以来の構成主義的伝統。

4) 共産主義崩壊後のロシアにおけるイスラムの政治的機能の研究。 地理的には、イスラムが分布しているヴォルガ中流域と北コーカサスが対象となる。 論点としては、(1) 共産主義崩壊後の宗務局の分裂、(2) イスラム系民族共和国の正当化根拠としてのイスラム、(3) 有意なムスリム・マイノリティーを抱えたリージョンにおけるイスラム・ファクター、(4) 宗教間の共存、あるいは地域紛争とイスラム、(5)コミュニティーを統合し地域名望家を析出するイスラムの機能、(6) イスラム宗教教育の実態、(7) 青年問題とイスラム、(8) ジェンダーとイスラムなどが考えられる。

ロシアのイスラム研究を通じて、日本でもある程度は研究されてきたヴォルガ中流域への認識をいっそう深める。 同時に、北川誠一氏の孤軍奮闘の様相を呈している北コーカサス研究の状況を打開する。

4. 主要学術研究業績一覧

1) 著作

(1) 単著

(3) 編著

2) 学術論文

(1) 単著

(2) 共著

3) その他の業績

(2) 書評

(4) その他


B) 共同研究活動

1. 共同研究の企画と運営 (代表者として)

1) 科研費などの研究プロジェクト

(1) 科研費基盤研究 (B) 「ロシア連邦ヴォルガ中流域 6 民族共和国エリートの比較研究」 1998-1999 年度
(2) 科研費国際学術調査 「脱共産主義諸国におけるリージョン・サブリージョン政治」 1999-2001 年度
(3) 科研費基盤研究 (B) 「現代ウクライナ政治の総合的研究」 2000-2001 年度

2) 学会などでのパネル組織

(1) 1998 年スラブ研究センター夏期シンポジウム "Regions: A Prism to View the Slavic-Eurasian World - Towards a Discipline of `Regionology'" を組織。
(2) 2000 年ロシア・東欧学会大会においてパネル 「政治間関係と政党制の形成: 脱共産主義政治における空間ファクター」 を組織。
(3) 2000 年ロシア史研究会大会においてパネル 「ロシア帝国西部諸県の民族・信教関係」 を組織。
(4) 2001 年ロシア史研究会大会においてパネル 「二つの帝国の狭間で: ジェチポスポリタの隆盛・改革・残照」 を組織。

3) その他の共同研究活動の企画と組織

なし

2. 共同研究への分担者としての参加

(1) 1995-1997 年度科研費重点領域研究 「スラブ・ユーラシアの変動」 (皆川修吾代表) AO2 班 「地方政治と政治文化」 (家田修代表)
(2) 1996-1997 年度 (財) 地方自治研究機構 「体制移行諸国における地方制度に関する調査研究」 (森田朗・東京大学法学部教授代表)
(3) 2000-2003 年度科研費基盤研究 (A) 「東欧・中央ユーラシアの近代とネイション」 (林忠行代表)
(4) 2001-2003 年度科研費基盤研究 (B) 「ベラルーシ・ウクライナの体制転換開始過程での経済・社会・政治構造の微視的総合研究」
(5) 2001-2003 年度国立民族学博物館地域研究企画交流センター・北海道大学スラブ研究センター連携研究 「スラブ・ユーラシア世界における国家とエスニシティ」 (井上紘一代表)

C) 受賞など

なし


D) 学歴と職歴

学歴: 1960 年生まれ、1985 年東京大学法学部卒、1987 年東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了、1991 年同博士課程中退、1996 年東京大学法学博士号取得
職歴: 1991 年北海道大学スラブ研究センター助教授、2000 年同教授


E) 「私のスラブ研究センター点検評価」

木村=伊東=長谷川体制下のスラ研と比較しての過去 10 年間のスラ研の仕事の特徴は、徹底的な実証研究を通じて国際的な名声を獲得し、同時に国際的な研究協力の核となるということであった。 その点で顕著な前進が見られたが、いくつかの克服されるべき問題も生じた。 まず、「向こうはこっちを知っているが、こっちは向こうを知らない」という日本の社会科学においては例外的な状況が生まれた。 この状況は、特に、外国人研究員制度のプラクティスに悪影響を与えている (応募者の質の低下、選抜の失敗)。

この状況は、スラ研の年齢構成が高齢化しつつあることとも関連していると考えられる。 というのは、私もそうだが、ある一定の年齢を越えた研究者は、留学のチャンスが与えられても研究対象国に行って資料収集することを優先して、英語圏に行かない傾向があるからである (それ自体は当然である)。 海外の研究者とのつながりを再強化するためには、専任教官 (特に相対的に若い部分) の英語圏への留学を奨励し、噂と情報を仕入れて帰ってきてもらう必要があるだろう。

私は、過去5年間、『スラヴ研究』、Acta Slavica Iaponica の編集を主な役割としてきたが、Acta Slavica Iaponica の今後の編集方針について意見を述べる。「ネイティヴでない著者の語学上の校閲は著者任せにはしない、編集の責任で行う」という原則は、今号においてようやく確立された。 ネイティヴでない著者が書いた英語論文はすべてマーク・ベイカー氏が校閲したし (1 頁 10 米ドル)、同じく露語論文はイリーナ・ノヴィコワ氏が校閲した (非常に安価)。 これは専任各位が、校閲料を科研費から捻出することを了承してくれたおかげである。

