スラブ研究センターニュース 季刊 2009 年秋号 No.116 index

学界短信


AAASS 年次大会(フィラデルフィア)に参加して

青島陽子( センター)

 

朝一番の便で札幌を出発してから、ワシントンDC を経由した長旅の後、アメリカ合衆国 発祥の地フィラデルフィアに到着した。会場となるホテルは街の中央部に位置し、道を隔て て高層ビルの隙間からシティ・ホールの絢爛な建物が垣間見えた。

学会のちょうど一年ほど前、スラブ研究センター冬期国際シンポジウム最終日の12 月7 日 が、AAASS の個人応募の締め切りであった。AAASS(米国スラブ研究促進学会)は、以前 から名前だけはよく聞いていたものの、断片的な情報の寄せ集めのみで、まるで実態の想像 はできていなかった。その年のAAASS には同僚の赤尾光春氏や大串敦氏などが報告に赴い ていたこともあり、機会があれば行ってみたいとぼんやりと思っていた程度であった。その 12 月7 日の夜、冬期シンポジウムのために来日していたアメリカのジェームス・メイヤー氏 とフランスのグザヴィエ・ル・トリヴェレック氏、それに若手の同僚数人で居酒屋に行くこ とになった。その時、親密な空気で話をするなかで、世界の「若手研究者」の状況はよく似 ているのだと認識し、ハードルが高く感じていた全米学会もなんとなく参加できそうな身近 さを感じた。運良く日本学術振興会から科学研究費補助金(若手研究(スタートアップ))を 得ていたこともあり、旅費と英文校閲費のあてもあった。そこでこの時を逃したら思い切る こともないかもしれないと思い、居酒屋から戻った足でオフィスに帰り、プロポーザルを朝 までかかって書きあげ送ってしまった。時差も合わせて、ぎりぎりの提出である。

AAASS の個人応募の制度は比較的最近つくられた制度である。通常は報告者3 名に討論 者と司会者を合わせた5 人の「パネル」を構成して応募しなければならないのだが、人脈の ない国内の院生や外国人に向けて、個人でも参加できるよう配慮されたのがこの制度である。 プロポーザルが通りさえすれば、実行委員会が、テーマの近い個人参加の人を合わせてパネ ルを構成してくれるというわけだ。思い切って応募したのはいいが、落ちてしまっては元も 子もないと思い、テーマは2008 年AAASS 年次大会のテーマであった「ジェンダー」にあわ せ(実際はそうでないテーマもたくさん出ていたので、とくに年のテーマにこだわる必要は ないようだった)、英語は友人に頼み込んで緊急に直してもらい、それなりにきちんとしたプ ロポーザルを仕上げた。提出は、ホームページから入って自分の履歴などを書き入れながら 進まなければならず、システムがうまく動かないこともあったため、かなり難儀な作業であっ た。ただAAASS には専門で勤務するスタッフがいるため、問い合わせると瞬時にとても親 切な返事が戻ってくる。結局のところホームページからの申請を断念し、プロポーザルと履 歴をスタッフにメールで送り、彼女に代わりに申請してもらうことになった。

青島撮影

数週間後の12 月22 日、AAASS のプログラム委員会から採択の連絡が送られてきた。さら に数か月後の3 月27 日、パネルの タイトルが「帝政末期の検閲、教育、 そして進歩」というタイトルであ ること、そして討論者を引き受け てくれる人が見つかったことが知 らされた。さらにその一か月後の4 月22 日、司会者も決まり、パネル 全体の最終的な情報が送られてき た。プロポーザルを出した時の私 の報告タイトルは「大改革期にお ける女子教育の誕生」といった穏 当ものであったが、委員会からの パネル案では、私がつけたタイト ルは副題にまわされ、主題には「効率的な女性の活用」といった人目を引くタイトルが付け られていた。いったい誰が付けたものであるのかは不明だが、自分が送った報告の要旨に照 らし合わせて、うまくキャッチーなタイトルをつけてもらえたように思えて気に入り、最後 までこのタイトルを使用させていただいた。その時にパネルに組み込まれたメンバーは、全 員7 か月後の11 月にフィラデルフィアに現れ、皆が当初のタイトルの報告を行った。このよ うに人脈のない個人からひとつのパネルを実現させたのであるから、実行委員会の組織力と 実行力は素晴らしいものがあると非常に感嘆し、また深く感謝もしている。

