A)個人研究活動 (うち主要学術研究業績一覧 ) | B)共同研究活動 |
C)受賞など | D)学歴と職歴 |
E)「私のスラブ研究センター点検評価」 | F)専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集 |
A) 個人研究活動 |
1. 研究主題: 中央アジア地域研究 (近現代史および政治・国際関係)
2. 研究領域
1996 年 4 月にセンターに着任して以降私が取り組んできた研究は、大体以下の 5 種類に分けることができる。
①近代カザフ知識人 (19 世紀半ばから 1920 年代まで) の世界観と政治活動。 これは修士論文以来の一貫したテーマで、外国語での発表の多くはこのテーマに関するものであり、その成果はカザフスタンやロシアなどの研究者にも利用されている。 この研究の第一の特徴は、カザフスタンを遊牧文明、イスラーム文明、ロシア・ヨーロッパ文明という 3 つの文明の交わりの場と見る文明史的アプローチにある。 当時のカザフ知識人たちが、3 つの文明の調和に苦心しながらも、基本的にはヨーロッパに学んで近代化を志向していたことを明らかにし、従来西側の研究で支配的だった、ロシアと中央アジアを過度に対立的にとらえる見方を乗り越えることができた。 第二の特徴は、知識人の運動をカザフ人国家形成の文脈で分析する政治史的アプローチにある。 かつての西側の研究や現在のカザフスタンの研究では、近代知識人の運動と民衆反乱、そしてソ連崩壊による独立を単線的に結びつける傾向があるが、私はそれぞれの運動のイデオロギーや戦略の違いを具体的に明らかにした。 第三の特徴は、知識人の民族観・民衆観に関する言説分析的アプローチにある。 知識人の民衆文化への関心 (いわゆる「民衆の発見」) と、他民族と対比しての独自性の意識が、密接な関係を持っていたことを明らかにした。
なお、文明史的アプローチをさらに敷衍して、中央アジアの古代以来の文明史を、自然環境 (特に気候変動) と人類活動 (特に遊牧民勢力や都市の盛衰) の関係を基軸にまとめる作業に 1997 年に着手したが、あまりに大がかりな仕事であるため当面中止しており、関連する知識を時間をかけて蓄えたいと考えている。
②中央ユーラシアにおける民族史叙述の変遷。 これはもともと史学史や「歴史の見直し」に対して持っていた関心から出発しているが、その中でも「民族」の語られ方に着目した。 これまでにカザフ、タタール、バシキール、チュヴァシの各々について前近代の歴史叙述、近代知識人の歴史認識、ソ連時代の民族史研究、ソ連崩壊後の民族史叙述を調査した。 特にソ連時代とソ連崩壊後の民族史叙述の連続性は、アメリカやロシアの研究で既に指摘されているところではあるが、私は言語学者マルの思想と民族史における「マル主義」とのずれや、現在の民族史叙述の多様性に着目して、連続性と変化についてより深い分析を行うことができた。
③中央アジア諸国の政治体制。 ホアン・リンスの権威主義体制論を援用して、センター着任前 2 年間のカザフスタン滞在中に集めた資料・情報をもとに、1990 年代半ばのカザフスタンにおける権威主義体制強化の過程を分析した。 さらには政権と反対派やマスコミの関係、利権の問題などを題材に、カザフスタンの政治体制の独自な性格を考察した。 なお、他のテーマの研究が忙しくなった関係で、このテーマに関する作業は自分で満足のいかないまま一時休止しており、カザフスタン以外の中央アジア諸国についても断片的な研究にとどまっている。 しかし他の研究者でも、中央アジア諸国の政治体制を実証・理論の両面で本格的に分析した例はあまりなく、このテーマでの私の過去の研究が乗り越えられていないことは、決して喜ばしくはなく残念なことである。
④中央アジアの国際関係とそこにおけるイスラーム・ファクター。 これはいわば時流に要請されての仕事だが、単なる時事解説ではなく独自の視角を提示することに努めてきた。 第一に、中央アジアをめぐる大国間の「グレート・ゲーム」の再来という見方を批判し、中央アジア諸国自身がパワー・ゲームのプレーヤーとなっていることに着目して、「主権国家体制」の成立という分析枠組みを提唱した (これには③の権威主義体制論も密接に関係している)。 第二に、ソ連崩壊によって中央アジアが同じイスラーム圏の中東と一体化するという「新中東」論 (私はソ連崩壊当時からこの論を一貫して批判してきた) がなぜ破綻したかを分析し、新独立諸国の「主権」へのこだわりと並んで、イスラームに対する認識の違いが大規模な地域統合を阻んできたことを明らかにした。 第三に、イスラーム運動が域外からの影響を受けながらも基本的には中央アジアに自生し、中央アジアの政治の文脈の中で過激化したこと、イスラーム運動への過剰なリアクションが中央アジア諸国の政治体制と国際関係に大きく影響していることを、ウズベキスタンとカザフスタンでのフィールドワークの成果も使いながら明らかにした。
