スラブ研究センターニュース 季刊2005年秋号 No.103 index

「北方領土」上陸記

岩下明裕(センター)

 

2005年8月26日から30日にかけて、色丹島と択捉島を「ビザなし」によって訪問する機会を得た。台風が近づくなか、前日まで出航が危ぶまれて いたが、行程はほぼスケジュール通りに消化された。ロシアと中国の国境地帯をこれまで旅してきた私にとって「北方領土」との違いを知る機会となり、訪問を 通じて多くのことを学んだ。私を船に招待してくださった北方領土問題対策協会(以下、北対協と略記)並びに、内田博長団長(鳥取県民会議)、磯前武副団長 (宮城県民会議)を始めとして、船でお世話になった方々には心よりお礼申し上げたい。

地図


出発前夜

団員57名のこの訪問団は、鳥取7名が核となり、宮城・秋田・山形・福島など東北地方から2名づつ、その他全国から1名づつ(但し、和歌山からは3名)の 計31名の県民会議関係者が中心となる「県民会議主体の船」と呼ばれるものだ。県民会議。これは1970年代、主として北対協のイニシャティヴにより、地 方行政当局と民間団体との連携の下に運動を推進するために作られた、都道府県ごとの推進委員委嘱制度に端を発する。県民会議とは、この推進委員を中心に北 方領土返還要求運動を官民一体で進めるための組織である(第1号が1970年の宮城県、最後が1987年の島根県)。1963年結成の北方領土復帰期成同 盟がこの任を担う北海道を別として、会議の名称は全国各地でほぼ一様だ。語順は多少異なる場合もあるが、北方領土返還要求運動XX県民会議かXX県北方領 土返還促進協議会の名称が大多数。「要求」と「促進」の違いは不明瞭だが、「要求」を掲げる県の方がやや優勢。興味深いのは、島根のみが竹島北方領土返還 要求運動島根県民会議の名称をもつ点だ。北方領土だけに運動を限定することに地元では反発があったのだろう。島根で県民会議の結成が最も遅れたのもそれが 理由だといわれる。

操舵室
操舵室


県民会議の運動が、北方領土問題の啓発を大いに促したことは間違いない。日本全国の津々浦々(とくに役所の近く)で北方領土に関する看板が建てられたのも その成果の一つだと思われる。この運動がなければ、「北方四島一括早期日本復帰」を求める決議が都道府県の100%、市町村の95%以上で採択されること も、返還署名が七千万人を越えることも難しかったろう。

しかし、運動の裾野が広がる一方で、北方領土返還に関する熱意に地域差が生じているのもまた事実だ。北海道や早くから県民会議を立ち上げた東北各県、富山 県などの盛り上がりに対して、西日本は(しかも西にいけばいくほど)関心が低まる。九州出身で山口県の大学に勤務していた私は身をもってこれを体験した。 北方領土の位置(しばしば稚内の北にあると思われている)やその島名を全部言えるものは少数だ(名前が言えても、歯舞が実は群島であることは知らない)。

この意味で、私が乗った船でも、各団員のなかで返還運動に対する熱意の温度差があったことは否定できない。さらに領土問題を身近に感じ、そこに暮らすロシ ア人と日々、交流している道民主体の船と異なり、全国から「活動家」たちもはせ参じる県民会議の船は、返還運動の原理・原則を強く主張する性格を帯びてし まう。彼らにとって、「ビザなし」は交流よりも、日頃の実践を現地で試す機会となるからだ。いわば全国の「運動」の使命を背負って現地に暮らすロシア人と の対話集会に向かわざるを得ない。

もちろん、団員には県民会議関係者以外の方々も含まれている。学識経験者、元島民関係者、地震・建築にかかわる専門家、外務省、内閣府、医師、記者、通 訳、北対協のスタッフも乗りあわせる(1) 。そして私はこの学識経験者として団に招請された。余談であるが、私をこの船に乗せることに一部の団員たちは危惧をもっていたようだ。北方領土問題に関す る「柔軟派」と思われている私の上陸後の言動を懸念したのだろう。「先生、四島返還でぜひお願いしますよ」と甲板で声をかけられた。