今後は、ネイティヴの著者についても、レダクトル (文体も含めて文章を直す人) はいらないにせよ、コレクトル (版下の段階で誤字脱字、単純な文法ミスを発見する人) の目を通す体制をつくらなければならない。 しかも露語論文の場合、これはただ同然でできる。 編集を早めに進め、版下の段階で時間の余裕があるようにしなければならない。

アクタの問題に限らず、英語・露語を通じて日本のスラヴ研究を国際化する作業を進める際に銘記しておかなければならないことは、「ネイティヴ・チェックで英語 (露語) になるような英語 (露語) が書けるようになればたいしたものだ」ということである。 たいへん不遜な言い方で恐縮だが、いまの私の英作文・露作文能力がその程度である。 しかも私はハーヴァード時代は、いわゆる勉強はせずに英作文の練習をしていた人間である。 だから国際化は難しいということを言っているのではもちろんなく、お金と手間をかけて、同僚を助ける仕組みを作らなければならないということを言っているのである。

アクタに論点を戻して、より具体的に説明すると、投稿段階の自費でのネイティヴ・チェックは当然である。 しかし審査をパスし、レフェリーの意見に従って書き直された原稿の再度のチェックは、著者の英語力が高いと考えられる場合は、著者の責任とせず、こちらで引き受ける (これは著者にとって出費の顕著な軽減となる)。 著者の英語力に問題がある場合は、著者に再度のネイティヴ・チェックをお願いするか、あるいは我々編集者が文章を直した上で、スラ研のお抱えエディターに回す。

第二の改善点は、キリル文字からラテン文字への翻字を排除し、英語論文であっても引用注は原語で書かせるということである。 ラテン文字への翻字は、コンピューターが発達していない時代には労力削減の効果を持ったかもしれないが、こんにちではかえって編集の労を増やしている。 まず、翻字を認めているために、林・家田両氏がアクタ編集責任者になれない。 私も、ロシア語のラテン文字化には対処できるが、ウクライナ語を翻字されると、間違った翻字を大量に見逃してしまう。 今後、ウクライナ語、ベラルーシ語、また (いまのところはキリル文字で表記されているところの) ソ連のチュルク系民族の言語の資料を駆使した論文が増えてくると考えられるが、これらのラテン文字化を許していたのでは、誰が編集責任者になってもお手上げだろう。 引用注を原語にすれば、少なくとも著者の責任でチェックさせることができる。

以上、特定分野に限った意見になったが、私が常々考えていることである。


F) 専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集

1997 年度

「19 世紀から 20 世紀初頭にかけての右岸ウクライナにおけるポーランド・ファクター」 (1997 年 9 月 19 日開催)

『スラヴ研究』, 45:101-138 (1998) に既刊
コメンテーター: 田口 晃 (北海道大学法学部)

1998 年度

「ロシアのサブリージョナル・ポリティックス」 (1998 年 5 月 11 日開催)
コメンテーター: 神原 勝 (北海道大学法学部)

1999 年度

「エスノ・ボナパルティズムから集権的カシキスモヘ: タタルスタン政治体制の特質とその形成過程 1990-1998」 (1999 年 11 月 1 日開催)

『スラヴ研究』, 47:1-36 (2000) に既刊
コメンテーター: 中野勝郎 (北海道大学法学部)

豊富な情報量をもとに比較政治学の分析枠組みによってタタルスタンの政治体制の特質を描き出している論文である。 読む者にとっては、(1) タタルスタンの政治社会についての知見が得られるとともに、(2) 政治学で用いられる概念や分析枠組みについて再考察する視点を与えられる。

(1) についていえば、タタルスタンが、共産主義イデオロギーやイスラム原理主義への忠誠心が強くないセキュラーな社会であったことが論じられているように思われる。 セキュラーであるがゆえに、旧体制から新体制への移行が指導層の交代をともなうことなく達成されたといえるし、エリート間の妥協や利益の供与と集票がリンクしたカシキスモの体制が確立したともいえる。 ただ、カシキスモは、前近代的社会に見られる近代化の一つの型であるといえるが、松里論文では、タタルスタンの社会における伝統的な要因が詳しく論じられていないし、集票的カシキスモがいかなる点で民主化を促進・抑制したのかが明確にされていない。

(2) についていえば、タタルスタンにおいては、「連邦構成共和国」への要求があるにもかかわらず、指導層が、「主権」 (伝統的な意味での) に拘っていない点が説得力をもって論じられている。 これまでの政治学では、自立・独立した政治社会とレでのアイデンティティを前提にしながら、国民国家を求める動きであれ、それを克服する動きであれ、考察されてきたといえる。 それにたいして、タタルスタンでは、むしろ、共和国の性格を曖昧にすることが、対内的にも対外的にも、指導層の政治的資源になっていることが明らかにされている。 この指摘は、アメリカの連邦制を研究している評者にとって、主権、ナショナリズム、国家といった政治学の概念について再考させることになった。 連邦制が国家連合であるか連合国家であるかは、ある意味では、相対的な問題にすぎない。 しかしながら、その性格規定の曖昧さを利用するという政治のあり方を語る言葉を政治学はもっていないように思われる。