⑤中央アジアの歴史・民族・政治に関する概説・解説・研究入門。 中央アジア研究の需要がある程度高まっていながら研究者が少ない現状で、この種の仕事はかなりたくさんある。 特に事典の項目執筆が多い (未刊だが、Encyclopaedia of Islam (Leiden: Brill) の補遺にも執筆した)。 これらは業績としては必ずしも高い「点数」で評価されるものではないが、ステレオタイプではなくかつ今後のスタンダードとして参照できる基本文献を作る使命があると考え、一つ一つ丁寧に書いてきたつもりである。
日本の中央アジア研究は、恐らく一般で考えられているよりは遙かに厚みのある成果を挙げているが、まだまだ蓄積は十分でない。 私は様々なテーマについて、一次資料に基づき理論的にも新味のある仕事をして、研究水準を引き上げるよう努力してきた。 2000 年には、それまでの研究のエッセンスをまとめた小さな本を上梓することもできた。 ただ本当を言えば、センター着任時には、①と③についてもっと早くまとまった成果を出す計画であり、ほかのテーマにすぐ手を広げるつもりはなかった。 しかし現実には、出版社・編集部や各種プロジェクトからの依頼による多種多様なテーマの仕事が業績の大半を占める結果となった。 センター内の業務も含め、自分の意志で選んだのではない仕事があまりに多いことに悩み、同級生や後輩が次々博士論文を完成させるのを横目に見ながら、スランプに陥った時期もあった。
3. 現在進行中の研究
基本的に、これまでの研究を更に深める方向で進めている。
①近代カザフ知識人研究の関係では、以前から読んできた知識人自身の著作・定期刊行 物に加えて、ステップ総督府が 1888 年から 1902 年までロシア語とカザフ語で発行していた「ステップ地方新聞」を読み進めている。 この新聞はカザフ人の寄稿を募り、またカザフの口承文芸の収集を熱心に行ったものであり、その内容を分析することで、ロシア帝国の民族政策・文化政策とカザフ知識人の民族観・民衆観の相似・影響関係を明らかにできると予想している。 総督府を含む植民地行政機構とカザフ社会の関係にも関心を持っている (この点では、松里研究員や原研究員が提唱している、ロシア帝国西部およびシベリアなどの総督府の比較研究に刺激を受けている)。 また、トルキスタン総督府の「トルキスタン地方新聞」や同時代のタタール語・ウズベク語の新聞・雑誌にも若干手を広げて、部分的な比較ができればと考えている。 さらに、在外研究の申請が通れば、モスクワ、ペテルブルグ、アルマトゥの文書館・図書館で史料を収集し、カザフ人の政治・文化運動を、他のロシア・ムスリム諸民族やロシア人 (特にシベリアのロシア人) の自治運動との関わりの中で分析していきたい。 これらの研究結果を以前からの研究成果と合わせ、博士論文を書き、同時にモノグラフとして出版することを構想している。 これを、今後数年間の最優先の仕事としたい。
またこのテーマと部分的に重なる仕事として、18 世紀から現在までのカザフスタンの知 識人・政治家約 20 人の列伝を執筆している。 人物の生涯に、それぞれの時代の文化や政治・国際情勢を織り込み、カザフスタン近現代史の入門としても専門的な研究としても読めるものを目指している。 札幌の地元誌『しゃりばり』に連載中のこの列伝は、完結したら単行本にまとめるつもりである。
②民族史叙述に関しては、これまでに論文を書いたカザフ、タタールなどだけでなく、他の中央アジア諸民族やアゼルバイジャン人についても以前から資料収集を行っており、これら旧ソ連のムスリム諸民族全体に対象を広げた分析を、「イスラーム地域研究叢書」 (科研費創成的基礎研究 「現代イスラーム世界の動態的研究」 の和文叢書) の中の一章としてまとめる。 これで一応の区切りとなるが、科研費基盤研究 「東欧・中央ユーラシアの近代とネイション」 が類似のテーマを扱っており、2002 年夏には私も企画者の一人となって国際シンポジウムを行う予定であるため、国内外の研究者の研究を参考にしながら、さらに考察を深めていきたい。
