スラブ研究センターニュース 季刊 2011 年秋号No.127 index

エッセイ   GCOE「境界研究の拠点形成」秘話・誕生編

いかに私は国境に紡がれたか:

岩下明裕(センター))

八重山:島仲久ファミリー LIVE IN 北大
 I 与那国の「誓い」
 2009 年10 月からスタートしたグローバルCOE プログラム「境界研究の拠点形成」が掲げた目標の一つ、それは日本の国境・境界地域研究にかかわる学会ならぬ、ネットワークをつくるというものだ。発端は2007 年9 月に開催された日本島嶼学会与那国大会で、「国境フォーラム」を組織せよと依頼を受けたことに始まる。外間守吉与那国町長に加え、長谷川俊輔根室市長、松村良幸対馬市長(当時)らの3 人で「国境自治体サミット」をやろうと言い出したのはよかったが、その直後、ワシントンDC のシンクタンク、ブルッキングス研究所の訪問研究員に呼ばれることになった。
先に受けた仕事は可能な限りやる、というのが私のモットーなので、8 月末ワシントンに着いて2 週間もたたないうちに、同伴家族を置き去りにして、成田経由で与那国に向かった。と書くといとも簡単そうだが、成田についてからが難儀だった。ワシントンを出るときには熱帯低気圧だったもののが、成田に着いたときには台風になっており、那覇便は欠航となった。1日遅れで石垣を経て与那国にたどり着くや否や、フォーラムが始まった。対馬市長は与那国行きを断念。往路では台風をかわした根室市長も、帰路では次の台風に追撃され、石垣で丸一日足止めを食らう。「根室は厳しいと思っていたが離島はもっと大変だな」。根室市長の率直な言葉だが、後に冬の根室に降り立った与那国町長は雪で3 度転び、北海道の厳しさを口にする(1)
対馬市長が台風で来られなかったことを帰路で反芻しながら、私はこの出来事を一度きりのショーで終わらせるなという天の声だと感じた。2008 年10 月、小笠原返還40 周年記念という言葉に釣られ、島嶼学会有志と小笠原フォーラムを開催することになった。だが、10 ヶ月の米国滞在で同僚たちに迷惑をかけていた、新米センター長が1 週間も札幌を離れることにはためらいも多く、私自身は参加を見合わせた(2)
次は根室かなと思い始めた矢先の2009 年夏、GCOE「境界研究の拠点形成」採択の朗報が届いた。これにより、企画していた「国境フォーラムIN 根室」はGCOE イベントとして大がかりなものと化していった。「12 月のGCOE 立ち上げ国際シンポジウムと連動させよう、欧米の研究者たちに北方領土をみてもらおう」。さらに、過去2 回のフォーラムの成果でもある『日本の国境:いかにこの「呪縛」を解くか』(スラブ・ユーラシア叢書 北大出版会)を「国境フォーラムIN 根室」で地元の人たちに真っ先に届けたいと思い、全執筆者が集うブックトークも企画した。だが雪の影響などもあり、北大出版会から宅配便で本が会場に届いたのはイベント開始の直前となる(3)。「国境フォーラムIN 根室」は、与那国町長をはじめ対馬の財部能成新市長、小笠原の渋谷正昭課長も参加し、大いに盛り上がった(4)。ただ、始まったばかりのGCOE ゆえにスタッフの多くが着任直後であったこと、私自身が馴れないセンター長として右往左往していたこと、さらには急ごしらえの根室でのイベントであったこともあり、このフォーラムでは仲間たちを振り回した反省ばかりが残った。このときご尽力いただいた方々にはただただ頭を下げるしかない。反省はまだまだ続く。「わざわざ遠くから集まるのだから、イベントだけでなく、もっと中身をつくってほしい」。やる気あふれる対馬市長の言葉は私を撃った。だが同時に市長は2010 年秋に対馬でやろうともみんなに呼びかけた。境界地域を結ぶ実務的なネットワークをつくる。この新しい宿題はこれまでフォーラムを一緒に組織してきた仲間たちに共有され、笹川平和財団からも助成を受けることが決まった。プロジェクトの発展は嬉しいかぎりだが、運営規模の拡大は私を追い込んでいく。しかも、今度の開催場所は同じ北海道の根室ではなく、遙かなる対馬である。幸いにも九州出身である私は、知己を片端から当たって、現地ロジを引き受けてくれる善きパートナー、九州経済調査協会の加峯隆義さんを見いだすことができた。韓国語が堪能な加峯さんは、釜山と福岡を毎週のように往来する日韓海峡圏の架け橋である。だが加峯さんをもっても、対馬でのフォーラム組織は一筋縄ではいかなかったようだ(5)。また中京大学の古川浩司准教授らの奮闘により、各自治体で国境協力などを担当する実務者を招請でき、これまでの開催地である4 自治体(与那国、小笠原、根室、対馬)のみならず、稚内、竹富、大東島、佐渡、隠岐など地域的な広がりも得た。フォーラムも4 自治体も一周したことだし、イベント性の強い「国境フォーラム」はもういいだろう。こうして実務を軸とした境界地域研究ネットワーク結成の機運が高まった。
