スロヴァキアの中欧文学者!

家田 修

9月にスロヴァキアを訪れた。三年振りだが、そこで待っていたのは思いもよらない友人の 訃報だった。タラモン・アルフォンスTALAMON Alfonz、作家、1966年生まれ。三十歳の若さだった。昨年発表した短編小説集『夢売り人の旅路』で今年のマダーチ・イムレ賞を受けた ばかりだった。この賞はスロヴァキアのハンガリー文学作品に与えられる最大の賞である。若 き受賞者を賛えた現地新聞は次のように記している。「タラモン・アルフォンスの作品は全く傑 出している。今回の受賞作で彼はそれまでの文体を一新させ、かつ内容的にも洗練されたもの になった。現代ハンガリーの若い小説家層を代表する最も有能な人材である。( Uj Szo; Bratislava, 1996. jun.20)

しかし受賞式に彼の姿はなかった。今年の2月に自動車にはねられて全身を打撲し、絶望的 な容態が続いていた。家族はアルフォンスの次作の題だった「帰還」を信じ、主治医は「家族 の愛が命をつなぎ止めていた」と語った。そんな惨事の中の受賞だったが、アルフォンスは受 賞を理解し、全身で喜ぶ仕草を見せたそうだ。

9月10日付けで訃報を告げる新聞記事は将来を嘱望された作家の最後の作品の、その最後の 文章を引いて、彼から我々へのメッセージだと注釈をつけた。その一節とはこうである。

「それでも私は言葉にならない言葉を探し求め、夢に生き、耳打ちされた声と引き出された形 に望みを託す。仮想の世界に翼が与えられんことを。その翼で私は瞬く間に数限りない交差路 へと旅立ち、あらゆる向きへと進路を変える。そして今までとは違った時と所から、ここへと たどりつく。

あの切なる瞬きの時へと帰りたい。」

文学者でもない筆者の訳は稚拙であり、作者の思いの十分の一さえも日本の読者に届けられ ないが、決定的に欠けているのは、何といっても文体の妙である。独特の文体への高い評価が マダーチ賞受賞の背景にあった。アルフォンスはその構文力によって、場合によっては句点と 句点の間が一頁を超えることもある文体を生み出した。また驚くほど豊かな語彙が文体を支え ている。この文体は一体どこから来るのか。幼い時から周囲の目を見張らせた読書量があった。 そして小学生にして「村はあたかも老婆が角巻をスッポリと頭に被せたかのように、暗闇に覆 いつくされた」という表現を生み出すほど、天賦の文才に恵まれていた。

歴史家である筆者がこれに付け加えるとしたら、アルフォンスが生まれ育ったスロヴァキア 西部が持つ二重王国時代からの歴史的変遷と民族的複合性であろう。タラモン・アルフォンス の父方の曾祖父はチェコのモラヴィア地方出身であり、百年程前に北西ハンガリーのディオー セグ(今はスロヴァキア共和国のスラートコヴィチョヴォ市)に移り住んだ。当時チェコは二 重王国内の先進工業地帯であり、かつ製糖業の中心地でもあった。アルフォンスの曾祖父も製 糖業関連の技師として働いていた。1887年、ディオーセグの大地主クフネルはもちまえの新取 の気性と企業家精神を生かして製糖会社を設立し、曾祖父タラモンは乞われてこの会社に勤め ることになった。オーストリアからハンガリーへ(今の国境に従えばチェコからスロヴァキア へ)やってきた青年技師はドイツ語か(と)チェコ語を話したはずだが、自分が農業国ハンガ リーの技術発展に貢献することは考えていたとしても、ハンガリー文学に貢献する文学者が自 分の曾孫の中から出ようとは、夢にも思わなかったであろう。
タラモン・アルフォンス(ブラチスラヴァ城を背景に)
その後、曾祖父タラモンはハンガリー人の妻を娶り、タラモン家は次 第にハンガリー化の道を歩むことになった。もっともこの地域はスロ ヴァキア語、ハンガリー語、ドイツ語が混在した地域であり、三つないし 二つの言語を話せることは日常茶飯だった。やがて今世紀に入るとこの 地域の歴史は急速な変遷を繰り返す。ハプスブルク帝国の崩壊とチェコス ロヴァキアの独立。スロヴァキア独立と一部地域のハンガリーへの再統 合。チェコスロヴァキア再生。チェコとスロヴァキアの連邦化。そして 1993年の連邦分裂を経て、今日の独立スロヴァキア共和国に至る。タラ モン家はこの一世紀のあいだに5回も国籍を変えることになったが、自分達の意志だったのは最初の一回だけだ。

