スラブ研究センターニュース 季刊 2005 年冬号 No.100



学界短信

第36回AAASS学会に出席して

木村 汎(拓殖大学海外事情研究所)

「おや、日本からは私ひとりなのか」ボストン市のホテルで開催されたAAASS(米国スラブ研究促進学会)の第36回大会に出席していた私は、思わずこう つぶやいた。何しろ4日間(2004年12月4-7日)で、私は日本からの只ひとりの参加者にも出会わなかったからである。プログラムに予定報告者として 唯一名前が載っている羽場久シ尾子さんの姿も見うけなかった。正確にいうと、3人の日本人に会ったが、そのうちの2人は外務省の研修生や退職大使であっ た。もう1人戸田泰氏も、米国の永住者である。フロリダ州立大学を退職され、いまはハーバード大のデービス名称ロシア研究センターに身をおいておられる。

私は、年1回開催のAAASS学会にほとんど毎年参加している。1昨年のピッツバーグ、昨年のトロント、今年のボストンと、少なくとも過去3年間は連続出 席である。一昨年、昨年は、たとえば田畑伸一郎夫妻の活躍が目立った。昨年のトロント大会では到着の夜、ピーター・ラトランド教授も含めると10数名にも のぼる日本からの研究者たちが一同に集まる夕食会すらあった。帰国前夜には上垣彰氏、溝端佐登史氏を中心に5~6人がチャイナ・タウンへと繰り出す賑やか さだった。今年は、なぜ私一人なのか。

1つの原因は、スラブ研究それ自体が益々低調化してきていることに求められるのかもしれない。AAASS学会プログラムに印刷されている報告者の数を、例 に採り上げてみよう。一昨年は776名、昨年は901名、今年は421名である。昨年は、はじめてアメリカ合衆国以外の国(トロント)で開かれたので、人 気が高まったのかもしれない。とはいえ、今年の参加者数は例年の半分にまで激減している。アメリカにおけるスラブ研究の低調ぶりを物語るとの一般的説明が なりたつかもしれない。

英米人メンバーたちの学会にたいするかならずしも真面目とはいえない態度が、そのような望ましくない傾向に拍車をかけているように思われる。まず、パネル の構成者が毎年ほぼ同一なのである。たとえば報告者3、討論者1、司会者1の5名構成のうち、3名、いやひどいときには4名までもが同一組織に属する者や 同一大学のPh.D.取得者から構成されている。これでは、本学会はまるで所属機関から出張費を出させて、仲間が1年に1度再会する同窓会と化しているか のようである。たとえば、私の専門である「ロシア外交」に関係する2つ3つのパネルの来年の構成員を、私は今から自信をもって予告できる。対米外交はハー バード大学のS女史、対中東外交はボルチモア・ヘブライ大学のF氏、対アジア外交は米国ウォーカレッジのB氏…という具合に。つまり、学会参加者の顔ぶれ の固定化が、学会を面白くなくしているのだ。

「国家社会主義からの移行のグローバルな次元」というセッションに出席したあと、私は北大スラブ研などとのつながりで既知の間柄のステファン・ホワイト (グラスゴー大)、デービッド・レーン(ケンブリッジ大)、ニール・ロビンソン(アイルランドのリメリック大)らとともに昼食をとった。すると、彼ら3人 の英連邦からの学者と行動をともにしたのは、同パネルに出ていた他のメンバー2人だけということが分かった。つまり、そのなかに厚かましく(!)割り込ん でいったのは、私ひとりだけだったのだ。しかも彼らは昼食時からワインを飲みはじめた。午後のセッション出席のために腰を上げたのは、私1人だけだった。 彼らは、学会を同窓会とみなしている。逆に大学から出張費が得られないと、たとえパネルやセッションに前もって名前を登録させていても、欠席して一向に構 わない。このような不文律が成立している。元来自由参加で成り立っている学会なのだから止むをえないのかもしれない。しかし、律儀な日本人からみれば、無 責任といえば無責任な話ではないか。

