スラブ研究センターニュース 季刊 2005年冬号 No.100 index

二つの場所:2004年秋グルジア訪問記

前田弘毅 (センター)

 
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宴席で歌を披露するバヤル・シャヒン(左奥)
ちなみに隣のバグパイプ奏者はヘムシン人(イスラーム化したアルメニア人)

横風に煽られ激しく揺れながらも、グルジア航空(アイルゼナ)「カヘティ」号がトビリシ空港に無事着陸したのは、11月23日夕方5時を少し回った ところであった。当初この日の明け方に到着する予定であったが、ウィーンからの飛行機が突然キャンセルされてプラハに移動した結果、グルジア入りが半日遅 れて23日のスケジュールが潰れるなど、グルジアで予定が立たないのは「革命」後も相変わらずである。烈風(カリシュハリ)に吹き飛ばされそうになりなが ら、やっとの思いでターミナルまでのバスに乗り込む頃にはすでに疲労困憊していた。しかし、約一年ぶりのグルジア訪問は、限られた時間の中でもささやかな 収穫を得ることができた。

「バラの革命」と呼ばれた政変の一周年にあたるこの日は、そもそもギオルゴバと呼ばれる聖ギオルギを記念した祝日である。昨年のギオルゴバではシェヴァル ドナゼが退陣し、今年5月のもう一つのギオルゴバではアチャラ(アジャリア)の支配者アバシゼがロシアへ亡命するなど、グルジアでは大きな政治変化が相次 いだ。学術調査に加えて、グルジアの変化を直接観察することも訪問の大きな目的であった。

 今回も乗合ミニバスやタクシーで街中を頻繁に移動したが、一見したところ、たしかに、交通整理を名目にドライバーから小銭を巻き上げていた賄賂警官は姿 を消し、かわりに投入されたパトロールカーは今後さらに増える予定だという。治安が悪くなったという声を聞く一方、隠さず報道するようになったからではな いかという人もいた。また、帰路のことであるが、かつて何度も難癖をつけられた税関が出国時も申告制となり、煩わされることがなかったのは旅行者にとって は大きな変化であった。

また、特筆すべきは、給料と年金がほぼ期日通りに支給され、以前の滞っていた分も支払いが進んでいたことだ。苦しい生活には相変わらず変化はないが、心理 的な効果はとても大きいだろう。やっと「多少はまともになった」というのが市民の実感ではなかろうか。もちろん、革命が起っても新たな産業が勃興するはず もなく、経済的苦境は続いている。旧政権幹部らから没収された財産は5500万ラリ(約30億円)に上るとされ(http://www.civil.ge/eng/article.php?id=8713)、 欧米からの援助も支払いに寄与していると思われるが、それだけでは一 時凌ぎにしか過ぎない。しかし、すべてが凍結状態にあったシェヴァルドナゼ政権末期に比べれば、情勢は新たな局面を迎えつつあるように感じられた。

かつて所属した東洋学研究所に顔を出すと、ちょうど給料日にあたっており、旧知の所員たちと再会することができた。お前も給料をもらいにきたのかと冗談も とんだりしたが、現在、アカデミーの位置づけなどを巡って国会で新たな法案が審議されており、そのせいもあってか、学会へのエントリーも増えるなど、以前 に比べると研究所も活気付いてみえる。今回、学術面で最大の収穫は、アラブ世界におけるグルジア系エリートの活動について詳しいゴチャ・ジャ パリゼ博士の知遇を得たことであるが、私の留学中、氏は人手不足の大使館をサポートするため、にわか外交官としてエジプトで勤務していた。サアカシュヴィ リ新政権は、外務大臣にフランス外務省で要職を務めていた現役のグルジア系フランス人外交官をリクルートして、外務省の機構改革も進んでいる。実を結ぶか どうか予断を許さないが、国造りへの動きは時間の流れとともに少しずつテンポを速めているようにみえる(ただし、一般に楽観的なグルジア人の見方に対し て、厳しい見方も存在することは指摘しておきたい。例えば人権団体は「一歩前進、二歩後退」と総括した http://www.civil.ge/eng/article_ngo.php?id=8565)。

もっとも、国家機構や経済指標以上に(あるいは結びついて)、筆者の関心を引くのはコーカサスの多民族社会が、これからどのような変容を遂げていくのかと いう点にある。その意味で、今回の滞在ではこの問題を巡る興味深い二つの出会いがあったのでここで触れてみたい。

場所1:クラ川沿いのレストラン

トビリシ大学でグルジア史を講じる友人ブバ・クダヴァに誘われ、郊外のレストランに赴くことになった。トビリシやムツヘタ(古都、世界遺産)では、ムトゥ クヴァリ(クラ川)沿いにたくさんのレストランが点在し、それぞれ噴水など水にちなんだ仕掛けが、古の都の雰囲気を漂わせている。この日、宴席の主役はギ オルゴバ記念の大きなコンサートを終えたばかりのグルジア系トルコ人楽団員一行であった。

実は、グルジア入りが遅れたために彼らのコンサートを聞き損ねたのだが、思いがけず身近に話をすることができた。とりわけグルジア語を流暢に話すのは歌手 でありリーダー的な存在のバヤル(バイア)・シャヒンである。彼の郷里マチャベリは、現在もグルジア語を話す数少ない地域だという(なお、トルコにおける グルジア系言語というと、ラズ(チャン)語が一般には想起されるが、ここでは所謂普通のグルジア語を指す)。宴もたけなわとなると彼らは手をつないで波打 つような郷土の舞踏を何度も披露してくれた。