境界地域研究ネットワークJAPAN
設立特別企画「激論 北方領土問題」
だが新たなチャレンジが待ち受けていた。対馬を乗り越えて気をよくした私は、ネットワーク結成の準備にむけ、実務会合を与那国でささやかに組織しようと呼びかけた。これを聞いた外間与那国町長は「せっかくやるのだから、飛行機をチャーターして台湾でもセミナーをやらないか」と切り返す。今度こそこぢんまりの目論見はかくて崩れた。与那国・花蓮のチャーター便との「闘い」で、私は今年、幾度、眠れない夜を過ごしただろう(それでもセンター長時代よりは眠れた)。思い出したくないことばかりだ。ここから先は書けるほど熟していない(6)
 率直にいって、大学教員になって以来、旅行代理店の元締めのようなことまでやるはめになるとは想像しなかった。だがよくよく考えてみれば、旅行社は国境越えをコーディネートするパイオニア的存在なのだから、多くの人々を境界地域へ連れて行こうとすればその役割を担うことになるのは必然なのかもしれない。一見、華やかにみられることの少なくないGCOE だが、離島や田舎の軋轢にもまれながらの地道な交渉や粘り強い作業は、都会の快適な暮らしとは対照的な辛酸の日々である。ボーダースタディーズの成果は、現地回りや飛び込み営業など、とにかくあきらめず足で稼いだ先にしか見い出せない。あれこれ考える時間も細切れのなか、机の上ではなく、飛行機、列車の中、車の運転席、ジョギングや散歩の最中、宴席の合間などに作り出すしかない。私たちのGCOE にクラシックなアカデミズムを求めて来られる研究者の皆さんには、申し訳ないがご期待にはそえそうもない。ばたばたしているうちに、気がつけば、この11 月27 日に境界地域研究ネットワークJAPAN なる組織が立ち上がるという。人ごとのように眺めると、呼びかけ文はなかなかスマートで美しい(7)。来年の夏はネットワーク最初の事業として、稚内からサハリンに定期フェリーで渡って国境越えセミナーをやるそうだ。稚内からは帰りに飛行機をチャーターしようなどという声も聞こえてくる。私の眠れない日々はいつまで続くのだろう。
BRIT IX カナダから米国への船上での再会
II ワシントンの「呪い」
グローバルCOE プログラム「境界研究の拠点形成」が掲げたもう一つの目標は、ユーラシアや東アジアの国境・境界研究を束ね、それを世界に「売る」というものだ。そのためにヨーロッパで生まれた研究ネットワークBRIT(Border Regions in Transition)を日本に誘致する。北方領土問題があるなかで、ロシアとの国境シンポジウムというのは無理であるから、日本の周辺で一番安定している(境界がはっきりしている対馬沖をわたって)福岡・釜山にこれを招致するというが私たちのプランだ。BRIT は国境を跨いだ2 ヶ国間の地域で移動しながら実施するというのがならわしであり、1994 年のベルリン大会を皮切りに、これまで主としてヨーロッパで持ち回り開催をされてきたが、最近は北米や南米でも行われている(8)。このプランのきっかけは、北海学園大のある先生から、2007 年10 月にロシアとの国境研究で名高いヨエンスー大(現:東フィンランド大)カレリア研究所と一緒にシンポジウムをやるから、ロシア・中央アジアと中国の国境問題について報告してくれと依頼されていたことで生まれた。この約束を引き受けた直後に、ワシントンDC からの招待状が届くことになる。先に受けた仕事を可能なかぎりやる、というのが私のモットーであるから、恨まれながらも、ワシントンに渡って1 ヶ月後、再び家族を置き去りにした(9)。このときのカレリア研究所の所長がイルカ・リッカネン、2009 年12 月GCOE 最初の国際シンポジウム報告者の一人、何よりもBRIT 創設時メンバーの一人でもある。私が米国にいることを知ると彼は即座に2008 年1 月末開催予定のBRIT 第9回のカナダ米国大会(ビクトリア・ベリンガム)に参加しろと私に声をかけてきた。恥ずかしながら、私はこの時点でBRIT の存在を知らなかった。今でこそ、偉そうに、ユーラシアや東アジアの国境問題研究の世界からの「孤立」やネットワークのなさを批判するが、実は数年前の私自身の姿がそうなのだ。
ちなみにイルカは一度を除いてすべてのBRIT 大会に参加しているという。これはABS 会長(後述)も務め、かつてベルリンを拠点に活躍していたBRIT 創設メンバー、ジェームズ・スコットの記録を上回っており、おそらくイルカ以上のBRIT メダリストはいない。
