スラブ研究センターニュース 季刊 2010 年冬号 No.120index

われわれにウィリアム・クラークは必要か?

1989 年以降のポーランド高等教育システムの変化

ダリウシュ・コウォジェイチク(ワルシャワ大学、ポーランド科学 アカデミー/センター2009 年度特任教授として滞在)

 

札幌へやってきた私は、いたる ところに建てられたウィリアム・ クラーク博士を記念するモニュメ ントにショックを受けた。クラー ク博士といえば、札幌農学校、後 の北海道大学の創設者のひとりで ある。大学キャンパスばかりでな く街中いたるところで出くわすお びただしい数の彼のモニュメント を見て、私はトルコ、そしてとく にその大学キャンパスのアタテュ ルク像を思い出した。だが、ここ には大きな違いがある。アタテュ ルクは外国人ではなかった。政治 的なものであれ何であれ指導者崇拝というものが私は大嫌いなので、彼が自分のほんの数カ 月の札幌滞在の間に日本の教育課程の発展になしたとされる貢献なるものの真偽性に対して すぐさま疑いの目を向けるようになった。「少年よ、大志を抱け!」というそこらじゅうに掲 げられた彼のモットーを見るにつけ、「クラークを札幌に実際に招聘した明治期の指導者たち も含めて、日本人たちは彼の到着まで大志を抱いたことがなかったってわけか?それでアメ リカからやってきた男から、「大志」という新しい異国的な概念を学んだということか。それ ともこれは、アジアやアフリカの「原住民」は進んだ西洋人から学ぶことしかできないとい う典型的な植民地主義的信念にすぎないのかな?」と考えたものだ。

エッセイ執筆中の著者
エッセイ執筆中の著者

もちろん、外国のモデルや文化にさらされることはつねにきわめて刺激的なことだと私は 深く確信している。自分たちの優越性を信じ切って他者から学ぼうとしない者はただ怠惰な だけだ。しかし、外国モデルの自覚的な借用と、その成り立ちや潜在的影響力を実際に理解 しないままでの無批判な猿真似の間には、非常に大きな隔たりがある。19 世紀後半から20 世紀の日本の目覚ましい台 頭は、外国からの輸入によ るものか、それとも自らが 持っていた強さと伝統によ るものかという問いはすで に十分に議論されている― もちろん史学史において明 確に解決されたというわけ ではないし、この問題に関 して私は専門家でもない。

しかしこのようなコンテ クストで、ポーランドの学 界がこの20 年の間に経験し た変化に関しての私の考え をいくつか皆さんに披露し たいと思う。他の東欧の共 産諸国と比較して、ポーランドの知識人は比較的自立していた。1947-1956 年のスターリン主 義の10 年の後はとりわけそうだ。党員でなくとも、マルクス主義イデオロギーにごちゃごちゃ と頭を悩ませられずとも、限られたトップの地位を目指すのでなければ、技師にも、医者にも、 職業的な陸軍将校にもなれた。それに比べて人文科学はあまり恵まれていなかったが、政治 学者になろうと考えたりしなければ(おそらくこの理由で、政治学はポーランドの人文学研 究者たちの間で今日でもしばしば蔑まれる)、あるいは20 世紀の政治史のきわめて微妙なト ピックを専門的に研究しようというのでなければ、研究に関してかなり自由でいられ、中世 の戦の結果を説明するのにマルクスを引っ張り出してきたり、日本における階級闘争の表現 として生け花を観賞する必要はなかった。

