スラブ研究センターニュース 季刊 2011
年夏号No.126 index
エッセイ
セルビア科学芸術アカデミー会員
ミルカ・イヴィッチ (1923
-2011)のご逝去を悼む
野町素己(センター)
2011年 3月
8日朝、Eメールを見ようと何気なく携帯電話を開くと、セルビア語研究所所長スレト・タナシッチ先生からのメッセージが入っていた。
4月上旬のBASEES年次集会のあとベオグラードに行くと言ってあったので、その約束についてだと思いメッセージを開くと、一気に眠気が吹き飛び、
ショックで息が
止まるのを感じた。
尊敬する野町素己さん、今あなたに大変悲しく、しかし自然の摂理に適った連
絡があります。今朝早くに学士院会員ミルカ・イヴィッチが他界しました。尊敬をこめて スレト・タナシッチ
この数週間前に、学士院のプレドラグ・ピペル先生からイヴィッチ先生は体調が優れず入院している旨は聞いていた。だいぶ深刻な状態であったことは、ピペ
ル教授からのメールで伝わってきたが、
4月にお見舞いに行ってお話しできるものと漠然と思っていた。しかし、これはもはや決して叶うことはないのだと思うと、まさに痛恨の極みである。ここでは
故人への追悼として、先生の思い出を少し書いてみたい。かなり個人的なこともあるが、これを書き残すことで、悲しさが幾分薄れるような気もするので、この
ように紙面を使うことをお許しいただきたい。
* * *
ミルカ・イヴィッチ先生は、ご主人のパヴレ・イヴィッチ先生(1924-1999)とともに、傑出した言語学者でスラヴィストのアレクサンダル・ベー
リッチの高弟であり、世界的に有名な、旧ユーゴスラヴィアを代表する言語学者の一人であった。どのスラヴ語を研究するのであれ、イヴィッチご夫妻の名前を
知ら
ない者はいないだろう。
ベーリッチの弟子 のうち、ベオグラードの学閥は師に忠実で、保守的であったのに対し、イヴィッチ夫妻が中心となった「ノヴィ・サド学派」は、
1950年代に創設された大学の、新しく自由な雰囲気に満ち、ベーリッチの教えを発展させ、さらに欧米の様々な研究成果を取り組みながら独自の道を進み、
セルビアの言語学を世界水準に導き、そして今日活躍する多くの言語学者、スラヴ語学者を輩出した。
パヴレ・イヴィッ チ先生が主に音韻論、方言学、そしてセ
ルビア文語史研究を中心に取り組まれたのに対し、ミルカ・イヴィッチ先生はセルビア語統語論、意味論、一般言語理論、スラヴ諸語比較対照研究を中心に功績
をあげられた。また旧ユーゴスラヴィアの言語学者の宿命であろう、ご主人ともどもセルビア・クロアチア語の標準語とその「バリアント」の諸問題にも取り組
まれることもあった。
ミルカ・イヴィッチ先生は、
1962年の国際言語学会で発表された「スラヴ諸語における省略不可定語」という題目の報告で、スラヴ諸語を題材とした統語論研究の専門家として当時の西
側世界で知られるようになった。 1963年に刊行された言語学史『言語学の流れ』(日本語版は 1974年にみすず書房から刊行)の英訳(
1965年)をきっかけに世界的に著名となり、
1968年に東京言語研究所の招きで来日するときには、遠く離れた日本でも知られる存在になっていた。余談ではあるが、英語学者である私の伯父も、イ
ヴィッチ夫妻の来日と講義の印象を話してくれたことがあったので、私は言語学を勉強し始めた早い段階でその名前を知っていた。なお、『言語学の流れ』は、
世界で 10ヶ国語以上に訳されており、セルビアではその後の言語研究の発展(例えば認知言語学)も踏まえた第
9版(2001年)まで改定が重ねられている。
イヴィッチ先生の業績は、セルビア科学芸術アカデミーが刊行した『学士院会員ミルカ・イヴィッチの業績』(2005、ベオグラード)や、『ミルカ・イ
ヴィッチの言語学』(2008、ベオグラード)に詳しく書かれているので、ここでは繰り返さないが、その数は 9冊の単著の他、学術論文を中心に
400点以上に及んでいる。中でも
1954年に刊行された博士論文『セルビア・クロアチア語の具格の意味とその発達』は、スラヴ諸語の通時的統語論研究の重要な著作であり、2004年には
再版されるなど、今日でもその価値を保っている。イヴィッチ先生の研究は主に構造主義に結び付けられるものであるが、その枠にとどまらず、一般言語学の発
展とともに、さまざまな言語分析理論を、セルビア語を中心としたスラヴ諸語に適用し、その新たな分析の可能性と成果を提示する学者であった。
イヴィッチ先生の論文の特徴は、広範な先行研究への目配り、明快な研究テーマ、分析方法の明晰さ、さまざまな言語との有効な比較である。著作は時に僅か
数ページのこともあるが、その量と関わりなく、常に発見と示唆に満ちており、小さいながらも光り輝くダイヤモンドに例えられると思う。
最後の一粒のダイヤモンドは、我々にも残された。昨年、
SESシリーズ第23巻として刊行された『スラヴ諸語における文法化:言語圏および類型論的アプローチ』に寄稿されたテクストは、文字通りイヴィッチ先生
