チェコ下院選挙やじ馬見聞記



矢田部 順二 (センターCOE非常勤研究員)


さる5月31日と6月1日の両日、チェコ共和国が93年に独立して以来、初めての共和国下 院選挙がおこなわれた。わが研究センターからは林センター長と非常勤研究員の矢田部がスラ 研調査団(?)として現地調査をおこなった。就任まもないセンター長はさまざまな会議の間 隙をぬい、前センター長に権限を委任して(1)の渡欧、非常勤研究員も資金を工面し、10日余 りの不在を可能にしてくれた事務サイドに感謝の念を抱いての強行軍であった。

今回の調査は、首都プラハで主要政党めぐりと現地の政治分析専門家へのインタヴューを中 心におこなわれたが、人口1千万の国の選挙にしては破格の「大」調査団であったといえる (2)。団長の林は、「Pan Hayashi が来ると議会選挙がおこなわれる」との異名をもち、団員の矢田 部も89年の政治変動以来、90年と92年におこなわれた当時のチェコ−スロヴァキア議会選挙 をいずれも現地で見聞してきた。その実、かの地でも「日本からわざわざ選挙監視ですか?」 とあきれ顔で「歓迎」されたのである(3)

学術的な分析は別途書かれるとして、以下は、その「裏報告」としたい。

われわれは5月26日の夕刻、プラハに到着した。空港には、この春スラ研に短期の研究滞在 をしたチェコ現代史研究所のトゥーマ氏が出迎えてくれた。空港を出てまもなくすると、主要 政党の大きな立て看板が見える。「おお、ゼマン(4)だ! クラウス (5)だ!」と興奮気味のわれわれに対して、トゥーマ氏は愛車を走らせながら、「クラウスの勝利は堅いけれど、もしゼマ ンが勝つようなことになったら日本に亡命するかな」とジョークを飛ばした。明らかに右派の 市民民主党支持者のトゥーマ氏がこんな冗談を述べたわけは、4月末の世論調査で、与党第1 党の市民民主党の予想得票率が、野党社会民主党のそれを7〜10%近く引き離し、右派連立の 優位は動かないと予測されていたからだった。

翌月曜日の朝から、さっそくわれわれは主要政党の選挙綱領を収集するために街に出た。街 のあちらこちらで目を引く選挙ポスターは主要政党のものばかりだった。西欧のポスターと同 様に政治家が優しくほほえみかけ、「我々はやり遂げるべきをやり遂げた」 (6)だの「誠実な勤労に見合った年金を」(7)などと書いてある。ところが小政党となると、あまり街角ではポスター を見かけない。今回の選挙では、名乗りをあげた20の政党のうち、4政党が選挙登録料を払え ずに脱落し、16の政党で選挙戦は戦われた。しかし実際には、ほとんど選挙運動をしなかった
政党もあったようである。この国でも、選挙は金のかかるものとな りつつある。

 選挙ポスター

90年春の選挙を思い出す。あのときは街中が選挙用のビラで埋 め尽くされ、街角のあちこちに人だかりがあり、「打倒、共産党」の 意志が大きなうねりとなっていた。それに比べると今回のプラハは 冷静そのものだ。チェコ語の分からない観光客ならポスターを見て も選挙の公示期間であることを知らないまま帰ったかもしれない。 アポイントメントをこなしながら、「なんか、盛り上がりに欠けますねぇ」と繰り返す矢田部 に、団長の林は「こんなもんだろう、それだけ制度化が進んだんだよ」と冷静に、いかにも政 治学者らしく答えた。

今回の選挙はその争点も分かりにくいものであった。90年の選挙時には「脱共産主義」の方 法をめぐって、92年には「連邦の形態」と「経済改革のテンポ」という基本政策をめぐっては げしい論争があった。そして92年には選挙の結果、チェコとスロヴァキアの間の指向の差が明 確となり、連邦の解体は決定的になった。2日目、3日目と、われわれは政党関係者やジャーナ リスト、政治学者らとの会話の中に、今回の選挙の争点を見いだそうとした。減税、年金問題、 地方自治制度の改革、犯罪対策、NATO加盟のあり方...などなど。これらはこの6年余りの 間に解決されずにきた問題なのだが、このように選挙の争点が細分化したことは、見方を変え れば逆にこの国の基本路線が定まったことの表れともいいうるのだろう。