③政治体制に関しては、タジキスタンを新たな研究対象としている。 同国は内戦と和解を経験し、大統領の権威のもとでの中央集権的な体制と、地域や政党の有力者の独自性とが併存する、ユニークな政治状況になっている。 私は外務省・国際協力事業団などがタジキスタンから代表団を受け入れるのを何度か手伝った関係で、インフォーマントには恵まれており、首都および地方でのフィールドワークも一度行ったが、タジク語資料を読むカがまだ不十分なので語学の勉強をしているところである。 またカザフスタン政治に関しては、日本でも何人か研究者が出てきたので、いずれ何らかの共同研究を行えるだろう。 そして将来的には、中央アジア諸国の政治体制を理論的に比較研究したいが、かなり困難な課題ではある。
④イスラームに関しては、中央アジアとアフガニスタンのイスラーム運動を比較する共同研究を構想し、科研費を申請中である。 従来この両地域の現状に関する研究を一緒に行う機会は日本ではほとんどなかったので、新たな発見が得られることを期待している。 この共同研究での私の分担としては、ウズベキスタンとタジキスタンで再度フィールドワークを行い、両国の指導部と住民が、イスラームと政治の関係をどう考えているか調査したい。 また国際関係では、コロンビア大学のレグヴォルド教授が主宰する国際プロジェクトに参加し、日本の外交関係者へのインタビューを行って日本・カザフスタン関係に関する論文を書き上げたところだが、日本と中央アジアの関係については今後も関心を維持して いくつもりである。
⑤事典類の分担執筆を引き続き進めている。 最近書いたもの・これから書くものとしては、岩波イスラーム辞典、山川世界史小辞典、岩波世界史史料集などがある。 また、中央アジアを多角的に分析・紹介する概説書の編著と、カザフスタンに関するフランス語の概説書の翻訳の計画が、それぞれ出版社との間で進行しているところである。 より専門的なものとしては、中央アジア諸国現地での中央アジア研究の状況をサーヴェイする英語論文を書く計画がある。
4. 主要学術研究業績一覧
1) 著作
(1) 単著
(3) 編著
2) 学術論文
(1) 単著
3) その他の業績
(1) 研究ノート等
(2) 書評
(3) 翻訳
(4) その他
B) 共同研究活動 |
1. 共同研究の企画と運営 (代表者として)
1) 科研費などの研究プロジェクト
2) 学会などでのパネル組織
3) その他の共同研究活動の企画と組織
2. 共同研究への分担者としての参加
C) 受賞など |
なし
D) 学歴と職歴 |
学歴: 1967 年生まれ、1991 年東京大学教養学部教養学科卒、1993
年東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程修了、1996 年同博士課程退学
職歴: 1994 年在カザフスタン共和国日本大使館専門調査員、1995
年カザフスタン共和国科学アカデミー東洋学研究所客員研究員、1996 年北海道大学スラブ研究センター助教授
E) 「私のスラブ研究センター点検評価」 |
①センターの存在意義
社会主義体制・ソ連体制が崩壊した今日、旧ソ連・東欧諸国を一つの研究所で研究する必要はなくなったのではないかといわれることがあるが、センターのこの 10 年の歩みは、そうした見方が表面的なものであることを実証してきたと思う。 旧体制が崩壊したあとの政治・経済・社会の変動は、重点領域研究の成果が示したように、旧ソ連・東欧という枠組みで比較研究を行うのに非常に適している。 しかもこの変動は、しばしば「移行」という、目標 (市場経済化・民主化) のはっきりした短期的な現象のように語られるが、実際には明確な行き先のない漂流のような状態がかなり長期間続くであろうことが明らかになってきており、比較研究の重要性は当面低下しないだろう。 民族間関係や歴史記述、文化においても社会主義時代やそれ以前からの遺産は大きく、現在進行中の連携研究 「スラブ・ユーラシア世界における国家とエスニシティ」 (および基盤研究 「東欧・中央ユーラシアの近代とネイション」) は、中央アジアと東欧という一見かけ離れた地域の研究でも互いに大きな刺激を与えうることを示している。 そして当然ながら、社会主義やソビエト連邦の体制が存在したという歴史は消せないものであり、また時間が経つにつれて、社会主義時代・ソ連時代に対して崩壊当時とは違う見方も現れており、それらの歴史研究の必要性は低下していない。
