スラブ研究センターニュース 季刊 2008 年冬号 No.112 index

与那国賛歌 その弐(嵐を呼ぶ男の巻)

荒井幸康(センター共同研究員)

 

沖縄と聞いて思い出すものは人それぞ れにあると思うが、私にとってはなぜか 「桃太郎」である。というのも学生時分に 国立民族博物館の日本の様々な方言を聞 ける器械が設置されたコーナーで方言比 較の例として選ばれていた物語が「桃太 郎」だったからである。日本の様々な方 言での「桃太郎」が「昔々…」で始まる のはほぼ共通であったが、沖縄の方言は まずそこからして違い、その後もまった くわからなかった。これは非常に大きな 衝撃であった。

与那国島の南にある願いをかなえてくれる岩(立神岩)
与那国島の南にある願いをかなえてくれる岩(立神岩)

いつか沖縄を訪ねてみたいと思ったの はそれからで、結局学部で学んでいるときには2回沖縄に行くことができた。しかし、その後、 モンゴルやロシア、中国ばかり行くようになり、あっという間に15 年が過ぎてしまった。

いつの間にか非常に遠くなってしまった沖縄に再び行く機会がめぐってきた。

2007 年9月15 ~ 17 日、日本最西端の島、与那国町で日本島嶼学会(スラブ研究センター共催) が行なわれたからである。メンバーに加わっていた岩下先生の科研「ユーラシア秩序の新形成: 中国・ロシアとその隣接地域の相互作用」で行なわれる国境フォーラムがその学会のプログ ラムに入っていた。

学生時分にみた沖縄は本島のみであった。さらに西に向かい石垣島を見るとか、台湾との 国境が近い与那国島まで行ってみようとは考えても見なかった。沖縄だけでも充分、別の 文化があることを実感できたから である。一橋大の大学院で学んで いたとき、沖縄出身の数学の先生 がある講演で、石垣島を中心とし て沖縄本島の西に位置する八重山 地方は沖縄本島と異なった方言を 使っているが、次第に沖縄本島の 方言に侵食されつつある状態にあ ると語っておられたのを聞いたと きは、さらに西へ行かなかったこ とを後悔したものである。

与那国で会議が行なわれると聞 いたとき、素晴らしい機会がやっ てきた!台湾と国境を接する与那 国にはこんな機会でもないと行けないだろうからぜひ見てみたい!という下心もあり、参加 したい旨を伝えた。

与那国の港に到着する船より
与那国の港に到着する船より

ただ、下心をみすかされたからか、天気にへそを曲げられてしまったのだが。

那覇に足を踏み入れたのは9月13 日である。この15 年の間に沖縄本島の中心である那覇 も大きく様変わりしていた。国際通りも広くなり、モノレールのおかげで空港との便も良く なった。しかし、以前電話帳で調べて訪ねてまわった古本屋はほとんどなくなっていた。と まれ、ノスタルジーに浸る一日を那覇で過ごし、翌日、与那国に向かうはずであった。

台風が那覇に来ることは新聞などで知っていたが、石垣島や与那国島にはかからないので 飛行機は飛ぶものと思っていたが飛ばなかった。行く飛行機は帰ってこなければならないが、 那覇に戻ってくることができなければその後の飛行機の運用に支障をきたす、ということで 欠航と決まったらしい。また、石垣島まではジェット機が飛ぶが、与那国まで飛ぶ飛行機は プロペラであるという違いも災いしたらしい。

チケットの払い戻しを行ない、チェックインした荷物を返してもらうことになったが、こ のときに同じ学会に参加する森隆子(看護学)さんと知り合った。また学会の組織者の一人 であった沖縄県立看護大学の佐久川政吉先生ともお会いした。佐久川先生は台湾から参加さ れている黄智慧教授、陳延輝教授とともにおられ、欠航の対策を練っておられた。

暴風吹きすさぶ那覇にもう一泊して翌15 日石垣島まで行き、そこからは船に揺られ与那国 までいく。直行便がないため石垣を経由するしかなかった。荒れると聞いていたが、たしか に立っているのがつらいほど荒れた。この酷い予定外のルートを選択したことを恨んだが、 最後に与那国島を外からゆっくりと眺めることができたときには、この運命を感謝したくなっ ていた。出発から5時間、ようやく与那国島に到着。外周の海もきれいだが、港の中もマリ ンブルーの海があり、きらきらひかっていた。

港から連絡し宿に4時頃到着。学会はすでに始まっていたが、開会後すぐにあったはずの 台湾の黄先生の発表が後回しになっていたなど、台風の影響が感じられた。

16 日に行なわれたスラブ研究センター共催の国境フォーラムも台風の影響を受け、対馬市 長が欠席された。「島と国境交流」の現状を地理的、政治的、歴史的な背景の違う三地域の首 長が語りあうという企画に惹かれこの学会に参加したものとしては非常に残念であったが、 その代役として『日本の国境』(新潮新書)の著者、山田吉彦さん(日本財団)が報告してく ださり、対馬、根室、与那国を始めとして世界とつながる海を国境とする日本の現状を知る ことができ大変有益であった。

根室市長、与那国町長、そして我々の科研のリーダーである岩下明裕氏の発表、どれも非 常に有益であったが、特に与那国町長の話は地元の方も来られているからか雄弁であり非常 に印象に残った。とくに「国境とかパスポートとかいうものがいかに無能なのかということ を実践したい。漁船を一列に並べて台湾へ渡る。こんなことでもしないと、日本政府は結論 を出してこないのではないか」という発言は新聞にも取り上げられるほどであった。

