私の見たロシア大統領選挙
− モスクワ、サマーラ、タンボーフ −


松里 公孝 (スラブ研究センター)

5月27日にアメリカからロシアに移住した。アメリカ留学を早めに切り上げたのは、言うま でもなく、大統領選挙を観察するためである。今回は重点領域関連の編集作業に従事したため、 モスクワにかなりの期間滞在せざるをえず、それ以外ではサマーラ、タンボーフに出張したの みだった(日帰りでウラヂーミルに行ったのを除けば)。結果的には、エリツィンが圧倒的に強 い地域(モスクワ)、ズュガーノフが圧倒的に強い地域(タンボーフ)、フィフティ・フィフティ の地域(サマーラ)の三つを観察することができて好運だった。

ロシアに移住してまずテレビの偏向性に圧倒された。それは、この春までハーヴァード大学 に勤務した歴史家で有名な反共主義者のウラヂーミル・ブローフキンをして「今のロシアのテ レビはブレジネフ時代よりもひどい」と言わしめたほどのものだが、たしかに、朝から晩まで 「ズュガーノフの脅威」が煽られるのにズュガーノフ自身の言い分は全く紹介されないという点 ではブレジネフ時代のようでもあり、論理ではなくサディズム、グロテスク、暗示、潜在意識 に働きかける手法が多用されるという点ではブレジネフ時代以下のようでもある。たとえば第 一回投票の文字通り前夜に放映された人形劇は、ズュガーノフ人形とトゥレーエフ人形が(中 央選管委員長の)リャーボフ人形を椅子に縛りつけナイフで弄んだ末に刺し殺してしまうとい うものであった。これは、ズュガーノフ陣営が「票数の並行集約」という(それ自体は問題の 多い)監視方針を提唱したことを「風刺」したものだが、このような「パロディ」は、平時に おいては裁判沙汰になるような代物だろう。しかし、大統領選挙期間中には、このようなもの
が連日連夜、放映されたのである。

また、「ロシア出版史上画期的」と評された総ページカラー刷りの謀略新聞『ニェ・ダイ・ボ ク!(それだけは御免だ!)』が、聞くところでは1千万家庭に定期的に無料配布された。この 新聞紙上では、ズュガーノフのグロテスクな風刺画が1面使って掲載され、「サンタ・バーバ ラ」など庶民に人気のあるラテンアメリカ製のメロドラマのヒーロー、ヒロインたちがインタ ビューに答えて、どういうわけかエリツィン支持を訴えた。当然のことながら、この新聞を無 料配布する資金がどこから得られたのかは謎のままである。


『ニェ・ダイ・ボ ク!』

タンボーフ州大統領全権代表助手で歴史家のワレーリー・バーエフ氏は、筆者のインタ ビューに答えて、「過去5年間で政権の経済実績はゼロであるから、それは(我々に有利な)争 点にはならない。最も効果的な宣伝方法は住民の共産主義に対する恐怖心を呼び起こすことだ」 と率直に述べた。

こんにちのロシアのジャーナリストは、社会主義時代のアナウンサー、放送ジャーナリスト が八月クーデター後に蒙った運命を目撃しているのだから、彼らが職を失いたくない一心から エリツィンを応援するのはわからないでもない。しかし、野党側に反論の機会すら与えないの はよくない。あるロシアのジャーナリストは、ハーヴァード・ロシア研究センターに勤務する 政治学者に対して次のように述べたそうである。「アメリカでは住民の40%しか有権者登録し ておらず、しかもそのうち半分しか投票しない。言い換えれば、アメリカでは馬鹿ははじめか ら投票所に来ない。我国では馬鹿が大量に投票所に来るのだから、マスコミが双方の見解を紹 介して有権者に自由に選ばせるというわけにはいかない。それは民主主義のためにならない」。

