スラブ研究センターニュース 季刊 2005年冬号 No.100 index

ドネツクで考えたこと

藤森信吉 (センター)

 
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勝利を確信するキエフ市民(12/28日夜、独立広場)

2004年末、私は立て続けにウクライナを訪問する機会に恵まれた。日本外務省とスラブ研究センターの尽力により、欧州安全保障協力機構 (OSCE)が組織した国際選挙監視団に加わり、11月、12月と二度にわたってウクライナ大統領選挙を見てきた訳だ。11月の決選投票では、チェルニゴ フ州という、キエフに程近いウクライナ北部の片田舎で監視を行ったが、12月は、日本大使館の厚意によりドネツク州を担当することになった。ウクライナ東 部に位置するドネツクは、11月の決選投票で、州全体で投票率97%を記録し、いくつかの投票所では、投票率が100%を越え、最高裁の無効裁定が下され る要因となった地域である(表2参照)。このかつてのソ連時代のような投票率は、州当局の動員(動員自体は違法ではない)だけでなく、移動投票箱や不在者 投票を駆使して投票用紙を使いきり、さらに投票結果の数字自体を改変した結果であるとされている。


表1 2004年ウクライナ大統領選挙の結果(全ウクライナ)

投票率
V.ユーシチェンコ獲得票
V.ヤヌコヴィッチ獲得票
1.選挙(10/31)
75%
40%
39%
2.決選投票(11/21)
81%
47%
49%
3.再決選投票(12/26)
77%
52%
44%

表2 ドネツク州の選挙結果

投票率
V.ヤヌコヴィッチ獲得票
1.選挙(10/31) 78%
87%
2.決選投票(11/21) 97%
96%
3.再決選投票(12/26) 84%
94%

しかし、私の関心は、不正よりはドネツクそれ自体にあった。ドネツク州は、人口470万人(全国比10%)を有し、GDPの12%、輸出の22%を 叩き出すウクライナ随一の州で あり、そしてヤヌコヴィッチ候補の地盤である。にもかかわらず、我国ではその情報が少なく、絵的に映える首都キエフの抗議集会の模様ばかりが伝わってく る。しかし、キエフは、ウクライナの一部を代表しているに過ぎない。キエフ以外でこのような集会が続いているとは聞かないし、そもそもキエフ人口はウクラ イナ全人口のたった6%である。私の観点から言えば、今回のやり直し選挙の問題では、この集会よりも、決選投票の無効裁定を下した最高裁判所決定の方が重 要である。最高裁の審議は、明白な証拠により、判事の全員一致で無効が下されたという。この国で、独立した司法が存在していたことは驚きに値する。不正と 戦うキエフが正義の味方なら、ドネツクは完全に悪者扱いである。特にヤヌコヴィッチは、「犯罪集団の親 方」「馬鹿」「最弱の与党候補」等々、散々な言われようであり、マスコミによる「親ロシア派」という謎のレッテルも、彼の人物像に否定的なニュアンスを付 加しているように感じられるのだ。

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ドネツク市中心の様子(12/24日夜)

12月22日水曜日、私は、1ヶ月ぶ りにキエフにやってきた。市内では依然として「オレンジ革命」に相応しく、オレンジ色を身につけてユーシチェンコ支持を表わす人や自動車が目立っていた が、市民の熱気、高揚感は1ヶ月の間に明らかに低下していた。再選挙実施で緊張が解けたのか、中心部の独立広場の抗議集会・デモもダレていた。選挙資金が 尽きたのだろうか、両候補者の街角ポスター、テレビ広告は激減していた。キエフの選挙疲れとは対照的に、国際選挙監視員達はクリスマス労働を厭わず、民主 的選挙を実現せんと意気揚々とキエフに乗り込んできた。今回の選挙では、海外からの選挙監視委員の合計は1万2千人に達し、うちOSCEは11月選挙の2 倍となる1500人、カナダ(500人)やドイツ(100人)にいたってはチャーター機を手配するほどの力の入れようであった。このような人数は、明らか にキエフの許容を超えており、ボリスポリ空港、ホテル、そしてブリーフィング会場は、各国から来た選挙監視員で溢れ返り、あちこちで大混雑していた。

OSCE監視団東へ

23日木曜日、ドネツク担当の選挙監視員達は、夜行列車でドネツク市に向かった。11月の選挙で不正の中心地となったドネツクは、国際監視団にとって重点 地域であり、 OSCE監視団は前回比3倍の100名強を、また、 ENEMOやカナダ監視団もドネツクに集中的に監視員を配置していた。車中12時間の旅は疲れるが、クリミア半島(14時間)やウシゴロド(18時間)に 比べればマシかもしれない。空路を使わない理由は不明だが、イタリア人監視員などは「俺たち OSCE監視団は体制側から睨まれているのに一つの列車で移動とは何だ。この列車が爆破されたら OSCE監視団は全滅だ、OSCE のテロ対策はなっていない」と真顔で話すのだった。

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われわれのチーム(左から通訳、国際選挙監視員、運転手)

