スラブ研究センターニュース 季刊 2012 年春号No.129 index

エッセイ

日本正教会見聞録

松里公孝(センター)


名古屋教会で松島神父夫妻と
 モルドヴァのキリスト教民主人民党は、かつてはモルドヴァとルーマニアの合邦を掲げる汎ルーマニア主義政党であった。この党の指導者の一人であるヴラッド・クブリャコフと知り合ったのは、2005年5月のことである。当時は、キリ民党が不倶戴天の敵であったはずの共産党の党首ウラジーミル・ヴォローニンを大統領として選出することに賛成投票するというウルトラCをやってのけた(モルドヴァでは議会が大統領を選ぶ)直後であり、キリ民党の指導者たちはアメリカに招かれて、ブッシュ政権やNATO指導部と今後のモルドヴァの政局運営について討議している最中であった。まあ、ご褒美のアメリカ観光という面もあっただろうが。何らかの理由で早めに帰国していたクブリャコフが、私の相手をしてくれたのである。「小さな我々が、大きな共産党をワルツに招いた。しかし、ダンスをリードしたのは我々である」と後に言って、クブリャコフは笑っていた。敬虔な正教徒であるクブリャコフは、ルーマニア正教会のベッサラビア主教座が、ロシア正教会キシナウ府主教座に属する教区を切り崩す先頭に立っていた。こう書くと、親露的な立場の人から見ればとんでもない人物のようだが、私とは何故かうまが合い、私以外にも日本のモルドヴァ研究者を熱心に助けている有難い人物である。
 共産党と事実上の連立を組んだことで、キリ民党は従来の支持層を失ってしまい、2009年の選挙では4%の最低得票率を越えることができず、クブリャコフも民族民主革命期以来20年近く有していた国会議員としてのステータスを失った。おかげでアマチュア歴史家としての自分の研究課題に専念することができるようになった。日本に正教を伝えたのは、言うまでもなく、ニコライ(カサトキン)である。彼は、1971年にロシア正教会によって列聖された。しかし、彼の最も有能な弟子であったチハイ兄弟(修道士で文字通り聖ニコライの女房役であったアナトーリーと教会音楽家であったヤコフ)とドミトリー・リヴォフスキー(教会音楽家)がベッサラビア出身のルーマニア人であり、日本での正教布教に大きな功績を残したことは、歴史上忘却されている。クブリャコフはこれに憤りを感じ、3人のベッサラビア人に正当な評価を下すために研究しているのである。もちろん、日本語も読めない素人研究者だから、長縄光男やシーラ・ノヴィツカヤ(サプリン・在札幌ロシア総領事夫人)などから見れば、彼の知識の水準は滑稽なものだろう。それでも、日露関係の黎明期にベッサラビア人が大きな役割を果たしたことには日露の研究者は注目しないので、第三の見地からの彼の研究には意義があるように思われる。クブリャコフは私より5歳くらい若いが、時代を共有した者として、「あの時代に遭遇していなければ、私はおそらく神学者か言語学者になっただろう。しかし私は傍観者ではいられなかった」という台詞には、何かを感じずにはいられない。静岡県立大学の六鹿茂夫先生(クブリャコフとは民族民主革命期以来の仲であるから、私と は友情の年季が違う)と資金を折半して、クブリャコフの日本での現地調査を助けることにした。
 1月21日(土)、新学術領域研究会での報告を終えるや否や、神戸行きの飛行機に乗る。神戸から電車を乗り継いで新大阪駅付近の東横インに辿りつくと、すでに日本での最初のインタビューであった桧山真一教授との面談を終えたクブリャコフがホテルの玄関前で煙草を吸っている。翌日曜日、我々は朝早く新大阪を発って名古屋の鶴舞にある正教会に行く。この教会の司祭は松島ゲオルギー神父である。スラブ研究者の目を引くのは、神父の奥様(正教コミュニティでは司祭がバーチュシュカ、「お父ちゃん」と呼ばれるように、司祭の妻はマートゥシュカ、「お母ちゃん」と呼ばれる)である松島マリアさんが故・保田孝一先生の令嬢であることだ。ただ、マリアさんは、父君の職業とは関係なく正教に惹かれたとおっしゃっていた。イコン画家の山下りんに例示されるように、また明治年代の『正教新報』を読めば明らかなように、日本正教会は黎明期から婦人が果たした役割が大きかったことで際立っている。函館教会のニコライ・ドミトリエフ神父の奥様、山崎スヴェトラーナさんにも共通するが、マートゥシュカがこれほど活躍するのを他の正教国では見たことがない。マリアさんは自身が音楽家であるばかりでなく、正教音楽史の専門家なので、ヤコフ・チハイやリヴォフスキーの業績を調べたいクブリャコフにとっては、絶好の面談対象である。しかし、マリアさんの方は、近年のルーマニア正教会のセクト主義に辟易しており、ルーマニア正教会の立場を代表するクブリャコフとの間で、それなりに辛辣な会話が交わされた。
