スラブ研究センターニュース 季刊2007年夏号 No.110 index

下界の車窓から~モンゴル・ロシア間の国境を越える旅をお送りします

荒井幸康(センター)

 

北方四島の返還問題が最近また盛んになっているようであるが、返還のされ方によっては 日本に陸の国境ができることになる。

陸続きのところに境ができてそこで人の行き来が妨げられる。ここまでは私の国、ここか らは他の国という主張が見える場所、そこが国境である。さまざまな人がさまざまな理由で 国境を越えてゆく。閾が高いところもあれば、低いところもある。 

モンゴルからロシアへ、最初に国境を越えたのは12 年前のことである。それから現在まで 何度もこの国境を行き来した。ここでは私がこれまで見てきたロシア・モンゴル国境の風景 をごらんいただきたいと思う。 スラブ研究センターCOE 研究員として2年働いたが、北海道からどこかへ行くとなると飛 行機を使わざるをえない。この2年間で利用回数は50 回を越えており、札幌にやってくるま でのペースから考えれば5~6倍多く乗っている計算になる。

海外に行くとなったらなおさら飛行機で行くことが不可避になるが、モンゴルと国境を接 するロシア連邦構成主体の一つ、ブリヤート共和国の首都ウランウデに行くときは別である。 日本から飛行機を乗り継いで行くには非常に不便なところにあり、目的地までは鉄道以外で 行ったことはない。最初はただの観光で行ったのだが、そのときに知り合った人から知り合 いの輪が広がってゆき、いつの間にかかなりの回数になった。最近は毎年いろいろな名前を 冠して行われる学会に参加するために行っている。訪問した回数を数えてみたがスラブ研究 センターにやってきてからは3回、1995 年から今までだと覚えているだけでも12 回になる。

1995 ~ 1997 年、バイカル湖をはさんで対岸にあるイルクーツクに住んでいたときには夜 行を利用した。夜9 ~ 10 時ごろ出発し、次の日の朝着く列車である。ウランウデに朝着いて その日の晩に帰るということもした。

帰国後もさまざまな方法で行ったが、最近はもっぱら南のモンゴル、ウランバートルから ウランウデに入る。ウランウデとウランバートルの間には国境が存在する。かつては同じ旧 共産圏であり、ロシア人から見れば「雄鶏が雌鶏じゃないように、モンゴルに行くのは国境 を越えることでない(Петух не курица, в Монголию не заграница)」 と言わせるような国 境であったが、今はビザが必要である。

国境の町はモンゴル側がスフバートル、ロシア側はナウシキという。スフバートルはモン ゴルの革命の英雄。ナウシキのほうはよくわからない。ただ『風の谷のナウシカ』とは関係 がないようだ。

1995 年6月から2006 年9月までこの国境を越える列車は、週に一本ずつの北京-モスクワ、 ウランバートル-モスクワの特急、すべての駅に止まるわけではないが鈍行といえる速さの ウランバートル-イルクーツク( 毎日運行) で変わりがないと思う。ウランバートルからウ ランウデまで特急なら20 時間、鈍行であれば26 ~ 27 時間の旅となる。両都市の間は700 キ ロほど。それほど離れているわけではない。もっと早く着いてもよさそうなのだが、国境で かなりの時間を食う。イルクーツク発着の列車に乗るなら、モンゴル側で4時間、ロシア側 で8時間ほど止まることになる。特急ならモンゴル側で2時間、ロシア側で3~4時間ほど なので少し手続きが早い。これは乗客の多くが外国人旅行客であることに配慮してのことな のかもしれない。2002 年5月と6月にフィンランド-ロシア国境を行き来したが、入国審査 の作業はほぼ1時間で終了。他の地域との国境での入国審査を知っているわけではないので 印象のみであるが、ロシアのアジアとの国境、ヨーロッパとの国境に対する態度の差を感じた。

モンゴル側の国境ではそれほど厳しい検査は行われない。パスポートへの出入国スタンプ もその場で押してもらえる。 

モンゴルから国境を越え、ロシア側に入るとまずパスポートを取り上げられる。駅につい ているのに車両から降りることは許されない。2、3時間は待つことになる。この間、車両 のトイレは使えず、もちろん外のトイレには行けない。最初のうちは何回か苦しい思いをした。 さて、パスポートが取り上げられる際に手荷物検査が行われる。日本人はただの旅行者の 部類に振り分けられるため、それほど詳しく調べられないが、モンゴル人だと大変である。 かばんの中もかなり入念に調べられる。

二重の虹
二重の虹(白黒では分かりにくいが)