初めてのドネツク市は、想像よりも小綺麗な街であった。交通渋滞だらけのキエフ市に比べると、車の数は少ない(もっとも、今のキエフ中心部の渋滞は、道路 を封鎖している抗議集会によるところ大なのだが)が、110万都市に相応しく、中心部は改装・新築されたばかりのホテルや店舗が軒を連ね、夜にはイルミ ネーションが通りを照らす。そこには、ソ連時代の名残は全くない。とはいえ、中心から5分も歩くと農村地帯のような家並みやボタ山が現われる。一番意外 だったのは、ヤヌコヴィッチの地盤であるにも関わらず、拍子抜けするほど平穏であったことであった。集会やデモは全く見られず、ヤヌコヴィッチの選挙ポス ターもほとんど見かけなかった。彼のイメージカラーである青白ツートンのリボンを付けた自動車を幾つか見かけたが、キエフのオレンジ色に比べると遙かに少 ない。もちろん、オレンジ色のリボンを付けている車や人、ユーシチェンコのポスター(短時間で剥がされてしまうらしい)は全く見かけなかった。ドネツク市 は、キャンペーンをするまでもなく、ヤヌコヴィッチの街なのだ。実際、投票日前日に訪問したユーシチェンコ選挙対策本部は、「我々の任務は、この州で勝つ ことではなく、クリーンな選挙を実施させることである」と既に諦めモードであった。夜、ホテルのテレビを付けると、全国ネットの民放が、キエフの野外で行 われていたヤヌコヴィッチ支援コンサートを生中継していた。全く盛り上がってい =ネいどころか、画面の隅には、ユーシチェンコ支持のオレンジ旗すら見える。キエフはウクライナの首都とはいえ、ユーシチェンコの街なのだ。

選挙監視

金曜日朝にドネツク市についた我々は、早速、現地のOSCE 長期滞在監視員から、運転手と英露通訳を紹介された。通常、OSCEの監視チームは、加盟国からの監視員2名、運転手、通訳の4名から成る。私は、セルビ ア・モンテネグロの女性外交官とコンビを組んだ。ドネツク市でリクルートされた運転手は、明らかにヤヌコヴィッチ支持であった。彼は、ヤヌコヴィッチの知 事時代に市内が如何に目に見えて発展したかを語ってくれた。ウクライナでは、 OSCE選挙監視団はは潜在的なユーシチェンコ支持と見なされることが多いのだが、シャフチョール・ドネツク FCのグッズを大量購入した私は、そうでないと思われたのかもしれない。ドネツクは、行政資源が発達している街としても有名だが、彼のようなタクシー運転 手が、その影響を受けることは考えられないので、彼の言葉は一ドネツク市民の偽らざる心境を表していると見てよかろう。一方、通訳は、ドネツク外語大学の 英語講師で、スラブ訛のない流暢な英語と、女優級の美貌を備えていた。美人通訳というのは、他のチームに自慢できるものの、監視活動に支障を来すことが多 い。ある地区選管では複数のミリツィアが彼女目当てに寄ってきてしまい、彼女は任務を放棄して屋外に待避してしまったのである。

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他チームの美人通訳

25日土曜日、投票前日の段階では、ほとんどの投票所で準備は整っていなかった。直前の選挙法の改正等で、現場は混乱し、いくつかの必要書類も届いていな かった。混乱を演出することでクチマ大統領が自らの延命を計っているのではないか、という否定的見解を示す関係者もいたくらいである。選管委員も揃ってい なかった。今回の選挙では、不正を防ぐため、各投票所の選管委員会は、両陣営からの委員で均等に構成されることになっていた。ところが、ドネツク州のよう な、ヤヌコヴィッチ支持地域では、ユーシチェンコ側が委員をリクルートすることができない。そのため、ユーシチェンコ陣営は、キエフ州でリクルートした連 中をドネツクにチャーターバスで派遣する措置を取ったのだ。同様のことが、西ウクライナのヤヌコヴィッチ陣営でも生じたようである。