選挙戦の最終日に、われわれはふたつの選挙集会を見物した。ひとつは市民民主党の集会で、 もうひとつはこの選挙では議席を獲得できなかった左派ブロック (8)の集会だった。市民民主党の集会はまるでお祭りの打ち上げだった。バンドが入り、人気歌手が熱唱し、政治家は「ありがとう、どうぞ投票所へ」を連呼、集まった人々も有名人や「ニューリッチ」とおぼしき人々 で、おまけに締めとしてクラウス自らが中心となって100個ほどの風船を空に放つという凝っ たショーを演出した。これに対して、まさに地味な左派ブロックの集会では、政治家が舞台の 上に机を並べて座り、あたかもひと昔前の党の集会を彷彿とさせるかのような光景だったが、 あるべき社会政策の理念や左派政党の結集問題などが熱心に議論されていた。ふたつの集会の、 なにやら奇妙なコントラストには社会階層の分化が感じられた。

 
旧市街広場でひらかれた市民民主党の集会

選挙は31日金曜日の午後2時から始まった(9)。天気のいい、暑い日だった。午前中にOMRI (10)を訪ねたわれわれは、次の約束までの時間を利用してある<調査>を試みた。「投票時間中にビールが飲めるか」である。90年と92年の選挙の際には、投票日にアルコール飲料の販売 が禁止された。普段はひとときもビールなしではいられないプラハっ子もこのときばかりは 「これがヨーロッパの伝統さ」とうれしそうにやせ我慢をしたものである。中心部の国民大通り 近くのビヤガーデンにわれわれは陣取った。結果は...、普段と変わらぬ光景である。半リット ルのジョッキはいつものように運ばれてきた。「そうですよね、今は観光シーズンでどこもかき 入れ時なのにビールなしでは客が怒りますよね」とひとりで納得する矢田部に、「いや郊外では 分からんよ」と林は「伝統」を懐かしむかにつぶやいた。

翌6月1日の午後2時に投票は締め切られ、3時過ぎからはテレビで開票速報が流れ始めた。 いつ見てもワクワクする瞬間である。この日、トゥーマ氏の自宅を訪問していたわれわれは、 その第1報を見てから辞去した。出口調査を用いた第1報によれば社会民主党は好調な伸びを 示しつつも、市民民主党には約10%水を開けられていた。そのときテレビでは評論家たちが 「いやー、やはりチェコは中東欧の中でも保守勢力の孤島ですな」などともっともらしいことを 言っていた。ところがである。宿に戻ってテレビをつけると、4時半頃から中央選挙管理委員 会の開票情報が入り始め、上に挙げた両党はほとんど同率で競っているという状況に一変して いたのである。これがいかに衝撃的であったかは、あのときのスタジオ中の異様な雰囲気を見 れば誰にでも理解できただろう。たいへんなことになったと言わんばかりの口調で、とちりが 急に増えた。たしかに現在のマスコミ関係者も体制転換の恩恵に浴してきた人々である。

さて、今回の選挙結果は、日本でも報道されたとおりである (11)。得票率でみるなら市民民主党は第1党の座を守り、ほかの連立与党もほぼ現状 維持だったにもかかわらず、社会民主党は得票率を4倍にも伸ばし、大躍 進を果たした。そして結果的には死票率が11%強と低かったせいもあり、 与党側は200議席中99議席と過半数を割り込んでしまった。おそらくこ の結果は野党に投票したチェコ人にも意外なものであったと思われる。 選挙直後、大連立の可能性も模索されたが、社会民主党に議会内の要職 を分配することとひきかえに、結局今までの与党3党が少数内閣を形成 する方向で合意が成立し、6月6日にハヴェル大統領はクラウスに組閣を 正式要請した。議論を経て27日に連立協定が結ばれ、28日には新下院議 長にゼマンが就任し、新内閣は7月4日、大統領によって任命された。

いずれにせよ、この選挙結果もその争点と同様に、まさに分かりにくいものである。与党3 党の得票率は92年選挙よりわずかだが伸びており、敗北とは言い切れない (12)。一方、社会民主党もたしかに勝利したが、社会民主党と共に野党として議席を得たのが改革路線に否定的な 共産党と排外的な民族主義にたつ共和党であるため、社民党はその両者とも提携を否定しており、野党共闘は成り立ちそうにない。選挙後われわれは、自分たちの方がインタヴューをおこ なっているはずなのに、いつのまにか感想を求められているという場面にしばしば遭遇した。 矢田部にいたっては、「ようやくチェコ政治がおもしろくなりました」などと、わけの分からぬ 答えをしたものである。