第一回投票に向けた運動期間中、正体不明の爆弾テロ事件が2回起こったため、モスクワは 戒厳状態にあった。辻々に警官やアモン(特別武装警官、マシンガンを背負っている)が立ち、 通行人の身分証明書をチェックしていた。周知の通り、社会主義時代は警官の対人口比は非常 に低かった。いつの間にこれだけ警官を増やしたのか、いったいこれはどこの国の風景なのか。 こうした風景そのものが、「ズュガーノフが勝てば内戦不可避」なるエリツィン側の宣伝を補強 するのである。

市民、特に外国人にとって困るのは、こうした厳戒期間は、モスクワの警官にとって荒稼ぎ のチャンスであるということである。運悪いことに、今回私を招待してくれたロシア科学アカ デミー国家と法研究所の外事課との連絡がうまくいかなかったため、私は約2週間滞在登録な しにモスクワに住んだ。ウラヂーミルへの出張から帰ってきたバス・ターミナルで、ついにア モンに捕まった。彼らは商談をもちかけてきた。「罰金は15万ルーブル、しかもお前を数時間 拘束しなければならない。ここで俺たちに30ドル渡せば、お前をすぐに解放してやる。値段は 同じ、どちらがいいか考えろ」。私は賄賂を渡して逃がしてもらった。本来ならば翌日すぐに居 住登録の手続きを開始すべきであったが、それをおこなえば、その2日後に予定していたサ マーラ行きを延期しなければならない。私は非登録状態を続けることにした。ところが、スー ツケースを転がしてカザン駅に向かう途中、トヴェーリ大通りでまた検問にひっかかった。私 を捕まえた若い警官は私から賄賂をせしめるべく私を様々に脅迫したが、移動の途中ゆえ私の 鞄の中には千ドル以上の現金が入っていたことから、2日前とは違って私は警官に弱みを見せ ることを恐れた。私は彼のロシア語がよくわからないふりをし、「私を警察署に連れて行け」と だけ叫び続けた。半時間にも及ぶ嫌がらせの後、青年警官は「チッ、日本人め」と舌打ちし、 諦めて私から正規の罰金を徴集することにした。

私は2人組の酔っぱらいと一緒に警察署に連行された。2人のうちひとりは泥酔状態で、ま ともに歩けなかった。しかも運悪く、その酔っぱらいは青年警官と口論を始めた。青年警官は、 酔っぱらいの数倍はあろうかと思わせる大男で、握力強化のためか鉄球を2個片手で絶えず握
りしめていたが、その鉄球を両手に握り、酔っぱらいを殴打し始めた。酔っぱらいは数発殴打 された後に失神した。彼がただならぬ状態に陥ったことは一目でわかった。繰り返すが、これ はモスクワ随一の目抜き通り、トヴェーリ大通りでの出来事である。青年警官は苦労の末、大 型車の白タクを拾い、失神した酔っぱらいをタクシーに積み込んだ。そして、私を警察署に連 れて行く一方、酔っぱらいを家まで送るよう運転手に命じた(料金は意識のあった方の酔っぱ らいが払ったのだろう)。まだ頭から湯気の立った状態のこの青年警官と部屋に2人きりで調書 を取られるのは気分の良いものではなかったが、事を起こした直後だけに、彼は淡々と義務を 果たした。そして、自分が怪我をさせた酔っぱらいの調書も偽造して、事件は終わった。罰金 は、先日のアモンの言明とは異なって、3万7千ルーブリであった。

