スラブ研究センターニュース 季刊 2010 年冬号 No.120index

エンパイア・ステイトで帝国について考える

エンパイア・ステイトで帝国について考える 長縄宣博(センター)

 

スラブ研究センターの寛大なるご 支援を得て、2009 年4 月おわりか ら10 月はじめまで、在外研究の機 会を得た。8 月末までは、豚インフ ルやマイケルジャクソンの死に揺れ るニューヨークで、コロンビア大学 ハリマン研究所に所属し、9 月一杯 はモスクワのロシア帝国外交文書館 に通った。英語の運用能力を高める という本来の目的からすれば、丸々 アメリカにいるべきだったのだが、 通常の海外出張は2 週間が限度なの で、文書館調査にどうしても1 ヶ月 の時間が欲しかったのである。

ところで、ニューヨーク州は「エンパイア・ステイト」と呼ばれる。今振り返ってみると、 私の旅の体験とそこで考えていたことは、まさに人間の移動と帝国との関係を巡って、シン クロしていた。以下では、特に印象的だった風景を切り取ってみた。

中央のひと際高いのがエンパイア・ステイト・ビルディング
中央のひと際高いのがエンパイア・ステイト・ビルディング

コロンビア大学

アメリカでの所属を選んでいた 時に念頭にあったのは、スラ研と は関係がないか、薄いところに行 きたいということだった。ハリマ ン研究所には、以前から関心があっ た。ここでは、毎年、特定のプロ ジェクトに基づいて、ポスドク研 究員を募集し、彼らの任期最後の4 月に大掛かりなワークショップを 組織させているが、2007-2008 年に は、Russia and Islam: Religion, the State and Modernity during and after the Age of Empire という、と ても魅力的なプロジェクトを遂行 していたのである。また、この時の研究員の一人が、2005 年夏にカザンで知り合って以来、 毎年何らかの研究集会で会っていた(2007 年冬にはスラ研の国際シンポにも来た)James Meyer だった。彼からも、研究環境、とりわけ豊かな大学図書館について話を聞いていた。もっ とも松里先生からは、「あなたNY はやめなさいよ。ブロードウェイにはまって絶対、勉強で きないから」と忠告を受けたが。とはいえ、2008 年11 月に、スラヴ学会(AAASS)と中東 学会(MESA)でJames と一緒にパネルを組織した時、最終的に決めた。親切にも、彼がま ずは研究所の所長さんに口をきいてくれた。

コロンビア大学
コロンビア大学

私が渡米の準備をしていた頃には、Great Power(s) in the Mediterranean というプロジェ クトが走っていた。4 月初旬には、ポスドク研究員のElena Astafieva が中心となったワーク ショップGreat Powers in the Holy Land: From Napoleon to the Balfour Declaration が予定さ れていた(http: //www.harrimaninstitute.org/MEDIA/01344.pdf)。最近私は、ムスリム社 会と帝政ロシアの国家機構との相互関係を扱った博士論文でやり残した課題として、メッカ 巡礼について勉強しているので、これについて本を執筆中のEileen Kane も来るこのワーク ショップをとても楽しみにしていた。しかし、交流訪問者ビザ(J-1)取得に予想以上に手間 取り、結局、NY に辿り着いたのは、4 月22 日だった。そして、かろうじて翌日から、ハリ マン研究所が毎年ホストを務める民族研究学会(Association for the Study of Nationalities) の年次集会に滑り込むことができた。幸いにも、Elena Astafieva とEileen Kane はここでも パネルを組んでいたので、話をすることができた。年次集会は、前年夏のグルジア紛争の煽 りか、コーカサス関係のパネルが目立った。

実はハリマン研究所自体も、グルジア語の授業を開講するなど、グルジアとの関係を重視 している。5 月4 日には、トビリシ大学などの学者を招いた、「ヨーロッパとアジアの文化の 十字路にあるグルジア」という研究会あった。それは明らかに、グルジア本国の肝煎りであり、 グルジアの国連代表に加え、グルジア統一省大臣Temur Iakobashvili も出席する力の入れよ うだった。しかも、この大臣が前年8 月の戦争を振り返り、「グルジアのメガフォンはロシア のよりも小さくて、グルジアの立場を世界では聞いてもらえなかった」と発言したのには驚 いた。サアカシュヴィリ大統領も留学したコロンビア大学の一角で、プロパガンダ丸出しの 研究会を組織できること自体が、グルジアの声の大きさを示しているではないか。