独立以降、グルジアでは正教会が国家アイデンティティーの大きな支柱となっている。時には他宗教への圧迫が問題とされるほどである。実は、革命一周年の目 玉行事として、この日もトビリシでグルジア史上最大の教会の落成式が盛大に祝われた。しかし、自身熱心な信者である友人はトルコからの客人を熱烈に歓迎 し、たどたどしいグルジア語を話すイスラーム教徒たちに、「私たちは大きな問題もないのに、自分たちの伝統を見失っている。それに比べ、あなた方は何とつ らい時を潜り抜けてきたのか。それでも言葉と文化を保ったあなた方に本当に感謝している」と乾杯の音頭で挨拶をした。

私は、ここで『偉大なるメスへティ Didebuli Meskhet'i』という本を思い出した。1914年に出版され、1991年に再販されたこの興味深い本の一節には次のように記されてい る。

「サムツヘ・サアタバゴ(今日のグルジア西南部からトルコ領に当たる地域)をグラフ・パスケヴィッチ(ロシアの将軍)は1828年に占領した。政府は、現 地住民をメスフ人のかわりにタタールと呼んだのだった。これは、最大の誤りであり、自然と科学に反する行いであった。宗教を変えると人は民俗性 khalkhosnobaと民族性erovnebaを古い宗教とともに捨ててしまうのだろうか。宗教、信仰は良心の問題で、民族・民俗性と何の関係がある だろうか?(我々がフランク教と呼ぶ)カトリック教を、フランス人、イギリス人、ドイツ人、ポーランド人、スペイン人、グルジア人の一部、アルメニア人、 少数のロシア人が信仰しているが、宗教が同じだからといって、皆がラテン人やローマ人になってしまうのか?」

著者は現地の下級官 吏としてメスへティに居住したことのある地方知識人であるが、それだけに、この素直な民族感情の吐露には様々なことを考えさせる。著者はメスへティの次に アチャラを「第二の過ち」として取り上げているだけになお更である。グルジアは現在「国民国家」としての体裁を整えようと必死であるが、この200年ばか りの間にこの地を襲った大きな変化に思いを巡らせながら、国民や民族という境の設定の難しさを改めてこの宴席で認識した。

場所2:自由広場(旧レーニン広場)近くのカトリック教会

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トビリシ中心部の聖母被昇天教会

今回の訪問で、もう一つ、印象深い出会いがあった。10年前、グルジア語の家庭教師をしてくれた文学者で詩人のニノ・ダルバイセリ女史に誘われ、自由広場 近くのカトリック教会に隣接するセンターで開かれたアルメニア系の詩人ギヴィ・シャフナザリアン氏の朗読会に参加した。企画者はカトリック・グルジア人で 優れた文人として知られるメラブ・ガガニゼ氏で、会場には50人ほどの人が集まっていただろうか。シャフナザリアン氏は20世紀アルメニアの詩人を紹介し ながら、グルジア語訳を読み上げていった。終わりのほうでは聴衆のリクエストに応えて、プーシキンなど(この場合はもちろんロシア語で)様々な詩人の作品 も朗読された。

会場には、ユダヤ系グルジア人の著名な詩人アジアシュヴィリ氏や、ガムサフルディア政権で要職を務めたこともある文学者のイザ・オルジョニキゼ氏も参加し ていた(以前、オフィスを訪れたこともあるイザさんには、グルジアに来たのに挨拶にも来ないでと一喝されてしまった)。この強面で知られる女性が、それこ そ夢見る乙女のようなうっとりした目つきで(もちろん作っているのであるが)、大学生だったギヴィさんと初めて出会った頃の思い出を話した時には思わず苦 笑してしまった。彼らは皆、60を超えて老境にあるが、その知力・体力は衰えず、ソ連の黄金期に育った世代の文化力の高さを垣間見た思いがした。トビリシ という諸民族が交差する小宇宙で育まれた不思議なコスモポリタンな空間がそこには存在していたのである。

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カトリック教徒グルジア人の発行するニュースレター

2004年は、コーカサスの多民族社会に新たな悲劇の断章が加わった年として記憶されよう。北オセチア・ベスランの学校で起きた惨劇は現地社会にも大きな 衝撃を与えた。グルジアに関して述べれば、5月にアチャラを無血で「回収」したサアカシュヴィリ政権も、南オセチアでは多数の死者を出し、完全に出鼻をく じかれた形となった。不透明な政治情勢は、根強い民族間不和に拍車をかけている。外国人はこうした「排他的」民族主義を地域的特長のように強調し、内側の 人間(特に権力者)は反対に「寛容」の伝統を声高に叫ぶことが一般化している。

しかし、本当にそうであろうか?例えば、第一の場所は、宗教を超えて「グルジア」民族意識の強烈に作用する「排他的」な磁場、第二の場所は、民族の別を超 えてトビリシ人意識でまとまる「寛容」の場として設定されなくもない。しかし、ベクトルは必ずしも対方向ではないのである。ムスリム・グルジア人を同胞と 積極的にみなす立場は宗教的には「寛容」といえなくもないし、第二の場はトビリシで青春時代を過ごした同世代知識人による同窓会とみなせば、 内側に閉じている面は否めない(そもそも私の知る文学者は皆魅力的な人たちであるが、「排他的民族主義の権化」とされる故ガムサフルディア大統領にシンパ シーを抱く人が多い)。

結局のところ、エスニックなテンションに明確な方向性などないのかもしれない。また、ソリダリティへの純粋な志向が強調される背景には、エスニシティや宗 教意識の揺らぎが存在することを認めなくてはならない。そして、ソ連時代の普遍主義と近代化を無視して、こうしたテンションについて語ることもできないで あろう。民族ソリダリティも諸民族の融合と調和も、常に共存しながら複雑に交じり合うところにこそ、普遍的な地域的特長を見出せないだろうか。二つの場所 で心地よい雰囲気に浸りながら、曖昧な考えに私はしばしとらわれた。



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