スラブ研究センターニュース 季刊 2012 年夏号No.130 index

エッセイ


 ◇ スラブ・ユーラシアの今を読む ◇

タタルスタン・ムスリム宗務局指導者殺傷事件: 概要と背景
 ロシアの中でも平和で先進的なムスリム地域の代表と見られているタタルスタンの首都カザンで、2012年7月19日、 モスクやイスラーム教育機関などを統轄する宗務局の指導者2人が相次いで襲撃・殺傷された。 いったい何が起きたのか。 背景にあるのは過激派の浸透なのか、巡礼利権なのか。 事件当時カザンに滞在していた文化人類学者の桜間瑛と、 タタール近現代史・イスラーム研究の専門家である長縄宣博が解説する。

カザンの凶弾          桜間瑛(北海道大学大学院文学研究科博士後期課程)
7 月19 日のカザンにおけるテロの背景に関する一考察     長縄宣博(センター)


7 月19 日のカザンにおけるテロの背景に関する一考察

長縄宣博(センター)

 こんにちのロシアにおいて、ロシアが国内外のイスラーム世界と共存し、友好関係を結んでいるのだという言説は、内政上も外交上も極めて重要な意味を持っている。 カザンにはそうした言説を体現する役割が期待されており、タタール人自身それを誇りにしている。 実際、タタルスタン前大統領ミンチメル・シャイミエフは、ロシア大統領のイスラーム諸国訪問にしばしば同行したものだし、 近年のカザンでは、毎年のようにイスラーム諸国の代表団を招いた国際会議が開かれている。 カザンが、モスクワ、サンクトペテルブルグに次ぐ第三の首都と呼ばれるようになっているのは偶然ではなく、 ちょうど一年後には、ユニバーシアードを招致することになっている。そしてその広報の仕方も、 カザンがキリスト教文明とイスラーム文明が邂逅した土地であるというイメージを前面に押し出すものとなっている。 そうした文脈で、タタルスタン共和国のイスラーム最高指導部を狙い撃ちにしたテロが、 カザンの中心部に近い場所で起こったことは、ロシアにとって深刻な事態である。
 折しもカザンでは7 月20 日に反テロ演習が計画されていたが、テロの前日に中止が決まっていた。 そして、このテロによって演習は無期限延期になった。こうしたタイミングは、タタルスタンの治安当局自身がテロを仕組んで、 北コーカサスに流れる反テロ対策の資金をタタルスタンに流そうとしたのだという憶測も生んだ。
 テロの翌日に拘束された容疑者のリストからは、捜査当局の基本的な見立てを窺い知ることができる。 一人目は、旅行会社イデル・ハッジの代表取締役ルステム・ガタウッリン。この会社は、タタルスタン宗務局と独占的な契約を交わして、 タタルスタンだけでなく、ロシアでタタール人の集住する約30 地域でメッカ巡礼(ハッジ)事業を取り仕切っていた。 二人目は、ムラト・ガレエフという慈善事業家で、ムスリム・カフェの経営をめぐって宗務局と対立があったといわれる。 また、今回のテロで負傷したムフティー、イルドゥス・ファイゾフに不満を持つ人々を結集する組織を画策していたとされる。 三人目は、ヴィソコゴルスキー地区の住民アイラト・シャキロフ。彼は、地元だけでなくカザン市内のモスクでも原理主義的な説法を行い、 宗教間の敵対を煽っていたので、以前から当局も監視していた。四人目はライシェフ地区シンゲリ村のモスクの指導者アザト・ガイヌッディノフ。 シンゲリ村は、ウファの中央宗務局のムフティー、タルガト・タジュッディンの父親の故郷であり、そのモスクもタジュッディンの肝煎りで建立されたという。 ただ、中央宗務局とタタルスタン宗務局との対立が激しかったのは2000 年代初めまでで、近年では沈静化していたので、犯行動機につながる情報はない (1)
 これらの容疑者の名前からは、現代ロシアのムスリム社会の問題を集約するような二つの問題が、今回の事件の有力な背景として浮かび上がっている。 イスラーム原理主義との闘いとメッカ巡礼事業である。以下では、ソ連崩壊後の文脈も踏まえて、順に考察を加えていきたい。