しかし26日日曜日、投票日当日には混乱は収束していた。既に二度の選挙で経験値を積んだ結果であろう。ユーシチェンコ側選管委員の欠員はあちこちで見ら れ、選管内で少数派の立場に追い込まれていたが、現場では何ら敵対することなく協働して職務を遂行していた。ドネツクに来たばかりのユーシチェンコ側の新 米選管委員長が、経験豊富なヤヌコヴィッチ側委員に運営を委任しきった状況もいくつも見た。また、市内観光や慰労会で「東西」交流を深めた例も多くあった ようだ。 さて、我々のチームは、割り当て地域内の投票所を、他チームと連携を取り、また現場で遭遇した他組織の監視員達と情報を交換しながら、次々に回った。どの 投票所も我々を歓迎し、多くの関係者が「ドネツクでは何の問題もなかったと是非報告してくれ」と頼んできた。我々を OSCE監視団と認めた上で、ユーシチェンコ政権時代の悪政(公共料金引き上げ)とヤヌコヴィッチ政権時代の善政(年金引き上げ)を語るバーブシカにも多 く遭遇した。地元企業や行政府の関与も印象的であった。ドネツク市内には多くの工場が立地しており、暖房がカットされている投票所へ暖房器具を貸与した り、あるいは当局の命令で、保有する自動車やバスを提供して、「投票所に自力で来れない有権者」への便宜供与を計っていた。特に今回の選挙では、移動投票 箱の利用資格を厳しく制限したため(この決定は投票日前夜に撤回された)、投票所まで歩いて来れない老人、軽度身障者が多く出ることが予想されていた。そ のため、地区執行委員会や地区選挙管理委員会は、交通手段の確保に奔走したのである。ユーシチェンコ自身、テレビ討論会で、ヤヌコヴィッチが移動投票箱の 利用資格制限を非難したことに対して、上記のような策を主張しており、両陣営ともに、全ての有権者に最大限の投票の機会を与えることを肯定的に捉えてい た。ここドネツクでは、未だ投票に訪れない一般有権者に対しても、ドアをノックしてお出迎えにあがっていたようである。ヤヌコヴィッチ支持が大勢のドネツ クでは、動員した分だけ、ヤ =kコヴィッチの得票が増えるということになる。また、秘密投票の観点から言えば、折るようにできていない投票用紙や、透明な投票箱も問題がありそうだっ た。投票箱近くにいれば、どちらの候補者に投票したか、丸見えである。ドネツクのような、支持がヤヌコヴィッチ候補に極端に偏っている地域では、ユーシ チェンコ候補への投票は相当勇気がいる行為に相違ない。 私の憶測の域を超えないが、おそらく西ウクライナでも同様の現象が生じていたのではないだろうか。一方の候補者が圧勝した州では、投票率が軒並み全国平均 を上回っている。下のグラフは、ウクライナ中央選挙管理委員会HP(URL http://ic-www.cvk.gov.ua / )のデータを元に、各州の投票率(X軸)とその州で勝利した候補者の得票率(Y 軸)とをプロットしたものである。このグラフを見る限り、いずれかの候補者が圧勝した州では投票率が高く、両者が競った州では投票率が低い、という興味深 い事実が確認できる。

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さらにドネツクでは、知事時代のヤヌコヴィッチの功績と、おいしいところばかり持っていく首都キエフへの反感が人々の投票行動に強く作用しているようだっ た。ドネツク市内に滞在して、街の着実な発展ぶりと美しいドネツク女性を眺めていると、民主主義を掲げる割には集会や庁舎封鎖といった政治的手段を用いた り、ティモシェンコの過去を棚上げしてクチマ体制の不正追及を叫ぶユーシチェンコ陣営に、ある種の疑問が湧いてくる感じがするから不思議だ。


監視員の帰還

27日月曜の朝、既に選挙の大勢は決していた。我々の運転手もドネツク全体もやや落胆した雰囲気であったが、それよりも、3ヶ月、3回にも及ぶ長い選挙が 終わり、新年を迎えられるといった安堵感のようなものが私には感じられた。運転手は、私の肩を抱いて別れの挨拶をして、「4回目の選挙も是非来てくれ」と 言ってくれた。半分冗談、半分本音であろう。

帰りの夜行列車で、任務から解放された我々一行は大いに飲み、大いに語り合った。私のクーペ(二等寝台)は、イタリア、ポーランド、ラトヴィアという多国 籍から成っていたが、我々は、ウクライナ・ウォッカを飲みながら何故かロシア語で馬鹿話に興じた。ウォッカが尽きると、我々は食堂車に向かった。狭い食堂 車は既に OSCE監視員で占拠されており、「おまえのスープはダイオキシン入りだ」などと軽口を叩き合いながら、夜行列車の旅を満喫したのだった。

28日火曜日の朝、久しぶりのキエフは、巨大で、交通渋滞だらけの煩雑な街に感じられた。ホテルのレセプションはまたもや長蛇の列であり、私の部屋が予約 されていないというオマケ付きであった。何とか郊外に宿を確保した後、私はキエフの独立広場を徒歩でかすめながら、日本大使館に向かった。大使館で報告を 済ませると、顔見知りの現地職員がいたので、早速、「ドネツクは綺麗な街だ、キエフよりも美女が多いしね」と挑発してみた。すると彼は「そうかもしれない が、ウクライナではハリコフ美女が定説だよ」と言うではないか。ハリコフ美女説は初耳だ。釈然としないまま札幌に戻ったが、松里先生もこの説に激しく同意 するという。別のウクライナ知人にもメールで問い合わせてみた。職業柄、ウクライナ各地への出張が多い彼は「ハリコフは若者が多い街で確かに美女が多い な。でも君の好きなグラマー美女はザポロジアに多いよ」と教えてくれた。 ドネツク、ハリコフ、そしてザポロジア・・・私は、キエフしか知らないのに、ウクライナ政治やウクライナ女性を論じている自分を恥じた。ウクライナを研究 する上で、行かなければならない地域がまた増えたようだ。

*エッセイは、筆者の個人的見解であり、日本国外務省、OSCEの意見を代表するものではない。

** 本稿では、地名は全てロシア語表記に従った。

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