4 月以降、学会の直前になるまで、AAASS 関連の連絡はぱたりとなくなった。私自身も忙 しさの中で瞬く間に月日が流れていった。学会まで一か月に迫ったところで論文を書き始め たものの、パネルのメンバーからも学会事務局も連絡は一切なく、実際の報告の場面のイメー ジもまったく湧かないままだった。漸く学会の二週間前になって突然にコメンテーターから 連絡が入り、論文を送る時期についての指示があったが、それ以外は他のパネリストとの連 絡もなかった。不安になった私がスラブ研究センターの同僚に尋ねると、ペーパーはコメン テーターにのみ送り、同じパネルの別の報告者にすら送らない、会場でもペーパーを配るこ とはなく、フル・ペーパーを書いても目にするのはコメンテーターだけだ、という。そして 報告では、ハンドアウトもパワーポイントも使用せず、ただ「話す」というのだ。想像もつ かない形態で、不安は募っていった。そうこうしていると、ラファイエット・カレッジの学 部生だという人から突然にメールが届き、授業の一環としてパネルの様子を撮影させてほし い、と言う。当日のイメージはさらに混乱し、雲をつかむような思いで、日本を出発するこ とになった。

学会の会場となったのは、市街の中心にあるマリオット・ホテルの三階から五階までの何 十もの会議室である。派手な絨毯の上にバルーンが揺らめき、とてつもない数の人が行きかっ ている。私は会場の雰囲気に押され、また自分の報告への不安に駆られてもいたので、上の 空でプログラムを眺めていた。そのために開始時間を間違えてしまい、しかも慌てて会場の 一つに飛び込んだため、実際に行こうと思っていたパネルとは違う部屋に入ってしまうとい う始末であった。少しだけ参加したパネルでも気もそぞろで、内容を理解するどころではな かった。夜には、冬期シンポに来日していたジェームス・メイヤー氏とスラブ研究センター の同僚長縄宣博氏が組んだパネルの仲間と食事をご一緒させてもらった。そのパネルには、 調査を終えて博論を準備している院生(この層がもっとも大きな参加者母体の一つなってい る)が参加していたが、彼女もずいぶん緊張した様子であった。彼女は中東学会がホームグ ラウンドなので、スラブ系の学会は初めてであり、オーディエンスの反応が予想できない、 と不安がっていたのである。私は、アメリカ人でもそう思うのかと、勇気づけられもしたが、 逆にさらに怖くもなった。

翌日の午後の一番が私のパネルであった。午前中は寝不足でぼんやりとしていたが、午後、 部屋に入るまでの行程はいまでも鮮明に思い出すことができる。報告会場は20 人で満杯とい う程度の小さな部屋で、マイクも存在しない。しばらく誰もいない部屋で、顔も見たことが ないパネリストが来るのを待った。10 分ぐらい前になると、パネリストと思しき人々がよう やく全員集合した。非常に簡単な挨拶を交わしたあと、報告の順番だけを確認して、あっさ りとパネルが開始された。観客席の右手には、メールをくれたと思われる学生が大きなカメ ラをセットして座っていた。観客は10 人程度であろうか。

私は第一の報告者であった。20 分で収まるようコンパクトな読み原稿を用意して臨んだが、 いざ読み始めてみると、緊張からか、読むという簡単な行為もまともにこなせず、所々でな んども躓いた。こういった聞き取りにくい英語に対して、観衆は冷ややかである。少なくと も私にはそう感じられた。読み終わった瞬間に二人ほど人が部屋を出て行ったのを見て、ひ どく気落ちした。次の報告者はベイルートから来た若い教授で、私は地名から中東系の方が 来ると思い込んでいたが、生粋のアメリカ人であった。彼の英語はもちろんネイディヴで報 告自体も非常に面白かったが、報告時間をはるかに超えて話し続けた。そのためなのか、彼 の報告中・報告後にはさらに数人が部屋を出て行った。その間、逆に入って来る人も何人か いた。最後の報告者は、ロシアでの調査を終えたばかりの院生で、非常にまとまった報告であっ たが、それでも観客は入れ替わり続けた。驚いたことに、コメンテーターの先生が論じてい る間にも、聴衆は移動を続けたのである。私の英語の稚拙さは一因であったかもしれないが、 それ以前に、そもそも聴衆は恐ろしいほど忍耐力がなく、移動することが常態であるという ことをパネルが終わる頃にようやく理解した。