サマーラ州では昨年、キネリ郡とクラスノアルメイスク郡で現地調査をおこなったが、今回 は州の南端、サラトフ州との境にあるペストラフカ郡に行った。私と同年代のリュバーエフ郡 行政府長官が、「エリツィンはとても実行できないような約束を振りまいた。どっちが勝って も、選挙後は(統治が)非常に困難になるだろう。大統領選挙そのものを延期すればよかった のに」と述べていたのが印象に残った。このインタビューの後、私は、郡市から20キロほど離 れたところにあるマイスカヤ郷に派遣された。この郷は、かつてのソ連共産党郡委員会第一書 記ダヴィドキン氏が社長を務める株式会社(実態は巨大ソフホーズ)「マイスカヤ」に完全に依 存する「企業城下郷」である。ダヴィドキン氏は、リュバーエフ氏やマイスカヤ郷行政府長官 のズャブレフ氏(これも私と同年代)を「私の子供たち」と呼んだ。つまり、ダヴィドキン氏 が彼らを「発掘し、育て、現職に配置した」のである。第1回投票4日前のその日は、サマー ラ州行政府長官チトフが州の村長(スターロスタ)たちを州都に招集し、決戦に向けて意思統 一している日であった。私は、ズャブレフ郷長官に、「もし州知事が村長たちの確信をかちとる ことができたならば、村長たちはその方向で住民の確信をかちとることができるか」と尋ねた。 彼は「無理だろう」と答えた。

翌朝、ズャブレフ氏は郡行政府まで私を車で送ってくれた。驚いた事に、リュバーエフ郡長 官はズャブレフ郷長官を、「なぜお前は選挙を真面目にやらないんだ。お前が担当しているソフ ホーズはいちばん悲惨な状態じゃないか」と、私の面前で詰問し始めた。その前夜ウォッカを 2本空にした仲なので敢えて言わせてもらうが、ズャブレフ氏自身がエリツィンをあまり支持 していないのである。

郡市で残された時間を、私はかつてのソ連共産党郡委員会書記(イデオロギー担当)ビジャー ノワ女史と過ごした。「イデオロギー担当」などと言うと狂信的な共産党員のような印象を受け るが、少なくとも農村の党組織においてはこの職にある者は文化啓蒙活動一般を担当したよう である。ソ連共産党の廃絶後、彼女は1カ月間だけ元職のフランス語教師に戻ったが、年金を 管轄する行政府のホズラスチョート部局である「慈善」の長にリクルートされ、現在に至って いる。「慈善」をたんなる年金分配機関にせぬよう、ビジャーノワ女史は(かつてと同様)活発 な文化活動を組織している。「慈善」は郡行政府内の一種の独立王国であり、リュバーエフ長官 との関係について、女史は「彼が私にタッチしない限り、私も彼にタッチしない」と述べた。 「でも、私が(12月に予定されている)郡長選挙にもし立候補したら、私、勝っちゃうわよ」と 付け加えることも忘れなかったが。私はビジャーノワ女史から、ペストラフカ版和田あき子と いう印象を受けた。

私が女史と面談していた最中、郡行政府長官代理がエリツィンのポスター、チラシを抱えて 入室し、「アントニーナ・アレクセーエヴナ、事務所にエリツィン大統領のポスターが張ってな いじゃありませんか。あなたの事務所には郡中の年金生活者が集まるのに、こんなことでは困 りますよ」と問責した。ビジャーノワ女史は、「廊下に全ての党派が平等に使う広報版があるか
らそこに張りなさい。私はそんなことできないから、あなたが自分で張りなさい」と、まるで 子供を叱りとばすかのように長官代理を追い出してしまった。「あんな高い位にある人が勤務時 間中にビラやポスター抱えて走り回ってるんだから傑作でしょう」と彼女は笑った。半時間後、 今度はリュバーエフ長官自身が直接電話をかけてきて、ポスターについて重ねて問責した上、 投票日の有権者の動員のため「慈善」の公用車を使わせてくれるよう女史に頼んだ。「休日の前 日になって運転手に時間外勤務を命ずるの? 根拠法規はどこ? 超過勤務手当とガソリン代 の財源は何?」と、またしても子供を叱るかのような口調で女史は長官の要求をつっぱねた。

サマーラのコミュニストたちは、マスコミに圧倒され意気消沈していた。「非常に苦しい選挙 である」ということを彼らは私に隠さなかった。蓋を開けてみたら、サマーラ州ではいい勝負 だったので、彼ら自身驚いたのではないだろうか。

