スラブ研究センターニュース 季刊 2011 年秋号No.127 index

エッセイ

チャパーエフ少年の寝床

後藤正憲(センター)

フルンゼの使っていた机
(フルンゼ博物館蔵) 
 平成21 年度からスタートした科研費基盤研究「ヴォルガ文化圏とその表象に関する総合的研究」の一環として、ヴォルガ下流域の視察調査旅行に参加させてもらった。8 月の照りつける日差しの中、サマーラからサラトフ、ヴォルゴグラードへとヴォルガ河を下り、途中エリスタを経てアストラハンをめぐる旅程は、体力を消耗させるものではあったものの、その分充実した内容だった。
 モスクワから国内線の飛行機に乗り、私たちが最初に到着した街サマーラで、最初に訪れた場所がフルンゼ博物館(Дом-музей Фрунзе)だった。かつてロシア革命直後の内戦期に、赤軍側のМ.В. フルンゼ(1885 ~ 1925)率いる東部戦線南方軍の参謀本部だった建物が、現在では博物館として公開されている。さほど大きくない建物の中には、フルンゼ個人の年譜に関する展示品のほか、参謀本部で使われていた調度の類、また内戦時の軍旗や軍服、ポスターなどが展示されている。
 実を言うと、私はそれまでロシア内戦の歴史についてそれほど詳しい知識を持っていなかったし、フルンゼ個人についてはほとんど何も知らなかった。この博物館で初めて彼の波乱万丈の人生に触れ、圧倒された。まだ革命前に、帝国政府への反逆罪で死刑宣告を受けた時期に取られた写真などは、無我の境地に立ったようなその表情が、見るものの心にズシンと響いてきた。
 それと同時に、博物館では言いようのない違和感に包まれた。ソ連が崩壊して20 年が経過した現代のロシアで、ボリシェビキの勇ましいスローガンが書かれた垂れ幕やポスターに覆われた建物の中を歩いていると、まるで外部から切り離された世界に迷い込んだような気がする。それに、案内してくれた博物館のガイドもまた、私の戸惑いを増幅させた。ジーパンに棉のシャツを爽やかに着こなし、派手なネックレスを身につけた、まるでミュージシャンを思わせる長髪痩身の中年男性が、淀みない口調でロシア革命の内戦について解説している。私が以前から持っていた乏しい知識と、展示品や写真から受ける印象、それに、博物館の外に通じる「いま」が、それぞれまったく重ならず同時に存在する。まるで、寝覚めの悪い朝に、まだぼんやりとしたまま意識の定まる手前をさまよっているような感覚。
 歴史の事象がもつ様々なフェーズの間に明確なズレを覚えたのは、私たちが次に訪れたサラトフの街でも同じだった。その中心には、この街の生んだ革命思想家Н.Г. チェルヌィシェフスキイ(1828 ~ 1889)の立派な銅像が立っている。私たちは、彼の生まれ育った家を利用した博物館に、ほとんど吸い寄せられるように訪れた。しかし、博物館には私たちの他にまるで訪問者もなく、そこだけ周りから取り残されたような、ひっそりとした雰囲気が辺りを覆っている。街を案内してくれたクセーニャさんなどは、ご本人が若手の舞台脚本家として活躍されていることもあって、創作家としての意識が許さないのだろうか、チェルヌィシェフスキイのことを「ダメな作家だわ」とあっさり切り捨てた。同じ人や物にも複数の位相があり、それぞれに差異があって当然だ。私たちは普段ものごとを理解するときに、ひとつの位相だけ捉えることに慣れてしまっている。だがこうやって、現地に置かれた環境の中で捉え直すと、同じものがそれぞれの位相で全く違う顔を持つことに、改めて気づかされる。
フルンゼ(左)とチャパーエフ(チャパーエフ博物館蔵) 
 ヴォルガ下流の視察旅行から数ヵ月後、改めて私はチェボクサルィにあるチャパーエフ博物館を訪れた。前々からその存在を知りながら、なかなか足の向かなかったその博物館に行ってみる気になったのも、この夏の経験があったからなのは言うまでもない。
 鉄道駅そばの公園に、いななく馬にまたがって高々とサーベルを掲げるВ.И. チャパーエフ(1887~ 1919)の銅像がそびえ立つ。その脇にある博物館の建物に入ると、一箇所に集まって井戸端談義をしていたらしい職員の女性たちが、「よっこいしょ」とばかり一斉に腰を上げて、それぞれ自分の持ち場に散っていった。「そっちで上履きはいて。チケットはあっち。入り口はこっち」――投げ遣りな調子で案内された他は特に解説もなく、放っておかれたことをむしろありがたく思いながら、展示品を見る。
カザン県ブダイカ村(現在はチェボクサルィ市の一部)のロシア人農民の家庭に生まれたチャパーエフは、フルンゼ率いる南方軍が、白軍の占拠する東部戦線を攻略するのに、大きな功績を立てた指揮官の1人である。内戦当時、赤軍の部隊を束ねて勇猛に闘う彼の姿は、ステンカ・ラージンやプガチョフのイメージと重ねて捉えられた。その後、フールマノフによって彼の活躍を描いた小説が書かれる(初版1923 年。邦訳は『チャパーエフ物語』(吉原武安訳)岩波書店、1959 年)。さらにワシーリエフ兄弟による映画『チャパーエフ』(1934 年)の成功によって、彼の名は不動のものとなった。映画の中のチャパーエフは、気にいらないことがあると椅子を地面に叩きつけて壊したり、敵味方の布陣を表わすのに使ったジャガイモを、勢い余って齧ったりする奔放な熱血漢として描かれている。
 