ここで言いたいのはこうした歴史の変遷それ自身ではなく、この変遷がアルフォンスの文体 に与えた影響である。彼の文章の際立った特徴は先に指摘したとおり、句点と句点の間が非常 に長いことである。それを洗練された形で可能にした構文上の要因の一つはハンガリー語に (恐らくはウラル系言語にだと思うが、言語学者の助言を得たい)特長的な語順による分詞構文 ないし修飾節であり、いま一つはスラヴ語構文からの援用だと思われる副動詞を用いた分詞構 文である(これについても専門家の方々のお教えを乞いたい)。『夢売り人の旅路』から例を抜き出してみよう。

Vegig haladva ugyanazokon a szobakon, 同じ部屋を次から次へと最後まで駆け抜け、
szeretom agya fele sietve  愛しい人の傍らへと急ぐ、そのとき
elneztem 私は見逃していた
a porpaplanok alatt szendergo, 埃よけシーツの下でうたた寝をしていた
evek ota mozdulatlan targyakat, 何年もずっと身動き一つせずにいた品々を 
settenkedo almok 束の間の夢の
hosszan elnyulo szeszelyes arnyai 予期しなかった 長く長い陰が
uralkodnak sarkomba, 私のかかとを支配するが
akar vegtelen vandolutjukon 果てしない旅路に疲れ果てていたとしても
megfaradt maradok,
lassu szarnyalassal telepszenek korem  夢のゆっくりとした翔たきは私の回りで翼を休めるのだ
(原文は散文だが、構文を理解してもらうためにここでは韻文のように頻繁に改行をした。)

最初の2行ではスラヴ系言語でよく見られる副動詞形に当たるvaやveを用いた分詞構文に よって次の文節への橋渡しがなされている。第4行目から7行目まではハンガリー語本来の形 動詞(分詞ないし分詞相当語、太字部分)を用いた構文が同様の役割を果たし、最後の4行で はakrという接続詞が三つの文節を束ねている。このように一つの文の中に多様な、そして重 層的な主体=客体関係が複雑な色合いをもって登場する。さらにドイツ語で頻繁に用いられる 関係代名詞により構文はいっそう多層化し、一頁にも及ぶ文が可能となるのである。その結果 として読み手は一つの文の中に多彩な意味空間を見い出すことになる。

現代ハンガリー語でも副動詞を使うことはよく見られる。ただし一つの文の中で多用される ことはない。これに対してアルフォンスは文学的かつ体系的に可能なぎりぎりまでのところま でその活用範囲を押し広げた。別な言い方をするなら、ハンガリー語では副動詞による構文と 形動詞による構文は意味内容だけを優先させるなら相互に代替可能であり、ハンガリー語で読 み書きをする上では必ずしも副動詞が不可欠という訳ではない。アルフォンスはこの代替可能 性を単なる代替性にとどめてしまうのではなく、文体の可能性として徹底的に利用したのであ る。このような言語能力は二重ないし三重言語地域において、しかも数世代にわたる複数言語 生活の蓄積を経て初めて、醸成されえたのではないだろうか。初歩的な例を挙げるなら、スロ ヴァキアのハンガリー人は母語であるハンガリー語で話していても、適切な言葉が見当たらず につかえてしまい、それはスロヴァキア語ではこれこれだが、ハンガリー語では何というのだ ろうと、ごく自然に互いどうし尋ねあう。つまり意識下においてこの置き換え作業が常におこ なわれているのである。言葉や表現の置き換えは多重言語生活者にとってどこでも当然の作業 であるが、ここでは西南スロヴァキアという地域とタラモン文学との接点を見る上で、見落と せない事柄だといえる。

タラモンの文学をカフカに引き寄せて解説する批評もあるが、確かに彼の文体には言語的な 多層性と結びついた思考の深い迷路がある。もっとも彼の文体が醸し出す複雑な色彩を確実に 感じ取るほどの語学力はとうてい筆者にはないし、またタラモンを文学史的に位置付けるだけの素養も持ちあわせていない。しかし彼の文体と文学は、彼自身がそうであったように、そし て今見たようにハンガリー人ないしハンガリー語という枠を超えて生まれたことは確かであり、 あえて中欧の文学と表現することも許されるのではないか。

スロヴァキア作家同盟も、死後になってしまったが、今年の優秀賞にタラモン・アルフォン スの名を挙げた。文体の故に難しいとは思うが、スラヴ系の言語に翻訳されることが期待される。

アルフォンスの冥福を祈って、合掌。

を祈って、合掌。