今回の学会の内外のもう一つの特色は、どのディスカッションでも、「ウクライナ」が主役を担ったこと。マーシャル・ゴールドマン(デービス・センター副所 長)宅に夕食に招かれていったところ、夕食前からデザート時までほとんどウクライナ情勢が、話題の中心であった。他方、ロシアはユーラシア国家というもの の、ロシアのアジア性を論じるパネルは、「1.2」件しかなかった。「1」は「パイプライン、核と人々:ロシア極東外交のドライバーたち」と題するセッ ションで、北大スラブ研でお馴染みのギルバート・ローズマン(プリンストン大)とミハイル・アレクセーエフ(サンディエゴ州立大)が報告した。1に0.2 をプラスして「1.2」としたのは、もう一つのセッションでジャンヌ・ウィルソン(ウィートン・カレッジ)が「グローバリゼーションとロシア極東」という ペーパーを報告したからである。もっとも、彼女は中国語も日本語もできない。

以上のように文句をつけながらも、私自身は今回のAAASS学会出席を大いに楽しんだ。私にとっても、新しい知己を開拓するというより、旧知の友人たちと の再会が実に楽しかったのである。たとえば、北大スラブ研の客員教授、同センターの夏と冬のシンポジウムへの海外からの招聘者、そして2004年5月の ICCEES(国際中東欧研究学会)の理事たちの多くと再会した。ボストン大会で会ったそのような人で、既に言及した以外の者を順不同に列記すると、以下 の通り。ジェームス・スキャンラン、ゴードン・スミス、ジェフリー・ハーン、スタニスラフ・キルチバウム、ジェームス・ミラー、アーチー・ブラウン、ティ モシー・コールトン、ブレア・ルーブル、リチャード・サクワ、リズベス・ターロウ、スティーブ・ローズフィールドなど。

AAASS学会に参加して得られるもう1つのメリットは、書籍展での即売会を利用して、参考資料を一挙に多量購入できることである。もっとも、インター ネットの発達、とくにアマゾンその他の手段によって、最近では日本にいながら洋書がごく簡便に入手できるようになった。そのために、この楽しみも薄れてき た。とはいえ、AAASS会員や登録料を払った者には20%引き、最終日には50%引きなどの恩典があるので、学会に出席している以上、書籍展示会場を訪 れることはmustとなる。今回も、21冊の購入本のために、私のスーツケースは随分重くなった。

最後に、言い忘れかけたことがある。今回のボストンでのAAASS学会への参加者数が少なく、学会全体がいまひとつ盛り上がらなかったもう1つの理由があ る。それは、北大スラブ研の冬期シンポジウムと時期がほぼ完全に重なったことである。少なくとも私を除くほとんどの日本人は、後者のシンポジウムを選んだ のである。もし来年も万一時期が重なるならば、私は躊躇することなく北大スラブ研シンポへの参加を選ぶであろう。



中央ユーラシア学会(CESS)第5回年次大会

CESSの年次大会が、2004年10月14~17日にアメリカのインディアナ大学で開かれた。昨年の大会は、ハーヴァードという開催場所の人気と組織者 の熱心さのため、800人以上が参加するという空前の盛況であったが、今年は350人あまりだったという。日本人参加者も、前回は8人ほどいたが、今回は 東大の小松氏、ヘルシンキ大の勝井氏と私だけであった。しかし落ち着いて報告を聞くには適正な規模だったと言えよう。また、昨年のパネル構成は現状分析に やや偏っていたが、今年は歴史と現状のバランスが取れていたように思う。

私は、カザフ人・クルグズ人に対するロシア正教の布教の試みとその失敗を、ロシア帝国史・中央アジア統治史の文脈で論じる報告をおこなった。「中央アジア のキリスト教」というパネルで、私の報告は多少場違いの感があったが、同じパネルのMathijs Pelkmans氏による、現代クルグズスタンでのプロテスタントの布教についての臨場感あふれる報告を聞けたことは、大きな収穫だった。また、2002 年のセンター夏期シンポにも参加したAllen Frank氏や、ロシア帝国期のカザフ慣習法に関する本を出したVirginia Martin氏など錚々たるメンバーが並ぶパネルで、討論者を務めさせてもらった。他のパネルでは、ウズベキスタンでの農業集団化の記憶や、女性のイス ラーム宗教職能者、現代カザフスタンのコサックなどについて興味深い報告が聞けた。コーカサス関係では、グルジア・アブハジア問題についてJulie George氏が大変バランスのよい報告をしたことが印象的だった。同氏が、センターが出したスタニスラフ・ラコバ氏の本 Абхазия- де-Факто или Грузия де-юре? を知っていたことは、複数のパネルで私の研究に言及した報告者がいたことと並んで、センターの中央ユーラシア研究の認知度が徐々に高まっている ことを実感させてくれた。

