スラブ研究センターニュース 季刊 2009 年秋号 No.116 index

学界短信


台北とテヘランの学会に参加して

松里公孝( センター)

 

台北

昨年の10 月、日本のスラ ブ研究者にはあまり縁がな いと考えられる台湾とイラ ンで行われた国際コンフェ レンスに立て続けに参加す る機会を得た。

台湾のそれは、旧共産圏 の科学アカデミーに該当す る「Academia Sinica」の政 治学研究所が主催した「準 大統領制と民主制:制度選 択、パフォーマンス、進化」 (10 月17-18 日)である。春 頃に同研究所の呉玉山(ウ・ ユシャン)所長から声がか かり、旅費を持ってくれるということで参加を決めた。おそらく2006 年にデモクラチザーツィ ヤに載った私の論文(東欧コーカサス5 カ国を比較して、体制移行の空間動態と準大統領制 のあり方の因果関係を考察したもの。短縮版は講座『スラヴ・ユーラシア学』第1 巻、講談社、 2008 年に収録)が注目されてのことであろう。しかし、その後、私は準大統領制を本格的に は研究していないので、これを機会にオレンジ革命後のウクライナの政治情勢を準大統領制 のプリズムを通してみてみようと思ったのである(したがって私の報告は、総論のセッショ ンから各論のセッションに移された)。ウクライナ政治について考えるのも上記の論文以来3 年ぶりである。

馬英九台湾総統と共に
馬英九台湾総統と共に

このコンフェレンス自体は毎年行われるもので、今年はたまたま準大統領制を専門とする 呉所長自身が組織者だったので、このテーマとなったのである。来年は市民社会がテーマで、 SRC とも縁が深いハーヴァードのグジェゴシュ・エキエルト先生などと共催するそうである。 台湾など滅多に行けない国なのに、新学術領域の面接などが立て込んでいたので、前夜遅く 台北入り、終了後翌日早朝に東京に帰ってくるという不運な滞在であった。準大統領制と並 んで非承認国家を専門とするオレフ・プロツィク(彼も2006 年にSRC のコンフェレンスに 来た)は、何日間か台北に滞在してプリドニエストルのトークをして帰ったが、うらやまし い。言うまでもなく、非承認国家問題は台湾にとってアクチュアルな問題である。呉所長も、 後で私の非承認国家についての最新原稿を読んで、プロツィクと一緒に報告させられなかっ たことを残念がっておられた。ところでこの呉所長はユニークな人で、本来は準大統領制そ のものを専門とするディシプリン系の政治学者なのだが、旧社会主義諸国の政治について地 域研究者並みに知っているのに驚いた。帰国後、呉先生のなかだちで、台湾のスラブ研究者 ともコンタクトをとることができ、そのうちお一 方は2 月のスラブ・ユーラシア研究東アジア学会 に参加することになった。

台北コンフェレンスは、「ミスター・セミプレ ジデンシャリズム」ロバート・エルジー、「ミセス・ セミプレジデンシャリズム」ソフィア・モンスト ロップをはじめとして、世界の代表的な専門家を ほぼ網羅していた。このような大規模なコンフェ レンスをCOE もなしに通常予算で行ってしまう のだから、研究所の資金力に驚かされる。ただし、 旅費を米国風に小切手で払うのには閉口した。日 本においては小切手の換金手数料が異常に高いの で。

アカデミア・シニカの文系棟
アカデミア・シニカの文系棟

「第三の波」に乗って民主化された国々の3 グ ループ、旧社会主義国、旧フランス、旧ポルトガ ル植民地のいずれにおいても準大統領制が多数派 となったので、準大統領制の研究者は、いま、政 治学の世界で最も鼻息の荒いグループのひとつで ある。このグループは、過去10 年間にこのテーマで3 冊論文集を出した。今回のコンフェレ ンスで4 冊目を出すことになる。すでに出ているものは、それぞれがヨーロッパ、ヨーロッ パ以外、中東欧にフォーカスしており、文字通り虱潰しに研究空白国を埋めつつある。移行 期政治を比較政治的に斬る視角はほかにもあるが、たとえばポピュリズムを視角とするグルー プなどは、(私は貴重だと思うのだが)AAASS などでも小さな会場で細々とやっている感が 強いので、この熱気は貴重である。

