スラブ研究センターニュース 季刊 2012 年夏号No.130 index

エッセイ


 ◇ スラブ・ユーラシアの今を読む ◇

タタルスタン・ムスリム宗務局指導者殺傷事件: 概要と背景
 ロシアの中でも平和で先進的なムスリム地域の代表と見られているタタルスタンの首都カザンで、2012年7月19日、 モスクやイスラーム教育機関などを統轄する宗務局の指導者2人が相次いで襲撃・殺傷された。 いったい何が起きたのか。 背景にあるのは過激派の浸透なのか、巡礼利権なのか。 事件当時カザンに滞在していた文化人類学者の桜間瑛と、 タタール近現代史・イスラーム研究の専門家である長縄宣博が解説する。

カザンの凶弾          桜間瑛(北海道大学大学院文学研究科博士後期課程)
7 月19 日のカザンにおけるテロの背景に関する一考察     長縄宣博(センター)


カザンの凶弾

桜間瑛(北海道大学大学院文学研究科博士後期課程)


カザンカ川のほとりから望むカザン・クレムリン
 2012 年7 月19 日午前10 時、ラマダン(断食月)の開始を翌日に控えたカザンで銃声が鳴り響き、タタルスタン・ムスリム宗務局の有力な聖職者の一人、ワリウッラー・ヤクポフが暗殺された。さらにそのおよそ30 分後、宗務局ムフティーのイルドゥス・ファイゾフがラジオの出演を終えての帰宅途中、自らが運転していた車が爆発した。折しもヤクポフ襲撃につ
いて電話するために車を停めており、爆弾の仕掛けられた助手席ではなく、運転席に座っていたことで、直撃を避けることができた。 即座に車を離れたファイゾフは、飛び散った車の破片で怪我をするにとどまり、一命は取り留めた。
 白昼の街中で起きた事件は大きな衝撃を呼び、カザン市全体に緊急警戒体制が敷かれ、警察などによる調査が行われた。 連邦中央や、事件の舞台となったタタルスタン共和国のマスコミは即座にこの事件についての報道を行い、 タタルスタン大統領ルスタム・ミンニハノフは、犯人に関連する情報などについて懸賞金をかけることを表明した。 また、ミンニハノフはさっそく入院中のファイゾフを訪れるとともに、特にムスリムにとって重要なラマダンを目前に して行われた凶行に対し、強く非難するコメントを発した。連邦大統領ウラジーミル・プー チンもこの事件を受けて、現在のロシアの情勢が決して安定していないことを示していると 懸念を表明し、沿ヴォルガ連邦管区大統領全権代表のミハイル・バビチはこの事件をテロ事 件として、解決に全力を注ぐと語った。
 翌日、ヤクポフが長くイマームを務めたカザン市内のアパナエフ・モスクで、厳戒態勢の 中行われた彼の葬儀には、宗教関係者・共和国政府関係者をはじめ、多くの人が集まる姿が テレビなどで報じられた。マイクを向けられた参列者は一様に、彼が「伝統的」イスラーム の庇護者であり、ロシア正教をはじめとする他の宗教との友好も推進しつつ、穏健なイスラー ムのあり方を模索していたと語った。この事件についてコメントしたカザン府主教アナスター シーも、両宗教の友好に貢献した人物として、ヤクポフの悲劇を悼んだ。
 すでにこの葬儀に先立つ20 日早朝には、かつてタタルスタンからのハッジ派遣を一手に引 き受けていた「イデル・ハッジ」の代表取締役ルステム・ガタウッリン、独立イスラーム組織「ワ クフ」代表ムラト・ガレエフほか2 人が身柄を確保された。さらに夕方には、ウズベキスタ ン出身の青年が、ヤクポフ殺害の実行犯の疑いでやはり当局に拘束された。
 ファイゾフは、1963 年にタタール自治共和国テチューシ郡の村で生まれ、カザンの演劇専 門学校を卒業した後、1998 年までタタール語劇場で役者として働いた。その後、1998 年から 2001 年にかけてカザンのマドラサ(イスラーム学院)で学び、さらにヨルダン、カタールに 留学して研鑽を積んだ。2002 年に帰国すると、カザンのブルガール・モスクのイマームとなり、 同時にタタルスタン・ムスリム宗務局のプロパガンダ部の部長も務めた。 2010 年からは副ム フティーに就任し、グスマン・イスハコフが2011 年の4月に職を辞した後、その後任に就いた。 そして、ムフティー就任後は、前任者の在職中に勢力を伸ばしたとされる、ムハンマド 時代のイスラームへの回帰を主張する急進派勢力に対抗する姿勢を鮮明にしていた。
 ヤクポフは、1963 年にバシキール自治共和国のウファ郡で生まれ、カザン化学技術大学を 卒業した後、カザン大学歴史学部の通信科で歴史学も学んだ。その後、1990 年代にはマドラ サを卒業して、タタールのイスラーム復興の中心人物の一人となった。1992 年にカザンのア パナエフ・モスクのイマームとなると、荒廃したモスクの復興に尽力し、1993 年からはカザ ンのマドラサ「ムハンマディーヤ」の校長も務めた。さらに出版局「イマーン」の編集長として、 数多くのイスラーム関係書籍の出版にもたずさわり、自らも多くの著作を残した。1995 年以 降はタタルスタン・ムスリム宗務局でも要職を占めるようになり、1998 年からは副ムフティー の地位にあった。2005 年には歴史学の学位を取得するなど、豊富な学識を誇り、マスコミ上 にも頻繁に登場して「伝統的」イスラームを擁護する言論を展開していた。ムフティー交代 後も副ムフティー職を維持したが、過激派対策を名目に各地のイマームの交代を進めるファ イゾフの姿勢からは距離を置いていた。その後、副ムフティー職を退いて、共和国内のムス リム教育を管轄する役に就き、教育プログラムの標準化などの改革に取り組んでいた。
 このファイゾフ体制下で行われてきた改革の一つが、ハッジ派遣事業改革であった。 イスハコフ体制下では、タタルスタンに割り当てられたハッジ派遣枠について、その分配がすべ て「イデル・ハッジ」の担当となることで、同社は大きな利益を得ていた。しかし、ファイ ゾフはその分配を宗務局管理下においたことで、同社と対立していたと伝えられている。ガ タウッリンの逮捕は、 こうした対立を背景にしているが、本人および「イデル・ハッジ」広 報は、事件との関連を否定している。またそれと並んで、過激派対策を進めるファイゾフ体 制を快く思わない、「ワッハーブ主義者」や「サラフィー主義者」とも呼ばれる急進派勢力が、 両人の殺害を狙ったというのも有力な説として、各種マスコミで紹介されている。