研究所のもう一つの重点地域は、トルクメニスタンである。5 月1 日には、国内のエネルギー 供給の責任者アイマメードフが、研究所に挨拶にきた。その会合には、国連等からもエネルギー 関係の実務家が集まった。アイマメードフが、僻地の代替エネルギーとして風力発電に注目 している旨を伝えると、即座に専門家が、特定地域の気象データを提供する用意があると即 座に返した。また、トルクメニスタンから留学生を受け入れる話も進められた。こうした機 動力や即戦力は、なかなか日本の大学では想像できない。「教育プログラム」の名の下で、様々 な戦略的地域からエリートの子弟を招き、高等教育を施し、将来の有事に際しては、親米政 権の要となるように、彼らを利用する、そうしたシナリオが思い浮かんだ。グルジアとトル クメニスタンの例は、アメリカの作る世界秩序の縮図のように思われた。

残念ながら、ロシア史研究では研究所に翳りが射しているように思われる。以前は、Mark von Hagen やRichard Wortman の下で博士論文を書きたいという学生が集まっていたが、 von Hagen が別の大学に移って、活気が薄れたようだ。この間、ロシア帝国のイスラーム研 究で重要な本を書いた、スタンフォード大学のRobert Crews などをスカウトしようとして きたらしいが、成功していない。学期の終わりかけた時期に来た私も悪いが、5 月11 日に研 究所でセミナーを開かせてもらった時も、関心を持ってくれた人は僅かだった。そんな中で、 Richard Wortman 先生がわざわざ研究会に足を運んで、コメントをしてくださり、後日、論 文まで見てくださったことには、感謝感激だった。

5 月に入ると、連日、各学部やコロンビア傘下のカレッジの卒業式が続いた。その中で最 も印象的だったのは、5 月18 日に行われた、Barnard College という女子大の卒業式に、ヒ ラリー・クリントンが来て、演説したことだった。

NY 滞在中の私の仕事場は、Butler Library という大学の総合図書館だった。今回の在外研 究では、今後十年くらいは取り組める研究課題をじっくりと考えることを中心に据えていた が、平行して、これまで書き散らかしていた英語のペーパーを投稿論文にまとめ直す作業と、 後述するイリノイ大学の夏期セミナーの用意を行った。その間に、最近はロシア帝国の宗教 行政全般について重要な仕事をしているPaul Werth さんから原稿依頼があり、これに取り組 んだ。図書館は、文字通り宝の山である。書庫の床に座り込んで、面白そうな本を手当たり 次第に取ってはめくる至福の時間を久しぶりに満喫できた。

ローカルなこだわりを持ちつつも、どうすればグローバルな話ができるのか。それが、私 の頭から離れなかった問いである。メッカ巡礼の研究は、格好の材料のように思われた。し かも、巡礼が絶えず繰り返される儀礼であるならば、19 世紀末から現代に至るヴォルガ・ウ ラル地域のムスリム社会の動態を跡付ける作業にもなるはずである。そこで、イリノイ大学 のセミナーには、その試論となるペーパーを出してみた。他方で、旧ロシア帝国領内のムス リムにとってのロシア革命とそこから生まれた国家を再考するようなテーマにも取り組みた いとも思った。その際には、ヴォルガ・ウラル地域へのこだわりは残しつつも、これまでも 意識してきたように、カザフ草原や中央アジアへの広がりもほしい。こうした様々な考えが 頭の中で渦巻いていたが、これらすべてを横断する一筋の光を与えてくれたのが、一冊のバ シキール語の本だった。それは、1966 年にウファで出たKarim Khakimov という革命家の 伝記だった。彼の人生は実に数奇だ。オレンブルグ地方の革命・内戦で頭角を現した彼は、 自身がその組織に深く関与したタタール・バシキール部隊と共に、フルンゼの右腕として、 1920 年にトルキスタンに赴き、ブハラ革命に貢献。ブハラ共和国の党組織で要職に。その後、 外交官に転じ、1921 年から24 年までイランのマシュハド、ラシュトで総領事。1924 年からは、 アラビア半島のヒジャーズとイエメンで活躍した。ロシア革命100 周年くらいには、『アラビ アのハキーモフ』のような本を書きたいと思った。