コンフェレンスのタイムテーブルを詰めて、馬英九台湾総統を表敬訪問する。これも恒例 行事らしく、アカデミーのステータスの高さを痛感する。馬総統は、マスコミのカメラが回っ ている間は通訳付きで中国語で話したが、そもそもハーヴァード・ロースクールで教育を受 けた人だから、マスコミが去ると通訳よりもはるかに素晴らしい英語で研究者の質問に答え る。準大統領制の概念にも通暁しており、前総統との違いを強調した。陳水扁時代には、民 進党が議会多数派を失っても、総統は自分が望む候補を首相に任命し続け、またその結果、 何の憲法上の制裁も被らなかった。これが、はたして台湾を準大統領制と呼んでよいのかど うか疑われる理由であった。馬氏は、総統選挙、議会選挙のいずれに際しても、国民党が議 会多数派にならなかった場合は、野党から首相を任命すると公約した。実際には国民党が議 会選挙でも圧勝したので、馬氏がこの公約を本当に守ったかどうかは確かめようがない。し かし、私たちとの会話では、馬氏は、総統、首相、議会がよく話し合って協調の精神で統治 するのが中華民国立国の精神であり、台湾は強引なリーダーシップには向かない。2 年くら いたったら、首相任命の際の議会の承認を総統に義務付けるような憲法改正を提案するかも しれないと話していた。日本では民進党の衰退がしばしば報道されるが、「ブルー(国民党)か、 グリーン(民進党)か」が市民の政治的な会話に定着し、新聞もテレビもこの2 つに系列化 されている有様は、アメリカ合衆国に似た典型的な2 大政党制社会である。

アカデミーは台北の郊外に広大な敷地を持っており、ここに研究所、ホテルなどが集中し ている。文系棟の立派さにも驚いたが、会議場の素晴らしさに2 度驚く。SRC の国際会議は 世界最高水準の組織性と配慮を誇ると考えがちだが、韓国や台湾と比較すれば、必ずしもそ うとは言えない。これはスタッフの努力不足のためではなく、日本の予算制度の硬直性のた めであり、また大会議室の天井が低すぎてヴィジュアルな現代的報告に対応できないからで ある。いま進行中のSRC の改修に際して、私は、2 階ぶち抜きにする、当該部分だけ屋上を 上方に釣り上げるなどの形で何とか大会議室の天井を高くしようとしたが、そんなことをす れば建物全体が脆くなるとの予測から断念せざるをえなかった。なお、SRC も含めてアジア のコンフェレンスは皆そうだが、軍隊のように朝昼晩一緒に食事をとらなければならないの で、台湾の麺料理のQ 感を楽しみたかった私としては残念であった。しかしこの軍隊方式は、 漢字の看板が読めない欧米人には好評なのである。

テヘラン

日本に帰って10 日もたた ないうちに、今度はテヘラ ンに向かわなければならな い。イランの外務省付属の 政治・国際関係研究所が毎 秋行う中央ユーラシア関係 の国際コンフェレンス(10 月28-29 日)で報告するた めである。コンフェレンス の前日に現地の日本大使館 員とランチを共にし、相川 一俊公使、片平参事官から イラン政治についての貴重 なレクチャーを受ける。日 本の外交官には、滞在地を 内在的に理解しようと努力 し、滞在地を好きになってしまう人が多い(これは日本人研究者にも共通する、欧米人には ない特性である)。イランに対する日本の政策も、必要な範囲で苦言を呈しつつも、他方では あまりにも奇矯な制裁には距離を置きつつ(コンピューターをイランに持ち込むとウィルス・ バスターが即座に使えなくなるとか)、なんとか同盟国アメリカとイランの間を橋渡ししよう というものではないか。ホメイニ革命以来、イランにはアメリカ大使館すらない状態なので、 国際社会の対イラン政策を決めるうえで日本の責任は大きい。

コンフェレンスの開会式でのモッタキ外相の挨拶
コンフェレンスの開会式でのモッタキ外相の挨拶

2006 年のスラブ研究センターの国際シンポジウムに招かれたハニ氏が、イランのユーラシ ア研究の水準を代表する上記の国際コンフェレンスに毎年SRC の教員を招いてくれていたの だが、日程が合わずにこれまで不義理をしていたのを埋め合わせする必要があったのである。 今年のテーマは、南オセチア紛争を受けて、「コーカサスにおける衝突:起源、諸次元と含意」 だった。ちょうど私は、韓国の新雑誌 Eurasian Review に依頼されて、南オセチアを除く非 承認国家3 国の内政を比較する論文を書き上げたところだったので、それに基づいて報告す ることにした。飛行機代は科研費「ユーラシア秩序の新形成」から出してもらい、現地滞在 費は主催者もちであった。