知床クルーズにて
知床クルーズにて

1956 年以降、ポーランドは共産化した欧州諸国の中でおそらく最もリベラルな国家だった。 もちろん、この「リベラリズム」はけっして理想化されてはならない。他人の出世への悪意 に満ちた干渉や、「匿名の個人」による攻撃、政治的な殺人事件さえ起った。これは限定的な 範囲での出来事だったが、熱心な反対派の比較的限られた集団には影響を及ぼしていた。(多 くの党員を含む)大多数の市民が日曜日にカトリックのミサに参加し、歴史の教科書には絶 対に載っていなかったにもかかわらず、カティンでのポーランド人将校の大量虐殺の責任が 誰にあるのかをちゃんとよく知っていた一方で、沈黙による同意がはびこっており、それに よって共産党は支配していた。ポーランドの学界人の圧倒的大多数が、第二次大戦期の国内 軍(Armia Krajowa)での活動や1944 年のワルシャワ蜂起への参加を隠さなかった。これは 軍事的にはナチスに対する蜂起であったが、政治的には戦後のポーランドをソ連が支配する という未来への反対であった。ここでは3 人の歴史家の名前を挙げるにとどめておく。なん と私立大学であったルブリン・カトリック大学の総長イェジー・クウォチョウスキ、そしてウィ トルド・クラ、アレクサンデル・ゲイシュトルである。後者2 人はワルシャワ蜂起の敗北の後、 ナチスによってリューベック近郊の戦争捕虜収容所に入れられ、そこでフランス人将校で同 僚の歴史家という人物に出会った。フェルナン・ブローデルである。この時の友情がフラン スの多くのフェローシップに結実し、西側への旅行が再び可能になった1956 年以降、ポーラ ンドの若手人文学研究者に提供されることになる。

1980 年にはたくさんの教授や学生が「連帯」に加わった。1981 年に出された戒厳令のおか げで共産主義はもう10 年生き延びることになったけれども、私は自分が1981 年から86 年まで学び1988 年に仕事を始めることになった大学が、開かれた議論のためのすばらしい場所と なったことを覚えている。1980 年代の半ば、入試の筆記試験の最中に、19 歳の女子受験生が 300 人くらいの受験生を前にして、私が答えるように期待されているのは、「真実」なのか、 それとも「教科書に書かれていること」なのか、と試験委員会の委員長に尋ねた。会場はそ れを面白がりこそすれ、憤慨したりなど決してしなかった。1983 年、大学院生としてブロツ ワフ(ドイツ語ではブレスラウ)への研究旅行へ出掛けた際、教授からわれわれが耳にした のは、当時のプロパガンダではなくて、14 世紀から1945 年までの都市の発展の大半はドイ ツの文化と制度に結びついていること、そして都市の歴史を理解するためにわれわれが学ぶ べきは、まさにそれらドイツの文物であるということだった。また、(ポーランドの共産主義 崩壊の一年前の)1988 年に助手として入学試験にかかわった折、ある受験生のフォルダに同 封されていた、地方の党委員会からの推薦書に私は意地悪く難癖をつけたことがある。する と委員会の議長をしていた先輩の教授が、そんな文書を引用した私をすぐさま咎め、われわ れは偏見を持たず、受験生の知識を評価するべきだと言った。自分のCV にこの文書を同封 しようと決めた受験生本人にはそうでなかったようだが、その場にいた全員に、党の推薦書 はそれほど役に立たない、それどころかそんなものは受験生の印象を貶めることだってある のだということが明らかだった!

私がこういったアネクドートを引っ張り出してきたのも、共産主義ポーランドの大学は共 産主義イデオロギーに完全に支配されていたのでは決してないこと、外国との接触や外国か らの影響力から完全に引き離されていたのでも決してないということを証明したいからだ。 共産主義権力だって学術の不可侵性や自由をいくらか認めたのだ。クラコフ大学が1364 年の 創設であり、中欧・東欧の最古の大学の一つだという事実は、公的なプロパガンダにとっても、 ポーランドの学界メンバーにとっても誇りであった。