ところで正直いって、私は団員の主軸が原則を重んじる県民会議主体で構成されていることも、また学識経験者の「任務」についても、事前に知らなかった。 てっきり一団員として気軽に参加できるものと思いこんでいた。事の重大さを認識したのは、出発前日の25日に根室で団員相手に講演した後である(そもそ も、前日の研修会で講演を頼まれるということ自体がすでに重大なことであったはずなのだが)。その夜、北対協の理事長自ら一席設けて下さる。旬のサンマの エスカロップ(2)は美味であったが、肩の荷が急に重くなった。

暴風雨の色丹

色丹島・船
色丹島・穴潤港の船の残がい


翌26日9時過ぎ、藤原弘根室市長を始め、元島民で作る千島連盟その他関係者の面々が根室港に来ていた。その見送りのなか、船は出航する。カメラが廻るな か、私は団長、副団長に次いで三番目の乗船となった。そう、学識経験者の地位は、団長、副団長に次ぐNo.3。ロサ・ルゴサ号という480トンの船内で団 長と並んで個室を与えられる特別待遇であった。個室を与えられるのは嬉しいことだが、この扱いはただごとではない。私は夕食の後、根室の地酒「北の勝」ワ ンカップで一杯やりながら、学識経験者の役割がいったい何なのか、事情に詳しいスタッフや団員たちから聴きだそうと努めた。そして学識経験者には、ロシア 人との対話集会(3)で北方領土問題で議論が起こったとき、ロシア人の主張を論破する役回りが 期待されていることを知った。「先日 の船には藤原市長が学識経験者として乗られてましたが、対話集会のとき、訳のわからない理屈で領土返還に反対するロシア人の主張を立派に一撃で粉砕されて ましたよ」。私も、根室市長のように、領土返還をごねるロシア人を立派に一撃で粉砕しなければならないのか? あまりの重大任務に頭がまっしろになった。 飲みかけの「北の勝」を持って急いで部屋にこもり、北対協からもらったパンフレットや資料集をあわててめくった。対話集会に備えて勉強しろ。個室があてが われた理由はここにあったのだ。

ところで船の方はというと、根室出航から1時間で中間点(N 43゜28´/E 145゜46´)を越え、13時半には国後島古釜布(ユジノクリリスク)に到着・船上にて入域手続。18時には色丹島穴潤(クラボザヴォツコエ)の港に錨 泊し、静かに朝を待った。現地時計が2時間早いため、かなり早い朝食をとり、桟橋に接岸後、一同上陸。あいにくの強い雨であったが、水産加工場視察の後、 斜古丹(マロクリリスコエ)で村長らと対面。日本人墓地墓参、ロシア正教会、(日本からの)人道支援施設「中学校」「発電所」、商店街などを視察した後、 クラボザヴォツコエ村長セディフ氏を迎え、レストランで夕食交流会とスケジュールは進んだ。私は団長・副団長及び「ビザなし」通訳の第一人者である大島剛 さんと同じランドクルーザーに乗り、行動をともにした。

色丹島・桟橋
色丹島・穴潤の桟橋


色丹移動中も至るところで話題にのぼったのが、色丹島住民が一日も早い領土問題の解決を望んでいるということだ。プーチン大統領が1956年宣言に基づく 「二島引き渡し」による決着を公言したかぎり、色丹の住民にとっての解決とは、島が日本領となることを前提にするしかない。「もう心の準備は十分に出来て いるから、早く決めてくれ」。これが彼らの立場だ。もちろん、自分たちが暮らす島が外国になることを心から歓迎する人はいないから、この立場の裏側には、 島から立ち去れば補償金がもらえる、たとえ島に残っても日本の支援があれば豊かにくらせるといった現実的な判断がひそんでいる。そのくらい島の住民たちは 日ロ間の交渉の袋小路にいらだっており、また自分たちがすでにモスクワからは見捨てられていると感じているのだ。