今回の選挙にはさまざまな論者がさまざまな注釈をつけている。だが、おそらくどの論者よ りも驚き、「なぜ?」と自問したその人は、クラウス本人だったろう。印象論にすぎないが、ク ラウスを顔とする市民民主党の幹部たちは、今回の選挙を同党がこの6年間に推進してきた経 済改革路線についての信任投票と位置づけ、またその信任を堅く信じていた、といえよう。ポ スターの標語にしても、その選挙集会にしても、実績を誇示する趣向だった。そのいささか自 信過剰とも見える態度に、有権者が熱いお灸を据えた格好になったのが今回の選挙だった。

選挙結果についての注釈をいくつか簡単に紹介しておこう。まず、事前調査で市民民主党の 得票予想が常に好調だったために他党に票が流れたことが指摘されている。そして市民民主党 の独り勝ちを恐れて、他のふたつの与党が距離を置く選挙戦術をとった。さらに、クラウスが 「経済改革は終わった」と豪語していたために、有権者の関心がむしろ<改革後>の社会保障に 向けられたともいわれる。市民民主党の選挙運動は都市中心で、党の顔であるはずのクラウス が多忙を理由に選挙戦の前面には出なかった。一方、社民党のゼマンは、「ゼマーク」と自らの 名をもじったバスを仕立て、村々をじっくり回り、政権党が積み残してきた政策を細かく批判 するという戦術に出て、功を奏した。変わったところでは、天気が結果を左右したとの説もあ る。市民民主党の強い地盤であるプラハ市の有権者が、選挙予測をうのみにして投票所へ行か ずに、この夏初めての暑い週末に近郊の別荘へ出かけてしまった (13)というのである。

それでもプラハでの市民民主党は強く、社民党に投票しました、という人になかなか会わな かった(14)。この街にも社会民主党支持者は約5人に1人はいるはずなのにおかしいなと思っ ていたとき、ようやく会ったのが安ホテルの従業員だった。帰国の前夜のことだ。どうやらい ぶかしがられていたようである。ほとんど毎晩飲んで帰ってくるし、チェコ語を話す変な日本 人...。名誉のために言っておくが、飲んで帰ってきたのはフランクに政治談義を交わすため だった。フロントで「今回は何のお仕事ですか?」と訊かれた。「ええ、選挙調査です」「どう 思います? 今回の結果」「社民党はちょっと勝ちすぎましたね、次が苦しいでしょう」「いや 私はいい結果だと思いますよ、次もきっと投票します、社民党にね」こんな会話だった。なる ほど、彼のような立場の人々がプラハにおいては社会民主党の支持者だったのである。

さて、こうして勝者がいるようでいない、実に「すっきりしない選挙」を見て、われわれは スラ研に戻ってきた。今後、新内閣は政策綱領を公表し、30日以内に議会の信任を得なければ ならない。信任には社会民主党の支持が不可欠だ。たしかに船出は容易ではない。かといって 議会がただちに機能麻痺するともいえないところがチェコ政治の不思議なところである。

この秋には、上院の選挙が予定されている(15)。政局が極端に不安定になった場合、この上 院選挙後の翌春にも前倒し下院選挙があるのではないかと、まことしやかに囁かれている。願 わくば、現センター長が公務に穴を開けずとも済むように、チェコ政局にはしばらくおとなし くやってもらいたいものだ。チェコ研究者の興味を適当にかき立てることは忘れないまで も...。

(1996年7月6日)  

 −注−
(1)または「押しつけて」ともいう。
(2)相前後しておこなわれたロシア大統領選挙について現地調査を強行した教官はいなかっ た。
(3)一説には、「不思議がられた」との評もある。
(4)今回の選挙で議会内第2党になった、社会民主党の党首。
(5)チェコ共和国首相。経済改革の立役者であり、与党連立の要である市民民主党の党首。
(6)市民民主党の標語。
(7)キリスト教民主同盟の標語。
(8)共産党とは現在は別組織だが、68年のプラハの春の指導者の一人であるムリナーシュが 所属する。
(9)31日は午後10時まで、6月1日は午前7時から午後2時までが投票時間であった。
(10)Open Media Research Institute
(11)得票率は、市民民主党29.62、キリスト教民主同盟8.08、市民民主連盟6.36(以上、 与党3党)、社会民主党26.44、共産党10.33、共和党8.01%だった。(投票率は76.6%、死票 率11.15%)
(12)3党合計の得票率は92年が41.94%、96年が44.06%。
(13)実際、プラハ市の投票率は平均を下回って、70%に達しなかった。
(14)プラハでの市民民主党の得票率は43.85%、社会民主党は18.68%。
(15)11月15、16両日。