松里論文は、比較のための道具立てを利用しているが、十分に吟味して用いられているとはいえない。 その点では、再構成する必要がある。 しかし、同時に、同論文が提示している論点は、他の研究者が比較の視点をもとうとするならば、有益な材料を提供している。

2000 年度

「The Issue of Zemstvos in Right Bank Ukraine 1864-1906: The Polish Nobility, the Governor-Generals, and the Imperial Government」 (2000 年 11 月 7 日開催)
コメンテーター: 竹中 浩 (大阪大学)

松里氏のペーパーは、帝政末期のロシアにおける根本的な問題をトータルな形で捉えようとする、スケールの大きい野心的な議論である。 膨張的・同化的な「帝国民族」とそれ以外の民族を区別するという論争的な方法論的立場をあえてとり、大ロシア人とポーランド人の関係を後者の前者からの民族解放運動としてでなく二つの「帝国民族」の争いとして捉えようとする氏の試みは、学会に大きな刺激を与えるものであろう。 大ロシア人エリートのポーランド人に対する態度を記述するのに用いられている「劣等感」という言葉も目を引く。 また「帝国民族」としてのポーランド人とタタール人の共通性に着目し、東西辺境をパラレルな関係において捉えている点も論争的な主張として注目される。 抑圧民族と被抑圧民族という二分法で民族問題を捉えることに対しては、最近その問題性が指摘されつつあるが、松里氏の議論も、大ロシア人がポーランド人を抑圧したという伝統的な見方を批判している点で、こうした流れに沿うものであろう。

ただ、松里氏のペーパーにおいては、対象が民族そのものなのか民族政策あるいは大ロシア人エリートの民族観なのかがやや曖昧に感じられる個所がある。 「帝国民族」についての氏の考え方は、民族の類型論であるかぎりにおいて、ある意味で民族の実在を前提としているようにも受け取れる。 しかし民族の実在性を分析の前提とするためには、ポーランド人領主層の政治意識、あるいはその基礎にある具体的な存在形態 (たとえば領主―農民関係) をみる必要があるように思われるが、松里氏のペーパーにはそうした議論はない。 この点を補うならば氏の議論はいっそう説得力を増すであろう。 また、氏によって範疇的に区別されている「帝国民族」とそれ以外の民族の間に、移行の可能性はなかったのかという点も疑問に感じられた。 ポーランド王国の復活という理念はかなり後まで残ったにしても、そのことはポーランド人が一貫して「帝国民族」であったことを直ちに示すものではないように思われる。

おそらく松里氏が一次的な研究対象としているのは、ポーランド民族そのものよりも、ポーランド人の特殊な立場が生じさせた、帝政末期のロシアにおける民族問題と行政問題の複雑な関係であろう。 この関係について論じるにあたり、松里氏は三つの次元 (民族関係論、地方行政、政府内部の立場・傾向) にまたがって議論を展開し、それぞれの次元の相互関係を論じている。 松里氏によれば、1890 年代以降のロシア政府は、二つの矛盾した必要への対応を迫られた。 ひとつは西部諸県における「帝国民族」たるポーランド人の影響力増大を防ぐことの必要であり、もうひとつは、この時期強く感じられるようになった、効率的行政に対する必要である。 松里氏は、民族関係を他から切り離すのではなく、意識的に他の領域と接合しようとしており、この点は高く評価できる。

「帝国民族」の処理とゼムストヴォ導入による効率的行政の実現という異種の要請を同時に考慮せねばならないとき、必然的に政治と思想の問題が生まれてくる。 しかし松里氏自身は、こうした問題にはそれほど関心を持っていないようである。 この点に関する分析がそれほど詰められていないために、民族政策におけるナショナリストがそのままゼムストヴォ自治に対する敵対者であるかのような印象を与え、西部諸県へのゼムストヴォ導入をめぐる政治過程の記述がやや平板になったような気がする。 松里氏の観点からすれば複数の立場の存在そのものは重要度が低くならざるをえないとしても、それはまさに松里氏が重視する矛盾の結果として生み出されるものであり、これについてより多くの記述があってもよかったのではないだろうか。 松里氏が注目しているマクロ・リージョンと中央との関係を別の軸として入れたら、より説得力のある図式になったかもしれない。 松里氏のペーパーがきわめて刺激的で示唆に富むものであるだけに、こうした配慮を加えることによる議論のいっそうの精緻化を期待するものである。

2001 年度

「ポロニズムと闘うコミッサールから農村啓蒙者へ: 帝政下右岸ウクライナにおける調停吏制度」 (2001 年 11 月 26 日開催)

『スラヴ研究』, 49 (2002) に掲載予定
コメンテーター: 松村岳志 (秋田経済法科大学)

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