No.3の特権で夕食交流会では村長の近くに座ることが出来た。「インペリアル」という名のレストランに入る直前、ようやく雨が上がる。「島が日本に引き 渡されたら、あなたはどうしますか?」と単刀直入に訊いた。「自分は中国で生まれて軍の関係でここに来たから、帰るところはない。自分は残る」と村長。 「他の人はどうすると思いますか?」と私。少し間をおいて村長が続ける。「帰る人もいるとは思うが、それは必ずしもロシア極東やサハリンにではない。帰る 人はウクライナやコーカサスから来た人たちだろう。彼らは補償金をもらって帰る。帰るあてのない人、とくに年金生活者は残らざるを得ない。どのくらいの人 が残るのかはいえない」。このやりとりを通訳した大島さんによれば、1994年10月の北海道東方沖地震で大きな被害を受けた色丹住民にロシア政府は極東 本土への移住を奨励したが、いったん移住した後、少なからぬ人が水にあわず島に戻ってきたそうだ。色丹島のロシア人たちの苦悩は深い。村長との会食中、ま さにその地震で会場が揺れた。

色丹島の住民たちは、すでに島が日本へと引き渡される覚悟が出来ている。そして、それは一日でも早いほうがいいという。また島ではその生活を支える人道支 援設備が目につき、彼らは設備を作った鈴木宗男代議士に心から感謝の意を示す。色丹島の住民たちの声は、一日も早い歯舞・色丹の返還を望む根室の市民たち の声と共鳴している(4)

遙かなる択捉

色丹島から、漁場豊かな「三角水域」を横切り、船は翌28日、択捉島の内岡(キトヴィ)に投錨した。この港は水深が浅く、船からは艀でしか上陸できない。 訪問団は紗那(クリリスク)にあるクリル地区の行政府に向かい、カルプマン地区長と対面する。日曜日ということもあり、地区長はラフな恰好で団を迎えた が、その歓迎は強烈であった。14年ぶりの再訪だという団長の言葉に、地区長はこの10年で島にはあまり変化がないが、一つだけ大きく変わったことがある と応え、こう続けた。「変わった点は、島はロシア連邦のなかで着実に発展し続けていることだ。ロシアの様々な国家機関や要人たちが択捉島に強く注目してい る」。これに対して、訪問団は席上、領土問題について多くを主張しようとはしなかった。むしろ、紗那在住であった元島民の2世と3世をメインテーブルに座 らせ、交流を重視する姿勢をアピールした(5)

ギドロストロイ
ギドロストロイ水産加工場(択捉)・カラフトマス


さて会見が終わり、行政府庁舎の出口で、他の団員たちが集合するのを待っていると、一人の年老いたロシア人が私にロシア語で話しかけてきた。「おまえと話 がしたい」。どうやら、彼は私を学識経験者と知って近づいてきたようだ。私は名刺を差し出したが、彼は名刺を持たない。新聞社「赤い灯台」の記者だと名乗 るのみ。北方領土問題についての私の意見をききたいのこと。私は答えた。個人的な考えはあるが、今回は交流事業で訪問団の一員として参加している。それを 今、話すつもりはない。ただひとつ、私は客観的な議論を好むと。記者がロシア人と日本人の共住についてどう思うかと訊ねるので、国境線がはっきりしない状 況で共住など無理だろう、それは問題が解決してからの話だとそっけなく返事をする。全員が集合し、視察開始となり、会話はここで途切れた。

択捉島には、かの有名なギドロストロイ水産加工場やその関連施設などがあり、色丹島よりははるかに落ち着いたロシア人の暮らしぶりが伝わってくる。行政 府、新聞社「赤い灯台」、郷土博物館と図書館も入っている児童芸術学校、日本家屋である郵便局(現在も現役!)の立ち並ぶ広場から、急勾配を高台に上がっ て商店側が並ぶ大通りは、舗装はされておらず、車が行き交うと砂埃があがるものの、活気がある。択捉島のロシア人たちは自分たちの存在に手応えと自信を感 じているようだ。

