スラブ研究センターニュース 季刊 2010 年夏号 No.122index

望月哲男訳『アンナ・カレーニナ』ロシア文学 翻訳最優秀賞受賞までのみちのり

木村 崇(京都大学名誉教授)

   世界の各地で翻訳されているロシア文学のなかから優れたものを顕彰しようといううごき が生まれたのは、ほんの数年前のことである。ソ連崩壊とともに研究環境をどん底にまで落 とされてしまったロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所(通称「プーシキン館」、在サン クトペテルブルグ)が、ようやく持ち直しはじめたころだった。傘張り浪人的生活に堪えて 研究を維持してきた人たちは、必死になって内外の様々な競争的外部資金(грант なる新語 ができている)を確保しながら成果をあげてきた。しかしソ連崩壊は思わぬ副産物も産み落 とした。民主化と国際化の萌芽が見えだしたのである。

 現在プーシキン館の所長をしているアカデミー通信会員のフセヴォロド・バグノ氏はもと もとスペイン文学が専門である。ちなみにこの研究所には非ロシア文学系出身の研究者がけっ こういる。ソ連時代が続いていれば、かれが所長に選ばれる(研究所内の選挙結果をふまえ 科学アカデミー総会で最終選考)可能性はまったくなかったであろう。ロシア連邦成立から 15 年以上も経っていたのに、バグノ氏の所長就任は再選挙の結果ようやく決まったほどなの だ。必要以上に内情を明かす気はないがじつは、世界中にひろがっているロシア文学研究者、 翻訳者たちと積極的に交流を深めようとしていたバグノ氏の前には、ソ連時代から研究所の 上層部をとりしきっていた重鎮たちが大きな壁となって立ちはだかっていたのである。

 3 年前の秋口、ペテルブルグに来て「国際ロシア文学翻訳者センター」構想の立案に力を 貸してくれという依頼がバグノ所長から来た。2007 年の11 月初旬、招集された人々は財団 « Русский мир» のグラントを獲得するためにコンセプトをにつめ、事業内容をつぶさに検討 した。討議はドストエフスキー・ホテルに缶詰に なってのべ3 日間続いた。外国からは私以外にた しか、イギリス、ドイツ、イタリア、イスラエル、 フィンランドなどからも招かれていたが、多数を 占めたのは地元サンクトペテルブルグやモスクワ の出版人や編集者など、実務関係者だった。とも かくもセンター構想のアウトラインは決まった。 世界各国のロシア文学翻訳者たちにとって実利の ある機能の充実とか若手翻訳者養成事業への取り 組みが盛り込まれた。

受賞作品

 発足した翻訳者センター(Международный центр переводчиков русской лиретаруры на язики мира)から昨年末、さっそく具体的な要 請があった。あらたにセンター秘書となったクセニャ・エゴロヴァ(彼女自身もプーシキン 館の若手研究員)からつぎつぎにメールが届きだした。私に課せられた仕事のひとつは、日 本におけるロシア文学翻訳出版物の過去7 年間分の文献リストを作成することだった。日本 ロシア文学会のホームページはじつに充実していて、ロシア文学に関連する書籍を月ごとに 集約して掲載する欄がある。私はそれをもとに、ロシア文学翻訳関係書だけを抜き取ってロー マ字に翻字し、ロシア語の原題と作者を示すだけですんだ。これはセンター・ホームページ の «Мониторинг» という欄に載ることになっている。今のところ文献リストは英・独・伊・蘭・ 波蘭・日からしか届いておらず、「建設中」の状態にあるようだ。この欄にはさらに、翻訳出 版予定情報や、ロシアでは評価を得ているのに、まだ外国語に翻訳されていない作者などの 情報が載るそうである。

 もうひとつの仕事は、日本で出版された優れたロシア文学翻訳のなかから受賞対象作を推 薦する仕事である。訳者個人や出版社が応募する形はとらず、各国のロシア文学会や翻訳者 協会、およびこれに準ずる機関の代表者に推薦権が与えられるとのことであった。私は日本 ロシア文学会国際交流委員会委員長の資格で推薦人に指名された。わが国の翻訳界事情を考 慮すると、利害関係からはほど遠い私がたずさわるのが無難だと考え、指名を受けることに した。

 推薦枠は、散文初訳部門、散文新訳部門、韻文初訳部門、韻文新訳部門の4 つである。そ れぞれ厳しい条件があって、初訳は年齢が35 歳未満に限られている。また選考対象は2007 年から昨年までに出版されたものという限定があった。韻文は、近年話題になるほどの翻訳 がなされたとは記憶していなかったので、考慮の対象を散文だけに絞ることにした。初訳部 門対象作はさいわい年齢のしばりがあったので、対象作の選定に苦労はなかった。問題は新 訳である。光文社が「古典新訳」という文庫本を次々に出しているせいか、他の出版社から の新訳もふえたように思う。短期間ですべてに目を通すことなどとうてい無理である。しか し推薦するのは私なのだから、二葉亭にならって私自身の「翻訳の標準」に照らし、本屋で 立ち読みして少しでも外れるものはまず除外しようときめた。こうして残ったものを何編か 手元において比較・精査したのである。