の最後の著作の一つになった。上述のピペル先生が、病床のイヴィッチ先生に論集が刊行されたことをお知らせしたとき、イヴィッチ先生は大変喜ばれたとい
う。
* * *
イヴィッチ先生は、私の恩師であるピペル先生の恩師であり、私は直接薫陶を受けたわけではない。彼女に弟子入りを志願していたのであるが、私が留学を考
えていた当時既に80歳のご高齢で、それは叶わなかった。しかしイヴィッチ先生の著作や先生との交流が私をユーゴスラヴィアにいざない、ピペル先生のもと
でスラヴ語研究を行うきっかけを作った。だから、私の人生の決定的な方向づけをした人生の恩人である。世界的な言語学者でありながら、決して尊大になら
ず、
奢らず、誰に対しても耳を傾け、親切に接する先生のお人柄は、私に大きな印象を残した。
私がベオグラードに留学して間もない
2003年の春、ベラルーシで私の論文が掲載された論集が刊行されたので、イヴィッチ先生にお渡ししようと学士院の受付に預けたことがある。イヴィッチ先
生には世界中からいつも数多くの献本があるので、いかにも重要度が低そうな東欧の論集などが目に留まるわけもないと思い、誰かがいつかお渡ししてくれるだ
ろうと思うだけで満足していた。
ところが、数日後、おそらくピペル先生に私の寮の電話番号を聞いたのであろう、イヴィッチ先生からお電話をいただいた。私の論文を読んで面白かったとい
うこと、私がベオグラードの生活に慣れたかどうか、研究は頑張っているか、そして近いうちに会ってお茶を飲んで話しましょうと言われた。緊張からか感動か
らか、恐らくその両方が原因で受話器を持つ手が震えた。
セルビアで開かれた言語学の学会でもたびたび先生にお目にかかることがあったが、先生の周りにはいつも多くの研究者が入れ替わり立ち替わり現れ、なかな
か近づくことはできそうにない。しかし、それでも先生のほうから私を見つけて、取り組んでいる研究のテーマや近況などを聞いてくださった。その時の会話は
いつも教訓的であり、私にとって形のない宝物である。遠くにおられても不思議と私を見つけ、手を振ってくださることが印象的であった。最初は、私の周りの
人に手を振ってらっしゃるのかと思い前後左右を見たが、誰も反応していないので、私が控え目に手を振り返してみると、笑顔で頷かれた。先生は言語研究同様
に視野が広く、大変気配りができる方なのだと改めて思う。その後何回も先生と言語学の具体的なテーマについて話し、研究に関するアドバイスもいただいた
が、それと同じくらい、初めてお目にかかった時に書いてくださったメッセージ「野町素己さんへ スラヴ語研究で私たちが親しくなれたことを喜んで」先生の
このような気さくな振る舞いは、私の留学時代の励みになった。
イヴィッチ先生はパソコンを一切使わない方だった。論文は手書きで、原稿はピペル先生に渡し、ピペル先生はパソコンに打ち込む係だったと聞く。だから留
学から帰国した後は、まれに手紙を書くこともあったが、たいていは連絡がピペル先生経由になった。最後にイヴィッチ先生から直接連絡をいただいたのは、手
元の葉書によると 2007年
9月である。ロシアのスラヴ語学者サムイル・ベルンシュテインの日記『記憶のジグザグ』(2002、モスクワ)という本を偶然みつけ、それにイヴィッチ夫
妻やベーリッチのことが書かれていたことをピペル先生に申し上げると、該当部分をコピーして送るように頼まれた。その葉書はコピーに対する返礼である。
ピペル先生によると、私が帰国した後、私に職のあてがないことをひどく心配されていたと言う。だから
2007年に私がピペル先生に日本学術振興会の特別研究員に採用されたことを報告すると、ピペル先生はすぐにイヴィッチ先生にお電話したとのことである。
そして
2008年に私がセンターに着任したときは、我がことのように大変お喜びだったという。また、ピペル先生を通じてご報告した私の研究プロジェクトにも興味
を持たれ、機会があればいつでも協力すると言ってくださったと聞いた。それが上述の最後の一粒のダイヤモンドとなった。
直接の恩師ではなかったが、人生の恩人であり、遠くにいながらも私の近き理解者であったミルカ・イヴィッチ先生。私が親しくするセルビアの言語学者で、
イヴィッチ先生のお弟子さんであるソフィヤ・ミロラドヴィッチ先生は「イヴィッチ先生は生前あなたのことをよく言っていました。あなたは葬儀には来られな
いけれども、私が代わりにお供えすればきっと先生がお喜びになるはずだから」と言って、埋葬の際に私の名前を書いた花束と蝋燭をお供えしてくださった。
他界された日は、遅々として進んでいなかった私の博士論文提出の日であった。無論偶然ではあるが、私には脱稿を見届けてから旅立たれたように思えてなら
ない。イヴィッチ先生は「あなたが本を書いたら書評してあげます。早く書いてくださいね」と言っておられたが、これに間に合わなかったのが心残りである。
直接知り合えた時間は短かったが、先生の一言が私を励まし、私に与えた影響は計り知れない。その全てに対する深い感謝の念を込め、心より先生のご冥福をお
祈り申し上げる。
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