スラブ研究センターニュース 季刊 2012 年冬号No.128 index

エッセイ

境界のスラヴ語「ゴーラ語」を考える

野町素己(センター)

1.「セルビア・クロアチア語問題:4 でも0 でも、2 でもなく」

 「先生、セルビア語とクロアチア語は2 つの別の言語ですか?また、ボスニア語とはなんですか?」
 この質問は、私が学生時代「セルビア・クロアチア語」を勉強していたときに、初・中級の授業を担当されていたS 先生にしたものである。S 先生は、初心者の私に丁寧に解説して くださった上で、「私は言語研究者ではないから、言語学者に聞いてみてください」とおっしゃった。それから10 年近く経ち、現在は私が学生から同じ質問をしばしば受けるようになっ た。12 月に東京のある大学で行った集中講義でもやはり同じ質問をされた。自分が学生だったときとの違いを挙げるとすると、「モンテネグロ語とはなんですか?」という質問が加わっ たこと、また「セルビア・クロアチア語」という名前があまり聞かれなくなったことだろうか。
 バルカン研究者、特に旧ユーゴスラヴィア諸国をフィールドとする研究者には、常にこの種の問いが付きまとうが、これは一種の宿命であろう。そしてこのような問いに対して、い つもクリアカットな回答が求められるが、実際には、誰もが納得する答えを出すことはほぼ不可能で、特に(諸)言語の担い手である当事者を等しく納得させることは、現状では絶望 的であり、この状況はしばらく変わらないであろう。
 ここで問題となっているのは、基本的に東ヘルツェゴヴィナ地方の南スラヴ方言を基盤と し、それぞれの地方色を標準語に含めている言葉、かつては「セルビア・クロアチア語」と 呼ばれ、今日それらはクロアチア語、セルビア語、ボスニア語、モンテネグロ語の「4 言語」 と数えられることが増えてきている言葉のことである。しかし、モンテネグロ語という名称は、 大体1990 年代に活発化し、特に2006 年にモンテネグロがセルビア・モンテネグロから独立 したあたりから既成事実化したため、それまでこの地域で使用されてきたのはクロアチア語、 セルビア語、ボスニア語の「3 言語」だったことになる。ただし、ボスニア語も、19 世紀末 に導入されかけた経緯があるものの、頻繁に用いられるようになったのは1990 年代以降、特 に1995 年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が終結したデイトン合意以降にその名称が公式 化してからである。したがって、それまで存在したのはクロアチア語とセルビア語の「2 言語」 ということになる。しかし、モンテネグロ語やボスニア語は、あくまでも政治的に生まれた 言語であり、歴史的に形成された独自の文語の伝統を有してないため、独立した言語として は認められないのではないかという見解が、今でも繰り返し聞かれる。

ゴーラ地方の地図
(パリム・コソバ著『ゴーラと20 世紀の伝統衣装』より)
 では、「2 言語」のセルビア語とクロアチア語だが、これは話が少しややこしい。19 世紀の 南スラヴ諸民族の統一を目指す運動と連動して、上記の東ヘルツェゴヴィナ方言を基礎に唯一の文語を目指す「ウイーン文語協定」が1850 年に宣言され、ここにいわゆる「セルビア・ クロアチア語」という「1 言語」が宣言された。しかしこの協定に公的な拘束力はなく、クロアチア人は自分たちの言葉の伝統を保持する傾向があり、またセルビア人の間でも意見は分かれて いた。特に当時のセルビア文化の中心であったヴォイヴォディナのセルビア人エリートにとっては、ロシアの影響が濃い言語文化伝統を捨てて、ヴォイヴォディ ナ方言とは異なる東ヘルツェゴヴィナ方言に一元化することは受け入れ難かったため、宣言された「唯一の文語」の形成は結局不完全なものになり、これが今日に 続いているのである。その後も離反と接近を繰り返しつつ、この不完全さを乗り越える試みは幾度かあり、例えば1954 年の「ノヴィサド協定」で再び「唯一の文語」が宣言さ れるものの、結局のところ、様々な矛盾点を残す「緩い統合」でしかありえなかった。それもあり、そもそも統一された「セルビア・クロアチア語など存在しなかった(= 0)」という 立場もある。またセルビアでは、「クロアチア人は土着の方言を文語にする道を絶ち、ヴーク・カラジッチのセルビア語を文語に採用したため、クロアチア語はそもそもセルビア語。だか らセルビア・クロアチア語は存在しなかった。存在するのはセルビア語だけ」という意見も聞かれる。

2.その他の「セルビア・クロアチア語」としての「ゴーラ語」

 前ふりが長くなったが、ここでそれぞれの見解の妥当性を検討したいわけではない。頻繁に議論されるクロアチア語、セルビア語、ボスニア語、モンテネグロ語の有無、その現状や 正当性に関する議論に尽きるのではなく、こういった政治や社会の変動が、言葉の担い手のアイデンティティに様々な変化をもたらすことは珍しくない。ときに、話者の潜在的に存在 していた言葉に対する意識が鋭くなった結果、新たな「言語」が生まれる可能性は至るところに存在している。上記の「セルビア・クロアチア語」との関わりにおいて言うならば、言 語の定義にもよるが、この地域の言語の数が4 よりも増える日がくるかもしれない。そう思わせるのが、ヴォイヴォディナ地方北部で話されるブニェヴァツ人の言葉や、主にコソヴォ やアルバニアのゴーラ人の言葉である。「ブニェヴァツ語」に関しては稿を改めるとして、ここでは「ゴーラ語」について考えてみたい。ゴーラとはコソヴォ(18 村)、アルバニア(9 村)、マケドニア(2 村)に分断されている 地域の名称であり、その名称は「山」を意味する。この地域に住むイスラム教徒の南スラヴ人は「ゴラニ(ゴーラ人)」と呼ばれ、自らは「ナシンツィ(我々の人々)」とも呼んでいる。

