エ ッ セ イ

チェコ・スロヴァキア選挙見物雑感
−1990〜1996年−
林忠行

共産党体制崩壊後、チェコスロヴァキア(1993年以後はチェコとスロヴァキア)では5回の国政選挙がおこなわれた。1990年と1992年に連邦および各共和国の国民議会選挙、1994年にスロヴァキア議会選挙(同国は一院制)、1996年にはチェコで下院選挙と上院選挙が実施された。私はこの5回の選挙すべてを見物することになった。『センターニュース』66号(1996年7月)で矢田部順二氏(現在は広島修道大学)も述べているが、ここまでくると「物好き」といわれても仕方なく、実際、選挙のたびに現れる私を見て、チェコの友人は「お好きですね」といわんばかりの表情をするし、別れ際には「では、またつぎの選挙の時に」といって手を振る始末である。

もっとも選挙中毒は私だけでなく、矢田部氏も、少なくともチェコでの選挙はすべて立ち会っている。しかし、同氏は1995年春までは留学生ないし外務省専門調査員としてプラハに滞在していたので、事情は少し違う。選挙のたびに、時間をやりくりして出かけていった私の方が、選挙中毒は重症といえる。ただし、誤解を招くおそれがあるので、一言、言い訳をしておくが、選挙見物だけを目的としておこなったのは1990年選挙のみで、その後は別に主目的を持っての旅行であった。1992年の時は執筆中だったマサリク伝のための資料収集、1994年は労組に関する現地調査とマサリク学会での報告、1996年の2度の訪問では東中欧をめぐる国際関係に関する調査をおこなっている。とはいえ、いずれも選挙にあわせて渡航したというのは事実で、偶然選挙に立ち会ったということではない。その点ではやはり「選挙好き」なのである。

選挙運動期間にその国の政治、とくに政党政治を観察するのは、それなりに意義がある。各政党は一斉に選挙綱領を用意し、新聞や雑誌は政党に対する質問をおこない、その回答を発表するので、各党の政策の相違点が明瞭になる。また、この時期には普段は見えにくい圧力団体と政党との関係もよく見えるようになる。しかし、それと同時に、選挙にともなう「お祭り騒ぎ」を見物するという楽しみも無視しがたいものがある。 共産党体制が崩壊した直後におこなわれた1990年6月選挙は今でも強く印象に残っている。プラハもブラチスラヴァも文字どおり選挙一色であった。選挙管理委員会は何カ所か、公設のポスター掲示場を用意した。しかし、それぞれの党の支持者たちは、選挙事務所でポスターをもらい、表通りの建物の壁、街灯の鉄柱、バスや電車の側面、ショーウインドーの中など、所かまわず糊を塗ってはそれを貼り付け、さらにそのポスターの上に別のポスターを糊付けたので、街は異様な光景であった。しかも、その中には特定政党(大部分は共産党)を誹謗する手作りのものも少なくなかった。さらに、多くのポスターは落書きの対象となり、政党指導者の顔には髭やらナチスの鉤十字やらが書き込まれていた。終日それらを眺めているだけで飽きることはなかった。

政党本部だけでなく街角でも、さまざまな選挙グッズ、すなわち政党のシンボルマークや指導者の顔などが印刷されたプラスチック製のバッジ、ステッカー、ビール・ジョッキ用コースターなどが配布もしくは販売されていた。そうした物の中には、スロヴァキアの民族政党が配布していた「独立スロヴァキアの紙幣」(おもちゃのお金みたいな物で、政党の宣伝ビラの一種)もあった。1990年の段階では、冗談として笑って見ていたが、まもなくそれは「冗談」ではなくなった。 複数政党による選挙は、1946年選挙以来のことであったから、当事者たちの大部分にとって初めてのことであった。それを取材する私も同様であった。さしあたり、地図を片手に政党の本部や選挙事務所を片端から訪問し、選挙綱領などをもらうと同時に、インタビューを申し込んだ。投票日も間近だったので、迷惑なことであったと思うが、たいていの場合、誰かが面談に応じてくれ、時には事前の約束をとっていなかったにもかかわらず、幹部クラスの政治家がかなり長い時間を割いてくれたりもした。まだ、取材する方もされる方も素人で、のんびりとした雰囲気があった。

