スラブ研究センターニュース 季刊 2009 年夏号 No.118 index

研究の最前線


ベルント・ハイネ名誉教授の特別講演

2009年6月15日(月)、スラブ研究センターにてドイツの言語学者ベルント・ハイネ名誉教授(ケルン大学)の特別講義がおこなわれました。ハイ ネ教授は、一般言語学、言語類型論、アフリカ諸語研究、社会言語学など幅広い分野で世界的に活躍されている学者です。近年は、特にタニャ・クテワ教授 (デュッセルドルフ大学)との共同研究に取り組まれ、言語接触論および類型論研究で成果を上げられてきました。中でもいわゆる「文法化理論」に基づく研究 が著名であり、2005年以降、教授はこのテーマでほぼ1年に1冊という驚異的なペースで著作を上梓されています。尚、ハイネ教授のお話では、教授は本を お書きになるのは好きではないが、論文を書き始めると多くの疑問が沸いてきて、それらを解決している結果として本が出来てしまうのだそうです。

ハイネ教授
ハイネ教授

ハイネ教授は、昨年秋より東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の客員教授として1年間の予定で日本にご滞在中です。世界的に著名な教授は、日本 でも非常に多くの研究会や学会に引っ張りだこで、文字通り多忙を極めていらっしゃいます。現在私が取り組ん でいる研究のひとつに「スラブ諸語における本動詞の助動詞化に関する類型的研究」というテーマがあるのですが、スラブ語に限定せず、当該現象についてより 広い視点から論じられる方としてハイネ教授の研究が常に頭にありました。教授が日本に長期間滞在されているというのは、講演会を組織するのにまたとない機 会なので、無理を承知でセンターでもご講演を依頼したところ、教授は二つ返事でお引き受けくださいました。後でわかったのですが、6月中はThe Oxford Handbook of Linguistic Analysis(2009年9月刊行予定)の最終稿の校正、ブリュッセルで欧州 研究機構(European Research Council)の会議、さらにウガンダでのフィールドワークなどがあり、大変お忙しかった筈です。実際、札幌の観光にお誘いしたのですが、教授はホテル でずっとお仕事をされていました。改めてハイネ教授の寛大さに驚嘆し、そしてこの場をお借りして、教授に心よりお礼を申し上げます。

左:野町、中:ダニレンコ教授、
右:ハイネ教授
左:野町、中:ダニレンコ教授、 右:ハイネ教授

「ひとつの言語圏としてのヨーロッパ(Europe as a Linguistic Area)」と題された今回の特別講演では、まずE.レヴィの古典的研究やM.ハスペルマスの「ユーロタイプ」といったヨーロッパ諸言語を言語圏と見る先 行研究の概説をされてから、その問題点を提起した上で、ご自身が提唱される動態的類型論(Dynamic Typology)について論じられました。動態的類型論とは、言語の通時的側面を踏まえた類型論で、特に「標準語以外の言語形態」、「言語変化の連続 性」、「文法的な模倣」、そして「文法化」という概念に注目した理論です。この枠組みに基づきハイネ教授は、主に次の5点をお話になりました。(1)言語 学的に定義できるヨーロッパ地域のようなものは存在するか。もし存在するならば、どのようにそれを定められるか。(2)ヨーロッパ諸語の地域的な中心が定 められる何かがあるか。(3)ヨーロッパの諸言語を世界の他の言語から区別できる言語学的な特性はあるか。(4)もしヨーロッパが言語圏をなすのであれ ば、それを突き動かす原動力は何か。(5)言語系統とは無関係にヨーロッパの諸言語をさらに小区分することが可能か。これらの問題に対し、教授は「本動詞 の機能的変容と助動詞化」、「指示代名詞の不定冠詞化」、「人称代名詞の敬語的用法への変化」を題材とし、文法化の意義を強調した持論を展開されました。

講演会は言語の専門家以外にも実に興味深い内容であり、実際に言語研究者だけではなくポスターで講演会を知った一般の方まで40人程が来聴されました。質 疑応答は講演の予定時間を大幅に超えてしまうなど、大変充実したものになりましたが、中でも本年度の外国人研究員アンドリイ・ダニレンコ先生が、ハイネ教 授の「東スラブ諸語はヨーロッパ諸語のペリフェリー」という見解に対し、それはあくまでも西ヨーロッパ諸言語を基準とした言語分類による「ペリフェリー」 であり、別の分類基準が十分立てられること、そして東スラブ諸語が必ずしも「ペリフェリー」ではないことを論じたのが特に印象的でした。

ハイネ教授はスラブ語研究者ではないのですが、私は「言語類型論の視点からスラブ諸語の特徴が浮かび上がるように、いろいろなスラブ諸語の例をできるだけ 多く扱っていただきたい」と予めお願いしておきました。教授は言語接触に端を発する文法化の例として、ロシア語やポーランド語といったメジャーなスラブ語 だけではなく、イタリアのモリーゼ・スラブ(クロアチア)語やドイツのソルブ語といった少数話者の聞きなれないスラブ語の例も多数挙げてくださり、ヨー ロッパ諸語の中におけるスラブ諸語の位置づけと同時に、スラブ語世界の多様性を垣間見ることができる大変興味深い講演であったように思います。

尚、今回のハイネ教授のご講演は、3月のロムアルド・フシチャ教授(ワルシャワ大学/ヤゲロー大学)のご講演(『センターニュース』No. 117)と合わせて、「スラブ諸語における文法化:地域的・類型論的アプローチ」と題した論集に掲載予定です。この論集には、上述のタニャ・クテワ教授、 ミルカ・イヴィッチ教授(セルビア科学芸術アカデミー、セルビア語研究)、オルガ・ミシェスカ=トミッチ教授(ライデン大学、バルカン諸語研究)など、著 名なスラブ語学者の寄稿も予定されています。刊行をぜひご期待ください。

[野町]

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