ニューヨークのタタール人

2001-2003 年にカザンに留学していた時から、NY にもタタール人コミュニティがあり、彼 らが母語をよく保持していることは聞いていた。カザンには、タタルスタン政府が民族運動 を統御する目的で1992 年に作った、全世界タタール会議という組織がある。これは、その名 の通り、世界中に離散するタタール人をタタルスタンという「祖国」に糾合する運動体である。 そして、ロシア連邦内でタタール人の地位に関わる問題が浮上する度に、その存在感を誇示 してきた。例えば、私が滞在していた2002 年には、同年の国勢調査で、タタール人がサブグ ループに分類されない一つの民族であることをアピールすべく、世界各国からタタール人が 集結したのである。そんなことを思い出して、とりあえずコミュニティのウェッブサイトを 探してみることにした。

American Tatar Association どうやらこれが探していた人々らしい。早速、その会長らしい 人に、自分はタタール人の歴史を勉強していて、カザンであなたたちのことを聞いたから知 り合いになりたい旨を、タタール語と念のため英語でメールを書いた。すぐに返事があり、5 月10 日に母の日のイヴェントで、協会に人が集まるから来てください、とタタール語だけで 書かれてあった。場所はクイーンズ地区。地下鉄の7 番線の終点で降り、母の日の花束を買っ て、タクシーを捕まえた。指示された住所で降り、どきどきしながらドアを開けると、そこ はカザンだった。目に飛び込んできたのは、タタルスタンの国旗、スユムビケの塔、20 世紀 初頭の詩人トゥカイの肖像画。そして、耳に入ってくるのは、懐かしいタタール語のおしゃ べりと歌謡曲。それにつられて中に足を進めると、居合わせた人々は、花束を持ったよそ者 を不審そうに遠目で眺めていたが、「Isenmesez!(こんにちは)」とこちらが声をかけると、「Sin Tatar mıni?!(お前タタール人か)」と四方から握手を求められた。彼らは、私が日本から来 たと知っても、なかなかタタール人ではないと信じられない様子だった。

実はそれには理由がある。彼らの多くが満洲や日本で生まれ育っているのである。今でも、 70-80 歳くらいの人々は、本当に流暢な日本語を話し、こちらもうっかりと日本語が出てしまっ たほどである。彼らは、君が代やサクラサクラに加え、怪しげな軍歌も口ずさむことができる。 彼らの祖先は、ヴォルガ中流域からウラル山脈南部の出身であり、ロシア革命以前からハル ビンなどに流れていたとはいえ、革命と内戦後に、大挙して満州と日本に移り住んだ人々で ある。とりわけ東京と神戸には、彼らのモスクや学校、印刷所まであった。戦前の日本人に とって、タタール人は最も身近なムスリム集団の一つだったほどである。しかし、日本の敗戦、 そしてそれまでソ連からの庇護を求めていた満洲国が瓦解すると、今度は中国共産党から逃 げなければならなくなった。また、日本にいた人々も、焼け野原の中で大変苦しい生活を強 いられた。彼らの運命の転機となったのは、朝鮮戦争である。その時、国連軍として参戦し ていたトルコ軍将兵は、自分たちを慰問してくれるタタール人の苦境に胸を打たれた。そし て、復員した将兵がトルコ政府に働きかけることで、タタール人はトルコ国籍を取得し、ト ルコに移住できるようになったのである。この辺の経緯については、松長昭『在日タタール人: 歴史に翻弄されたイスラーム教徒たち』(ユーラシア・ブックレットNo. 134)に詳しい。現 在、NY にいるタタール人の多くは、トルコ経由でアメリカに移った人々である。話を伺うと、 冷戦期にはソ連のスパイではないかと疑われて大変苦労されたようだ。彼らは、諸帝国のせ めぎ合いと崩壊の間を縫うようにして生きてきたのである。