 イスラームがロシア国家の統合に寄与しているという平和共存のイメージと表裏一体となっているのが、 ロシア語で一般にワッハービズムと称される原理主義に対する徹底した弾圧である。ワッハービズムという語自体が示すように、 これはもともとサウジアラビアで公式に信奉されているワッハーブ派からとられた名称である。もっともこれは他称であって、 ロシアでも信奉者自身はサラフィー主義という言葉を好む。アラビア語でサラフ(salaf)とは祖先を意味するので、サラフィー主義とは、 原初イスラームの先人たちの教えに回帰することを目指す運動ということになる。
 タタルスタンはじめロシアにワッハービズムが浸透し始めたのは、1990年代後半のことである。 1990 年代初頭、旧ソ連のムスリム地域には、サウジアラビアなどから慈善団体が数多く入り込み、モスクや学校の建設を支援し、 それらに配置する宗教指導者を養成すべく、多くの若者をサウジアラビアなどに留学させた。 ところが90 年代後半、留学を終えて故郷に戻ってきた人々の中から、地元で実践されているイスラームのあり方が自分の勉強した 「純粋なイスラーム」から逸脱していることを問題視する者が現れるようになった。 そしてこれが、イスラーム復興に伴う宗教指導者の需要増大と重なることで、 土地の宗教実践を維持・普及させようとする伝統主義者と原理主義者の敵対を増幅することになったのである。
 プーチン時代(最初に首相を務めた時期も含めた1999-2008 年)のロシアでは、国際テロリズムとの戦いの名目で、 ムスリム社会に対する監視が強まった一方、ムスリム・エリートとの協力が著しく進展した。 それは、ワッハービズムに対抗する形で「伝統的なイスラーム」をロシアの各地域で再興する動きを後押しした。 タタルスタンにおける伝統的イスラームというのは、イスラーム法学の中のハナフィー派に基づいた儀礼を執り行うことができ、 帝政期に活躍したタタール人のイスラーム学者の衣鉢を継ぐことを意味する。こうしたイスラーム知識人を養成すべく、 カザンには1998年からすでにロシア・イスラーム大学と言われる高等教育機関が機能している。 今回殺害されたワリウッラー・ヤクポフ(1963 年生)は、こうした伝統的イスラームの復興の一翼を担ってきた傑出した人物で、 1997年から十年以上、副ムフティー職を務めた。 とりわけ彼の率いた出版社イマーン(信仰)は、帝政期、ソ連期、現代のタタール人の学者や知識人の著作を非常に精力的に出版しその普及に努めた。 よってヤクポフは、国内外の研究者の間でも広く知られている。
 他方でロシア政府は、民間経路でムスリム社会に流入するオイルマネーの影響には警戒しつつも、サウジアラビアとの関係強化に熱心に取り組んできた。 とりわけ、多民族・多宗教の共存がロシアにとって重要な外交資源となった2003 年のイラク戦争以降、両国の関係は進展した。当時皇太子だったアブドゥッラー現国王は、2003 年9 月に訪露しており、政治・経済・文化面での「戦略的パートナーシップ」の礎を据えた。 2005年6月末にロシアはイスラーム諸国会議機構のオブザーバーになったが、その背後にもサウジ側の一貫した支持があった。 こうして2007年2月11日には、プーチンがロシアの国家元首として初めてリヤドを訪問する運びとなった。 そしてそこにはシャイミエフも同行していた。こうしたロシアとサウジアラビアの良好な関係は、 後述するロシアからのメッカ巡礼者増大の重要な背景を成している。
 北コーカサスで宗務局の幹部を狙ったテロが頻発していることと比べれば、タタルスタンでのワッハービズムとの闘争は相対的に穏やかに推移してきた。 1999年8月にチェチェン・テロリストがダゲスタンに侵入して第二次チェチェン戦争が始まった後、タタルスタンでも、 ワッハービズムへの警戒が高まった。9 月にモスクワとヴォルゴドンスクで集合住宅が爆破される事件があったが、 その首謀者とされたのがウズベキスタン出身で、タタルスタンのナベレジヌィエ・チェルヌィのマドラサ(イスラーム教育機関)、ヨルドゥズで学ぶ学生だった。
