エ ッ セ イ

 誰も書かなかったウクライナ 

松里公孝 

kim@slav.hokudai.ac.jp


大統領選挙前後の物々しい戒厳体制下のロシアからキエフに逃げるように移住したのは、1996年8月中旬のことだった。早朝、露ウ国境を越えてすぐのまちであるコノトプに停車したが、ホームは素人商人で溢れかえっている。しかも売っているのは、近くの川でとれたと思わ れるザリガニをゆでたもの、近くの工場で生産していると思われる正体不明の半加工品(エン ジンの一部のように見えた)などである。素人商人たちの呆然とした表情は、1992年にルビャンカで「人間の鎖」を作っていた素人商人たちを思い出させた。実際、この後たびたび、1992- 3年頃のロシアを思い出させる体験をキエフですることになる。
キエフに移り住んですぐ直面したのは、外国人の住居登録の問題である。かつてソ連圏にお いては、登録は職場住所に基づいて、当該区警察署に付属したOVIRにおいて行なうことになっていた。それが、ウクライナでは、自宅住所登録となっていたのである。法律上、登録は入国後3日以内に行なうことになっているから、これは全くのナンセンスである。外国人がそ の国に来て、3日以内にアパートを見つけ、税務署を恐れる大家さんを説得して、(登録に必要 な)大家からの手紙・契約書を持ってOVIRに出頭できるわけがない。現に私は、入国後、仕事を放棄してこの作業に没頭したにもかかわらず、アパート捜しから始まって登録の手続きを終えるのに3週間かかった。その期間、路上で何度も警察官のハラスメントを受け、毎回のように賄賂をせびられ、それを断わったために2回警察署に連行され、1回は罰金をとられ、プロトコールに署名することを強制された(日本大使館かアカデミーに電話させよという私の要 求は、物理的に阻止された)。通常、ウクライナにおける制度改革は、ロシアで行なわれたもの の後を追う形をとるが、この外国人登録制度の改革は、ウクライナでまず施行され、ロシアが その後を追った。
ウクライナ語では、10月を「黄色」、11月を「落葉」というが、昨年は異常気象のため、9月が「黄色」、10月が「落葉」であった。にもかかわらず、11月初めまでキエフでは暖房が入らず、「こんなことは戦争以来だ」と市民を嘆かせた。私自身、持病の気管支炎をこじらせ、いまだに苦しんでいる。ロシアで鍛えられた私の忍耐力もキエフには通用しない。国民の所得水準からすればベラボウに公共料金が高いために節電は徹底しており、3百万都市なのに夜は見事に星が見える。地下鉄以外の公共交通は破局的な状況である。ラッシュアワーでも20分に1本しかバスが来ず、したがって来てもとても乗れない混みかたである。必死の思いで乗ると、外国人はスリの標的になる。誇張抜きで3日に1度は、自分の鞄を誰かに開けられた。住居登録の苦難の過程を終えた9月初めに、ついに(登録の判子を押してもらったばかりの)パスポートをすられた。これはゲームのようなもので、被害にあった側は新聞等に広告を出し、盗んだ側は偶然拾ったかのようなふりをして、謝礼を受け取るというルールが確立しているらしい。泥棒に謝礼を払うようなことはしたくなかったので、私は正規の再発行手続きを踏むことにしたが、それに2ヶ月以上かかり、その間、またしても、警察官の好餌とされた。そもそも、警 察に被害届を受理させるのに10日以上かかった。私がパスポートを盗まれたのは(おそらく)市電の中、それに気付いたのはキエフ駅の地下通路であった。捜査が犯行現場に従って行なわれるとすれば、通常の市警察が捜査し、被害発覚場所に従って行なわれるとすれば、交通警察がそれを引き受けなければならない。しかし、目撃者がいないスリ事件のような、犯人逮捕の確率がほとんどなく、自署の検挙率を引き下げるに違いない事件を両警察とも引き受けたがらず、彼らは私の被害届を相互に転送し始めた。業を煮やした私は、交通警察のキエフ管区副長官というかなり位の高い人(モルドワ系ウクライナ人)に直訴した。親切にも、その人自身がプロトコールを作成する形で(つまり、彼自身の検挙率を引き下げる形で)盗難届を発行してくれ、私はパスポート再発行の手続きに着手することができたのである。
警察官の文化水準が低いのはロシアも同じだが、ウクライナの場合、人種主義がそれに拍車をかけている。あるとき、ディアスポラのウクライナ学者たちと一緒に歩いていると、私だけが警官に呼び止められ、文書を調べられた。「私たちは皆、外国人だ。なぜ私だけチェックするのか」と私が警官に尋ねたところ、「アジア人を特に厳しく取り締まれ、という特別の通達がある」そうである。この国がすでに欧州会議の一員なのだから、人生は驚きに満ちている。しかし、中国やヴェトナム、アラブ系諸国からの不法入国者が非常に多いのは事実である。逆に言えば、キエフではいわゆる先進国からの来訪者をほとんど見かけない。これは、クレムリン付近のモスクワの風景とは対照的である。