BRIT IX 最終日:エマニュエルのあいさつ
イルカの紹介はてきめんであった。プロポーザルがとうに締め切られているにもかかわらず、無理矢理、報告者の一人に入り込んだ私は、もちろん持ちネタの「ユーラシア国境の旅」、中国・中央アジア・ロシアから日本に渡る8000 キロを越える現場の模様をスライドで披露した。ユーラシア地域の境界問題の報告者は私一人しかいない。他方で、会議の議論を聴くにつれ、フラストレーションが沈殿していった。「こんなに平和で安定した北米国境。実にうらやましいかぎり。それなのになぜこいつらはチャンレンジ、チャンレンジとこんなに騒ぐのだろう」。なかでも論議が集中したのが、9.11 以降に米国が導入した「スマート・ボーダー・ポリシー」により、カナダから米国への入国がスムーズに行かなくなったことだ。いかにこれによって経済損失が大きいかが議論され、米国政府への批判が巻き起こった。だが私にはカナダと米国の通関手続にさしてチャレンジあるようには思えず、何が問題なのかさっぱりわからない。困惑する私にとなりに座っていた研究者がささやいだ。「いや昔は5 分だったのが、今は30 分もかかって困っているのさ」。30 分! 中国とロシアの国境通関を思い浮かべた私に、これは衝撃であった。このとき境界地域と境界地域を比較する意義に私は覚醒する。イスラエルで境界問題の厳しさを熟知するディヴィッド・ニューマン(ベングリオン大)が私に言った。「こいつらをおまえやっているユーラシアに一度、連れていってやれ」。
ポリシーメーカーをみんなが批判する。それは健全なことだが、この場にはワシントン州政府の関係者はいても、ワシントンDC はおろか東海岸の研究者は誰もいない(東からの参加者は私のみ。しかも私は外国人)。ブルッキングスでいかに国境問題に周りが無関心であるかに気づき始めたばかりの私は、話題が沸騰したランチオンの場で、いたたまれなくなって手をあげた。「私は境界研究をずっとやってきた。なかなか理解されないことが多いのだが、このBRIT 会議はそもそも境界とは何かなど最初に説明する必要が全くない。これは喜びであり、ようやく我が住処をみつけた気持ちで一杯だ。他方で、皆さんの米国政府に対する憤懣は理解するものの、政策関係者がここには誰もいない。そういう場で声を荒げても皆さんの考えは彼らに伝わらない。どういうチャンネルでそれを政策に反映させるおつもりか」。会場は静まりかえった。ワシントン州の関係者は私たちの声は中央政府に届くと応えたが、具体的な中身は聞かれなかった。集まりのあと、誰かが私のそばにきた。「おまえの言うとおりだよ」。この瞬間、国境問題の重要性をワシントンDC や首都に「売る」ことも私の使命の一つとなった。BRIT の慣例として、最終日の会議で次をどうするか議論する。BRIT はネットワークで、次の会議は次の組織者がすべて引き継ぐため、常設事務局などない。
最後の全体会議での提案を受け、それまでのBRIT 組織責任者が話し合って、次の組織者にバトンを渡すのがならわしだ。ワシントン州ベリンガムでの会議では次の開催組織責任者になるべく手をあげる者は誰もいなかった。BRIT 前組織者でもあるポール・ギャンスター(サンディエゴ州立大)は「おまえが日本でやれ」とせっつく。しかし、私は新参者だ。準備はおろか心構えもできてない。「次の次に」と応えるのが精一杯だった。
このときのBRIT のホストがエマニュエル・ブルネイ・ジェイ(ビクトリア大)。私たちのGCOE を申請段階から強くサポートしてくれただけでなく、GCOE 最初の国際会議や2010 年の「国境フォーラムIN 対馬」にも参加し、今回のBRIT 第12 回福岡・釜山大会の誘致も全面的に応援してくれた人物である(10)。彼との出会いにより、北米を中心としたABS(Association for Borderlands Studies)の存在を知り、2 ヶ月後の2008 年4 月のデンバーで予定されていた大会へワシントンDC からか駆けつけることにもなった(もちろん、プロポーザルはすでに締め切られていたが)(11)
さてワシントンに翻弄されながら、帰国した私にBRIT 第10 回大会は2009 年6 月に南米チリとペルーの国境地域で開催されるとの通知が舞い込む。私は行くつもりで早々に報告プロポーザルを出す。行く手を阻んだのが、新型インフルだ。北大は当時、「感染地域」に渡航した場合、帰国後1 週間の「通勤停止」を義務づけていた。だいぶ慣れたとはいえセンター長がそう頻繁に長い間オフィスを離れるわけにもいかない。その翌月、BRIT の日本誘致を公約したGCOE 採択のニュースが届く。私はポールとの約束を思い出す。この日から「誓い」は「呪い」に変わり、夢のなかで反芻されている。私の眠れない日々は終わりそうもない(12)