レジェプラリ氏の著作
 では、彼らが話す言葉は何語だろうか?彼ら自身は「ゴランスキ(ゴーラ語)」あるいは「ナシンスキ(我々の言葉)」と呼んでいる。この言語の属性には様々な見解がある。例えば、ブ ルガリアの研究者は19 世紀以来伝統的にこの地域の言葉をブルガリア語の方言と見なしている。それに対しマケドニアの学者はマケドニア語西部方言に分類している。セルビア人学 者は意見が分かれ、例えばパヴレ・イヴィッチはマケドニア方言と見なしているが、ラディヴォイェ・ムラデノヴィッチは、あるときはセルビア語とマケドニア語の過渡的方言、違う ときはセルビア語の方言、また別のときにはマケドニア語の方言と立場を変えているようである。これに加え、ボスニアの方言学者は、 ゴーラ人の言葉を「ボスニア語の方言」と定義している。これは地理、方言的、歴史的な連続性ではなく、「ムスリムの南スラヴ人の言葉」と いう理屈に基づいている。こうなるともはや学術的とは言い難いが、当のゴーラでは、ボスニアで刊行されたボスニア語の教科書による 教育が既に導入されているので、ゴーラ人が用いている文語(の1 つ)は事実ボスニア語となっている。

3.ゴーラ語作家ラマダン・レジェプラリ

ゴーラ語が独立した1 言語か方言か、これは定義にもよるし、ゴーラ語の話し手によっても意見は様々である。ただ、その使用範囲は基本的に日常会話のみで、目下文語としての規 範もなければ、ゴーラ語によるマス・コミュニケーションや教育などもない。したがって、セルビア語、マケドニア語、ブルガリア語などの発達した文語を有する言語とは状況が異なり、 「地元の方言」に近いだろう。余談だが、私がセルビアに留学していたときに、ノヴィサド市で、あるゴーラ人が窃盗事件で逮捕された。ゴーラ人の被告は、自分の母語はセルビア語で はなく「ゴーラ語」であるから裁判には「ゴーラ語」の通訳が必要だと主張した。そこで裁判所からノヴィサド大学のセルビア語学科に、「ゴーラ語」は存在するか、もし存在するなら ば通訳はいるかという問い合わせがあった。セルビア語学科の対応は「それはセルビア語の方言だから『ゴーラ語』は存在しない。従って通訳もいない」というものだった。 しかし「書き言葉」が皆無という訳ではない。例えば、ハミド・イスリャミというゴーラ出身の作家は、1990 年代にセルビア語とゴーラ語による詩集や劇を多く刊行し「ゴーラ語と セルビア語で書く詩人」として紹介されている。この作家はセルビア語のキリル文字とラテン文字をそのまま用いており、またその他の作家(と言っても数人だが)も、基本的にセル ビア語の文字から外れることはない。

レジェプラリ氏が提案する文字
この意味において、精力的にゴーラ語で活動を続けるラマダン・レジェプラリ(1944 -) の一連の著作は目を引く。レジェプラリ氏は、2005 年から「チェクメジェ(宝箱)」という昔話やおとぎ話の著作を刊行している。昨年12 月にその最新刊の第3 巻が私のもとに届けられた。レジェプラリ氏は「ゴーラ語にはボスニア語、 セルビア語、クロアチア語、マケドニア語にはない音があるので、新たな文字が必要である」とし「セルビア・クロアチア語」のラテン文字に4 文字と3 つの補助記号を加え、その文字体系を基に、ゴーラ語の様々な下 位方言で執筆を行っている。3 巻ではさらに3 文字を追加して、その精密化を試みており、彼が導入した文字を用いた執筆活動は、将来編まれるべきゴーラ語文法の第一歩となっていると主張する。またこの3 巻では 「ゴーラ人が中央アジアから移住した証拠は多数ある」とし、南スラヴではなく、そこにゴーラ語の由来を求めている。このような言葉の「神話化」と「差別化」は、特に小さい言語の独自性を正当化するパターンの一つ であり、その信憑性はない。また彼の文字システムに反対意見も少なくなく、言語学的に見ても適切とは言い難いところもある。そして彼の正書法が、超方言的な共通の正書法になるとは俄かに思えないが、彼の執 筆活動は高い評価を得ており、発行部数は第3 巻だけで1500 部にも上ることは無視できない事実である。

4.ゴーラ語は境界を越えるか?

マケドニア側ではゴーラ語による文化的活動は行われていない。アルバニアではナジフ・ドクレ氏を中心とするゴーラ語による活動が行われ、ドクレ氏は2007 年に1400 頁もの辞典 を刊行している。ただ彼らは目下、特に言語文化の保護と発展に関わる跨境的な共同作業は行っていないようである。しかしインタビューに応じてくれたイドリジ・サディク氏による と、アルバニア側で最近ゴーラ語の歌や踊りのコンサートが開催され、それにコソヴォのゴーラ人も参加したとのことである。今後ますます跨境的な活動がゴーラ語文化に重要な意味を 持つだろう。そのために言語学者が地元の活動家と協力して果たすべき役割は小さくないことを改めて認識するのであり、こういった境界地域の言語問題の比較研究は、類似した問題 を持つ他地域の言語文化の保全への貢献にもなる。そのような視点から今後ゴーラ語研究に取り組みたいと考えている。
 

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