中ロ国境同様モンゴルとロシア の間でも国境貿易をする人々がい たが、最近はさまざまな理由で長 距離の担ぎ屋が減ったように見え る。その代わり、朝、モンゴル側 の最後の駅スフバートルから乗り 込み、国境を越えてロシア側の最 初の駅ナウシキの市場で物を売っ て、夜、モンゴルへ帰る日帰りの 国境貿易をする人々を2002 年あた りから見かけるようになった。彼 らはパスポートでなく、証明書の ようなものを持っており、それを 入国審査の際に見せている。おそ らく、ロシア側に親戚がおり、国 境を越えるのが容易になるものなのであろう。2006 年3月、このような国境貿易に対する規 制が行われた。国境を越えた訪問は一定の間隔をあけて行わなければならないことになり、 一回に個人が持って来られる荷物の重量が制限されたのである(聞いた話では35kg)。もち ろんそれでくじける人々ではない。軽くて商売になるこまごまとした生活用品、靴下や皮の ジャケットにビーチサンダルを持ったモンゴル人が、モンゴルの国境を越えようとする頃、 コンパートメントにやってきて、ロシア側の検査時に着ていてほしいと頼んでくる。機会が 減った分、最大限持ち込もうとしているのである。あつかましい人は一時的にお前の荷物に してほしいとバックを持って頼んでくる。毎回、国境で多くの悲劇が待っているように感じ るのだが、実際はあの手この手で言い逃れをして無事荷物を持ち込んでいる。

なお、私は国境付近ではまるでロシア語、モンゴル語を話せないふりをする。下手に言語 がわかると職員にいろいろと聞かれるのが面倒くさいからである。1995 年最初に国境を越え た際、モンゴル語で話しかけたおかげでモンゴル側の税関にいろいろといちゃもんをつけら れた。もちろん金をせびるのが目的である。モンゴル側もロシア側も日本のパスポートを提 示すると、大抵、あまり流暢ではないが英語で対応してくれるので、こんなことがあって以 降は英語で通している。

税関での対応を見て、私がロシア語あるいはモンゴル語を理解しないと思いこんだ同乗の モンゴル人やロシア人が自分たちのことや、私を肴にいろいろと話しているのもずいぶん聞 いた。モンゴル人やロシア人の本音を聞ける瞬間である。日本人をどう考えているかについ て知ることもできたし、見てない振りして人が何を持っているかをつぶさに観察し仲間に伝 えているのを聞き、警戒したこともある。

しかし、男として一番面白いのは女性たちの男話である。面白いが、残念ながら具体的な ことはあまり書けない(笑)。ただ、自分や他人の夫の暴力が多く話題に昇るのは、DV とい う略語が世間一般で普通に使われるようになった今の時世、この両国だけの問題ではないの かもしれないが、かなり深刻なのだと理解できた。

パスポートが返され、外へ出ることが許される。

モンゴル人たちは荷物を持ってそそくさと駅に隣接した小さな市場へと急ぐ。ある人はそ こで店を広げ、ある人は待っていた現地の人に商品を売り渡すようである。

ここで、旅行客はしばしの解放感に浸る。夜に国境に着く特急はさっさと出るので、それ ほどゆっくりはできないが、鈍行だと夏は駅のホームでたたずむ人が多く、冬はホームを端 から端まで一通り見た後は駅舎か車内で過ごす人が多い。鈍行はとにかく出発するまでの時 間が長い。パスポートを返されてからも5、6時間待たされるのである。町の中心から離れ た何もない国境の駅でしばしの解放感はだんだんと苛立ちに変わっていく。しかし、不満を 口にすることで共通の話題がうまれ、他の車両の客と知り合いになることもできたりする。 禍はただ単に禍とはいえないのである。またモンゴル国境から来た便と、モンゴル国境へ向 かう便がこの国境の駅で一緒になるので、お互いのいた場所に関する情報交換が始まり、要 らないお金の交換などをやっていたりする。

お金の交換で思い出したが、モンゴル側では車両にヤミ両替のモンゴル人きて、少々高い レートで売りつけにくる。ロシア側には銀行が駅の端にあってそこでやってくれるが、昼は しっかり一時間以上休み、夜は当然やっていない。

国境を越えて8時間になる頃、列車はゆるゆると出発する。朝モンゴルの国境に着いたのに、 ロシア側の国境から出発するときはもう夕方、冬であれば辺りは真っ暗になる。

ロシアもモンゴルも社会のペースはどんどん速くなっている。しかし、国境を渡るのにか かる時間は12 年間おそらく全く変わっていない。

空を飛んでいく旅は早いが、そのおかげで隣に座っていた人に話しかけずに降りることも 多い。おそらくほとんどだろう。空ではなく下界の車窓から見る景色は、行きなれた場所な ら空同様代わり映えのないものなのかもしれないが、列車のコンパートメントやどうしよう もなく暇な国境で出発を待つホームは、言葉が分かり合えるなら会話しないではいられない 空間である。今回ここで書くにはあまりにもエピソードが多いので、何か機会があれば紹介 したいが、いろいろな出会いもあった。国境の風景はそういった旅の一部である。何事も速 いほうがいいのかもしれないが、こう考えると鉄道の旅も悪くないと思うのである。


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