そういうわけで、1990 年代のすばらしい幕開けが、ポーランドのOECD(1996 年)、 NATO(1999 年)、EU(2004 年)への加入で締めくくられたことはそれほど驚くべきことで はない。多くの変化はかねてから期待されていたもので、また実際に歓迎された。喜ばしい ことに、今日、EU のエラスムス交換プログラムのおかげで私の大学院生たちは、ドイツ、フ ランス、イギリスそのほかの多くの国(その中には新たにEU に加盟してこのプログラムの 恩恵を受けているリトアニア、チェコ、ハンガリーあるいはルーマニアといった近隣諸国も 含まれる)の最高の大学で1 ~ 2 セメスターを無償で学ぶことができる。アメリカの大学に ポーランドの若手研究者が頻繁に行っていることから、「学生によるフィードバック」という 新機軸が輸入された。これは現在ではポーランドのすべての大学でみられるが、実は私の母 校では1990 年代から存在した。ヨーロッパの教授の伝統的な講義が中身はあるが退屈なのに 対して、ときに笑いで講義を中断させるアメリカのやり方は大いに模倣するに値したし、学 生もこれを大歓迎した。私が前の講義で優れていると紹介した外国の書籍を、学生たちが「ア マゾン」で買いましたよと時に報告してくれるのも清々しい。西側の一冊の書籍の値段がポー ランドの一ヵ月分の給料と同じくらいだった20 年前には想像もできなかったことだ。たいし て異議も出ないだろうと私は学生たちに英文講読を割り当てる。しかし、ポーランドで英語 の流暢さが驚くべき進化を遂げたのは、ロシア語、フランス語、ドイツ語といった伝統的に 教えられてきたそのほかの外国語が、それぞれ衰退したことの結果だということをわれわれ は嘆かねばならない。

若いポーランド人が今日、留学に、仕事に、余暇にと気軽にヨーロッパへと旅するのを見 ていると、すくなくともEU 圏内では実際にもまた人々の意識の中でもボーダーが消滅しつ つあるという感じを強く受ける。

だがもうひとつ、私が触れておきたいそれほど楽観的でない側面というのもある。1989 年 以降、われわれが「西側基準」を取り入れるべきだという考えは、ありふれたリップ・サー ビスになってしまい、よもや西欧民主主義理念を抱くとは思われなかった人物からもそんな 言葉は飛び出してくる。西側生活が極めて限られた経験でしかない教育大臣が、われわれの 高等教育の水準をアメリカのそれに見合うものにすべきだと宣言しているのをかつて耳にし たことがある。悲しいかな、われわれがアイヴィー・リーグの大学を目指すべきなのか(そ して教育省はそういった大学を財政的に支援するのか)、それとも、ポーランドの高校生の平 均レベルにも達しないような、アラバマの郊外の短大を目指すべきなのか、大臣は触れなかっ た。

ポーランドの大学カリキュラムに影響を及ぼす客観的な要因として、学生数の著しい増加 が挙げられる。共産主義化のポーランドでは、各世代の約7% が大学を卒業したに過ぎなかっ たのに、今ではその数は40% に達しようとしている。このような変化は社会全体で見たとき、 確かに有益なものではあるが、関係者には悪影響を及ぼしうる。かつては雇用を保障した大 学の卒業証書も、今ではそれを約束するものではない。学位論文の審査をパスした博士課程 の学生は、遅かれ早かれ大学のポストを得られるであろうことをかつてなら疑わずにいられ た。学部学生同様、大学院の学生も増えるにつれて、現在までポーランドの大学卒業生が事 実上知ることのなかった、雇用のない状態に彼らは間もなく直面することになるだろう。西 ヨーロッパ諸国でしばしば噴出してきたところの、経済的・政治的理由による学生の暴動が、 いつの日かポーランドでも起こるかもしれない。