12 月には、このマドラサの複数の学生がタタルスタンとキーロフ州の境にあるガス・パイプラインを爆破した。 ヨルドゥズ・マドラサは、過激派の戦闘員を養成するサウジの慈善団体と密接な協力関係にあったといわれている。 近年で最も規模が大きく、こんにちまで隠然と影響を残しているのが、2010 年11 月末にヌルラト地区ノヴォエ・アルメチエヴォ村で起こった、原理主義を掲げるチストポリ出身の武装グループと治安部隊との銃撃戦である。 これが原因で翌1月13日に、1998年からムフティーだったグスマン・イスハコフは辞任を余儀なくされた (2)
 このように、これまでタタルスタンでワッハービズムと治安当局との衝突は地理的にもカザンから遠い場所で起こってきた。 しかし今回は、ワッハービズムの関与が疑われる暴力がカザンの中心部にまで到達した点が衝撃的なのである。
 今回の事件の有力な背景には、ムフティー、イルドゥス・ファイゾフによる強引な宗教指導者の人事があったと言われている。 昨年4 月にイスハコフに代わって、ファイゾフがムフティーに就任したことは、ワッハービズムとの闘いの新しい段階の始まりといえる。 ファイゾフによれば、タタルスタンで原理主義者が跳梁しているのは、先代のイスハコフが黙認しきたからに他ならないのだった。
 ワリウッラー・ヤクポフもイスハコフとは折り合いが悪く、2008 年には一時的に副ムフティー職を解かれているが、 すぐに宗務局と官庁との関係を取り仕切る副ムフティーに戻った。新しい指導部の中でヤクポフは、教育・学術部長というやや低い地位に配属されたとはいえ、 マドラサの教育改革に精力的に取り組んでいた。他方で、ファイゾフの手荒な人事とは距離を置こうとしていたようだ (3) 。 筆者は今年2 月にヤクポフにインタビューする機会を得たが、ワッハービズムとの闘いの最前線にいる当事者のわりには、どこか斜に構えた第三者的な口調が印象深かった。
 ファイゾフは、共和国の全イマームの資格審査を実施し、サラフィー主義の放棄を拒否した人々を更迭し、自分の息のかかったイマームを任命し始めた。 昨年12月には、アルメチエフスク市金曜モスクのイマーム、ナージル・アウハデエフが解任された。 治安当局の情報によれば、彼は自身の教育活動のために、サウジアラビアの宗教財産(ワクフ)省から報酬を得ていたとされる。 12月末には、新しいイマームの着任を阻むべくモスクの入り口を閉ざすなど、住民が激しい抵抗を示した。
 今年4 月2 日には、カザン・クレムリンの中にある壮大なクル・シャリーフ・モスクで 2005年の開基以来イマーム・ハティーブ(礼拝を主導し、説教を行う者)を務めてきたラミール・ユヌソフが辞職に追い込まれた。 ユヌソフは、5年ほどサウジアラビアで学んだことがあり、モスク開基の際に「サラフィー主義者」のやり方で礼拝をおこなったと言われる。 イスハコフがムフティーを辞任した後には、彼が後継者になるとサラフィー主義者の間では目されていた。 今回の措置についてファイゾフは、ユヌソフはそれまでカザン・クレムリン公園の職員にすぎなかったわけで、 今後、クル・シャリーフの宗教活動を宗務局の管轄に移すにあたり、当然ムフティー自身がその指導者になるべきだと説明した。 この事件も、日常的にこのモスクで礼拝する人々の間で大きな反発を呼び起こした。 ファイゾフは、ユヌソフを自身の補佐としてクル・シャリーフに残すことで事態を収拾した (4)
 今回のテロの背景として重視されている第二の問題は、過去十年におけるメッカ巡礼の隆盛とその商業化である (5)。 2000 年には3,000 人ほどだったロシアからの巡礼者も、近年では実に2 万人を超え、その市場規模は6,000 万ドルと推定されている。 巡礼者の3分の2以上はダゲスタンからである。 よって、ダゲスタンでは早くからハッジの巨額の利権をめぐる政治が過熱し、1998年8月の共和国のムフティー爆殺の背後にもこの問題があったとされている (6)