 欧州、北米、オーストラリアなどは、コンスタンチノープル世界総主教座の教会法上の領域に属するにもかかわらず、東欧からの巨大な移民人口を抱えるため、母国の正教会(ロシア、ルーマニア、セルビアなど)が当たり前のように自分の教会を開き、著しい場合には主教座を置く。ミュンヘン、シドニーなど大都市には、出身国別の正教会がいくつも併存し、教会法上不正常な事態が生まれている。しかし、日本だけはこうした民族主義とは長く無縁であった。日本正教会の礼拝は、日本語、ロシア語、ルーマニア語で行われ、日本に在住する正教徒のほとんどすべてが参加できる仕組みになっている。ところが、近年、ルーマニア正教会が自前の教会を東京と名古屋に開き、分裂行動を開始したのである(そのうち名古屋の司祭は、情けない話だが、福島原発事故ののち本国に逃げ帰った)。しかもこのような行為の前に、日本府主教への挨拶は全くなかった。こんにち1万人から2万人いる日本の正教徒のうち5千人くらいはルーマニア人(その大多数は日本男性と結婚したルーマニア女性)らしいので、ルーマニア正教会にとっては日本は美味しい市場である。東京のルーマニア大使が述べるところでは、ルーマニア様式の農村木造教会を丸ごとルーマニアから東京に移設するプロジェクトが進行中のようである。実際、現状では、ルーマニア正教会の施設よりも日本正教会の建物の方が立派なので、東京と名古屋のルーマニア人の正教徒は、日曜礼拝は母国の教会で行っても、洗礼などの重大行事は日本正教会で行うような二股をかけている場合もあるようである。また、正教が国家丸抱えのルーマニアとは異なり、日本では信者の募金によって教会が維持される(日曜日ごとに寄付が求められる)ことに違和感を感じるルーマニア人も多い。
 クブリャコフに言わせれば、150年の伝統を誇る日本正教会が未だにロシア正教会の一部にすぎないことが不正常なのである。日本正教会が独立教会(オートセファリー)であったなら、ルーマニア正教会は、ブカレストから在日ルーマニア人向けに派遣される司祭が日本正教会の司祭として勤めを果たすように交渉したであろう(こうした出向は、公式正教世界でよく行われるようである)。しかし、在日ルーマニア人の宗教生活が問題となっているときに、なぜ我々がモスクワと交渉しなければならないのかとクブリャコフは問う。子供っぽい、学生運動的な論理だが、一応理屈はわかる。
 クブリャコフによれば、ロシア正教会が日本史上の正教指導者のうちニコライしか列聖していないのも、日本正教会に権威を与えて独立を促進するようなことのないようにするための政治的な行為である。松島マリアさんに言わせれば、そもそも修道院すらもたない日本正教が独立教会になるなどということはありえない。修道士がいないということは、プロの宗教指導者がいないということである。司祭は教区民に配慮し、コミュニティを維持することに精いっぱいで、とても聖典・宗教文献・讃美歌の翻訳などには力を割くことができない(とはいっても、松島神父は重要な翻訳も行っておられる)。チハイやリヴォフスキーが明治年代に行った讃美歌の翻訳は既にアナクロであり、新訳が必要なのに、自分たちには時間が足りない。列聖者が少ないのは、たんに日本の正教徒がそれを要求しないからである。実際、司祭に妻帯を認める正教および反カルケドン派キリスト教においても、主教以上の地位に就けるのは修道士のみである。日本人の司祭が日本正教会の府主教に任命されるためには、配偶者との結婚を解消し、臨時にロシアの修道院で勤めて修道士にしてもらうしかないのである。クブリャコフに言わせると、チェコ正教会もつい最近まで修道院を持たなかったが、ルーマニア正教会に援助を要請し、資金・人材両面の援助で修道院を設置した。なぜ日本正教会にそれができないのか。