2005年の大会は、9月29日~10月2日にボストン大学で開かれる予定である(http://cess.fas.harvard.edu/CESS_Conference.html)。

[宇山]

学会カレンダー

2005年

6月4–5日
比較経 済体制学会全国大会 於桜美林大学
7月7–9日
スラブ 研究センター夏期国際シンポジウム
7月25–30日
ICCEES (国際中・東欧研究協議会)第7回世界会議 於ベルリン
詳しい情報は http://www.rusin.fi/iccees/
9月29–10月2日
中央ユーラシア学会(CESS)於ボストン大学(記事参照)
10月7–9日
2005 年度日本ロシア文学会定例総会・研究発表会 於早稲田大学
10月15–16日
ロシア東欧学会2005年度大会 於西南学院大学
10月22–23日
2005 年度ロシア史研究会大会 於成蹊大学
詳しい情報は http://wwwsoc.nii.ac.jp/jssrh/

センターのホームページ(裏表紙参照)にはこの他にも多くの海外情報が掲載されています。

[大須賀]


ウェブサイト情報

 2004年10月から11月までの2ヵ月間における、センターのホームページへのアクセス数(但し、gif・jpg 等の画像形式ファイルを除く)を統計しました。

[山下]


全アクセス数
(1日平均)
うち、
邦語表紙
アクセス数
(1日平均)
うち、
英語表紙
アクセス数
(1日平均)
国内からの
アクセス数
(%)
国外からの
アクセス数
(%)
不明
(%)
10月 346,343
(11,172)
15,109
(487)
2,629
(85)
106,153
(31%)
134,729
(39%)
105,461
(30%)
11月 284,857
(9,945)
14,388
(480)
2,902
(97)
99,583
(35%)
118,577
(42%)
66,697
(23%)



編集室だより


スラヴ研究

 『スラヴ研究』第52号は、審査の結果、以下の原稿を掲載することになりました。2005年4月の刊行を目指して作業を進めています(掲載順は未 定)。

<論文>
阿部賢一 「亡命」という選択肢:ニコライ・テルレツキーの『履歴書』をめぐって
荒井幸康 1930年代のブリヤートの言語政策:文字改革、新文章語をめぐる議論を中心に
齋藤厚 スロヴェニアにおける政党政治とポピュリズム:スロヴェニア社会民主党の右派政党化をめぐって
佐藤千登勢 シクロフスキイ再考の試み:散文における《複製技術的要素》について
杉浦秀一 ウラジーミル・ソロヴィヨフとオカルティズム
バールィシェフ・エドワード 第一次世界大戦期における日露接近の背景:文明論を中心として
濱本真実 17世紀ロシアにおける非ロシア正教徒エリート政策
吉岡潤 戦後初期ポーランドにおける複数政党制と労働者党のヘゲモニー(1944-47年)
<研究ノート>
志田恭子 「ルーマニア人の統合」再考:1866年クーデタを中心に
<資料>
アレクサンドル・ボブロフ、越野剛、宮野裕、毛利公美、佐光伸一 東方の知られざる人々の物語

今回も力作揃いで、レフェリーの皆様のご協力のもと、順調に改稿作業が進みました。残念ながら不採用となった方も、次回以降ぜひ再挑戦して下さい。

次の第53号の原稿締め切りは、2005年8月末の予定です。投稿希望者は、6月末頃までにセンター大須賀までお申し込みください。

[宇山]


Slavic Eurasian Studies No.4 The Hungarian Status Law: Nation Building and/or Minority Protection の刊行

21世紀COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築:中域圏の形成と地球化」及び、科研費研究「東欧における地域社会形成と拡大EUの相互的影響に関 する研究」(研究代表者家田修)を基にした国際的な共同研究の成果であるKántor, Majtényi, Ieda, Vizi, and Halász, eds, The Hungarian Status Law: Nation Building and/or Minority Protectionが刊行されました。この論文集は2001年の立法以来、欧州の国際世論を賑わせてきたハンガリー地位法 を国内政治、国 際政治、隣国関 係、少数民族論、EU市民権など、多面的な視野から学際的に論じています。