さて29日の最終日、午後3時から、今回の訪問・交流のハイライトとして対話集会と交流イベントが待ちかまえている。場所は、行政府横の児童芸術学校3 階。対話集会の時間は3時過ぎからおよそ1時間半。内田団長と地元ロシア人有識者による共同議長の下、テーマは、1)社会における女性の役割、2)教育問 題、3)北方領土問題の3本建て。各テーマ30分ごとの割り当てとされた。1)と2)はロシア側が先に代表をたて、通訳が逐語訳を行う。それを受けて日本 側が主張を返す。議論というよりはお互いに状況を説明して、質問もなく、わきあいあいと終わった。

領土問題に関して強い立場をとると目された県民会議主体の訪問団であったが、この二日間のやりとりを訊いていて、領土問題の領の字さえもロシア側に持ち出 さずにいた。静かな二日間は私には不思議であった。このまま帰国したら、今回の県民会議の船は腰砕けだと評されるに違いないからだ。この予感は正しかっ た。訪問団は最後にこれをぶつける予定を立てていたのだ。

だがここでも機先を制したのはロシア側であった。まさに北方領土問題をテーマとするやりとりが始まろうとする直前、ロシア人女性グループの多くが一斉に席 を立つ。彼女たちは教育問題を聞くために遠方から来た一団だそうでここで帰るという。理由は住んでいる場所が遠いとのことだが、あと30分くらいいても大 差はないので、これは北方領土問題は議論したくないというロシア側のメッセージとしか思えない。

祖先の墓
祖先の墓を発見(択捉)


聴衆がぐっと減り、水をさされた状況で3番目のセッションが始まった。どういう経緯で先攻・後攻が決まったのかは知らないが、ここから日本側が先攻とな る。日本側の主張を始めたのが、鳥取県民会議のメンバーだ。それは1993年の東京宣言を手がかりに一刻も早く四島返還をロシアに迫る強い内容であった。 さらに、返還の後もロシア人は平和に島に住むことができるから、「共住」を恐れるなとのアピールが続く。これに対して、ロシア側の代表を務めたのは中学の 地理の先生である。アルサス・ロレーヌの係争問題を参加者に投げかけ、これがどのように解決したか忘れるなと問う。そう、第二次世界大戦の敗戦国ドイツは この係争地をフランスに譲った。第二次世界大戦の結果は尊重されるべきであり、この国境を動かしてはならないと強調した。その他、ポーツマス条約で日ロ通 好条約が無効になったため、日本の四島返還要求は根拠をもたないなど様々な理屈を持ち出してきた。

日ロ双方の主張が出そろい、質疑が始まると思いきや、いきなりロシア人の年輩の女性が別の女性に支えられながら、マイクを握り、とうとうと話を始めた。ご 年輩の方が一席ぶちはじめたら、それを止められないのはロシアでも日本でも同じである。この光景をみながら、私はまずいと思った。一般に闘いは、先制攻撃 で相手を壊滅状態に追いやらない限り、第二撃で反撃できる後攻の方が有利だ(まるで核戦争のようだ)。そのロシアは後攻である。確かに意気込みは十分だ が、全国から関係者を集め、議論があまり共有されていない感の強い日本側の先制攻撃よりも、毎回のように対話集会で闘い、ガードを固めているロシア側の切 り返しの方が優勢といえる。しかも時間制限がある30分一本勝負だ。このおばあちゃんの長い演説が続き、反論時間がなくなり、言われっぱなしでこのまま終 わった場合、日本側の立場は全くない。頃合いを見て、私は議長席に座る団長にメモを渡し、3分間だけ時間をくれるように頼んだ(このあたりの小技は各種シ ンポジウムなどで十分、磨いてある)。