私の携わっている中央アジア研究については、中東イスラーム研究の枠組みの中でやればよいという意見もあるが、実際には中央アジア研究者とイラン研究者やトルコ研究者の間に共通の話題はそれほど多くない。 中央アジア研究を独自の研究分野として確立させ、なおかつ比較研究のためロシア研究とも中東研究とも手を携えていく、というのが現在私たちの進めている方向である。
センターの研究対象・研究スタイルも非常に多様になってきたが、一貫して推し進められてきたのは、常に国内外の研究者に開かれた、世界的な水準の研究を行うということだろう。 私は着任以前、小規模なセンターが毎年 (最近では実質年2回) 高水準の国際シンポジウムを開いていることに驚異の念を抱いたが、今でもその感想は変わらない。 センターの開かれた研究・運営姿勢は、外国人研究員、(残念ながら廃止されてしまうが) COE 非常勤研究員、鈴川基金奨励研究員、および『スラヴ研究』・ Acta Slavica Iaponica 両誌の投稿の募集を、すべて公募で行い厳密に審査していることにも現れている。 これは特に国内の若手研究者・院生とのネットワークを作るのに役立ってきた。 また、出版物の全文や研究会案内がインターネット・サイトで広く公開され、多くの人々に活用されるなど、研究成果の社会還元も様々な形でよく行われていると思う。
②個人研究を充実させる必要性
センターおよび個々の研究員の国内外の学界での評価が高いわりに、専門家以外の人々に各研究員が十分知られているとは言えない。 初めて会う人から「スラ研といえば○○さんがいますね」と言われる時、10 年ぐらい前に転出した方々の名前が出てくることが多いのは、(著名な先輩を持ったことは誇らしいとはいえ) 非常に歯がゆい。 その主な原因は、旧ソ連・東欧への関心が下がっていること、社会やマスコミの学問全体への関心・感受性が落ちていることなど外在的なものであるが、現スタッフの著作が書店や図書館にあまり並んでいないことにも一因があると思う。 もちろん現在の読書離れ・出版不況のもとでは、書物の影響力自体に限りがあるが、専門書・一般書を問わず本を出すことに今以上に熱心になってよいだろう。 共同研究による論文集もよいが、寄せ集めという印象になりやすいので (これは文系の研究では多くの場合避けがたいことである)、一貫したビジョンと重みのある単著の方がより望ましい。
また、現在松里研究員や田畑研究員がアメリカなどの有力誌に投稿して高い評価を得ているが (私も外国の論文集等に寄稿しているが、まだ不十分である)、さらには海外の有力出版社から外国語で本を出すことも目標とすべきだろう。
センターの存在理由の重要な部分が共同研究であることは言うまでもないが、文系の研究のベースは個人研究であり、優れた個人研究者がリーダーや分担者となって初めて優れた共同研究が可能となる。 現状でもセンターは共同研究を十分に行っており、今後はむしろ個人研究のさらなる充実を奨励するべきだと考える。
③研究者養成: 大学院教育への期待
これまで、センターでいくら新しい研究の方向を打ち出しても、他大学・他研究科の院生・若手研究者になかなかそれが伝わらず、古いタイプの研究が再生産されてもどかしい思いをすることが多かった。 また分野によっては、ディシプリン別の大学院では旧ソ連・東欧のような「マイナー」な地域に関して十分な質・量の研究者を育てていないという事情もある。 その意味でセンターが担当する大学院の使命は大きい。 意欲的な院生からは、同僚・先輩からとはまた別の刺激を得られ、自分の研究にもプラスになると感じている。 ただ、国内の諸大学、特に東大の院生定員増のあおりで、優秀な院生を多く集めるのにやや苦労するのも実情である。
④人員構成
現在のセンターには、旧ソ連・東欧の中で過去十数年に最も激しい動乱を経験し国際関係の焦点となった二つの地域、コーカサスとバルカンに関する専門家がいない。 ディシプリン別に見ても、思想、芸術、前近代史、言語、法学などが欠けており、これは内外からの客員・非常勤研究員の受け入れや、雑誌の論文審査に支障を生んでいる。 あらゆる分野を網羅することは所詮できないが、あと 2~3 人の増員がほしいところである。 また現研究員の停年・転出後の人事にあたっても、似た分野の重複を解消し上記の諸分野を取り込むべきだと思う。
⑤外的環境