ニコライ堂で小野神父と
 松島さんの肩を持つわけではないが、私の観察でも、日本正教会は独立教会にはなれない。独立教会になるということは、主権国家になるのと同じで、独立した外交方針を持ち、自教会の利益を実現するために世界中で陰謀をめぐらすことである。日本正教会は、コミュニティ活動が大好きで、政治を持ちこむことでコミュニティを分裂させたくないと考えるような純朴な市民活動家の集まりなのだから、外交と陰謀をモスクワ総主教座が引き受けてくれる現状は居心地がいいものなのである。現に近年のルーマニア正教会との紛争についても、モスクワに丸投げするばかりで、日本正教会に主体的な対応策はない。
 こうした議論にもかかわらず、名古屋正教会での日曜礼拝は素晴らしいものであった。私は、松島神父の説教に、思わず落涙してしまった。世界中の有名教会や田舎の鄙びた教会で日曜礼拝を傍聴してきたが、説教の素晴らしさに涙を流したのはこれが初めてである。やはり説教は母語で聞かなければならない。松島神父は、礼拝の最後に、クブリャコフを参列者に紹介したが、その紹介も、ロシア正教会の肩を持つようなものでは全くなく、客観的・中立的なものであった。曰く、「いま、モルドヴァの正教徒は困難な状況に直面しています。しかしこの困難は、神と人間の関係にかかわるものでもなければ、正教徒の間の関係にかかわるものでもありません。ただ教会間で管轄について、不同意があるだけです。今日、ここには日本人もロシア人もウクライナ人もルーマニア人も集まりましたが、こんなに素晴らしいコミュニオンを我々はもつことができたではありませんか。世界の正教徒がこのように生きることができるようにお祈りしましょう」。