不思議なことに、彼らに「もともとのご出身はどちらですか」と尋ねると、どの人も判を 押したように、「カザンから」と答える。そんなことはないと思い、よくよく話を聞いてみる と、ウファやペンザの周辺出身と答えてくれる人もいた。そこでピーンときた。これは「想 像の共同体」なのだと。満洲や日本で生まれ育った人々は、つい最近までカザンを訪れる機 会に恵まれなかったはずだ。彼らが胸に抱いてきたのは、ハルビン、東京、神戸の学校で勉 強したスユムビケの物語やトゥカイの詩である。そして今日、アメリカ市民となった彼らの 心の故郷は、タタルスタンとその首都カザンに収斂している。全世界タタール会議の政治的 な思惑と微妙に重なりながら。そんな考えを巡らせて、ふと部屋の片隅に目をやると、一枚 の白黒写真が額に入ってひっそりとかかっていった。それは、彼らが最も慣れ親しんだはず のハルビンのモスクの写真だった。

イリノイ大学ウルバナ・シャンペイン校

夏休みの大学は閑散とした「死ん だ季節」だと言われるが、ここは 活力にみなぎっていた。ここには、 Slavic Review を出している研究所が あり、スラ研でいえば、鈴川・中村 基金の研究員制度の拡大版のような ことを行っているのである。よっ て、ここには夏の間、研究所の奨学 金を得た研究員の他、多くの大学院 生や著名な研究者が文献調査や研究 会のために集まってくる。ここの図 書館も宝の山であり、Butler Library にもないような本が、ザクザク見つ かった。また、図書館の司書の方々 もとてもフレンドリーだった。 (2009 年夏の研究員のリストはhttp://www.reeec.illinois.edu/srl/associates/

イリノイ大学ウルバナ・シャンペイン校
イリノイ大学ウルバナ・シャンペイン校

6 月14 日から21 日と短い滞在だったが、人間の移動と帝国との関係という私の頭から離 れない問題を多くの人と共有することで、大いに啓発されるという非常に貴重な体験をした。 この夏の研究会のテーマは、ずばり人間の移動。渡米の準備をしていた最中に気付いた時に は、国際会議Russia’s Role in Human Mobility の報告者の募集は終わっていたが、その前に ある若手研究会Mobility in Russia and Eurasia はまだ募集中だった。 米国国務省の資金が入っているの で、「政策に使えるような報告の提 案をすること」という条件が付い ていたのには困ったが、現代ロシ アのメッカ巡礼の話も織り込むこ とで、なんとか若手研究会には入 り込めた。選ばれたのは8 名で、 外国からは私だけ。内訳は、人類 学者4 名と歴史家4 名。会のまと め役は、インディアナ大の人類学 者Sarah Phillips とシンシナティ大 の歴史家 Willard Sunderland。一 口に移動といっても、いろんな話題があるものだと驚いた。ソ連初期の自動車産業と道路建設、 大祖国戦争時の避難民、EUの障壁でウクライナに足止めされる移民や難民、ウクライナやチェ コの女性の社会進出、グルジアから出稼ぎに出る女性。ムスリム地域の話では、18 世紀後半 のロシア帝国の北コーカサス進出を扱ったSean Pollock もいた。ペーパーは事前に読むこと になっていたので、一人持ち時間45 分で、朝から晩まで徹底的に議論した。一見ばらばらな テーマだが、特定のテーマの切り口が、別のテーマにも有効ではないかといった具合に、白 熱した意見交換がなされた。英語でこれほど濃密な議論をしたのは初めてだ。