チャパーエフの生家(左)とその寝室
部下のペーチカと狙撃手アンナのロマンスをも交えた映画のイメージは、その後意外な形で受け継がれることになる。アブラム・テルツ(シニャフスキイ)によると、革命50 周年の1967 年頃から、チャパーエフを主人公とするアネクドート(ジョーク)が人々の間で語られ始め、その後チャパーエフは最も多くアネクドートに登場する人物の1 人となった(Абрам Терц, Анекдот в анекдоте // Одна или две русских литературы? L’age D’homme, 1981)。
たいていは、うぶで間抜けなペーチカと、それに劣らずとぼけた指揮官チャパーエフの軽妙なやり取りが、笑いの種となっている。アネクドートはブレジネフ時代のソ連で全盛を迎え、ペレストロイカの80 年代後半にはすでに後退したらしい。しかし、私が大学院生だった1990 年代後半でも、まだ以前の名残で際限なくアネクドートを披露したがるロシア人に出会うことが時々あった。その頃に書かれたヴィクトル・ペレーヴィンの小説『チャパーエフと空虚』(初版1996 年。三浦岳氏による邦訳は群像社、2007 年)は、アネクドートに映し出されたチャパーエフとペーチカの姿を原型とした作品である。主人公の僕(ピョートル)は、夢と現のあわいで現代のロシアと内戦期の混乱の中を行き来する。そこで出会ったチャパーエフとのやりとりを通して、自分の中の異なる位相を発見していくのだ。職員が退屈するほど人の来ない博物館で、ひと通りチャパーエフに関する展示物――もちろん内戦期のものだけに限られる――を見終わって帰ろうとすると、建物を出てから別棟に行けとのこと。言われた通りに行ってみると、少し離れた場所に丸太作りの小さな家が立っていて、入り口のところで案内役の女性職員が私を待ってくれていた。小屋と言ってもいいほど小ぢんまりとした家は、チャパーエフの生家をそのままの形で移築したものだ。職員が鍵を開けて中に導きながら、そこにあるものについて説明してくれた。薄暗い建物の中には、どこにでもあるような農家の調度類が並ぶ。奥の間は寝室になっていた。女性職員によると、ベッドには両親が、温かいペチカの上には祖父母が寝て、9 人いたという子供たちは、ペチカの上から渡した板と天井との間の狭い隙間に潜り込んで寝ていたそうだ。アネクドートを口にする人も滅多に見かけなくなった現在、英雄の少年時代を夜ごと包んでいた寝床は、静かに何かを物語っているようで、楽しい気分になった。チャパーエフ少年は、ここでどんな夢を見ていたのだろうか。

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