近年のいわゆる「大学改革」の流れに対し、センターは極めて優等生的に対応してきた。 巨大プロジェクトを実行し、科学研究費には毎年ほぼ全員が応募している。 外部点検評価をいち早く実施し、学内の改革の議論にも加わり、近く部門改組も予定されている。 歴代のセンター長をはじめ研究員が会議、書類書きや事務的な作業に費やしてきた時間は膨大なものである。 しかし、それによってセンターは (あけすけな表現だが) 得をしただろうか。 私には疑問である。 人員や予算の削減は、業績に関係なく他の部局と同じように課せられる。 極めて有効かつ真面目に運用してきた COE 制度も、何の実態評価もないままいきなり潰されてしまった。
全体的な流れとしては、恒常的な制度や資金に頼らず、科研費などの「競争的資金」でまかなえということになっているのだろう。 しかしこの「競争的資金」という理念は実態とかけ離れている。 優れた業績を挙げ、公正に「競争」すれば必ず勝つような研究者・組織でも、申請書をたまたま審査する人の認識不足によって落とされることがあるからである。 資金の有効活用という面からも、計画的に利用できる恒常的資金と違って、思いがけず余ったり足りなくなったりする科研費等は問題が多い。 また、センターのように全員が科研費を申請している場合には、必然的に多くのプロジェクトをかけ持ちすることになり、息切れしてしまう (代表者でなく分担者でも研究会の企画・運営に直接携わる場合が少なくない)。 研究所・研究センターには共同研究や海外調査を行うための資金と事務要員が常に確保されるべきであり、5 年おきぐらいに実態をよく調査して増減を決めることが望ましいと思う。
一般的には、研究や教育に不熱心な大学教員がいるのは事実で、それを是正する改革の必要性は理解できる。 しかし大学間・部局間の競争でこの問題を解決しようとするのは間違いである。 組織に「改革」の圧力がかけられた際、積極的に動くのは従来から真面目に働いていた人々で、彼らの研究の時間が失われる結果に終わり、不熱心な教員は罰せられないからだ。 厳密な個人評価を全員に実施するのも、評価の作業をするための労力と時間が効果を上回ってしまうことになりかねない。 個人的には、目に余る場合に降格・解職できるようにすべきだと思うが、いじめや派閥争いに使われない制度を作るには相当な困難も予想される。
近年、大学はめまぐるしく変わる「改革」方針に翻弄され、進むべき方向を見失っている。 小手先の組織改革や 30 云々という数合わせで何かが良くなるような幻想は捨て、本当に学問的・社会的に必要な研究とは何かを、組織単位でも個人単位でもじっくり考えられる環境がほしいものである。
F) 専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集 |
1996 年度
「カザフ知識人と 1916 年反乱」 (1997 年 3 月 11 日開催)
この論文そのものは未公刊だが、密接に関連するものとして次の論文を発表した。 "Two Attempts at Building a Qazaq State: The Revolt of 1916 and the Alash Movement," in Stephane Dudoignon and Komatsu Hisao (eds.), Islam in Politics in Russia and Central Asia (Early Eighteenth to Late Twentieth Centuries), London: Kegan Paul, 2001, pp.77-98.コメンテーター: 西山克典 (札幌市立高等専門学校)
1997 年度
「中央アジアの文明史と地域構造」 (1998 年 1 月 21 日開催)
未公刊。 これを大幅に縮約した論説として次のものがある。 「地域構造の長期変動と文明史: 中央アジアを中心に」 『スラブ・ユーラシアの変動: 自存と共存の条件 平成 9 年度重点領域研究公開シンポジウム報告集』 スラブ研究センター、1998 年、27-34 頁。コメンテーター: 川口琢司 (北海学園大学)
1998 年度
「カザフ民族史再考: 歴史記述の問題によせて」 (1998 年 10 月 30 日開催)
『地域研究論集』 Vol.2, No.1、1999 年、85-116 頁に既刊コメンテーター: 小松久男 (東京大学大学院人文社会系研究科)