32 人の外国人報告者のかなりの部分は毎年参加する常連組であり(だから、コーカサスを 扱うコンフェレンスなのにコーカサスのことを何も知らない人も多かった)、新規参入組は、 希望者がイランの在外公館にアプライして選抜されたようだ。外国人報告者のかなりの部分 は滞在費だけではなく飛行機代も支給されたらしいから、イランの国力には驚く。職業的には、 研究者が3 分の2、ジャーナリストや元外交官が3 分の1 といったところではないだろうか。

このコンフェレンスは、最初にモッタキ外務大臣が挨拶することにも示されるように、イラ ン政府が高く位置づけているものである。プーチン時代のロシアもそうだったが、大統領がタ フガイである場合は、外務省は柔和になって対外バランスを取ろうとする傾向があるが、今 日のイランもそうなのかもしれない。外国人の国別内訳は、中央ユーラシア絡みでイランが 接触を持ちたいと考えている国々を反映して面白いものだった。グルジアが3 名(SRC とな じみの深いサニキゼさんもいた)、ロシアが4 名(岩下氏の友人の東アジア専門家ルキン氏も いた)、アルメニアが2 名、これらが紛争当事国・準当事国である。そのほかは、中央アジア が4 名、東欧が2 名、トルコが2 名、インドが1 名、ウクライナが2 名、日本が1 名、残り はすべて欧米で、意外なことだがこれが最大のグループである。参加者の誰かが言っていたが、 紛争の余燼冷めやらぬいま、紛争をテーマとしたコンフェレンスを開くにはイランが最も公正 な場所である。つまり、欧米でやればグルジア支持者が、ロシアでやれば当然ロシア支持者 が多くなる。イランで開催するから、双方の主張を分け隔てなく聞くことができるのである(ち なみに、3 月5-6 日には札幌で同じことをやるが、紛争当事国から9 名も招くゆとりは私たち にはない)。ただし、南オセチアとアブハジアの代表が招かれなかったことは奇異かつ不当で あり、これについてはルキン氏と私が苦言を呈した。アゼルバイジャン人は、招かれたがな ぜか拒否したらしい。ただし、在テヘラン大使館の職員は会場で聞いており、私は2005 年に アゼルバイジャン政府の許可を得ずにカラバフを訪問したことをきっちりと咎められた。

討論の基調は、ロシア・アルメニア連合軍とグルジアが激突するものだったが、ロシアか らの参加者は、自国が南オセチアとアブハジアを承認してしまった以上は、すでに問題は解 決済みとみなす勝ち誇った姿勢が目立った。民間シンクタンクの防衛情報センターを代表す るイワン・サフランチュク氏(この人は最近ネット上で大活躍の若手オピニオンリーダーだが、 英語がうまいのにびっくりした)は、「サーカシヴィリが始めた軍事行動は、両テリトリーを 放棄してでもNATO に急いで加盟しなければならないというグルジア世論を作ることを狙い としていた」と解釈したが、ちょっとこれは穿ち過ぎの感じがする。会場にいたイラン人の 大学院生は、同時通訳が拙くてロシア人が言っていることの中身が分からないせいもあるが、 ロシア人の尊大な態度に反感を覚えたようである。

コンフェレンスの前日には、ハニさんが教えている大学院で院生との懇談会があったが、 とにかく質問がまじめである。旧共産圏での似たような催しでは、学生は日本の若者風俗や 男女交際のあり方についても聞いてくるが、そのような質問は出ない。なお、進路の男女分 けは徹底しており、政治学は男子の学問とされているようで、女子が志望する法律、ジャー ナリズム、アラビア語などは別のキャンパスで教えているそうである。実際、政治学系があ るキャンパスでは女性を全く見なかった。