研究会後の懇親会
研究会後の懇親会

国際会議は、ユーラシア大陸の古今東西を移動という言葉でダイナミックに切り取った Stephen Kotkin の基調講演で始まった。パネリストには顔見知りも多く、Anatoly Remnev、 Robert Geraci、Eileen Kane、James Meyer、Charles Steinwedel ほか、ITP の英語論文講習 会で講演されたDiane Koenker や、Andreas Renner、Andrew Gentes といったスラ研に関係 する人もいた。会議では、人間の移動を制御する国家の役割と限界、交通機関の発達やそれ に伴う人間の移動が様々な地域に与える影響、様々な種類の旅を通じて人々が抱く心象地理、 ロシアと世界の他の地域との比較可能性などなど、実に多様で刺激的な問題提起がなされた。 (国際会議については、https://netfiles.uiuc.edu/jwr/www/mobility2009/index.html

6 月21 日から24 日には、シカゴを観光した。親切にもCharles Steinwedel さんが、イリ ノイ大学から車で連れて行ってくださり、郊外のお宅で二泊お邪魔させていただいた。また 近年、AAASS のパネルやスラ研の国際会議などの際に、研究上の助言や励ましをいただい ているMichael Khodarkovsky 先生とも、シカゴ大学で再会できたことは光栄だった。

ロシアへ

今回は、NY のロシア領事館で入 国ビザを取得した。そのためには、 米国に合法的に居住していること を示すビザの提示が求められるの で、苦労してJ-1 を取得したかいが あった。連絡の行き違い等で、ロ シアの研究機関からの招待状の到 着が遅れたとはいえ、J-1 に比べる と、拍子抜けするほど簡単にビザ が下りた。とはいえ、旧ソ連出身 者やその子供のパスポートの発給 やその他の手続きには、玄関の外 に長蛇の列ができ、いらいらした 人々が大声のロシア語でまくし立 てていた。それを横目に機嫌よく 帰る途中で、偶然見つけた散髪屋 に立ち寄ったが、その主人はロシア語のラジオを聴いていた。若いウズベク人だった。

ロシア人街のあるブライトンビーチにて
ニューヨークは街角の至る所でロシア語を耳にする。体 感では、スペイン語に次ぐのではないかと思われた。写 真は、ロシア人街のあるブライトンビーチにて

9 月1 日、J.F. ケネディー空港を出発、翌日にヘルシンキを経由して、モスクワに入った。 今回のロシア滞在の目的は、国際秩序、ロシア帝国のムスリム行政、ムスリム社会内部の政 治を結び付けるというアメリカで温めた発想に基づいて、資料収集を行うことにあった。モ スクワで最も楽しかったのは、ロシア帝国外交文書館での仕事である。ここでは、在イスタ ンブルのロシア大使館や各地の領事館が、メッカ巡礼にどのように関与したのかを生き生き と物語る貴重な文書を読んだ。また、ヒムキの国立図書館別館では、帝政期の新聞やソ連初 期の中東外交に関する博士論文を閲覧した。

ローカルな中にグローバルな話を見出すという課題にとって、カザンでの仕事は意義深かっ た。この町には、長期で留学もしたし、何度も訪れているが、訪れる度に新しい発見がある。 4 日間だけだったが、旧友に会う合間に図書館、図書館の合間に旧友に会うといった具合に 密度の濃い滞在だった。大学とその図書館では、留学時代の私を知る人が多く、便宜をはかっ てくれたおかげで、効率的に史料収集ができた。最後の夜は、郊外の友人宅の蒸 バーニャ し風呂に行 くのにも間に合った。新しい出会いということでは、カザンのロシア・イスラーム大学で収 穫があった。ここの学長は、Rafik Mukhametshin という旧知の歴史家だが、神学部の学部長 Damir Shagaviev とは初めて話をする機会を得た。紙幅の都合上、詳述できないが、30 代と 思しきこの若い学部長が語ってくれた知的遍歴は、現代ロシアのイスラーム復興を考える上 で、極めて示唆に富んでいた。そこでピーンときた。現在、新学術領域研究の第5 班で研究 課題として考えている、イスラーム教育ネットワークの話に、彼の経験を組み込めないだろ うか。すばらしいことに、Shagaviev 氏自身、マレーシアの国際イスラーム大学で学んでおり、 英語にも堪能ときている。近いうちに、第5 班の先生方とカザンに戻って来たいと思った。

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