カザン・クレムリン内のクル・シャリーフ・モスク
 早期に複数の容疑者が拘束され、ガタウッリンなどは裁判所での審議の末逮捕、9月までの勾留が決定した。 全国レベルのマスコミの報道 は、その後沈静化しつつあるが、タタルスタン共和国発のテレビや新聞は、 連日大きな見出しでこの事件の経緯を追っている。逮捕されたガタウッリンを含め各容疑者は容疑を否認している。 現在も調査は続いていて、カザンの新聞紙上では、7月24日現在で100人近い容疑者が身柄を確保されていると伝えられている。
 さらに週明けには、カザン・クレムリン内にあ るクル・シャリーフ・モスクのイマームで、 ファイゾフの主要な敵対者とみなされていたラミール・ユヌソフが、兼任していたカザン・クレムリン公園副園長を辞して、 ロンドンに向かったとい う報道がBBC経由のニュースとして、各マスコ ミで一斉に流れた。 語学研修が目的とされており、 司法当局も当面は容疑者のリストには入っていないとして静観する姿勢を見せているが、 この時期の突然の出国は、彼がこの事件に何らかの関係をしているのではないかという憶測を呼んでいる。 ユヌソフはサウジアラビアに留学経験があり、共和国内における急進的な勢力の中心人物とみなされていた。 また今年の春には、ファイゾフがユヌソフを解任して、自らクル・シャリーフ・モスクのイマームになることを画策したことで、 両人の溝が深まったとも言われており、こうした聖職者間の対立も事件に反映しているのではないかと考えられている。
 7月25日にファイゾフは無事に退院し、早速翌日には声明を発表してヤクポフへの弔いの言葉を述べるとともに、 犯人にはアッラーの意志によって、然るべき罰が下るだろうと語った。 しかし、公務に完全に復帰するには至らず、臨時代理に第1副ムフティーのアブドゥッラ・アディガモフが任命された。
 この事件を受けて、イスラーム問題を専門としている政治学者のライス・スレイマノフは新聞紙上でコメントを発し、 タタルスタンが第2のダゲスタンとなる予兆ではないかという警鐘も鳴らしている。 かつてのダゲスタンにおいても、ムッラーの暗殺事件などが頻発し、共和国全体の不安定化につながったといい、 タタルスタンもそのシナリオをなぞるのではないかというのである。 ここ数年、北カフカスからの流入者を主な媒介として、タタルスタン領内で急進派の勢力が伸長しているという報道が、 特にモスクワの新聞などで度々なされていた。 今回の事件についても、以前から両人に危険が及ぶのではないかという警告があり、実際に脅迫もあったのに対し、 十分な警戒がなされていなかったのではという批判もなされている。 今後は急進派対策として、宗教教育現場も含め、当局による警戒・管理を強めることも致し方ないのではないかという意見が、 イスラーム関係者自身の口からも出ていることがテレビではくり返し映し出されていた。 一部タブロイド紙などでは、ロシア連邦保安庁が、北カフカスに集中している人々の注意をタタルスタンに向けさせるためにこの事件を起こした、 という謀略説も紹介しているが、十分な根拠はない。
 折しも筆者は現地調査のため、カザンに滞在中であったが (1) 、当日は朝から外出しており、この事件について知ったのは翌日になってからであった。 事件現場から離れていることもあってか、特別警戒態勢とは言いつつ、カザン大学付近の中心部は平穏であり、警察も目立って多いという印象はなかった。