イデル・ハッジの広告「君のメッカへの道」
 ここで簡潔に、現代ロシアのハッジ事業の仕組みを概観しておこう。 2002 年以来、ロシア政府の中にはハッジ評議会という常設機関があり、省庁間の調整を担っている。 議長にはダゲスタンの出身者が就き、初代は下院議員アフメド・ビラロフ、2010年4月からは連邦会議(上院)副議長イリヤス・ウマハノフが務めている。 この評議会は毎年、サウジアラビアのハッジ省と交渉して、ロシアの巡礼者枠を確定している(ちなみに昨年は22,500人)。 そしてこの枠は、評議会に参加している5つの最有力宗務局の間で分配される。 その際、宗務局の推薦に基づいて、評議会はハッジのツアーを組織する特定の旅行会社にも認可を与える。 つまり、メッカ巡礼市場は、有力な宗務局が特定の旅行会社と独占的な契約を結んで、巡礼者枠を委任する寡占状態にあるのだ。 今回のテロで名前の挙がったイデル・ハッジとは、これまでタタルスタン宗務局が資本の20%を拠出し、そのハッジ事業のすべてを委ねてきた旅行会社だったわけである。
 今年4 月23 日、ファイゾフは先代イスハコフが作ったこの会社に代えて、宗務局直轄の新たな組織を設け、 その下でハッジのサービスを提供できる複数の旅行会社と協力すると発表した (7)。 「タタール・ビジネス界(Татарский деловой мир)」と名付けられた新しい組織は、 通称「宗務局ハッジ(ДУМ РТ хадж)」と呼ばれ、その支配人には、ルスラン・ナフィスッリンが就いた。 以降イデル・ハッジには、ハッジ委員会からタタルスタンに配分される巡礼者枠は委任されず、ただ巡礼希望者の受付のみを担うことになり、 ツアーの販売など巡礼事業の資金の流れは完全に宗務局に押さえられることになった。宗務局は今回の措置について、 これまでイデル・ハッジが不当に吊り上げてきたツアーの価格を下げ、ハッジを広範に促進することを目的とするものだと説明している。 新しい組織は、昨年12万ルーブルだったツアーを一人あたり最低10 万ルーブル弱に抑えられるはずだった。
 ファイゾフは、ムフティー就任当初からタタルスタンのハッジ事業の改革を掲げていた。
昨年は、イデル・ハッジ以外に、二つの会社を参入させ、サービスと価格で三つ巴の競争をさせようとした。 しかし、イデル・ハッジが独占的に組織した時よりも、個々の会社でロジにかかる費用が大きくなったため、それが価格に跳ね返り、結局、値下がりはしなかったという (8) 。 また、三社ではやはり談合の可能性も排除できない。 しかも、巡礼者の利便をはかろうとする表向きの姿勢とは裏腹に、新しいムフティーにも闇の側面がある。 筆者が今年2月にカザンでメッカ巡礼について調査を行った際、宗務局に近い信頼できる筋から、 ファイゾフは、昨年タタルスタンに配分された巡礼者枠のうち500 ほどを、一枠あたり100-200 ドルで売り、収益を自分のポケットに収めたという話を聞いた。 真偽のほどはともかく、メッカ巡礼の利権が歴代ムフティーにとっていかに垂涎の的となっているかは窺えよう。
 テロの起きた1 週間前には、イデル・ハッジを支持するグループが400 人の署名の入った書簡をムフティーに提出していた (9) 。 そこでは、宗務局ハッジの約束にもかかわらず、価格が12 万2000 ルーブルとなっていることや、10 年の経験で信頼性の高いイデル・ハッジに対して、 一度もハッジに行ったことのない者が指揮する宗務局ハッジなど安心できないことが訴えられていた。 書簡によれば、イデル・ハッジにはすでに1,000 以上の申込みがあるにもかかわらず、宗務局ハッジには100 程度しか集まっていないという。 そしてこのグループは、事態の解決にはハッジ委員会に訴えることも辞さないという構えを見せている。
 イデル・ハッジに申し込んでいる人々は、すでに契約を結び、料金を支払っているようだ。この状況は、巡礼ヴィザを取得する際に問題になりかねない。 実は昨年、在モスクワ・サウジ大使館は、ハッジ委員会からも宗務局からも認可のないモスクワとウファの旅行会社が手配した450 人について、ヴィザを発給しなかった。 こうしてこの450 人はハッジに行けず、旅行費用を取り返すことも困難な状況に陥った (10) 。 イデル・ハッジがタタルスタン宗務局と契約を結べない現状ではこうした状況が繰り返されかねず、ムフティーに対するさらなる反発を生むことになるだろう。