ポーランドにおいて、国立・私立双方の大学が雨後の筍のごとく増殖したことは、教育水 準に関してもまたときに逆効果を及ぼしている。トルコではすでに、そのように拙速に設け られた大学に「スラム大学」(トルコ語では gece kondu、逐語的には「一夜で建てられた」) なる皮肉なレッテルが貼られている。アカデミックな位置づけが不安定なこれらの大学の総 長や教授たちは、外部からの干渉に対しての自治を守ろうとする、より伝統ある教育研究組 織の同僚たちと比べると、国の権威により追従的な傾向が見られる。大臣たちが、こういっ た新しくまだ弱い組織をしばしば好むということが、トルコやポーランドだけでなく、ドイ ツその他の西欧諸国でも見られるということは全く不思議でない。大半の西ヨーロッパ諸国 が長きにわたって社会民主主義者の統治下にあるという事実と相俟って、1968 年の反エリー ト主義的なスローガンは、エリート学府にとって好ましからぬ雰囲気を作り出すのに一役 買った。フランスでは、エリート的な教育研究組織は「グランゼコールgrandes écoles」の 名のもとにようやく生き残っている状態で、かつての名門ソルボンヌのようなところも含め て、一般的な大学は良くも悪くもない水準の大衆教育を提供している。ドイツでは、真の研 究やスカラシップはマックス・プランク研究所にしばしば避難所を見出している有様で、大 半の大学がポピュリストのスローガンの餌食となった。数年前、ワルシャワ大学はNetwork of Excellence 計画のメンバーに招かれた。これは、社会科学高等研究院やオックスフォード 大学などヨーロッパの先進的な組織がイニシアチブをとって作ったものである。しかし、ブ リュッセルの選考委員会は提案を退け、ネットワークの財政的な支援を拒否した。これはこ の提案がより優れた別のものに負けたということではなく、審査員の一人が内々に明かした ところによれば、それが「あまりにエリート主義的」に思われたためだということだ。あま りにエリート主義的という口実で、Network of Excellence への財政支援を拒否することは、 その当時の私にはシュールレアリスティックに思われた。しかし今ではそれを、EU 内の教 育政策に完全に従った、典型的な動きだと考えている。ヨーロッパ最高水準の学生や教授陣 がアメリカにさらなるチャレンジを求め、それゆえに最も活動的な革新者や頭脳がヨーロッ パから奪われてしまうことは間違いない。

いわゆる「ボローニャ・プロセス」という名の下で、ヨーロッパの高等教育システムを強 制的に統合しようとする動きを、私はこの文脈で見ている。3年間の自立的研究の結果とし てのM.A. 論文という栄冠に飾られた5 年間のカリキュラムが、1年間のゼミの後に体裁だ け整えたB.A. 論文を書くよう、また同様に薄っぺらいM.A. 論文をその2 年後に書くよう、 われわれは学生に強いなければならなくなるのである。われわれの若い同僚、研究者仲間と してかつては扱われていた博士課程の学生たちは、彼らの地位を一般学生のそれにまで引き 下げるものとして、「ボローニャ・システム」をすでに嘆いている。かつて博士課程の学生と その指導教官を結びつけていた共通の信頼関係に代わって、毎年の試験や頻繁な点検にさら されることになったのだ。共通のモジュール・システム( 学部3年+ 修士2年) は国際交流 をより容易にするだろうという議論は、単純に成り立つものではない。エラスムス交換プロ グラムはボローニャで宣言されたやり方をEU の大半の国が採用する以前でも、10 年間立派 に機能してきた。そのようなモジュール・システムが柔軟性を促進するだろうという議論も また同様に非現実的である。数学の学士の学位を持っている学生が日本学の大学院のコース に、すなわち彼が数学を学んでいた3 年間の間、すでに日本語を学んでいる学生たちに加わ ることが可能だというのだろうか?あるいはその逆も?

