スラブ研究センターニュース 季刊 2008 年秋号 No.115 index

国際ワークショップ「十字路に立つヴォルガ・ウ ラル地域:帝国、イスラーム、民族」開かれる

長縄宣博(センター)

 

ヴォルガ・ウラル地域の研究は、 1990 年代後半にピークを迎え、す でに第二世代とも言える若手研究 者が次々と現れております。近年 の研究が示すところでは、ヴォル ガ・ウラル地域は地域間比較の格 好の題材を提供すると同時に、と りわけ、帝国、イスラーム、民族 という問題群の結節点として、そ の重要性を強めております。この ワークショップは、歴史研究を中 心に、これまでの成果を総括し、 さらに新たな研究課題に発展させ るべく、日本、ロシア、アメリカ、 ドイツ、トルコ、フランスから新 進気鋭の若手とベテランの研究者を結集しました。会議は、独立行政法人国際交流基金と人 間文化研究機構イスラーム地域研究東京大学拠点のご支援を受け、9 月19 日と20 日の両日 にわたって、カザン国立大学ロバチェフスキー図書館会議室で開催されました(スラブ研究 センター共催)。詳細なプログラムと報告要旨は、以下で見ることができます。会議は、ロシ ア語でおこなわれました。

会議のあとに
会議のあとに

http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/eng/20080919/20080919-j.html

この会議は、16 世紀から20 世紀をカバーしていましたが、それはちょうど、碩学ミール カシム・ウスマーノフ教授(カザン大)が開会の辞で述べた言葉を借りれば、諸文明が交錯 したこの地域の悠久の歴史におけるロシア時代に相当します。第1 パネルで私たちはまず、 この歴史の一幕において、「ヴォルガ・ウラル地域」という研究単位を設定すること自体の意 味を問い直しました。チャールズ・スタインヴェデル(ノースイースタン・イリノイ大、米国) は、ヴォルガ中流域と南ウラルが、とりわけ現地民エリートの帝国への統合において、著し く対照的だったことを強調しました。そしてそれと同時に、この両地域が一体として、ロシ ア帝国・ソ連邦の西部・南部辺境における暴力的な多民族・多宗教関係に対するカウンター・ モデルとなっていると主張しました。

私たちの会議では、内政と外交が交わりながら、ヴォルガ・ウラル地域の特性を形作って いく過程にも注目しました。グリミラ・スルタンガリエヴァ(アクトベ教育大、カザフスタン) と濱本真実(人間文化研究機構/ 東大)は、ロシア帝国の拡大がいかに「近代のシルクロード」 を維持し、この地域と特にカザフ草原西部を含む大経済圏の形成に寄与したのかを丹念に跡 付けました。そして両者とも、仲介者としてのタタール人の役割を重視しました。イスマイ ル・テュルクオール(マルマラ大、トルコ)は、極めて魅力的なオスマン語の文書を駆使して、 オスマン政府のロシア・ムスリムに対する態度を分析しました。第3 パネルで小松久男(東大) が適切に指摘したように、ヴォルガ・ウラル地域のムスリム知識人とオスマン知識人との相 互関係は、新たな史料の追加と他のムスリム地域との比較によって、さらなる研究の深化が 期待されるところです。ディリャラ・ウスマーノヴァ(カザン大)は、ムスリムのモビリティ とそれを可能にした財源との関係も今後、研究しなければならないと発言しました。帝政期 のムスリム政策研究の基盤整備に多大な貢献をしてきた、ドミートリー・アラポフ(モスク ワ大)は、ソ連のイスラームという次の研究課題の一端を私たちに示してくれました。その 報告の中でも、ソ連初期の国内のイスラーム政策が、中東外交と密接な関係にあったことが 強調されました。

戦争と宗教との関係も、私たちが取り組んだ重要なテーマでした。長縄は、ロシア軍の中 におけるムスリム兵士に着目して、前線と後方において、ロシア国民を作り上げる試みと帝 国の原則である信仰の寛容がどのような緊張関係にあったのかを分析しました。大祖国戦争 が、ソ連の宗教政策の転換点になったことはよく知られています。その意味で、ナチス・ド イツのムスリム政策を長年研究してきたイスカンデル・ギリャーゾフ(カザン大)が、テュ ルク系ソ連兵士の対敵協力を一種のナショナリズムの表れだと論じたのは、刺激的でした。 西山克典(静岡県立大)は、戦間期の日本政府が、ロシアからの亡命ムスリム知識人を国内 外のムスリムを統合するために利用し、それを欧米の帝国主義に対する武器にしようとした ことを論証しました。

会議では、帝政期とソ連期の連続性と断絶に関する有益な議論が展開されました。私たち の議論は、ソ連崩壊後、人々が帝政期やそれ以前の遠い過去をソ連的な手法で取り戻そうと している側面にも及びました。帝政期に関しては、「諸民族の牢獄」としてロシア帝国を糾弾 するような議論が、現地の研究者の間でも廃れてしまったことが印象的でした。ウファから 私たちの会議のためにわざわざカザンに駆けつけてくれた、ムスリム教育史のすばらしい専 門家マルシル・ファルフシャートフは、ロシア帝国がソ連体制に比べて、「あまりに居心地 がよかったのだ」と発言したほどでした。しかし同時に彼は、イルドゥス・ザギドゥーリン (歴史学研究所)やイルヌル・ミヌーリン(同)が帝政期のムスリム社会と国家との関係をや や理想化しがちだったことに対して、国家はどの程度、意図的にムスリムの日常生活を調整 しようとしていたのか、と問いました。おそらく同様の問いは、ソ連時代にも向けられてし かるべきでしょう。つまり、ムスリム共同体の破壊や社会の世俗化は、国家の抑圧的な政策 にのみ帰せられるべきなのでしょうか。私たちは、ソ連期やポスト・ソ連の宗教を論じる時、 ともすればその強さや復興にばかり注目しがちです。しかし、人々の間に、信仰生活に縛ら れた「古い」社会からの脱却を目指す志向が全くなかったといえるでしょうか。ポスト・ソ 連期のイスラームの活力を正確に測定するには、これらの問いに答えていく必要があるよう に思われます。

興味深いことに、イルドゥス・ザギドゥーリンが「ロシアのウンマ」という言葉を頻繁に 使用していたにもかかわらず、ロシア側の参加者の誰も、その用語法を怪しみませんでした。 もちろん、「ウンマ」のアラビア語での原義は、世界のムスリム共同体の総体です。しかし、 「ロシアのウンマ」という表現が当たり前となってしまっていること自体が、現代ロシア、と りわけタタルスタンの政治的要請に大きく規定されている、独特なイスラーム復興のあり方 を示しているように思われます。全体として、私たちは、ソ連期から現在までをカバーした イスラーム地域研究が必要であるという意見で一致しました。その際には、連邦共和国と自 治共和国でのイスラーム復興のあり方の違いなど、地域比較がますます重要になるとの認識 を深めました。

聴衆はカザンの歴史学研究所の研究員が主でしたが、私たち外国人研究者の議論を、ロシ アのムスリムに広く還元するように強く勧めてくれました。クサヴィエ・ル・トリヴェレッ ク(東洋言語文明学院、フランス)は、自身の報告を踏まえて、民族共和国ごとの歴史記述 の分業に縛られている現地研究者間の対話を促すことができるのは、第三者としての外国人 研究者による研究集会だと主張し、自分も近い将来、このような会議を組織したいと意欲を 見せました。会議のペーパーは論文集としてロシアで出版予定ですが、それは、これらの方 向に貢献することが期待されます。(文中敬称省略)

[長縄]

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