タンボーフに行ったのは、第1回投票の後だった。偶然、ロシア共産党州委員会第一書記で 国会議員でもあるミハイル・コッスィフ氏と同じ車両で行く事になった。1年前にコッスィフ 氏と知り合ったときには、腰の低い典型的な人文インテリゲンツィヤという印象を受けたが (彼は旧体制下では学校教員であった)、全国最強組織の指導者、そして国会議員にふさわしい 貫禄を次第に備えるようになった。やや太ったような気もする。朝、汽車がタンボーフに着く と何人かの活動家がホームでコッスィフ氏を待っている。顔見知りの女性活動家(若い女性で はない。念の為)が薔薇の花束を抱えている。私が自分を出迎えてくれた地元の社会学者たち と立ち話していると、この女性は私に歩み寄り、「キム、この花はあなたへよ。私たちは土曜も 日曜も働いてるから、遊びにきてね」と私に花束をくれた。私が第一書記と一緒に来訪するこ とが前夜のうちに地元に伝えられ、翌早朝には花が準備されているのである。いつものことな がら、この気配りには頭が下がる。やはり、並みの気配りではズュガーノフが53%とれるもの ではない。

タンボーフ州においては昨年12月の州知事選挙で共産党が推薦するリャーボフ候補が勝って いる。しかし、エリツィンの強烈な圧力を受け、リャーボフ州知事はズュガーノフ支持を表明 することができなかった。こうしてやや義理を欠いたような状況が生まれたが、その反面では エリツィンは自分のために票を動員することをリャーボフに強要しなかったので、この州は行 政機関が政治的中立を守る稀な例外となった。タンボーフ市長のカヴァリは全国的にも有名な 「民主派」人士であり、エリツィン支持を表明したが、強力な共産党組織に掣肘されているた め、勤務時間中に選挙運動をおこなったり、公金を選挙運動に流用したりすることはなかった。 ローカル・テレビ局、ラジオ局は、各候補者の見解を平等に報道した(その影響力は中央テレ ビとは比べものにならないとは言え)。要するに、「文明国」に住む我々が観念するような「選 挙」がおこなわれたのは、モスクワでもサマーラでもなく、タンボーフなのである。

選挙期間中にサマーラ州でおこなわれた世論調査によれば、51%の回答者が、エリツィンは 自分の選挙運動のために大統領職権を濫用していると考えている。60%以上の回答者が選挙時 の票の偽造はありうると考えている。しかし、ここから先がロシアの特殊性なのだが、こうし た正邪の認識が有権者をエリツィンから追いやる方向には必ずしも作用しないのである。この 権力に対する冷淡な態度(権力がフェアであることなど最初から期待しない態度)は、伝統的 なロシアの政治文化が70年間の一党制支配によって強められたものと言える。エリツィンが延 命できるのは、この全体主義の最悪の遺産と闘っているからではなく、それを利用しているか らなのである。一党制の崩壊から数年たった。この間に、シニシズムの政治文化はどの程度克 服されただろうか。エリツィンがあれだけダーティーなことをやって第1回投票で辛勝しかで きなかったのだから、ある程度は克服されたとも言えるし、選挙の数カ月前には支持率8%だっ た人物が第1回投票のトップにまで漕ぎつけることが可能なのだから、克服されていないとも
言える。しかし、たとえ克服されていないとしても、あの選挙を「民主的」と首脳会議で認定 した西側先進国がロシア人を笑えるだろうか。「民主主義のためには多少の票の偽造はやむをえ ない」などと西側の(主にアメリカだが)ポスト・ソヴェト学者が真面目に議論している姿が 正常なものとは私にはどうしても思えないのである。しかもこの人々は、つい2、3年前まで は、「ロシア人に民主主義を教えてやる」といきまいていた人々なのである。過去数年間のロシ アをめぐる歴史は、ロシアにおけるデモクラチズムの水準の低さを示しただけではなく、西側 におけるデモクラチズムの水準の低さをも示したのである。
(7月1日脱稿)