スラブ研究センターニュース 季刊 2011 年冬号No.124 index

マイクロフィルムで見た軍人の口髭

アレクサンダー・モリソン(リヴァプール大学歴史学部/ センター2010 年度特任准教授)


 

資金申請や研究計画書のことになると、私は初心者 同然だ。私が博士号を取得したオックスフォード大学 のコレッジは、ほとんど欠点といえるくらい資金面で 寛大で、文書館調査の旅行に資金が必要なときはいつ も、なぜタシュケントで2 ヵ月間ほど過ごさなければ ならないかについて、いくつか漠然とした理由を述べ て会計係に請求するだけでよかったのである。オック スフォードでの7 年間を経て、徹底的に怠けて甘やか されてしまっていた私は、人文科学の研究で資金を見 いだすことが通常どれほど難しいかについて、想像だ にしていなかった。リヴァプール大学へ2007 年に移っ てからは、年間の研究費が400 ポンドとなることを告 げられ(それでも英国の大学の基準では十分気前が良 いほうなのだが)、私は衝撃とともに現実の世界に引き 下ろされた。イギリスの芸術・人文科学研究評議会と、 その際限なく煩雑な申請書、詳細な予算計上の要求や醜悪な官僚的専門用語との初期的な小 ぜり合いは、説得力のある研究計画書を書きあげる能力が、良い論文を書き採択されること と同じくらい高く評価されうるという、競争的資金申請の醜く非情な新世界へと私を導いた。 楽しみにしていた2010 ~ 11 年の研究休暇をどう過ごすのが最善かについて考え始めたとき までには、私は苦しめられつつもより賢明になっていた。

A. K. アブラモフ将軍
ザラフシャン地方征服時、武勲を挙 げたA. K. アブラモフ将軍(1836-86)、 『トルキスタン・アルバム』から

札幌に行くことはほとんど瞬時に思いついた。スラブ研究センターの出版物は、博士論文 を書いていた際にインターネット上で最初に偶然見つけたときからずっと、私の研究にとっ て常に存在感のあるものであった。帝国としてのロシアについてイギリスでほとんど誰も書 いていなかった頃に、日本では長年にわたって研究者たちが、私が書くことを熱望してきた 類いの非ロシア人地域の詳細なローカル・ヒストリーを公刊していたことを、私は嬉しくも 発見した。中央アジア関連のメーリングリストで定期的に回ってくるセンターの会議やセミ ナーのプログラムは、私の羨望の的であった。宇山教授からの驚くほど気前よい招待により(そ れはイギリスの地方大学で働く多くの若手講師には想像できない種類のものであった)、2009 年に私は実際にセンターを初訪問し講演していた。私は札幌に戻りたいと思っており、外国 人研究員の申請様式はその思いを確実なものにした。それは単純明快かつ知的に筋が通って おり、書き込むのに30 分程度で済んだ。7 週間後、アルマトゥのインターネット・カフェで、 私は申請が採択されたことを知った。英国の助成金申請にかかる学術的努力対資金的見返り (50 対1 のようなものだろうか)のいつもの比率は、ほとんど完全に逆転されていたのである。 私は、単に4 ヵ月半の間、刺激的な知的環境と、素晴らしい図書館へのアクセス、そして美 しい魅力的な国を発見する機会を与えられただけではなかった。リヴァプール大学歴史学部 は、喜びのあまり、すぐさま私にもう半年余りを研究休暇として与えたのであった。

私が提案した研究主題とは、「ロシアの官僚の思考における 中央アジア征服」であった。申請から札幌への到着までの1 年間に亘り、私は日本で作業をするのに十分な資料をモスク ワとアルマトゥの文書館から得るため、休暇からできるかぎ り時間を捻り出した。私はロシア国立軍事史文書館(RGVIA)、 ロシア帝国外交政策文書館(AVPRI)とカザフスタン中央国 家文書館(TsGA RK)からの抜き書きで膨らんだ綴じファイ ルと、後者で撮影した写真で埋めつくされたノートパソコン (彼らの驚異的に寛大な無料の写真撮影方針が末長く続かんこ とを!)を携えて札幌に到着した。これが、日本での修道院 的に静かな私の仕事場での隔離生活において、作業する資料 の大部分になるだろうと想定していたのだが、図書館でマイ クロフィルム・カタログに短時間目を通しただけで、私は考 えを改めた。『トルキスタン報知 Turkestanskiya vedomosti』25 年分、『軍事集成 Voennyi sbornik』完全版、ベフブーディー編集の雑誌『アーイナ』、そのう え『トルキスタン集成 Turkestanskii sbornik』の完全な電子版といった、英国図書館とオック スフォード大学ボードリアン図書館のいずれにも所蔵がない宝物があったのだ。私は閲覧者 の鼻と耳を焼き焦がすよう特別に設計されたかのように思われるロシアの文書館閲覧室の古 色蒼然とした東ドイツ式のものとはかけ離れた、コンピュータ化された最新式マイクロフィ ルム・リーダーで作業をするために、兎内准教授と彼のアシスタントたちから忍耐強い手引 きをうけ、『軍事集成』のリールを回しながら毎朝愉快に過ごした。そして、非対称的な植民 地戦争の典型的事例における自らの役割に関して、征服が終わるよりずっと前に書き始めた かに見えるほど常軌を逸した性急さをもって回想を著したイヴァーニン、グロデコフ、クロ パトキン、アンネンコフといった、顎鬚と口髭を豊かに蓄えたトルキスタンの将軍たちによ る大量の記事を、ここではロシアとは違って淀みなくスキャンしハードディスクに保存する ことができた。