 事件翌日に、大統領府とクル・シャリーフ・モスクのあるカザン・クレムリンに寄った際 も、特に強い警戒は敷かれていなかった。 一応、警察によるチェックは行われており、筆者はリュックサックが重そうという理由で足止めされたが、中身はノート・パソコンだといい実物を見せると、 それ以上の特別な詮索もなく、パスポートを検められることもないまま中に入ることができた。 筆者は入らなかったものの、モスクの中に入るにはもう少し念入りな 検査を行なっている様子も見られた。 しかし、これも建物に近づく程度であればなんの注意もなく、見回っている警察官も2、3人程度でやはりそこまで警戒をしているという印象ではなかった。 むしろ、クレムリンの中は、結婚式の記念撮影のために、若者集団が大勢訪れているのが見られ、通常の夏に見られるのどかな風景が印象的であった。 また、犠牲者を出した宗務局の近くも歩いてみたが、2、3台退屈そうな警察官が乗り込んだ車を見たほかは、特別な警戒の様子もなく、普段通りの光景が広がっていた。
  とはいえ、これまで多文化・多宗教の共存を誇りとしてきたカザンに突如起こった事件は、 人々に大きな衝撃を与えるものであったことは確かであり、 筆者が現地の人と話す中でもまず話題に上った。 筆者の知人のロシア正教の司祭は、ヤクポフについて「いい人物であった」と評価しており、彼の標榜していた「伝統的」イスラームに対して理解を示している。 一方、1990 年代以降、サウジアラビアやイランから急進派思想が流入しており、それを許した前共和国大統領ミンチメル・シャイミエフのムスリム=タタール中心主義を非難する声も聞かれる。 もっともシャイミエフ自身も、週明けになって会見を開き、今回の事件を強く非難しつつ「伝統的」イスラームを誇示することの重要性を強調している。
  タタールのイスラームに対する態度は、基本的に厳格なものではないと言われており、酒を飲んだり、豚を口にしたりするタタールも珍しくなく、 礼拝などを真面目に行う人の数は多くはない。 しかし、断続的にカザンを訪問している筆者の印象として、スカーフをかぶった女性の数などは、だんだんと増加している印象がある。 主に若い女性が着用しており、それに対して親世代が戸惑いを見せたり、職場での軋轢を生んだりしている例もある。 一方、 このような女性などを対象に、イスラームの規範に配慮したサービス(ムスリム女性専用プール、 夜のモスクへのムスリムの運転手によるタクシー・サービス)も現れており、新たなビジネス・チャンスを生み出してもいる。
  そのタタールにとってのイスラームの在り方について、前共和国大統領政治顧問で、歴史学研究所の所長であるラファエル・ハキーモフは、 しばしば「ユーロ・イスラーム」という 言葉を用い、近代的な価値規範に適合したムスリムの在り方を提唱している。 一方、ヤクポフを始めとする宗務局関係者は「ユーロ・イスラーム」のコンセプトには反対しつつ、ハナ フィー学派の伝統に則り、 他宗教との調和を強調した形での「伝統的」イスラームを標榜してきた。 これらに対し、先にも指摘した通り、サウジアラビアなどに範を取った急進的な思想を支持する人びとも現れており、潜在的な脅威となってきた。
  カザンは、来年にユニバーシアードの開催を控え、それを梃子に本格的な観光都市への転換を図り、現在町中で工事が行われている。 経済的にも連邦内では比較的良好な状態を維持しており、急進的な思想が一挙に人々の間に広まるとは筆者には想像しがたい。 しかし、イスラームがタタールの伝統的な文化の重要な要素であるという意識は共有されており、その「正しい」あり方については、 様々な対立を生み、議論を呼んでいる。また、ムスリム関連の ビジネスが発展しつつあることで、経済的な利害も関連するようになり、 より複雑な対立の構図も示しつつある。 今回の事件は、こうした亀裂を白日のもとに晒すとともに、これまで多民族・多宗教の共存を謳ってきたタタルスタン共和国の状況も 不安定化の要素を含んでいることを明らかにした。

1. 今回の滞在は、現在筆者が執筆中の博士論文のための資料補充を目的としており、2011 年度採用松 下幸之助記念財団研究助成に基づいている。

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