函館教会でニコライ神父と
  月曜朝には新幹線で横浜に行き長縄先生にインタビューする。その後、谷中霊園で聖ニコライら歴代日本主教の墓を参拝し、六本木のルーマニア大使館を表敬訪問する。もう夕刻であるが、ニコライ堂に突撃して翌々日のアポを取る。翌々日というのは、翌火曜日には、ク ブリャコフは静岡まで戻って静岡県立大学で六鹿先生たちの学生にレクチャーしなければならなかったからである。プリドニエストルでのシェフチュク政権の成立(妖怪的なスミルノフ体制の終焉)はモルドヴァにとってもプラスである、モルドヴァは偽りの中立政策をやめて、はっきりNATO加盟を志向すべきだといった彼の意見が印象に残った。
 水曜日は、資料収集の面ではおそらく一番重要なニコライ堂での作業である。我々の面倒を見てくれたイオアン小野貞治神父の出自は、日本主教(イオアン小野帰一)も出した正教エリート家系であり、小野家は聖ニコライ時代の貴重な写真や資料を現代に残してくれた。ニコライ堂の図書館で、私が猛烈な勢いで『正教新報』に目を通し(ひらがなが現代ひらがなとは随分違うので大変である)、アナトーリー・チハイに関する記事を発見するとそれを口述で露訳し、クブリャコフがノートを取る。しかし、『正教新報』自体が膨大な資料であり、こんな方法ではらちが明かぬと午後1~2時ごろには悟り、チハイがペテルブルクで落命した時期に的を絞る。すると、チハイに捧げたパナヒダ(告別の辞)で、伝道上チハイのパートナーであった澤井琢磨(神道宮司の息子で、ニコライを切り殺すために屋敷に侵入したが、逆にニコライに諭されて正教徒、やがて日本正教の創始者のひとりになったなどという馬鹿げたお伽噺のヒーロー。ちなみにこの筋書は、勝海舟と坂本竜馬の遭遇記にそっくりである)が、「主教(ニコライ)は我々の父、アナトーリー・チハイは我々の母であった。歴史は、夫の偉業を記す。しかし、夫が偉大なことをなしうるのは、妻が偉大だからだ」といったことを述べているのを発見した。
 ところで、私が『正教新報』の関連記事を探している最中、クブリャコフはニコライ堂の写真を撮ってくると言って表に出た。すると、僧衣をまとった「ロシア語があまりうまくない」老人に出会った。この老人は、「ここは撮影禁止なのだが、お前には許可してやる」と言った。高位聖職者であることを察したクブリャコフは祝福(ブラゴスロヴェーニエ)を乞い、実際に祝福してもらった。あとで特徴を聞いてみると、どう考えてもダニール日本府主教なのである。「俺は日本府主教から祝福された」とクブリャコフは子供のように喜んでいた。
 その夜には札幌に飛び、翌日はスラブ研究センターでの仕事である。望月センター長、最近モルドヴァやプリドニエストルへの関心を募らせている藤森信吉氏と共に昼食を取る。1階の参考図書室で原暉之教授に遭遇し、クブリャコフは、近年ルーマニア・モルドヴァで流布しているらしい、「セルゲイ・ラゾを殺したのは白軍でなく、ボリシェヴィキであった」という説についての原教授の意見を聞いた。4時からは、ロシア総領事館でサプリン総領事夫人・シーラ・ノヴィツカヤさんとの面談である。夜、汽車で最後の訪問地、函館に向かう。
 函館ハリストス教会の司祭はニコライ・ドミトリエフ神父である。彼はモスクワの神学校で学んでいた20年前、日本から来た留学生の山崎瞳(スヴェトラーナ)さんと恋に落ち、結婚した。奥さんの実家がある長野の教会に赴任し、その後いくつかの赴任地を経た後、2008年から函館の司祭となった。この3年間は函館教会が函館中央図書館と協力して函館正教150年史を編纂した時期である。先日、素晴らしい本となって出版された。言いかえれば、 150年史編纂という大切な時期にニコライ神父が函館に赴任して、歴史家の素養も持つスヴェトラーナさんがそれに没頭することになったのである。このような人事は偶然だろうか。日本正教会史上、一番分からないのは、ニコライ赴任以前の、函館教会がロシア領事館の付属教会だった時期であるそうだ。当時、沿海州の軍務知事であったピョートル・カザケヴィッチが司祭を函館に貸し出したようである。
 大人の男の遊びという感じもしないではなかったが、こうして嵐のような1週間が過ぎた。調査旅行が終わりに近づくにつれ、段々クブリャコフの意図がわかってきた。彼は、アナトーリー・チハイをルーマニア正教会で列聖したいのである。しかもその式典を、ダニール・ルーマニア総主教(面白いことに日本府主教と修道士名は同じである)を招いて東京で行いたいのである。ロシア正教会に挨拶なしでそんなことをすれば、確実に紛争が起こる。そうなれば、私は露ル教会間の喧嘩のお先棒を担いだことになってしまうではないか。くれぐれもモスクワ総主教座・教会間関係局と相談した上で話を進めるように私はクブリャコフに懇願したが、そもそも同局のヒラリオンやニコライ・バラショフと話すことに生理的嫌悪を感じているようなので(それは向うも同じである)、なかなか難しいかもしれない。

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