国境フォーラムのようす
国境フォーラムのようす

15、16 日の二日間にわたり行な われた様々な発表の中で特に印象 に残ったのは、黄智慧先生の「15 世紀の与那国見聞資料再考:南方 の視点から」である。15 世紀に与 那国に流れ着いた朝鮮漁民の残し た記録は、この時期の与那国を知 る貴重な資料であり、その資料か ら当時与那国にあった習慣上台湾 の少数民族が持つものとの共通性 を考察する興味深い発表であった。 台湾と沖縄とくに与那国がこれだ け近いのに習慣や言語などについ て共通性を考察する研究があまり ないことを黄先生は嘆いていた。

実はこの地域にまたがって研究したロシアの言語学者がいる。彼の名はニコライ・ネフス キー。1915 年から1929 年まで日本に滞在、研究した後、帰国。1937 年に粛清で命を落とし ている。黄先生に話したところ、彼の名は台湾において先住民言語研究の先駆者として知ら れているが、日本で注目されている宮古島の民話を集め、日本の方言研究を残した面は知ら れていないとのこと。国境を跨る研究はえてして別の国の人間が残している場合が多い。そ の面でもロシア語で残された研究には意外と思えるものが結構あるのである。

フォーラムの後すぐにエクスカーションがあり与那国島を一周した。ガイドはなんと与那 国町長。島の観光名所と島の持つ問題をいろいろと紹介していただき非常に有益であった。 もちろん知る人ぞ知るDr. コトーのロケ地も見学、ロケをめぐる裏話も聞くことができた。

懇親会で盛り上がる岩下科研メンバー
懇親会で盛り上がる岩下科研メンバー (てぶれは船がゆれていたせいでは ありません)

夜に催された懇親会は5時間揺れたあの船の中 であった。酔わないようにととった船の真ん中に ある座敷が宴会のスペースとなっていた。懇親会 は盛大に行なわれ、おいしい料理をいただき、島 に関わる研究をしている人々の広がりと陽気さ に親しむことができた。

余談だが「与那国賛歌 その壱」で出てくる「沖 縄を返せ」をどういうわけか私は歌うことができ た。これは沖縄民謡の歌い手大工哲弘の『ウチ ナージンタ(Okinawa Jinta)』というアルバムに 入っていたためである。後で大工氏のホームペー ジを見たところ彼は石垣島の出身であった。「今 は登野城、今大川…」と彼の歌で何度も聞いた地 名が帰りによった石垣にあるのでまさかと思い確認し、実はここのことだと知ることができ た。

最終日、与那国の郵便局から手 紙を出したいと思い向かったとこ ろで与那国民俗資料館が開いてい るのを見つけた。寄ってみるとす でに学会参加者が何人か来て、資 料館の館長である方から資料館に 展示されている資料に関しての説 明を受けていた。資料館といって も家の一室を資料館に変えて個人 で行なっているものである。館長 さんが池間苗さんと聞き、もしか してと思い、行きに那覇で買っ た『與那国の歴史』(琉球新報社、 1958)を書いた池間栄三さんと関 係があるか聞いてみたところ、な んと旦那さんであった。その後、ご自身でも『与那国語辞典』(2003)を出版されている。御 年88 歳まだまだお元気であった。

筆者と池間苗さん、田村先生
筆者と池間苗さん、田村先生( 岩下科研メンバー) で記念撮影

島嶼学会が終わり、17 日、帰ることになっていたのだが、また台風が近づいてきていた。 今度は那覇ではなく、与那国、石垣を含む八重山地方に。呼び寄せる力は磁石のよう。嵐を 呼ぶ男である。石垣までは何とかたどり着いたものの、石垣にて台風と再び対面する。台風 は翌18 日に上陸、最大風速65.7m、時速に換算したら400km 以上の風がビュービュー吹き、 おまけに朝から停電というとんでもない状況を体験した。

台風一過、19 日は非常によく晴れた。が、バスで空港に向かう途中、サトウキビや椰子 がなぎ倒されているのを見た。宿のおばさんは「今年は電信柱が倒れないだけまし」といっ ていたが、台風で散らばった木々の枝を粛々と片付ける町の人々を見ていると、慣れている のだなあと感じた。

 月並みだが、日本は広いと感じることができた旅であった。


付記:

帰りに那覇空港で上里隆史氏の『目からウロコの琉球・沖縄史:最新歴史コラム』(ボーダー インク、2007)を買う。沖縄に関して疑問に思っていたことが様々書いてあり、まさに「目 からウロコ」であった。

那覇でふと手に取ったフリーペーパーに紹介されていたので気になってはいたが、帰りの 空港の本屋さんで見つけた時には予定していた旅行の予算をだいぶオーバーしていたことも あり、『我慢、我慢』と通り過ぎた。しかし、搭乗を待つロビーでまた見つけ、手にとってあ るコラムを見つけてしまったがために買ってしまった。そのコラムとはモンゴルに関するも の。元朝の子孫が滅亡後、沖縄に流されたというものであった。こんなところにもモンゴルが。 やはり私はモンゴルから逃れられない。

[page top]
→続きを読む
スラブ研究センターニュース 季刊 2008年冬号 No.112 index