留学の眼目のひとつは、その国の庶民の生活水準をわが身で体験してみるというところにある。しかし、この建前を守るにも限度がある。私は、10月以降、地下鉄以外の公共交通はなるだけ使わないようにし(つまり、タクシーに頼るようになり)、11月の初めにはキエフ市の中心、独立広場のすぐ近くに居を移した。とはいうものの、独立広場の近くは警官が多く、あまり安全な場所とは言えない。ある晩、ホットドッグを買うために独立広場まで出た私は、ちょっと贅沢がしたくなって、売店でシャンパンを買った。後ろを振り返ると、警官が3人立っており、文書を見せろと言う。「200メートルほどの外出なので、部屋にパスポートは置いてきた」と答えると、「じゃあ、ジープで家まで送って行くから部屋で文書を見せろ」と彼らは言う。通常、このような場合の警官の対応は、文書不携帯でそのまましょっぴくか、事情を聞いて許してくれるかのいずれかであり、部屋まで連れてゆけというのは初めて体験した。ジープで200メートル行く間、最近、博士論文を防衛したこと、息子が生まれたことなどを彼らと談笑したが、「じゃあ、シャンパン2本くらいは奢ってもらわにゃいかんな」「単身赴任なら、部屋に女の子がいるんじゃないの」といった彼らの言葉を、もちろん私は真に受けなかった。アパートの下に着くと、「あなたが身元が確かな人間だということはわかったから、部屋までは上がらない。ところで、あなたの息子の誕生をシャンパンでお祝いしたい」と警官は言う。買ったばかりのシャンパンを私が渋々差し出すと、「いや、自分たちで買う。自分たちで買う」と言う。要 するにお金が欲しいのだということにようやく気付いた私は、10グリヴェニ(600円くらい)渡して彼らと別れた。私としては、最後にようやくストーリーが見えた。外国人がシャンパンを買っているのを後ろから目撃し、こりゃ部屋にコールガールか何かが待っているに違いない、だから部屋までついて行くと言えば、パスポートの有無にかかわらず、泣きついて賄賂を払うに違いない、と考えて私をジープに乗せたのだが、私がけろっとして部屋に招いたので、「金をくれ」と本音を出さざるをえなくなったのである。これは、ウクライナの警官とのコンタクトとしては例外的に、愉快な体験であったが、警官が市民に金品を絶えずせびるのは、もちろん望ましいことではない。
ロシアにも共通して言えることだが、暴力機構を無責任に膨ませておきながら、武装して街を徘徊している公務員に給料を払わない神経だけはどうしても理解できない。警察官に給料を払わなければ、警察そのものが国で最大の犯罪組織になることは目に見えている。「ウクライナの国家性をうちかためよう」などと偉そうなスローガンを掲げているが、暴力機構に給料が払えないのは国家性の解体の最終段階である。
ロシア大統領選挙期間におけるロシアのテレビの報道姿勢は世界を驚かせたが、彼国では選挙が終われば報道統制が弛緩し、再びテレビが政府を批判し始めるのに対して、ウクライナの放送メディアは恒常的に政府側の見解しか発表しない。ロシアのテレビが(好き嫌いは別として)あっと言う間にアメリカ化してしまったのに対し、ウクライナのテレビは(アナウンサーの発声法に至るまで)ソビエト的なスタイルを固守している。夜9時のニュースはほとんど毎日、「本日、クチマ大統領は」という主語から始まる。炭鉱事故が起これば、家族や同僚の不安げな表情が映されるのではなく、役人が現地に飛んで対策会議を開いている姿が映される。前述の暖房危機に際しても、市民の凍えている姿が映されるのではなく、いかにしてエネルギーを獲得するかを検討している役人の会議が放送される(概して、役人の会議が編集なしで、長 時間放映されることが多い)。ロシアでは、ごみ箱を漁っている年金生活者や郊外に立ち並ぶ役人の豪邸を平気でテレビで映すが、ウクライナではそのようなことはない。皮肉なことに、そ れゆえにウクライナ国民はテレビを信用しない。1999年選挙におけるクチマの敗北を予想する 政治学者も、国内の力関係云々よりも、エリツィンが享受したような放送テクノロジー、選挙テクノロジーをクチマが有していないということを理由に掲げるのである。
なんともはや式典が多い国である。独立5周年記念事業が終わったかと思えばミハイロフルシェフスキー生誕OO周年記念、その次にはイワン・フランコ生誕OO周年記念式典...。これらに大統領はじめ政府高官が実にまめに出席し、自分の演説の後も雛壇上で長時間辛抱している(そんな暇があったら仕事をすればいいのに、と他人ごとながら心配せずにはおれない)。また、こうした式典には科学アカデミーのお偉方が動員されて、自分の専門でもないフルシェフスキーやフランコについて長々とスピーチし、それがまたテレビで編集抜きで放送される。