私の懐疑的な態度にもかかわらず、かつて同僚 たちに主張したことを覚えている。いったんEU の加盟申請した以上は、既存の加盟国が合意に達 したルールに対してわれわれは疑義を抱けない、 なぜならそんなことをすれば我々は加盟できなく なるからだ、と。ポーランドが「クラブ」に加入 して5 年が過ぎた今日、「ボローニャ宣言」が一 定水準の教育のためではなく、EU の政治家たち の大衆迎合的な計画に資するものであることを、 私は以前にまして確信することとなった。これは われわれが共産主義時代に慣れ親しんだところの 「ウラヴニロフカ」(ロシア語からの借用語でポー ランド語では「水平化・均等化」を意味する)の 別の形に他ならない。最高学府を目指す先進的な 教育研究組織にとって、均等化が有益であること はありえない。

一歳半の息子さんの異文化体験
一歳半の息子さんの異文化体験

今日のポーランドで雨後の筍のごとく増えてい る流行に乗った舶来モノとして、ジェンダー研究 がある。私と同様、ポーランド人女性研究者の幾人かは、ドイツやアメリカから来た「フェ ミニズム宣教師学者」と遭遇した際、彼らが、ポーランド人女性は抑圧された「原住民」で あり、彼女たちから「虚偽意識」を取り除かねばならないとみなしているという印象を受け るのである。アメリカや西欧の多くの学部よりも、共産主義ポーランドで女性教授を見つけ ることのほうがたやすかったといった類のいかなる議論も、まったく意味がない。まるで笑 い話のようなこのような誤解も、ブリュッセルから学術プロジェクトへの資金を調達するた めには、プロジェクトに要請される「女性参加率」のクオータを満たさなければならないと いうことを知れば、それほどおかしくなくなってくる。知的に劣っていて人工的な昇進が必 要であるように扱われる女性研究者にとってきわめて屈辱的なことだが、このように政治的 に打ち出された数値上の諸標準は、最高学知に達しようという高らかにうたわれた目的には あまり貢献しないのである。通常このような施策を推進する左派あるいは極左の政治家たち は、ポーランドその他のヨーロッパの大学でユダヤ人の数を制限するために、1930 年代に同 様の哲学が採用されたことをしばしば忘れてしまっている。社会における比率に比べて、ユ ダヤ人が大学に「超過代表」されていると考えられたため、ほかのエスニック集団を増やす ために打ち出された「格差是正政策」は、実際のところユダヤ人の教授や医師、弁護士、そ して学生を標的としていた。しかしユダヤ人の学生が豊かで教養ある家の出とは限らなかっ たのである。こういうことを知っていると、今日大学レベルで行われているいかなる形の「格 差是正政策」にも疑いの目を向けてしまう。これらは不公平に扱われたと感じる関係者の記 憶に傷跡を残すし、ほとんど効果的でもない。もしこのような方策を機能させようと思うな ら、もっと早い段階で、チャンスをより平等にするのにまだ遅くない学童前教育や小学校レ ベルの教育に適応されるべきだ。さもなければ、これらはかつてずっと早い段階でしでかさ れた国家や社会の失敗を補填しようと考えている政治家たちの面子を立てる道具としてしか 役に立たない。国が保障する育児支援のシステムも、数値上の割り当てよりはずっと効果的に、 より多くの女性が大学に参加するのに効果的であるように思われる。

ポーランドの学界の歴史にとって、ここ20 年はおそらく一番「ラッキーな」ものであった だろうとかつて私は考えた。共産主義によって押し付けられた官僚主義的な束縛から自由に なったがドイツやデンマーク、あるいはスペインの研究者たちがそれぞれ官僚的な大臣に対 して陥っている奴隷的な服従状態にはわれわれはまだ陥っていない。ましてや、これまであ らゆる民主主義的な統制を逃れ、むしろ一般市民の生活の統制を目指してきた機関であるブ リュッセルの欧州委員会の指示に盲目的に従うことには、われわれはよりいっそうの躊躇を 感じるのである。やはり私は楽観的に構えたいし、ヨーロッパはその東部も含めて、その莫 大な人的・経済的潜在力をより効果的に利用することができるし、それは高等教育システム を世界規模でより競争力の高いものにしていくことでも可能だと考えたいのである。

(英語より高橋沙奈美訳)
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