スラブ研究センターニュース 季刊 2010 年冬号 No.120index

ひとりの詩人のひとつの言語:

孤高のラフ詩人ウンドラ(オンドラ)・ウィソホルスキ (1905-1989)没後20 周年に寄せて

野町素己(センター)

 

現代のスラヴ諸語の中で、最も使用者が多い言語はロシア 語であることに疑いはない。全世界で話者数がゆうに2 億人 を越えている。しかし最も使用者が少ないスラヴ語は何語だ ろうかというと、具体的な名前がなかなか頭に浮かばない。

では、具体的な言語ではなく数字から考えてみよう。言語 使用者の最小数は1 であるが、使用者1 名のスラヴ語はある だろうか。20 世紀全体を通してみると、必ずしも同列には扱 えないが、使用者1 人というケースはいくつか存在する。こ こでは、思いつくまま3 つの例を挙げてみよう。

最初の例として、まずスロヴィンツ語(方言)が挙げられ る。現在ではカシュブ語の1方言と考えられるスロヴィンツ 語は、北ポーランドのポメラニア地方で話されていたが、20 世紀中ごろに絶滅した。最後の話者が実際にスロヴィンツ語 をどれぐらい話せたかはわからないが、話者1 名という悲し い瞬間があったはずである。

次の例は、同じく西スラヴ諸語に属するポラブ語である。ポラブ語はエルベ川の左岸で話 されていたが、18 世紀の半ばに絶滅した。1973 年の第7 回国際スラヴィスト会議にて、ドイ ツのスラヴ語学者ラインホルト・オレシュ(1910-1990)は、僅かに残された文字テクストや 単語集からポラブ語を言語学的に再建し、この死語を用いて研究報告を行った。無論、スロヴィ ンツ語の場合とは性質は異なるが、復活させたポラブ語をある程度使える者が1 名いたこと は否定できない。

3 番目の例は1938 年から1989 年までに限定する必要があるが、ラフ語と呼ばれる言葉で、 この言葉の使い手は、現在のチェコ共和国シレジア地方出身の優れた詩人ウンドラ・ウィソ ホルスキ(本名:エルビン・ゴイ)である。ラフ語はシレジア地方で話されるチェコ語とポー ランド語の過渡的方言をその基礎に置くが、彼の言葉は方言に単に文字を与えたものではな い。あくまでも文学、特に詩のための言葉である。ウィソホルスキのラフ語は当時のシレジ ア・モラヴィア方言研究を踏まえた上で、文字システ ム、音声、文法(形態・統語)、語彙にある程度の規範 を確立させた「文語」と呼べる存在であった。この点 においてスロヴィンツ語やポラブ語の場合とは異なっ ている。さらにもう一つの違いが指摘できる。たしか にラフ語の使用者は一人であったが、しかしそれは自 由にラフ語を使用できたという意味ではないことであ る。社会主義体制のチェコスロヴァキアでは、「分離主 義」ともとらえられるラフ語による執筆活動は困難で あったからで、一時期は全くその活動が出来なかった。 しかし詩人は苦難を乗り越え、生涯ラフ語に忠実であ り、彼のラフ語詩は少なくとも30 ヶ国語に翻訳され、 1970 年にはノーベル文学賞候補にもなったのである。

晩年のウンドラ・ウィソホルスキ
晩年のウンドラ・ウィソホルスキ (『ラフ詩:1931-1977』より)

言葉はコミュニケーションの道具という本質的機能 があるので、1 人のみが用いる言語というのはいかにも 奇妙である。そのような状況でウィソホルスキは、な ぜラフ語で詩作をする必要があったのだろうか。

第1 次大戦や世界恐慌などで衰退したシレジア地方 を目の当たりにしたウィソホルスキは、その疲弊は外 国の資本主義が原因と考え、「内容において社会主義的、 形式において民族的」を目指した当時のソ連の社会主義に傾倒する。ウィソホルスキが生ま れ育った地域はチェコ側に帰属したが、地元の人間に民族としてのアイデンティティが希薄 で、彼にはチェコ人としてのアイデンティティはなかった。当時ウィソホルスキは、モラヴィ ア・シレジア地方に住むスラヴ人はチェコ人でもポーランド人でもなく、200 万の「ラフ民族」 であり、その言葉は「ラフ語」であるから、ラフ語で文筆活動することは外国語に疲れたプ ロレタリアートに益すると考えていたのである。