1 岩下明裕編『日本の国境:いかにこの「呪縛」を解くか』北海道大学出版会、2010 年の序章をみられよ。
2 万が一、この文意がわからない読者は、小笠原へどうやっていくかを調べてほしい。
3 2011 年11 月、「ブックインとっとり」により地方出版文化功労賞がこの本に受賞されることになり、さすがに全執筆者とはいかなかったが、多くの関係者が集う記念イベント「日本の国境:危機と岐路」を開催した。その夜は、執筆者と北大出版会の主催により北海道風沖縄料理屋「うみんちゅぬ・やまんちゅぬ」北大前店でささやかなパーティーを開き、関係者の方々へ御礼をした。総長はじめ多くの方々に足を運んでいただいたが、本書への最大の功労者は、カバーや地図のデザインを担当した伊藤薫さんである。実際、GCOE の博物館ブースに設置されている巨大地球儀も彼の発案だ。GCOE の採択直後、当時すすきのにしかなかった「うみんちゅぬ・やまんちゅぬ」で練ったアイデアが下になったものだ。「沖縄を北海道に持ってくる、北海道を沖縄に持っていく」。これもGCOE の根っこであり、北と南をつなぐ博物館移動展示構想へと連なる。この場をかりて、伊藤さんには改めて御礼を申し上げたい。もう一つ、これを書くと朝日新聞社の方に怒られるだろうが、国境に関心をもつ仲間たちとつくった共同作品が、鳥取という別の地方で評価されたことは、大佛次郎論壇賞をいただいたときよりも嬉しい。http://borderstudies.jp/news/index.php?y=2011&m=10&log_id=287
4 http://borderstudies.jp/essays/live/pdf/BorderliveNO1.pdf
5 このあたりは「対馬ライブ」の行間を読み込んでほしい。http://borderstudies.jp/essays/live/pdf/Borderlive5.pdf
6 与那国セミナー・ライブをみよ。チャーター便の苦悩についてここでも行間を読まれたい。
http://borderstudies.jp/essays/live/pdf/Borderlive7.pdf 実際にチャーター便が飛ぶシーンを見たい方は、DVD「知られざる南の国境:八重山と台湾」が最寄りの図書館に入るのをしばしお待ちを。http://borderstudies.jp/news/index.php?y=2011&m=10&log_id=288
7 http://www.borderstudies.jp/jibsn/statement.htm
8 BRIT については下記を参照。http://www.borderstudies.jp/en/publications/review/data/ebr/2_Liikanen6.pdf
9 どうでもいい話だが、このとき米国に戻る日が、ファイターズとドラゴンズの日本シリーズ初戦であった。NY の空港で、携帯でどっちが勝ったか着くやいなやチェックした覚えがある。たしかダルビッシュで勝ったように思う。しかし、その後、全敗。かの有名な継投パーフェクト負けをくらい落合中日に前年度の雪辱をくらう。このときほど札幌にいなかった幸せを感じたことはない。その前年、日本シリーズ第5 戦で歴史的日本一の瞬間を札幌ドームでともに味わった友人は、1 ヶ月たっても負けた悔しさがはれないと言っていた。地理的な位置どりが、ものごとを感じたり、考えたり基準に大きく影響することを実感した瞬間であった。こうして私のなかのボーダースタディーズは密かに覚醒していくのだが、ヒルマン監督に向かう旅もこの瞬間に始まった。ヒルマン・ストーリーについては、http://borderstudies.jp/essays/live/pdf/Borderlive6.pdf を参照。
10 http://borderstudies.jp/news/index.php?y=2011&m=09&log_id=282 ここまで読まれて、いまさらABS って何?と言い出す方もいないとは思うが、そういう方は振り出しにもどって、GCOE のホームページを読むところから始めてほしい。
11 どうでもいい話だが、このときたまたまデンバーで開催されていたコロラド・ロッキーズのナイトゲームで、カブスに移ったばかりの福留孝介をみたような気がする。
12 あくまで気が向いたらの仮定だが、「GCOE 秘話」は今後、不定期に連載されるかもしれない。

→続きを読む
スラブ研究センターニュース No.127 index