キエフの聖ソフィア寺院の前に立つボフダン・フメリニツィキー像。その指揮棒はモスクワを指しており、このポーズが何を意味しているのか様々な解釈がある。なお、ドニプロ川に面して立つ勝利の女神も、右岸から左岸を眺めている、つまり、ベルリンにではなくモスクワに向けて楯を構えているのである。



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こんにちのウクライナの歴史学は、ウクライナの国家性を正当化する方向で全力で動員されている。かつて、「キエフ・ルーシは、東スラブ族の共通の起源であった。モンゴルの進出に よって欧露東北部と西南部が分断された結果、14世紀頃(ウクライナ史でいえばハリチナ・ ヴォリニ大公国の頃)、欧露東北部では大ロシア人のエトノスが、西南部ではウクライナ人のエトノスが成立した」と説明されていた。こんにちでは、「キエフ・ルーシはすでにウクライナ人の国家であった」という説が支配的となり、大学でもそう教えられている。つまり、エトノスの起源が、一気に5世紀遡ってしまったのである。もちろん、過去数年間のうちに、歴史学・ 考古学上の大発見があったとか、研究者間で大論争が行なわれたとかいうわけではない。権力 の都合にあわせて、支配学説が交替しただけである。しかもそれは、研究者の間で何の抵抗も 呼び起こさない。
過去3、4年の間に、たとえば中央ラーダ関連の学位論文が10本近く防衛されたのではない
だろうか。「中央ラーダの経済政策」「中央ラーダの国家建設」「中央ラーダの外交政策」等々、まさに金太郎飴の観をなしている。他方、「ポーランド分割から20世紀初頭にかけてのキエフ県ウマン郡の貴族の歴史」といったテーマは、「デセルタベリナではない」と指導的な研究者から言われる。共産主義時代にそうであったように、あからさまな政治的抑圧があるというよりは、「なんとなく通り易い(したがって、大学に職が得やすい)テーマ」というものが存在し、そのようなテーマが野心のない青年を惹きつけることによって、客観的には、公式イデオロギーの権威を傷つけるような水準の学位論文が大量生産されているといったところであろうか。テーマ選択のセンスは歴史家として最も重要な能力のひとつである。「ウクライナが独立しました。さあ、皆で一緒に中央ラーダを研究しましょう」というのではお話にならない。
ウクライナの歴史学が、ロシアと比較しても政情迎合的な性格が強いのは、ソ連時代の抑圧構造が尾を引いているためであるように思われる。当時、ロシア以外の連邦構成共和国の人文科学は、ロシア共和国におけるそれよりも厳しい抑圧体制下にあった。非ロシア系連邦構成共和国においては、全国普遍的な検閲と、共和国党中央委員会が行なう検閲との二重の検閲が存在し、しかも後者の方がより厳しかった。そもそも、ロシア共和国には存在しなかった共和国党中央委員会なる機関は、思想統制とモスクワへのロビーイングを主な機能としていたのである。「分離主義は私たち自身の手で潰します。そのかわりお金頂戴」という訳である。キエフの知識人と話していると、「あのときツェ・カが介入して...」といった科白を聞くことが多いが、この「ツェ・カ」とは連邦のではなく共和国の共産党中央委員会のことである。私の友人のキエフ大学法学部助教授の奥さんは演劇研究者で劇作家でもあるが、1980年代に彼女がカンヂダート論文に選んだのは、「20世紀西欧演劇のウクライナへの輸入と消化」というテーマだった。いきおい、抑圧され、後に復権された芸術家が多く登場する論文になる。キエフで「こんなものではとても学位はとれない」と言われた彼女はモスクワに脱出し、ソ連アカデミー芸術研究所で学位を取得したのである。お人好しの貴族と残酷・狡猾な荘園管理人というモチーフはユーラシア芸術に共通するものだが、彼女も「荘園管理人(キエフ)しか知らずにこんなものだと思っていたら、パーン(モスクワ、レニングラード)に会ってみるとずっと物わかりがよかった」と述懐していた。
ウクライナの知識人のもうひとつの不幸は、ペレストロイカをほとんど経験していないことである。概して、連邦構成共和国の党中央委員会は、ペレストロイカの自領への波及を全力で阻止し、もはやもちこたえられないと見るや、率先して民族主義に鞍替えした。つまり、共産主義的権威主義体制と民族主義的権威主義体制との間にあって然るべき「公式学説が存在しない時代」をウクライナの知識人はほとんど知らないのである。もちろん、以上に述べたことは、ウクライナの歴史家が自らの職業倫理を軽んじていることの正当化にはならない。人文科学は民族の魂であり民族の母乳である。人文科学を宣伝の道具としか考えないような民族に未来はない。