1934 年に社会主義礼賛というテーマも含んだ初のラフ語詩集「歌う拳」を発表し、1936 年 には「ラフの展望」というラフ文化を推進するための組織を結成し、活動の幅を広げた。「ラ フの展望」にはヤン・ストナフスキ、ヨゼフ・シノフスキ、ユラ・ハニス他が加わり、ラフ 語による詩作品や散文を発表し、ヤルミラ・サムコヴァーはラフ語辞典の作成なども進めて いたが、1938 年にナチスドイツが迫ってくると、その活動停止に陥った。

以降「ラフの展望」の活動家たちは、政治的な圧力もあり、執筆言語をチェコ語に変えた。 この段階でラフ語の使用者はウィソホルスキただ1 人になったが、彼は幸運も手伝って、ラ フ語で執筆活動を継続出来たが、その舞台は故郷から遠く離れたにソ連においてであった。 ウィソホルスキはポーランド経由でイギリス亡命を企てたが、途中にソ連軍につかまり強制 収容所に収容された。しかし社会主義礼賛、そしてアンチファシストがテーマの詩作も行っ ていたウィソホルスキはソ連当局から高く評価され、ドイツ語とチェコ語の教師として助教 授の職が与えられ、1946 年まで亡命生活を送ることになった。さらにソ連作家同盟にも加わ り、ヴィクトル・シクロフスキー、アンナ・アフマートワ、ボリス・パステルナーク、マリー ナ・ツヴェターエワといった名だたる文学者と交流した。

「母へ」
「母へ」(『ラフ詩:1931-1977』より) この詩はツヴェターエワによってロ シア語に翻訳されている

ウィソホルスキの生涯を通して、ラフ語による文学活動が最も充実したのは、1941-43 年の ウズベキスタン疎開時代である。タシケント、サマルカンド、ブハラなど各地でインスピレー ションを受けたウィソホルスキは、1942 年に約140 もの詩を編み、その他の詩作とあわせて ソ連で合計4 冊の詩集を刊行した。その際パステルナークとツヴェターエワとの友情は詩人 にとって特に重要で、彼らはウィソホルスキのラフ語詩のいくつかをロシア語に翻訳し、そ のためにウィソホルスキの名は知られることになったという側面がある。 1946 年にチェコスロヴァキアに帰国した後、ウィソホルスキは「ラフ民族」の概念は放棄 したが、それでも当局からは弾圧され続け、1958 年に一度ラフ語による詩集「ラフの川も海 に流れてゆく」を発表したものの、以後はラフ語での文学活動は公に行えなくなった。その ため執筆言語をもう一つの母語であるドイツ語に切り替え、主に東ドイツで詩集を発表して いた。

社会主義体制が終焉に近づいた1988 年、ゲッティンゲン大学 のパヴェル・ガン及び亡命チェコ人言語学者イジー・マルヴァ ンの尽力により『ラフ詩:1931-1977』がラフ語とドイツ語訳の 2 巻組みで刊行された。約570 の詩作品はもちろんだが、ウィソ ホルスキのラフ語の概念と定義、ラフ語の簡潔な発音規則や文 法、さらに同郷の詩人ペトル・ベズルチやイジー・マルヴァン との文通などの巻末の資料は、どのスラヴ語文化研究者にも大 変興味深い内容となっているので、興味を持たれた読者はぜひ 手に取られることをお勧めする。

『ラフ詩:1931-1977』
「『ラフ詩:1931-1977』

ベルリンの壁崩壊から約1 ヵ月後、1989 年12 月19 日に旧体 制の終焉を見届けたかのようにウィソホルスキは他界し、同時 にラフ語も「絶滅」した。彼の死により1つの文化が消滅した わけだが、その魂はさまざまな形で引き継がれている。死後20 年を経た2009 年に、ポーランドの地域言語として生まれつつあ る「シロンスク語」の運動家アンドジェイ・ロチニョクによってウィソホルスキのデビュー 詩集「歌う拳」が「シロンスク語」との対訳で出版された。また、ウィソホルスキの出身地 に程近いモラヴィア地方では、2006 年にヤン・コゾホルスキー氏らによって「モラヴィア語 研究所」が設立され、現在地域言語としての「モラヴィア文語」の確立が模索されている。

中東欧諸国の多くがEU に加盟し、スラヴ世界でもEU 主導の多言語・多文化主義がます ます注目される昨今、ウィソホルスキは孤高の傑出した詩人としてだけではなく、スラヴ世 界における多言語・多文化主義の偉大な先駆者の1 人として再評価がなされるべきであろう。

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