コメンテーターは、ハプスブルクの近世・近代史を専門にしている先生であった。彼女は、 必ずしも自分と専門が近いわけではなく、さらに全員個人で応募したために相互に連関を見 出すのが非常に難しい3 本の論文を、丁寧に読みこんできていた。そして、できる限りの議 論のオーガナイズをしてくださったのである。私の場合は、論文の内容自体は褒められたの だが、はっきり言って質問にはまともに答えることができなかった。返答は無駄に長くなり、 司会者に「こういうことも聞かれているんじゃないかしら?」と助け船を出される始末で、 思い出すだけでも居心地の悪い気持ちになる。そのあと、フロアに議論が開かれたが、全体 に時間がかかっていたために、質疑応答の時間はほとんどとれず、二つ程度の簡単な質問が 出されただけで、私に向けられた質問はなかった。そこでも少々寂しい思いをすることになっ たが、そのままパネルはあっけなく終わり、パネリストはまた非常に簡単な挨拶をお互いに 交わして瞬時に解散となった。(あとから分かったが、パネルは自主的につくられていても、 ネットで参加者を募ったり、知り合いのつてを通じて探したりするため、お互い知り合いで ないことは珍しくなく、こうしたドライさは普通に見られる。)すべての流れが速く、すぐに 次のパネルが始まる。そんななか、ビデオ撮影をしていた学生が私に話しかけて、報告に関 して二三の質問をしてくれた。私はなんとなくほっとしたような気分になり、一生懸命に答 えた。なにもかもが一瞬で過ぎ去ったように感じた。

自分のパネルが終わるとその日はすっかり疲れ果ててしまったが、翌日以降、ようやく状 況が見えるようになってきた。よく知っている研究者がプログラムで次々と目に入り、心を 躍らせながら聞きに行く余裕ができた。論文や本を読んでいるだけの研究者が目の前で報告 をしていることが非常に嬉しく、ルイーズ・マクレイノルズやスーザン・スミス=ピーター などには、報告後に名刺を渡して簡単な挨拶をしに行ったりもした。最初に日本に訪れた時 からの知り合いであるミハイル・ドルビーロフに再会し、彼の力の入った報告を二度も聞け たのも幸いであった。シベリアの博物館について印象的な報告をした若手の研究者にも声を かけに行った。プログラムは次々と進んでしまうので、じっくりと話す時間などない。しか し一言でも、面白かったですよ、と言ってみたくなるものだ。シンポジウムやワークショッ プでスラブ研究センターを訪れた外国人とも会話を交わし食事に出かけることもできた。同 じパネルの報告者だった院生にもホテル内でばったりと会い、自分がいかにうまく報告でき なかったかをこぼすと、彼女は自分が前年にロシアで報告した時のことを話し、「思い出した くもないひどい有様」だったと笑って慰めてくれた。3 日目にして、ようやくAAASS の空 気が分かってきたように思えた。

AAASS からは、徹底した市場原理が感じられた。同じ時間帯に200 人以上による40 以上 のパネルが活動している。聴衆はこれらのなかからいくつかを選んで、パネルを渡り歩いて いるのだ。なかにははじめから聴衆が非常に少数のパネルもあるし、極端な場合ではまった く聴衆のいないパネルすらある。こういう極めて流動的な場で、聴衆を集めてインパクトを 与え、印象に残るパネルにするにはどうしたらよいのか。人目を引くパネル・タイトルをつ け、有名な先生をコメンテーターで呼び、有能な同僚を報告者に巻き込む。そして40 パネル のなかから選ばれ、一度入った聴衆が他に移らないようにし、質疑応答まで興味を持たせて 聞かせる。AAASS はそういったような一種のゲームのようにも見えた。このゲームの推移は、 時間帯や裏番組などの状況にもかなり左右されるため、必ずしもパネルの学術的レベルを反 映しているというわけでもなく、当たりの年もあれば外れの年もあるといった感じだ。私が 聴講したあるパネルでは、聴衆が私ともう一人しかおらず、今年は外れだという様子でパネ リストの士気がまったく減退していた。そして、パネル自体も1 時間足らずで終わってしまっ たのである。

