スラブ研究センターニュース 季刊 2010 年夏号 No.122index

戦争描写のアクション・ソープオペラ化

松里公孝(センター)

 

北海道大学およびスラブ研究センターの寛大な理解を得て、この5 ~ 6 月に上海の華東師 範大学国際関係・地域研究学院に招かれ、大学院のゼミを提供した。予想通り、当方にとっ ても、おそらく先方にとってもなかなかない体験だったが、それ自体については稿を改めて まじめに論じるとして、今日はやや軽い話題を。

アクション・ソープオペラ(メロドラマ)という言葉を私が思いついたのは、2009 年のソ 連の大祖国戦争(対独戦)戦勝記念日(5 月9 日)を北コーカサスのスタヴロポリで迎えた ときだった。さすがにこれほどの祭日になると誰もインタビューに応じてくれないので、ホ テルのテレビで(赤の広場の300 メートル上をほとんど新幹線並みの速度で軍用機が飛んで しかも落ちないロシアの軍事技術に驚嘆させられるのと同時に)1 日中戦争映画を観ること になる。かつてはソ連で作られる対独戦をテーマにした映画は、アンドレイ・タルコフスキー の『僕の村は戦場だった』(1962)を典型として、観たら一週間くらい食欲をなくすような深 刻さで人間性や社会性を問いかけるような映画のみであったが(それ以外の表現は、検閲以 前に国民感情が許さなかったであろう)、こんにちのロシアでの大祖国戦争の描き方は全く違 う。大祖国戦争を007 シリーズと同程度の娯楽として楽しむ、恋ありアクションありの表現 が許容されるか、おそらく支配的なのである。

典型的なのは、『運命の皮肉:続編』(2007)で敵役だったセルゲイ・ベズルーコフを主役 としたテレビ映画『41 年7 月』(2008)である。この映画は、モロトフ・リッペントロップ 協定でソ連領となったベラルーシ西部を舞台としている。ベズルーコフが演ずるソ連将校イ ワン・ブーロフが対独国境近くのまちに帰省中なのだが、実は彼の恋人は、ソ連支配に武力 抵抗するポーランド人パルチザンの親玉の娘である(彼女は、全編、ポーランド語でしか話 さない)。ロミオとジュリエットのような切ない恋愛描写の後に、戦争が始まる。ソ連の国境 警備と軍が殲滅された後に一人生き残ったブーロフは、ランボーかシュワルツネッガー並み の強さを発揮して、たった一人でドイツ軍の後方を撹乱する。『運命の皮肉:続編』でも物議 をかもしたベズルーコフのにやけた笑窪はこの映画でも健在であり、こんなヤサ男がなぜこ んなに強いのかという疑問を抱かせずにはいない。いずれにせよ、業を煮やしたドイツ軍は、 ブーロフの恋人のポーランド娘を人質にして、彼をおびき出す。ブーロフは、それが罠と知 りつつ一人でドイツ軍部隊に挑戦して壊滅させ(これはミッション・インポッシブル並みの 馬鹿馬鹿しい映像であり、見るに耐えない)、恋人を救出し、自分は死ぬ。

このほかにも、ジャニーズ系の青年たちが鍛えられて屈強なスパイになるとか、今日のロ シアにおける対独戦の描き方は、娯楽性が著しい。しかし、帝国主義戦争の性格がより著しかっ た日中戦争についてさえ、今日の中国のテレビにおける描き方がアクション・ソープオペラ 化しているのは意外であった。

たとえば『謀変1939』というドラマでは、細菌兵器の開発に重要な役割を果たす皇軍将校 (男やもめの、おそらく医療将校)が、自分の秘書と娘の家庭教師を兼ねて中国人女性(チャ イナドレスを着た麗人である)を雇う。実はこの女性は中共のスパイであり、将校のところ に出入りする重要書類を小型カメラで撮影している。将校は進歩的で、自分の娘には日本の 詩歌だけではなく中国の詩歌も学ばせなければならないという信念から中国女性を雇ってい るのである(中国人は漢文という借用文化が日本で普及しており、日本人が杜甫や李白を暗 唱できることを知らないので、「日本の詩歌、中国の詩歌」などという奇妙な対置がなされる のである)。将校は、自分が好意を感じる中国人を大量殺害する兵器を開発することに対する 良心の呵責に耐え切れず、任務を辞退して日本に帰ることを決意する。そこで、スパイとは 知らないままに中国人秘書にその意思を伝え、「一緒に日本に来てくれないか」とプロポーズ する(このあたりは典型的なガヴァネスものの展開である)。秘書は、「私たちの国は戦争し ているんですよ。そんなことはできませんわ」と答える。そこで将校は、「わかった。では戦 争が終わるまで君のことを待っているから、戦争が終わったら来てくれ」と言う。