回を重ねるごとに、選挙の雰囲気も変わってきた。ポスターの設置は次第に行儀のいいものとなり、通常の時期には商業広告用として使われている3畳ほどの大きさの掲示板に各党のポスターが掲げられ(上記矢田部順二氏のエッセーに添えられた写真[p.10]を参照)、それ以外の小型のものも段ボール紙などで裏打ちされ、街灯の支柱などに吊されるようになった。それにともなって、ポスターを掲げることができる政党は資金のある有力政党だけとなり、ポスターの「多様性」は失われた。1990年選挙の時のような手作りののものはなくなり、また人びとも選挙に関心を持たなくなったので面白い落書きも、なくなったわけではないが、少なくなってしまった。こうして極東からやってくる選挙野次馬の楽しみのひとつは失われていった。政党のブラスチック・バッチなどは今でも配布されているが、あちこちの街角でそれを配るという雰囲気はなくなり、一般の人びともそうした物には関心を持たなくなった。

これまでの経験では、インタビューもさることながら、選挙期間中に配布される選挙綱領が、論文などを書くさいに貴重な資料となった。各党は配付資料を何種類か用意するが、選挙直前の党大会で決議された選挙綱領文書そのものが印刷されているものを必ず入手する必要がある。しかし、最近は、現地に赴かなくても選挙綱領を入手できるようになりつつある。連邦時代の2回の選挙では、たしかに現地で政党本部を訪れて綱領をもらうという方法しかなかったが、最近では選挙が近づくと、主要政党のいくつかはホームページを開設して綱領などを発表するようになった。こうした傾向はますます強まると思われるので、近いうちに、自分の研究室にいながらほぼ完全な選挙綱領のコレクションを作ることができるようになるかもしれない。

また、飛び込みでインタビューを申し込むという牧歌的な時期も終わった。与党にしろ野党にしろ、選挙期間中のインタビューは難しくなった。人口でチェコが1000万、スロヴァキアが500万という小国のことゆえ、今でも事前の下準備さえ整って入れば、政党幹部に直接会ってインタビューをおこなうことは可能である。しかし、選挙運動期間中となるとそうはいかない。昨年、チェコ上院選の時期に最大与党の市民民主党と野党第1党の社会民主党でそれぞれの対外政策についてインタビューを試みた。前者では対外関係部長のペトル・プレツィティー氏、後者では対外関係広報担当のヤン・カヴァン氏が対応してくれたが、選挙期間中だったため仲介の労をとってくれたチェコの友人たちはかなり苦労したようであった。

社民党のカヴァン氏は上院議員候補であった。チェコの上院選は小選挙区制で、同氏はモラヴィア中部の選挙区で立候補していた。投票日の前日、運動を終えてプラハに引き上げてきた同氏とようやく連絡が付いて会うことができた。夕刻、共同で調査をしていた矢田部氏とともに個人事務所を訪れたとき、カヴァン氏は眠っていたらしく、ベルを押してもなかなか出てこなかった。ようやく扉を開けてくれた同氏は疲労困憊という表情であり、はじめは私たちの質問にも夢うつつであった。もっとも、そこは政治家のこと、質問が微妙な問題におよぶと身を乗り出して社民党の方針を説明してくれた。この面談結果は期待以上の成果をもたらしてくれたが、おそらく選挙の時期をはずしていればもっと長い時間、話を聞くことができたであろう。なお聞きたいことは多くあったが、必要最小限の質問を終えたところで、私たちはお礼の言葉を述べて、退散せざるを得なかった。ちなみに、カヴァン氏は第1次投票で2位に食い込み、翌週の決選投票では市民民主党候補に逆転勝ちし、議席を得た。 同じような問題は、労働組合でも起きた。労組のEU加盟問題への対応などを質問するため、チェコ最大のナショナル・センター、ボヘミア・モラヴィア労働組合会議所を訪問したが、この組織の最高幹部3名が独立候補ないし社民党の候補として上院選に立候補していたので、幹部たちは選挙区に張り付けになっており、本部には人がほとんどいなかった。結局対応してくれたのは国際部で通訳をしている女性であった。親切に質問には答えてくれたが、その内容はあまり満足の行くものではなかった。 こうしたわけで、選挙期間中に現地を訪れる楽しみも意味も次第に薄れている。そろそろ私も選挙詣を卒業すべきなのかもしれない。しかし、私の選挙中毒はかなり慢性化している。喫煙と同様、簡単にはやめられない。まだ、インターネット情報は完全なものではなく、現地での資料収集はなお必要である。今年はチェコでもスロヴァキアでも国政選挙は予定されていないが、政局の動向によっては解散総選挙ということもあるかもしれない。なにも、チェコとスロヴァキアに限ることはない。今年はポーランドで選挙があるはずだ、などとカレンダーを眺めている。今年度も、センター長職にともなう諸々の職務、つまり学内会議出席や各種の報告書、申請書作成などを同僚に押しつけ、押しつけられた同僚の冷たい視線を浴びながら、選挙見物に出かけることになるのかもしれない。これは病気なので仕方がないのである。

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