宇山論文は、中央アジアにおける主要な民族の一つであるカザフ人の民族史に着目し、これを地域研究の立場から新たに見直そうとした意欲的な研究である。 カザフ民族の形成については、これを 1920 年代のソヴィエト政権による人工的な民族の創出とする議論、あるいはこれを可能な限り古代に遡らせようとする民族主義的な議論など、しばしば極端な解釈が行われてきた。 これにたいして、宇山論文はカザフ民族史にかんして豊富な蓄積をもつソヴィエト史学および民族学の成果を批判的に検討する一方、著者独自の民族論と歴史・生態学的な考察に基づきながら、カザフ民族の形成にかんして総合的な議論を展開している。 その結論は、論文の最後に的確に要約されているので、ここで再論する必要はあるまい。 しかし、宇山氏と同じく中央アジア近現代史を専攻する私から見ると、カザフ人の民族意識の明確な出現は 1720 年代以降であり、それが 19 世紀後半から 20 世紀初頭のカザフ知識人による文化・政治運動によって新たなひろがりをもつに至ったこと、また現代カザフスタンにおける民族史の理解には、ソヴィエト時代に形成されたアフトフトンノスチ (原地性) を重視する民族形成論の影響が顕著に見られるという指摘は、重要な指摘として確認しておきたい。 カザフの亜民族ともいうべきジュズに関する議論も興味深いものである。 この宇山論文にあえて注文をつけるとすれば、それはカザフの民族意識の形成や民族史の理解の仕方を、他の中央アジアあるいはトルコなどの場合と比較する視点であろう。 それは、カザフ人の特徴をより鮮明にする可能性があるからである。 もっとも、このような考察はむしろ今後の課題、とりわけ共同研究の課題とするべきかもしれない。 なお、小松によるコメントの後、セミナー参加者から実に多様かつ建設的なコメントがなされたことを付言しておきたい。
1999 年度
「中央アジアにおけるイスラーム信仰の多様性と過激派の出現」 (2000 年 2 月 17 日開催)
『ロシア研究』 第 30 号、2000 年、37-57 頁。に既刊 (ペーパーを約 6 割に縮めたもの)コメンテーター: 小山皓一郎 (北海道大学文学部)
宇山氏が「イスラーム原理主義」というマスコミ用語を避けて「イスラーム運動」と総称するのは、欧米的・キリスト教的な偏見からまぬがれ、イスラーム信仰の多様性に留意している点から見て、まったく正当であると思う。 報告というより論考と呼ぶべき内容から多くのことを教示されたが、以下は評者がとくに関心を引かれた点に関連して感想を述べたものにすぎない。
中央アジア、とくにブハラを中心とするホラーサーン地域はイスラーム世界における教学の中心であると同時に、多数の神秘主義教団の発祥地でもありっづけたが、現在のウズベクの過激派がワッハーブ派と称されているのは、その当否は別としても、この地域の長いイスラーム教学と神秘主義教団の伝統が、外部からの影響を易々と被るほど衰退していることを印象づける。 カリモフ大統領が「あるべきイスラームの姿を示すイスラーム大学」を設立したことは、この地域におけるウラマー (イスラーム学識者) 階層が、ソビエト政権期にほぼ消滅したことを示唆している。 ただし、権威あるウラマー階層の消滅は中央アジアにだけ見られる状況ではない。 宇山氏が現地で接触したムスリム宗務局その他のイスラーム権威者たちの言説は、たとえばトルコ共和国の体制寄りのイスラーム指導者たちのそれときわめて相通じるものがある。
イスラーム運動に対するカリモフ大統領の対応の推移は、現在のイスラーム世界における政治権力とイスラームとの関係を、誇張された形で明示している。 政治指導者はイスラームに寛容な態度を示すことで民衆の票を集めようとするが、遅かれ早かれイスラーム運動の過激性に脅威を感じて、これを過度に弾圧する方向に転換していく。
トルコ共和国の国是の一つとなっている政教分離主義は、初めから国家原則として掲げられたものではなく、イスラーム運動の挑戦に対する警戒と防衛から、なしくずし的に法制化されたものである。トルコ共和国では、政教分離主義はアタチュルク主義 (アタチュルクリュク) の中心理念として、イスラームの巻き返しに対する最大の障壁となり、西欧的知識人と軍部によって護持されている。 ソビエト解体後の中央アジア諸国でマルクスニレ一二ン主義が失墜し、それに代わり得る世俗的理念が空白な状態では、若年層がラディカルな装いのイスラーム運動に吸引され、競合する複数の過激派集団が、教理より行動の過激性を競う状態が今後も続くのではあるまいか。
最後に私見を一つ、イスラーム世界における国家 (政権) とイスラームの関係は、前者が後者を強圧的に抑制する場合のみ安定し、共存や妥協はあり得ないと思う。
2000 年度