もともと憎からず想っているところにこんなことを言われたものだから、この中共の女性 スパイはノックアウトされてしまい、任務を続ける意欲をなくす。しかし、党の上級機関に「好 きになってしまったのでこれ以上スパイはできません」とは言えないから、「すでに戦意を失っ ており、任務を辞退するつもりなので、これ以上スパイする意味はない」と報告する。とこ ろがこの医療将校の動揺は特高警察の察知するところとなり、再びやる気を起こさせるため に、特高はこの将校の妹を殺害して、それを中国の特務機関がやったように偽装する。復讐 心に燃えた将校は、任務に復帰する、とまあこんな感じで、かなりばたばたしたストーリー が続く。ところでこのドラマでは、特高の将校に女性が多い。人を拷問死させるのが任務だっ た機関の将校に女性がなれたとは私には思えないのだが、どうだったのか日本近代史の専門 家に教えてもらいたい。彼女たちは、ダサい皇軍風の制服ではなく、太ももの膨れたナチス・ ドイツに似た制服を着ている(日本の皇軍や特務機関がナチス・ドイツ風の制服を着ている のは、他の日中戦争ドラマにも共通である)。こうした制服を着て活躍(暗躍?)する彼女ら の役に、ドラマ製作者が異常に美しい女優をあてるので、やや猟奇趣味的な印象が醸し出さ れる。

建国60 周年の昨年製作された『八路軍』というドラマには、次のようなストーリーがある。 八路軍が急襲して、皇軍の部隊を壊滅させる。一人生き残った将校は、ひどい負傷をしてい るが、半狂乱の状態で玉砕しようとする。八路軍側は何とかこの将校を助命したいと思うが、 日本軍人が軍規上降伏できないことは知っているので、一計を案じる。日本語が達者な八路 軍人が柔道で勝負をつけようと申し出て、銃を捨てさせる。しばらく柔道を演じた後、初め て気付いたような振りをして、「何だお前は負傷しているではないか。負傷したお前に勝ったら、私の名誉は傷つけられる。まず傷を治せ。そこでもう一度勝負 しよう」などと言って、 なんとか丸め込んで捕虜にしてしまう。ところがこの将校に肩を貸しつつ八路軍の野戦病院 キャンプにつれてくると、「鬼子(クイズ。元々は普通名詞で、たとえばドイツのファシスト は徳国鬼子と呼ばれていたが、実際には日本人を表す固有名詞になった。実は今でも使われ ている蔑称)を連れてきた」ということで大騒ぎになる。皇軍にジェノサイドされた村から この病院に志願した看護婦は、バケツでその日本人将校(と彼に肩を貸している中国人)に 水をぶちかけて、「私は八路軍兵士に奉仕するためにここに来た。鬼子を助けるためではない」 と叫ぶ。ここで朱徳が直々に介入して演説する。「日本人捕虜に対するわれわれの任務は反戦 教育を施すことである。これは党の決定であり、これが守れない者は党規違反である」と。

この日本人将校は、八路軍に親切にされるものだからアイデンティティ危機を起こしてし まい、食事がのどを通らなくなる。この将校をかつて助けた中国人は、うどんを作って食べ させようとするが、将校はどんぶりを叩き割ってしまう。中国人は、「このうどんを作るのに どれだけ手間がかかったと思っているんだ。このキャンプの他の傷病兵が何を食べているか 比べてみろ」と怒る。日本人将校は、「私が今まで何をしてきたか、これから何をしていいか わからなくなった」と号泣して答えるのである。

ここで紹介した中国のアクション・ソープオペラは、それでもなおヒューマニズムを感じ させる良質なもので、こんにちの中国のテレビで放送されている日中戦争ドラマの中には、 もっと俗悪なものもざらにある。しかし、中国側の英雄的抵抗よりも、侵略者(日本側)の 内部事情を描いてドラマを面白くしようとするモチーフは多くに共有されている。そのため、 日本軍人や特務機関員は見事な中国語で喋ることになる(ハリウッド映画ではローマ人もキ リストもナチス・ドイツも英語で喋るのと同じである)。侵略者の中にもどうしようもない人 間とそれなりに良心のある人間がいたという見方は、リアリズムの立場から評価できるもの だろう。中国人は反日的だとか、日本人に永遠の戦争謝罪を求めていると思っている日本人 には、こんにちの中国のテレビ・ドラマを観ることを勧めたい。

北大公共政策大学院の中島岳志氏が書いた東京裁判パール判事についての本を、小林よし のりという漫画家が批判した記事を先日インターネットで見たが、侵略戦争の被害者の側が 苦痛に満ちた記憶を娯楽として楽しむ度量を見せているときに、日本人の過去の受けとめ方 はセンスが古いなあと感じざるを得なかった。まあ、清濁併せ呑みすぎる 傾向のある中国人 に比べて、この生真面目さこそが日本人のいいところなのかもしれないが。

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