 これに対して宗務局ハッジは自分たちの任務について、 巡礼者がサウジアラビアでタタルスタンに伝統的ではないイスラームの思潮に染まることを防ぐことに主眼があるのだと説明し、 イデル・ハッジではその保証はないと反論している。こうしたハッジの利権と関わる問題も、伝統主義者とワッハービズムの対置で説明されている点は注目しておいてよい。 筆者は2月にカザンだけでなく、ダゲスタンのマハチカラとデルベントでも調査を行ったが、 巡礼を通じてワッハービズムがロシア国内に持ち込まれかねないという言説は、カザンのほうが極端に強いと感じられた。
 報道の中には、北コーカサスからの移民の増大がタタルスタンにテロの連鎖を持ち込みかねないという論調も見られるが、 筆者は基本的にはまずタタルスタン宗務局の周辺でテロの原因を究明すべきだと考えている。 とはいえ、ハッジ・ビジネスがタタルスタンととりわけダゲスタンを結び付けていることは否定できない。近年タタルスタンは2,000 人の巡礼者枠を持っているが、実はタタルスタンからの巡礼者だけでは枠の半分ほどを満たすにすぎないという。 そこでイデル・ハッジは、残りの枠をダゲスタンの枠から漏れた人々に売ることで多額の収益を上げていたのである。 昨年ダゲスタンは9,000人の枠だったにもかかわらず、14,500 人ものダゲスタン出身者がメッカに赴いたのは、 彼らが共和国の外で枠を買っているからに他ならない。2 月に著者がインタビューした際、ワリウッラー・ヤクポフは、 巡礼者枠の配分をめぐる競争は熾烈さを極めているので、タタール人とダゲスタン人の民族衝突も起こりかねないと語っていた。 そしてそれを防ぐためにも、メッカ巡礼事業にロシア政府がもっと本格的に介入すべきだというのがヤクポフの立場だった。
 現在までのところ、タタルスタン宗務局が握るメッカ巡礼事業などの巨額の利権をめぐる対立と、 現代ロシアのムスリム社会に走るワッハービズムと伝統主義者の亀裂がテロの有力な背景と見られている。 今後の展開として懸念されるのは、一般的な後者の説明が前面に押し出されることで、 前者も含めた他の説明可能性が糊塗されてしまうことである。 事態が深刻なのは、ワッハービズムと伝統的イスラームを対置する言説を駆使している人々と前者を弾圧する人々が重なっていることである。 一方でこの二項対立は、ムスリム社会をロシア国家につなぎとめ、安定化を図る上で有効に機能している。 他方で、ムスリム社会内部のあらゆる利害対立や政治がこの二項対立に収斂させられると、 ワッハービズムを信奉しているとレッテルを貼られた人々が治安当局に拘束される蓋然性が高まってしまうのである。 最近、テロに関わったとされる容疑者の範囲が急速に拡大しているのは、その表れのように思われてならない。(2012 年7 月31 日現在)


1 http://www.intertat.ru/obschestvo/item/6333-u-sledstviya-dve-versii-vera-i-dengi.html
2 http://www.ru.journal-neo.com/node/4179
3 http://www.business-gazeta.ru/text/63247
4 http://intertat.ru/obschestvo/item/3748-imamyi-branyatsya-tolko-teshatsya.html
5 この問題について筆者は、去る7 月5 日のスラブ研究センターの国際シンポジウムに ペーパーを提出したので、関心のある方には引用不可の条件でペーパーを送ることもできる。
6 Kimitaka Matsuzato and Magomed-Rasul Ibragimov, “Islamic Politics at the Sub-regional Level in Dagestan: Tariqa Brotherhoods, Ethnicities, Localism and the Spiritual Board,” Europe-Asia Studies 57, no. 5 (2005), 762.
7 http://www.tatcenter.ru/article/114011/
8 イデル・ハッジ総支配人アヤズ・ミンガレエフとのインタビュー。2012 年2 月7 日カザンにて。
9 http://intertat.ru/obschestvo/item/6177-u-kazhdogo-muftiya-svoya-doroga-v-hadzh.html
10 http://www.business-gazeta.ru/text/48643/


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