聴衆を集めるという意味では、自分でパネルをオーガナイズすることの利点は大いにある。 まとまりのある報告を並べて流れのあるパネルを作ることができるし、そうすることで聞き 終わった時に一定の知見が得られるような締まりのある2 時間を提供できる。AAASS のゲー ムに参戦するとは、パネルを自分で組織するようになった時に本当に言えることかもしれな い。ただ、常に同じようなメンバーとパネルを組んで、同じような聴衆が聴きに行くことになっ ているという批判がよく聞かれるのも事実である。こうしたマンネリという欠点を考えると、 個人応募にも大いに利点がある。今までは知らなかった近い分野の研究者と知り合う契機を 得られるからだ。私のパネルに参加したベイルートの研究者に個人応募で参加した理由を尋 ねると、色々な人からの研究のフィードバックが欲しいが、同じ研究テーマの人が非常に少 ないので個人応募するようにしている、とのことであった。

AAASS は、膨大な人数の参加者が巨大な会場の中を常に動き回っているような場なので、 参加すること自体のハードルは実はそれほど高くはない。失敗を注視して見守り非難するよ うな根気のある聴衆はいないので、最悪でも何かマイナスになることはないのである。しかし、 プラスの効果を得ようとすると、つまり、一定の存在感を見せようとすると、これほど難し い場はない。英語力は思ったよりも高度なものが必要とされる。彼らが非英語圏の学者を排 除しているというわけではなく、単純に分かりにくい報告は我慢強く聞いてもらえないから である。もちろん、報告の英語などは経験次第で向上するものであるから、最初の数回はひ どい恥をかく覚悟がいるということであろう。高度な研究内容ももちろん必要であるが、こ の点に関して、日本の研究者が引けをとることはほぼないと思われる。むしろ、その見せ方 であろう。あまり浮足立ってもいけないが、謙虚さはとくに美徳ではない。とりわけ、外国 から参戦しているような場合、参加自体がイレギュラーなので、存在意義を必要以上に見せ なければいけないように思えた。初めて参加した私は、これらのどれも出来ていなかったと 思う。正直に言って、ただ途方に暮れていた。おろおろしていた私から見て印象的だったのは、 会場でしばしば見られた若手ロシア人研究者の迫力である。私がよく見かけたロシア人はど のパネルでも常に質問をしていた。色々なパネルで質問を出すことは、聴衆でありながら自 分の存在を示す一つの武器でもあるからだ。その他にも、英語がそれほど流暢ではなくとも、 報告で熱を込めて滔々と話し続けるロシア人も何度か見かけ、彼らにもある種の凄味を感じ たのである。発信しなければゼロであり、マイナスがないことは最低限の仕事をしたという より、存在価値がないという意味になる、そんな場である。伝える、分からせる、という迫 力が何よりも必要なものであるかもしれない、と思えた。

最後に、学会の内容的なものに少しだけ触れておこう。私は専門が歴史なので、会場では 歴史のパネルを渡り歩いていた。聴衆へのアピールを最大の眼目とするため、パネルには流 行が反映しやすい。そう見ると、歴史では圧倒的に文化史が多かった。もはや社会史ですらめっ たに見かけず、文化史に大きく振れているのである。また大会のテーマがジェンダーであっ ただけに、当然のことながら、今回はジェンダー論のパネルが非常に多かった。そして、民族・ 宗教・地域史が劇的に流行している。全般的に言って、オーソドックスな歴史の展開につい ての議論や時代論などではなく、個別の面白さが強調されていたように見えた。あるパネルで、 中央・地方関係という観点から地域史を研究している人たちに対して、コメンテーターが中 央・地方関係はもう結論が見えているから論じる必要はない、もっとその地域に焦点をあて、 地域文化史に特化した方が良い、と述べていた。これには率直に言って非常に驚いた。

私の初めてのAAASS への参加は、それほど成功であったとは思えないが、学ぶところの 大きいものであった。参加には資金がかなり必要になるので、恒常的に参加することはなか なか難しいが、いつかリベンジの機会が欲しいと思う。次は、それなりの心構えと、ある種 の戦略を用意するぐらいの余裕をもって臨めるように思うのだ。

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