コンフェレンスでも院生は好奇心が旺盛で、気後れなしに外国人の教授に声をかけてくる (このへんはうちの院生にも見習ってほしい)。私が「イランではアゼルバイジャン系住民の 社会学調査をすることができますか」と質問すると、「公式には無理ですが、私的にはできます」 などと答える。すると先輩格の院生がすっと近づいてきて、その若者に何か耳打ちし、話題 が切り替わるという経験をした。中国より自由度が随分低い印象を受けた。支配的な言説は どこの国でも人工的に作り出されるものだが、イランでは同じフレーズをいろいろな人から 何度も聞く(たとえば「アメリカのアフガニスタン侵攻後、アフガニスタンでの麻薬の生産 は倍増した」だとか)ので、ごく少数の人が支配的言説のシナリオを書いているという感じ がする。このへんは、かつての社会主義国に似ている。

コンフェレンスの組織はおおざっぱで不便なことが多かった。なにしろ数十人の報告者が いるコンフェレンスで2人しか組織専従者がいない。東アジアでも欧米でも旧共産圏でも、 その国の女性解放度には関係なく、コンフェレンスの実質上の組織者は女性であることが普 通だが(SRC の青島さんや、デイヴィス・センター のリズ・タルローさん)、女性の地位が高すぎる イランでは、接待的な要素も含む組織の仕事を女 性に任せることには宗教上の抵抗感が強いようで ある。研究への女性の進出は相当進んでおり、た とえば、この研究所のアジア太平洋部門長は女性 なのだが。そもそも朴念仁であるイラン人・アゼ ルバイジャン人の男が組織するので気が利かない ことこの上ない。また外務省の職員のくせに、英 語が全く駄目である。帰りの便の時間を5 回くら い聞いてきて、5 回聞いたうえで間違った時間に タクシーを組織する。ホテルのロビーでノンアル コール・ビールを飲みながら途方に暮れていると、 もう一人の職員の方が見かねて自分の車で空港ま で送って行ってくれた。問題の起こり方も、解決 の仕方もイラン的なのだろうが、どこかソ連を思 い出させる。

『ルバイヤート』をモチーフにした絨毯
『ルバイヤート』をモチーフにした絨毯 (私が買ったのは、もっとずっと安いやつ)

万事がこの調子だから、事前のペーパー配布な どもちろんない。欧米、中国、旧共産圏を問わず、 通訳がいる国際学会では、普通、着くまでには通訳はペーパーをすでに読んでいて、着くや 否やつかまえられて専門用語などについて質問攻めにあうが、そんなことは全くない。こち らから通訳に歩み寄り、「このパワーポイントに沿って話しますから、明日までに目を通して おいてください」と頼んでも、「ぶっつけ本番で大丈夫ですよ」などと言って、とりあってく れない。もちろんこんな「自信」は、能力が低いことの反映である。自分の報告の後、院生 たちから「面白い報告らしいという事だけはわかりましたが、通訳が悪くて何も理解できま せんでした」と言われて悲しい思いをする。イランという国は、世に流布する偏見をもって 訪れると案外いい国なのに驚くようだが、私のように「アラブ人よりも勤勉・有能なイラン 人」といった逆の先入観をもって訪れると失望させられる。有り余るほど資源があり、国民 の教育水準も高いのに、組織が下手で何事もうまくいかないというのは、ソ連を思い出させる。 アメリカに対して筋の通った批判を展開しているイランがこんな調子では、「自分は怠け者の くせに人のせいにばかりするムスリム」という世に流布するイスラーム観をますます強めて しまうだろう。

アフマディネジャド大統領の過激な発言は物議を醸しているが、ハニ氏によれば、トルコ のような国も含めムスリム諸国を訪問すると「よくぞ言ってくれた」とアフマディネジャド を褒め称える声が多いそうである。ムスリムであれば誰しも思ってはいるが、アメリカやイ スラエルが怖くて口に出せないことをずけずけ代弁してくれるからである。しかし、イラン 人には複雑な思いもある。交通渋滞からいっても、大気汚染からいっても、テヘランは絶望 的に地下鉄を必要としている。しかし、ハマスやヒズボラに送る金はあるのに、地下鉄延長 に使う金はない。こんなことでは、敬虔なムスリムでさえ首をかしげてしまう。コンフェレ ンスの最中はマスコミの取材攻勢を受けたが、皆、コーカサス情勢よりもアメリカ大統領選 の行方が気になるようであった。経済封鎖を止めさせるために、オバマに勝ってほしいので ある。しかし、アメリカ政府がイランとの国交を正常化しようとしたとしても、イランがこ んにちのイスラエル政策を続ける限り、アメリカのユダヤ人ロビーがそれを許すまい。