時間ギリギリでおばあちゃんの演説が終わった。即座にマイクを奪う。限られた持ち時間で議論を拡散させてはならないから、私は反論をアルサス・ロレーヌ問 題一本に絞ることにした。ここでは、ヨーロッパでは国境は動くのが当たり前。しかし、「北方領土問題」にはそれが当てはまらないという議論を展開すること が肝要である。私の頭には「固有の領土」論があった。根室で理事長から出発前日にもらった北対協の新刊『領土と国境』(佐瀬昌盛著)を船の個室で勉強して おいて助かった。ヨーロッパ人に「固有の領土」論を理解させるのはなかなかに難しいことだが(6)、 こういう論争でかつディフェン スをする場合には実にありがたい。ここは「固有の領土」論で立ち向かおう。「北方領土」が一度たりとも法的にロシアの領土になったことのない場所であるこ とを皆さんは知っているのか? これはそれまでに国境線が何度か変わったアルサス・ロレーヌとは訳が違う。一緒にするな。こう応えたとき、前列に座るロシ ア人の何人かもうなずいたかのように見えた。

択捉で船を見送る人々
択捉で船を見送る人々


ここからは攻めである。外国の事例を出されたから、私も外国の事例を出そう。ロシアと中国の領土問題だ。ロシアがアムール・ウスリー川の島々の多くをいつ 中国から奪ったか知っているか。実はそれは19世紀後半ではなく、20世紀の先の戦争のときだ。ソ連は満州から日本を追い出した。しかし、その後、そのま ま居座って、長い間、島を返さなかった。2004年10月までにロシアは島を中国に返しただろう。同じ事だ。余分に取りすぎた領土を日本にも返したらどう だ(もちろん、このときにはロシアがすべての係争地を中国に引き渡したわけではないとは言わなかった)。

当然のことであるが、日本側は歓喜し、ロシア側は憤慨する。儀式の殻が破られ、ロシア人が感情的に反論に立った。さる女性は叫んだ。我々は犠牲を払ってク リルを解放したのだ。おまえたちはロシア人の多くが犠牲になったシュムシュも取り返したいのか。日本側から「何が解放だ。占領じゃあないか」とヤジが飛 ぶ。私もクリルでソ連軍は誰から誰を解放したのか?とヤジを飛ばしたい気持ちにかられたが、言葉を呑み込んだ。同じようなやりとりを毎回、繰りかえさざる をえない彼らの心情を察したからだ。こちら側は常に一回キリの「聖地巡礼」だが、ロシア側にとっては毎年、何回も繰り返される「劇」のひとこまだ。いわば プロである日本側の学識研究者に、住民の利益と国家の面子をもって一人で立ち向かわねばならない中学校の先生の立場にも同情を禁じ得ない。

雨上がりの夜空に

折から、時間切れとなり、いままでの喧噪がなにもなかったかのように5時からイベントが始まった。笛、拳法、舞踊、社交ダンスなど交流は盛り上がった。芸 達者な団員たちが実に多い。交流の合間をぬって「赤い灯台」記者と中学校の先生が私のところに近づいてきた。もちろん、「儀式」は終わったのだから、お互 いにこやかに握手を交わす。記者が笑顔で訊ねてくる。おまえは強硬派か? 相手の目を見て私も答えた。昨日、いったように私は客観的に議論する立場だ。た だし、プロパガンダに対しては同じように対抗する。イベントが終了し、対話集会での喧噪は嘘のように引いた。地区長を始め、多くのロシア人が港まで私たち を見送りに来た。北方領土問題の存在にかかわらず、日本とロシアの住民たちの交流は互いの心理的バリアを乗り越えている。「ビザなし」で日本に渡る択捉島 の住民たちがロサ・ルゴサに乗り込む。ロシア人たちは拍手で彼らを見送る。送り出されるロシア人の顔には喜びとちょっとした自慢の色が浮かぶ。