「Origins, Characteristics and Functions of Soviet Ethnogenetics: Discourses on the Tatar, the Chuvash and the Bashkir Ethnic History」 (2001 年 5 月 10 日開催)
"From `Bulgharism' through `Marrism' to Nationalist Myths: Discourses on the Tatar, the Chuvash and the Bashkir Ethnogenesis" に改題・増補して、Acta Slavica Iaponica, Tomus XIX, 2002, pp.163-190 に掲載。コメンテーター: 西山克典 (静岡県立大学国際関係学部)
タタール、チュヴァシ、ヴァシキールの民族起源をめぐる様々な論説 "discourses" を、文献を広く渉猟し、著者本来の中央アジアのそれとも対比し、さらに、コーカサスの状況にも言及しつつ、Soviet ethnogenetics の起源、特徴、機能を分析している。 個別エスニック・グループの研究枠をこえ、ヴォルガ中流・ウラル地域の全体の動向をとらえた優れた論文といえる。 そのうえで、いくつかの点で補足すべきところもあると思われる。 第一に、本論文が、研究史と研究状況の中でどのような位置を占めるのか、初めの部分あるいは、文献を挙げた注で補足する必要がある。 1970 年代の Kappeler (1976)、1990 年代の Slezkine (1991, 1996), Shnirelman (1996), Frank (1998) など欧米の研究のなかでの位置を明示すること。 ロシアでも、民族史への批判的総括の試みがなされ (Национальные истории в Советском и постсоветских государствах. М., 1999. この論集では、С. Исхаков, История народов Поволжья и Уралья. Проблема и перспектива, с. 275-299)、これら 90 年代の研究状況のなかで、本論文を位置づけることが必要と思われる。
第二に、ソヴィエト ethonogenetics の特徴づけがマル学派の影響と関連づけ、巧みに説明されている。 しかし、ソヴィエトの「知」には、とくに旧い歴史に関して、"удревление" と内在性の論調が顕著であったようにおもえる。 これは、キエフ・ルーシの歴史研究でノルマン学説が否定されたことと関係している。 マル学派とソヴェトの「知」の関係如何という問題である。
第三に、バシキールとタタールの関係について、これは、チュヴァシとタタールのそれに劣らず重大な問題領域である。 P.16 では、バシキールの ethnic history は近隣民族との係争問題をもたないとし、それは、ブルガールに係わる起源論が無いためと説明されている。 しかし、事実はバシキールの民族としての自立に係わる係争問題があるのであり、それが何によるのかも言及する必要があろう。
第四に、この地域の革命前の知識人、イリミンスキー学派がソヴィエト民族学、そして ehtnogenetics とどのように関係したかを明らかにする必要がある。 著者が p.1 で、"the way in which ethnic history has been studied are interesting objects of research of both intellectual history and politics." と述べていることにも関係する。 pp.7-8 では、旧い知識人もマルクス主義者も困難にあったと、一般的に流すのではなく、このヴォルガ中流・ウラル地域の知識人、とくにイリミンスキー・システムで育成されて知識人について言及する必要があるとおもえる。
第五に、この地域の "ethnic history" におけるイスラムの立場からの研究、とりわけ 90 年代以降の動向にも触れておく必要があろう。 これは、著者が p.2 で、革命前のムスリムの several types of identities and historical perceptions の第一に挙げた Islamic identity にかかわる重要な問題である。 90 年代に復興したイスラムのなかで、この地域の ethnic history がどう語られているかという問題である。
以上、勝手な感想を記したが、大変刺激的で、優れた論文とおもえる。