噂には聞いていたが、イラン人は本当にアラブ人の悪口ばかり言う。ペルセポリスの人物 像の顔が削りとられているのを指して、ガイドは「これアラブ人がやったんですよ。こんな 連中だから、バーミヤンみたいなことをするんですよ」と平気で言うそうである。私も「イ ランでは詩人の像を広場の真ん中に置くことができる。アラブ諸国では自転車やサモワール を置く」と聞かされた。絨毯工房で『ルバイヤート』をモチーフとした妖艶な絨毯を買ったが、 邦訳文庫本の解説をネタに「イランではオマル・ハイヤムはあまりに反イスラーム、不道徳 なので支持されていないそうですね」と聞くと、「イラン人は常にオマル・ハイヤムを敬愛し てきたし、ホメイニ革命後もそれは変わっていない。日本でそんなことが言われているとは 心外だ」と言われた。敬虔なムスリムであり、同時に造形芸術をはじめとする全人類的な文 化を受け入れる教養をもっていることが自慢で仕方ないのであろう。

イラン女性と話す機会はないままに滞在を終えるかと思っていたら、コンフェレンスの打 ち上げのデイナーで、フランスを専門にしているたいへん美しい研究者の向かいに座ること ができ、含蓄のある話を沢山聞かされた。テヘラン外語大からチュニジアに留学してフラン ス語を学び、外務省で仏語圏を担当したのち研究所に移ってきたのである。若い独身女性に しか見えないが、「私たちイラン・イラク戦争の世代は、男の子が徴兵忌避のために海外に大 量に逃げ出したので結婚できなかった」と言っていたので、それなりの妙齢ではある。「フラ ンスと旧フランス植民地のどちらを研究なさっているのですか」と私が聞くと、「フランスで す」と即座に答えた。「植民地はもう沢山。アラブ人だし植民地人だから二重に発展が阻害さ れているんですよー。同じことをアラビア語やフランス語で何度も言い直さないと通じない んだからうんざりしますー。フランスも移民が多くて汚くて厭だわ。移民って、要するにア ラブ人なのよ。スイスの方がいいわ。人種的にも純粋にスイス人だし。韓国人の友達がスイ ス人のお嫁に行ったので、あなたどうやってそのオポチュニティーを掴んだのーと質問した んですよ」。これは別に意識が低くて、こんなことを言っているのではない。インテリとして もムスリムとしてもNG を連発していると確信犯罪しながら、クルーゾー警部のような(フ ランス語訛りの)英語で、喋るそばから自分で大笑いしながら喋っているのである。

ドバイ

時間は前後するが、テヘ ランに行く途中で寄ったド バイについても一言。ドバ イに早朝についたのち、ほ とんど半日乗り換えの時間 があったので、まちに出る ことにした。空港周辺がビ ジネスパークになっている が、そこから中心付近まで 歩き、その後ボートに乗っ て、ドバイ・クリークの河 口近くにあるわずかな歴史 的町並みに向かう。ここに はドバイの歴史博物館もあ る。台湾での失敗に懲りず、 秋の北海道の普通の格好で 来てしまったので2 時過ぎになると暑さで気分が悪くなり、タクシーで空港まで戻ってしまっ た(高地にあるテヘランは、北海道と似た気候であったが)。徹底した自動車社会を前提とした、 アメリカみたいな都市の作りなので、そもそも散策には向かない。バスに乗ると、後方の男 性席と前方の女性席が自然に分かれるマナーになっている(表示があるわけではない)のが 面白かった。

ドバイの建築労働者、明らかに南アジア系
ドバイの建築労働者、明らかに南アジア系

ドバイはたいへんな建設ラッシュで、超現代的な金融街があるかと思えば、そのすぐ隣に は巨大バザールがある。また様々なランクのインド料理店が多い。建設労働者や売り子、概 して現業的な仕事はほとんど南アジア系の人々がこなしており、いったいアラブ人はどこに 隠れているのだろうと思うくらいである。一見アラブ風のお土産も、Made in India である。 イスラームは産児制限に成功しないと言われるが、アラブ人の人口が足りずに大量の南アジ アからの移民で社会を動かしているのはなぜだろうか。

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