『軍事集成』の表紙
『軍事集成』の表紙

もう1つの発見が、私が滞在を始めておよそ1ヵ月後にあった。そのとき、私は『クリティ カ Kritika』誌への再提出に向けて修正していた論文に基づき、「ロシア帝国の中央と植民地に おける帝国的シティズンシップ」について院生向けの講義を行ったのだった。このような主 題について(それぞれ宇山、松里、長縄の教授陣が代表する)ステップ、西部国境地域、ヴォ ルガ=ウラル地域の専門家と、問題を熟知した院生聴衆とともに議論することができたこと は、この上なく有益であった。カザンとオレンブルグの両県に適用された法規の違いや、ス テップ総督府における軍事支配の変化しやすい性格について啓発をうけた私は、図書館を訪 れ、そこでの短時間の検索によって、ロシア帝国の法律と行政制度における地域間の相違に 関する2 棚分の本を発見した(おそらく松里教授のこの分野における長年の研究によって集 められたのであろう)。論文は1週間後に大幅に書き直され、1ヵ月後に採択された。

最後に、日本各地の大学から多くの主導的な研究者が参加する研究プロジェクト「ユーラ シア地域大国の比較研究」に、比較帝国史(特にインドにおけるイギリスと中央アジアにお けるロシアの比較)という私の研究関心がいかに深く結び付くものであるかを、私は理解す るようになった。「グレート・ゲーム」の単調な常套句を避けたいと望んでいた私は、元来、 同時期に並行した南アジアでのイギリス権力拡大をあまり考慮せずに、ロシアによる征服事 業についての研究をかなり一面的に構想していた。しかし、征服を比較の視座から捉えたペー パーを書くようにという宇山教授の依頼のおかげで、私は、露英両国が1839 年に行った中央 アジアへの進軍、すなわちそれぞれ無惨にも失敗したヒヴァとアフガニスタンへの侵略の対 称性を考察するに至った。これらの2 つの事例を並べて見ることによって、帝国の境界を越 えた「官僚の思考」の共通性についてだけではなく、これらヨーロッパの近代的軍隊が現地 の輸送手段(何万というラクダ)に共に依存していたことに関して、新たな洞察が得られた。 スラブ研究センターは、教育・事務負担からの解放と平穏だけではなく、知的な挑戦と刺激 をも与え、私の研究に多大な利益をもたらしたのである。

執筆の生産性についていうと、教育義務からの解放は、英国の大学システムを管理する支 配欲の強い人々によって研究者たちに押し付けられた、不可解で陳腐な大学行政からの解放 ほど重要ではないと私は思う。もっとも、札幌ではその両方から私は解放されていた。また、 大須賀さんは新しい学術環境に落ち着くことに関連した種々の形式的な事務が順調に、かつ 最小限の騒ぎをもって完了するように請け合ってくれた。これにより、スラブ研究センター での滞在期間終了までに、私は2 本の論文を修正して採択に漕ぎ着け、ロシアの征服事業に 関して本一冊の半分相当の草稿を書き、トルキスタンへの農民の入植に関連した主題で他に 2 本のペーパーを完成させていた。

私はときには週末を北海道の見事な自然風景を愛でながら過ごす機会も得た。とりわけ支笏 湖温泉(おそらく恵庭山を登る前より後に浸かるべきだっただろう)、そして豊平峡の素晴ら しい温泉兼カレー店(天才的な香りのする組み合わせ)の、楽しい思い出がある。私は美瑛 周辺の田舎をサイクリングで巡り、函館で生イカを食べ、洞爺湖畔で蒸気をあげる火山を畏 怖と不安をもって見つめた。東京と京都でもペーパーを発表する機会を得たが、正直なとこ ろ、これらの都市が確かにもつ魅力にもかかわらず、札幌にいることを運よく感じたと言う ことができる。夏の穏やかな気候、土地が広大で人混みがないこと、大学キャンパスの緑の 美しさと、リヴァプールやオックスフォード同様に自転車でどこへでも行けること、これら すべてがこの街の魅力を引き立てる。私は食事にも驚嘆した。魚はイギリスではほとんどあ りえないほど上質かつ新鮮で、ささやかな秋刀魚でさえ美味であったが、私が一番好きになっ たのは鰹の刺身である。私はジンギスカン店で羊肉の塊を焼き、お好み焼きをひっくり返し、 魅惑的な寿司が回転台の上を通り過ぎる前につかみ取ることにかなり習熟した。私は嬉々と して札幌ラーメンをすすり、洗練されたイクラ丼から暖かい癒しのカツカレーまで、大学食 堂のメニューの並はずれた種類の多さに驚き続けた。このすべての食い道楽にもかかわらず、 私は実際には痩せたのであったが、それが日本の食生活の健全さによるものなのか、それよ りも私がイギリスで普段食べているものの不健康さを意味するものなのかは、定かではない。 こうして、スラブ研究センターにおける私の夏は、個人的にも知的な面でも非常に充実し たものであった。もしも私が研究者としてのキャリアを選んだことが賢明であったかを問う 気持ちになるようなことがあれば、これは私が振り返ることになるだろう夏であった。

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(英語から須田将訳、宇山智彦監訳)

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