極東諸民族歴史・考古・民族学研究所(ウラジオストク)の国際会議に参加して


沢田 和彦 (埼玉大学)


1996年6月18日から20日までウラジオストクのロシア科学アカデミー極東支部極東諸民族 歴史・考古・民族学研究所(以下「研究所」)で、研究所の創立25周年と創設者A・I・クルシャー ノフ氏の生誕75周年を記念する国際学術会議「世界史のコンテキストにおけるロシア極東:過 去から未来へ」が開催された。本研究所はロシア極東と東アジアの国際関係論、歴史学、民族 学、考古学の4分野を主たる研究対象とし、約90名の研究員が勤務している。大学院の機能を も合わせ持ち、季刊誌『ロシアとアジア・太平洋地域』を発行している。


 極東諸民族歴史・考古・民族学研究所

さて会議当日の登録者数は計160名(但し重複あり)。ロシア国内ではウラジオストクの研 究・教育機関からの参加者が大部分を占めたが、これ以外にウスリースク、ハバロフスク、ブ ラゴヴェシチェンスク、マガダンからも参加者があった。外国からは日本(15名)、中国(5 名)、アメリカ(3名)、イギリス、オーストラリア(各1名)の5カ国から25名が参加した。 中国の参加者は、吉林省社会科学界連合会常務副主席・李紹庚氏を団長とするグループである。 日本人は、二谷貞夫氏をはじめとする上越教育大学のグループ6名、鈴木旭氏(函館大学)を 団長とする函館日ロ交流史研究会のグループ5名(筆者もこれに属する)、個人参加として藤本 和貴夫氏(大阪大学)、白鳥正明氏(富山国際大学)、梶原洋氏(東北福祉大学)、大谷幸太郎氏 (東京大学大学院)という顔ぶれである。

会議初日は、スヴェトランスカヤ通りに面したロシア科学アカデミー極東支部常任委員会の 置かれた建物の会議場でおこなわれた。午前の部は、研究所のラーリン所長、ロシア極東地方 の諸大学の学長や中国、日本の参加者の挨拶の辞が続き、次いでラーリン氏が「ロシア極東の 歴史学の形成と発展における極東諸民族歴史・考古・民族学研究所の位置と役割」、マンドリク 氏(研究所)が「アカデミー会員A・I・クルシャーノフ:極東における歴史学の組織者」とい う短い講演をおこなった。午後の部は全体会議で、ラーリン氏「世界史のコンテキストにおけ るロシア極東:過去から未来へ」、ヴェリソーツカヤ女史(研究所)「ロシアと日本の歴史思考 における文明の理論」、梶原氏「古代東アジアにおける民族・文化的コンタクトの諸問題」、ス ヴェタチョーフ氏(ハバロフスク)「内戦とロシアにおける同盟国の干渉:新しいアプローチと 古いドグマ」、李氏「自由経済地域『図們江』」の5本の報告がおこなわれた。

2日目はプーシキン通りに位置する研究所の方で、次の4セクションに分けて分科会方式で 進められた。即ち、「現代世界の地政学的状況における極東」、「ロシア史における極東の位置と 役割」、「ロシア極東とアジア・太平洋地域諸国の文化」、「東アジアにおける民族・文化的コン タクトの諸問題」である。プログラムに記載された報告数は139本、二つ目の「歴史セクショ ン」が圧倒的に報告数が多い。もっとも実際におこなわれた報告は計73本で、セクションに よってはさらに二つもしくは三つに分割された。使用言語はロシア語。藤本氏が第二セクショ ン、筆者が第三セクションの議長を務めた。

筆者の知見とロシア語の聞き取り能力からして、会議の全貌を伝えることはとうてい不可能 だが、気づいたことのみ記しておく。筆者の「文化セクション」では宗教、教育、音楽等に関 わるテーマが論じられたが、宗教の再評価、ロシア極東の歴史の見直しと歴史の空白地帯を埋 めようとする強い意欲が感じられた。筆者は、ポーランドの革命家にして民族学者B・ピウス ツキと東京音楽学校の女流音楽家たちとの交際について報告した。


 研究所所長室でのパーティー

昼食後は書記役の女性研究員に後事を託して「歴史セクション」へと脱走する。本会議の今 ひとつの感想は、亡命に関わるテーマが目立ったことだ。プログラムにはそのような報告が8 本記載されていたが、欠席者もいて筆者が聞くことができたのは2本のみである。まずシェス タコーフ氏(ハバロフスク)の「日本におけるロシア人協会の創設」は、横浜に来た亡命ロシ ア人ポルィーノフがウラジオストクの新聞とハルビンの雑誌に発表した二つの記事に 基づいたもので、1917年2月から11月までの間の在日ロシア人の動向、東京で「ロシア 人協会」が設立されるまでのプロセスを追ったものである。質疑の折に、昨年日本で 「亡命ロシア人研究会」が発足したこと、当時の日本の外事警察が亡命ロシア人につい て克明な記録をつけており、その幾つかが現在公刊されていること、そしてポルィー ノフが横浜で『日本の法規』(1920年)という露文の小冊子を刊行していることを伝え ておいた。もうひとつの報告、コネーフスカヤ女史(ウラジオストク)の「オーストラリ アへのロシア人亡命史の研究」は、オーストラリアで刊行されている雑誌『オーストラリアーダ ロシア年代記』の紹介である。研究所内 に「アジア・太平洋諸国におけるロシア人亡命研究センター」が組織され、2年前には国際会 議「東アジアにおける移住のプロセス」が開催された。また我々の滞在中研究所でおこなわれ た6人の修士論文の審査のうち、2論文が亡命に関わるものだった。さらに市内のアルセーニ エフ博物館にも亡命をテーマとするラボラトリーが組織された由。

2日目の夜はゴーリキイ劇場で食事とコンサートを楽しむ。食事、ショー、ともに豪華な内 容で、心ゆくまで踊る。3日目の午前は研究所での閉会式で、各セクションの議長による総括、 出版予定の論文集に掲載する報告の推薦、そしてラーリン所長による会議全体の総括がおこな われた。その後海浜墓地にあるクルシャーノフ氏の墓に詣でて、墓前で氏の知人や教え子が氏 への思いを語った。

今回の宿泊場所は、空港から市の中心部のほぼ真ん中に位置するサナトリウム「庭園町」だっ た。このサナトリウムはアムール湾の北東端に面し、環境の良さと海底の泥を体に塗る療法で かつてはロシア中から人が押し寄せたが、現在は交通費、宿泊費双方の高騰で空室が目立つと いう。中心部まで26キロ、毎日バスで片道小一時間は面倒に思えたが、その反面白夜の時期の 広大な園内の散策は、草木の緑が鮮やかで心を和ませてくれた。

次回の国際シンポジウムは1997年9月3日から11日まで、「北東 アジアにおける歴史体験と諸人種、文化、文明の相互作用のパースペ クティブ」というテーマでおこなわれる。ブラゴヴェシチェンスク からハバロフスクまでアムール河をディーゼル船で下りながら、そ の船中で会議をおこなうというのが目玉のようである。


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