論文集の編集に当たっては日本とハンガリーの研究者が協力し、この問題で主要な論陣を張っている研究者や専門家に執筆依頼をし、さらにはこれまでに公表さ れた雑誌論文の中から重要なものを選択し、再録しました。これにより、世界的にみて最初に「地位法症候群」(社会主義以後の東欧ロシアにおいて「国外同胞 の地位に関する法律」が連鎖的に制定された事態を指す)に関するまとまった著作が日の目を見ることになりました。本論文集のこうした意義をさらに高めるた め、資料集として関連立法や声明文、及び詳細な年譜が添付されました。このため全体として600ページを越える大部なものになりましたが、発刊早々、国際 的な照会が相次ぐなど、時宜に適った刊行ができたと、胸をなでおろしています。

この出発物に収録された論文は全部で19篇であり、歴史的分析、社会科学的分析、法学的分析の三部からなっています。執筆者の国際的陣容はハンガリー、ス ロヴァキア、ルーマニア、ドイツ、イギリス、アメリカ、日本の7ヵ国からなり、そのほとんどは研究者ないし専門家ですが、ハンガリーのヤーノシュ・キシュ のように政治思想家も含まれており、現代東欧政治を理解する上でも重要な論文が含まれています。論文集は冊子体として刊行され、全世界の主要な図書館に寄 贈されましたが、同時に個人的な利用に供するため、センターのホームページ上でも閲覧ないし抜刷印刷(ダウンロード)が可能です。<http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish.html>

この著作集刊行に向けての国際共同研究が広がって、2004年10月に国際シンポジウムがブダペストで開催され、その報告集が2005年に刊行されること になっています。これは実質的に今回の論文集の続編となりますので、合わせてご参照いただければ幸いです。

[家田]


Slavic Eurasian Studies No.5 『2つの帝国のアブハジア:19-21世紀』の刊行

2003年度の21世紀COE外国人研究員であったスタニスラフ・ラコバ(Станислав Лакоба) 教授の著作Абхазия после двух империй XIX-XXI вв.が、Slavic Eurasian Studies No.5として刊行されました。スラブ研究センターは同氏の本 Абхазия- де-Факто или Грузия де-юре? (О политике России в Абхазии в постсоветосокий период. 1991 - 2000 гг.を 2001年に刊行しており、2冊目を出すのは異例のことですが、これは、ラコバ氏が歴史学者兼政治家としてアブハジアおよびその周辺地域について持ってい るユニークな知見を、日本および世界のコーカサス研究に活かすことを目的とするものです。

この本は、ロシアによるアブハジア征服の過程、ロシア革命期・ソ連時代初期のアブハジア、1920~30年代の政治指導者ネストル・ラコバとスターリン、 トロツキー、ベリアとの関係、近年のグルジアやアブハジアに対して米露が持つ複雑な影響、といった多様な話題を取り上げています。いずれも論争的なテーマ で、さまざまな立場からの反論も予想されますが、著者がまさに歴史論争の当事者として、またネストル・ラコバの親戚として、独自の一次資料や情報を集めて きた成果に基づくだけに、迫力のある内容です。最後の章はWho's Whoの形をとり、アブハジアの政治エリートなど90人近くの経歴・現職を淡々とまとめていて、最近の政争を観察するうえでも大変貴重な資料となっていま す。

なお、ラコバ氏は2004年10月のアブハジア大統領選で副大統領候補として立候補し、いったんは中央選挙管理委員会によって当選を認められました。しか し、同氏とペアを組む大統領候補のセルゲイ・バガプシュ氏と、選挙の無効を主張するもう一人の大統領候補ラウル・ハジンバ氏(クレムリン寄り)の間で対立 が深まり、紛争の危機を迎える中、ラコバ氏は候補から降りました。これにより、バガプシュ氏を大統領候補、ハジンバ氏を副大統領候補とする妥協が成立し、 2005年1月の再選挙でこのペアが当選を果たしました。同じく大統領選挙で対立が起きたウクライナ以上に危険であった事態を、自らの譲歩によって平和的 解決に導いたラコバ氏の勇気に、敬意を表したいと思います。

この本は、まもなくウェブサイトからダウンロードできるようになる予定です(http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish.html)。

[宇山]



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