「ビザなし」をいくら積み上げても北方領土問題の解決にはつながらない。無駄だから止めろという声がよく聞かれる。確かに「ビザなし」交流が領土返還に直 接響くかどうかは議論の余地があろう。だが、「ビザなし」は、ある意味で、問題解決後の国境住民同士の関係を先取りした姿だと私は考える。そして、「ビザ なし」によって、国境地域に暮らすロシア人と日本人の関係は変わった。根室も四島も狭い。そして、彼らの間では隣町のように顔のみえるつきあいがすでにな されている。国境地域に現実に醸成されている相互の信頼感は、東京やモスクワから「望遠鏡」でみた像とはまた異なるのだろう。

雨模様の色丹島に上陸したとき、なんと美しい島だろうと感じた。中ロの国境地域でロシアの寂れた村をつぶさに見てきた私にとって、色丹は実に豊かな島にみ える。この島を取り戻すのは簡単ではないと考えた。直射日光で暑い択捉島に上陸したとき、私はなんと大きく存在感のある島だろうと思った。そして日本人と して、この島を失いたくはないという気持ちで一杯になった。帰りの船中では少なからぬ団員たちから、対話集会についてお礼の言葉を頂いた。たまたま乗り合 わせていた知人から、皮肉ともつかない、誉められかたをした。立派な一撃だった。「固有の領土」論も様になったし、これで北対協お墨付きだなと。

現地をみることが調査の基本だと身にしみている者にとって、今回の訪問は欠かすことのできない体験だったと確信する。そして、内田団長を始めとしたすばら しい団員の方々に巡り会えたおかげで、私個人は一度たりとも不愉快なめにあわなかった。島でロシア人と交流しているときもまたそうであった。今回の旅は私 が経験した団体旅行でも最上の部類に入る。にもかかわらず、私は対話集会で自らも関わらざるを得なかった不幸なやりとりをこれ以上、見聞きしたくはない。 問題が解決するその日まで、私が再び島に上陸することは恐らくないだろう。

最近、日本でもロシアでも北方領土問題を次世代の解決に委ねよう、という声がよく聴かれる。だが、これまでの交渉成果に実りが乏しく、解決への展望が見い だせないからといって、難題を先送りしようとしてよいのだろうか。環境、財政など多くのツケがすでに次の世代に廻っている。さらに外交までそのリストに加 えるのか。問題解決を次の世代に委ねるべきではない。近々、自分の考えを世に問おうと思っている。「ビザなし」の旅はその勇気を私に与えてくれた。



1) 「ビザなし」が、毎年、どのような枠組や仕組みで行われ、実績を積み重ねてきたかについては、様々な紹介があるので、ここでは割愛する。例えば、荒井信雄 「『ビザなし交流』に見るロシアにおける政府間関係と日ロ関係への影響」『札幌国際大学紀要』第31号、2000年を参照。
2) 「バターライスの上にとんかつをのせてデミグラスソースをかけたもの」と称される根室名物。語源としては、フランス語の「薄切り肉の意味」「カツレツの意 味」など諸説あるが、不明とのこと。今年はサンマが豊漁ということもあり、サンマのフライをカツの代わりにのせたのがコレ。
3) 訪問団が毎回行う北方領土のロシア住民との交流会。お互いの意見交換や舞踏・歌謡など様々なプログラムが用意してあるが、必ず北方領土問題について双方が 一戦交えるセッションが組み込まれている。
4) 私自身、2005年7月に根室商工会での講演の機会を利用して、市民へのアンケート調査を試みたことがある。「四島一括返還」を見直すべきとする回答が 60%を越え、その大多数が「二島先行返還と択捉・国後の継続協議」を軸とする「二島プラスα」による解決を支持していた(ただし「歯舞・色丹の二島返還 のみで最終決着」とするものは皆無)。詳しくは、『北海道新聞』2005年9月5日付を参照。
5) もっとも2人は、対面式の後、紗那の墓地で祖先の墓をみつけることとなり、その供養を通じて、団員一同改めて択捉島が日本に属していた歴史と記憶を確認さ せられた。
6) これについては、林忠行「日本の外で『固有の領土』論は説得力を持つのか:欧州戦後史のなかで考える」『しゃりばり』(北海道総合研究調査会)2005年 9月号を参照。

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