 二葉亭はさておき私の場合「標準」となるのは第一に、訳文に訳者自身の「地声」や「ク セ」が残っていないことである。「米川調」とか「神西調」というものは、ロシア文学翻訳史 における過渡的現象だと思っている。これについては一昨年のロシア文学会研究発表会のさ い、望月氏を司会にたてアメリカ文学翻訳家の柴田元幸氏を対論者に招いて企画したワーク ショップで、沼野、吉岡両氏と並んで私が報告した際に、「朗読調」をできるだけ排除する視 覚障害者むけの「音訳」の作法にヒントを得てのべた考えでもある。もうひとつの「標準」 は、日本語の根幹構造(平安時代から現代まで貫かれている不変部分)ともいうべき特徴に できるだけ素直であることである。いかにも翻訳を読まされているという印象(通訳になぞ らえるなら、たとえば「同時通訳調」スタイル)からほど遠いものを、私は評価するのである。 この「標準」を満たすという点で望月訳に勝るものはなかった。だからといって、マイナス 点がより少なかったからという消極的理由で評価したわけではない。

 大型の書店に行けば現在は3 種類の文庫版『アンナ・カレーニナ』が並んでいるだろう。 一番古いのは新潮文庫の木村浩訳、次が岩波文庫の中村融訳で、再新が光文社古典新訳文庫 の望月訳である。違いがよく分かるので冒頭箇所の一部を並記してみよう。

  1. オブロンスキー家ではなにもかも混乱してしまっていた。妻は、夫がかつて我が家にい た家庭教師のフランス夫人と関係していたことを知って、もうとても一つ屋根の下でくらす ことはできないと宣言したのだ。(新潮版)
  2. オブロンスキイ家では何もかもがめちゃくちゃだった。妻は、夫が前にうちにいた家庭 教師のフランス女と関係があったことに気づいて、もはやこれ以上、一つ家に同居は出来ない、 と夫に向かって言い切った。(岩波版)
  3. オブロンスキー家は大混乱のさなかにあった。夫が以前家庭教師に雇っていたフランス 女と関係を持っていたことに気づいた妻が、もう一つ屋根の下には暮らせないと、面と向かっ て宣言したのだ。(光文社版)

 助詞「ハ」の用法という点では、いずれもさして問題はないように思える。しかし1、2 よ りは3 のほうがあきらかに自然である。なぜだろう。前二者は一見「甲ハ乙ガ~ダ」という 日本語の基本構文に沿っているように見えるが、じつは無理がある。段落冒頭の文なのに、 場所の副詞句を「甲」の位置においたため、隠れた比較対象、つまり「他の家々とは違って」 という言外の意味までも伝えているからである。これが許されるのは、よその家のことがそ れまでに話題にのぼったのちである。また前二者は主題部(妻は)と述部が文の最前部と最 後部に離れ、複雑な従属複文構造が間に挟まってしまい、読者に余計なストレスを与えている。 3 は、従属文の前半部を修飾節に変えて主題部の前に移すことによって、文構造を単純化し て訳出している。ストレスなくすなおに読めるのはこの工夫が施されたからである。声に出 して読んでみれば分かるが、新潮版は原文のリズムが無視されている。原文の動詞が「完了体」 であることを意識しすぎたためであろう。この訳者は、別のところでも「妻は自分が使って いるいくつかの部屋のほかには…」と、わざわざ複数形であることを強調して訳出しているが、 そのため文章が間延びしてしまったことには無頓着である。原文の文法構造ばかりに忠実な あまり、二葉亭のいう「音調」を乱してしまったとみるべきだろう。トルストイのロシア語 はあくまでも端正なまでの簡潔性が特徴なのにである。

 これに類する例は無数にあげることができる。訳文を分析すればするほど、望月訳が画 期的なものであることに幾度も気づかされた。推薦文はそのことに力点をおいて書いたつ もりである。私としては、あとは審査を待つだけだと気を抜いていた。ところが今度は私 をэксперт(鑑定人) に任命する、ついてはпапятка экспетру(鑑定指針)にしたがって экспертное заключение(鑑定見解)を提出せよというのである。「鑑定指針」というのが「~ ねばならない」という項目を列挙した、じつにお役所的悪文の典型で、正直言って腹が立っ てしまった。なにしろ「否定の見解を提出する場合は1 頁ないし1.5 頁におさまらねばなら ない」などと分量指定をわざわざ太字で書いてあるのである。私はクセニャさんに、こんな 意味不明な指針では見解の書きようがないといって、不明点を列挙してメールを送った。「ノー ベル賞方式に準じて」などといわれても、どんな形式にするのか知るわけがないし、「世界文 化の文脈に於ける作者の特徴付け」などといわれても、神様じゃなきゃ分かるはずがないと 書いて送った。

 彼女とは今年1 月別の用件でプーシキン館を訪れたさいに会っており、多少「気心を知り うる」間柄であった。そのおかげだろう、じつに懇切丁寧な説明と裏情報がメールで帰って きた。これで気を取り直し、私はようやく鑑定見解をまとめ終えた。おかげで、魯迅や有島 武郎が『アンナ・カレーニナ』から大きな影響を受け、一連の作品を書いていることなども 勉強することができた。

 クセニャさんからはその後も、翻訳文の電子テキストを送ってくれとか、電子テキストは ないと答えると、それじゃあスキャンしてせめて10 ~ 15 頁くらい送れ、いやそれだけじゃ なくやはり、翻訳書全4 巻が必要だから至急郵送してほしいとか、あれこれ注文が続いた。 翻訳センターのホーム・ページには指名された鑑定人8 名と、審査委員5 名の名前があがっ ている。どうやらこの矢継ぎ早の催促は、その審査委員の一人で、モスクワにある世界文学 研究所のБ.Л. Рифтин という中国文学の専門家が、自分のところの日本文学研究者に目を通 させたいと主張したためだったらしい。それを知ってちょっと緊張したが、結局杞憂に終わっ た。

 以上が今回の慶事の裏舞台である。

[page top]
→続きを読む
スラブ研究センターニュース 季刊 2010年夏号 No.122 index