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 キエフの最初の3ヶ月で経験した生活が以上のようなものだったので、パスポートとヴィザを再発行してもらい11月初めにようやくロシアに出張に出たときの私は、「ほうほうの体で逃げだした」とでも表現すべき状態だった。ところで、大統領選挙直後の制度改革でロシア外務省「領事事務部」なる新機関の事前チェックを受けなければならなくなった(おかげでヴィザ を取るのに最低3週間はかかる)という一般事情を別としても、キエフでロシア政府のヴィザを取るのは非常に困難である。まず、東京、ニューヨークなどのロシア大使館・領事館で取るよりも高くつく。これは、モスクワのウクライナ領事部も同様である。露ウ間の相互嫌がらせのためか、世界でいちばん高いロシア・ヴィザはキエフで、世界でいちばん高いウクライナ・ ヴィザはモスクワで発行されているのである。もっと深刻なのは、キエフのロシア領事部が市民権付与(つまり、ウクライナ市民のロシアへの移住帰化)事務に忙殺されているため、第3国人へのヴィザ発行業務を後回しにせざるをえないということである。こちらとしては、受付時間というのに領事部前の厳寒の路上に1時間以上立って、建物に入れてくれるのをあてもなく待たなければならない。受付日には朝早くからウクライナ市民の長蛇の列が領事部前にできる。受付時間の最初にコメンダントが、ロシア市民権をその日に獲得できる人の名簿を読み上げる。その行列・点呼を度々目撃した限りでは、ロシアへの出国を求める人々の大半はこぎれいな身なりをした中流以上の人々であり、しかもウクライナ姓が多い。その日名前を呼ばれなかった中年の婦人がコメンダントに(文字通り)泣きつく場面にも遭遇した。決して生活が楽とは言えないロシアへの出国を求めて市民が泣く光景はショッキングである。こんにち、ロシアの大学助教授の月給は180ドル程度、ウクライナのそれは75ドル程度である。モスクワの180ドルとキエフの75ドルとでは実質価値に大差ないように思われるのだが、おそらく副業にありつくチャンスが違うのだろう。いずれにせよ、猛烈な勢いで頭脳流出が続いているのである。

11、12月にロシアを回って重点領域関係の仕事をし、1月後半には日本に一時帰国、1月末にプラハを回って、リヴィウからウクライナに再入国した。泣いても笑っても残された留学期間は4ヶ月弱。しかし、手中にパスポートさえあれば(動くことさえできれば)たとえ9回裏からでも逆転することは可能である。ウクライナでの私は、歴史家としては帝政期右岸ウクライナ(帝政期の行政区分によればキエフ、ポドリャ、ヴォリニ3県)におけるポーランド人問題、政治学者としてはウクライナ独立後のプリカルパート・ウクライナ(ハリチナ)における地方制度建設を研究した。歴史家としてもハリチナを研究できれば、そもそもキエフのようなロシア語化されたダサイまちではなく愛しのリヴィウに居を構えることができたのだが、そのためにはオーストリア史やポーランド史の専門家にならなければならない。歴史と政治学の二股をかけたために、空間的にも二股をかけざるをえなくなったのである。ともあれ、専門の関係から、残された期間にジトーメル(アルヒーフ)とリヴィウ(フィールドワーク)に度々でかけることになった。「西へ行くほどウクライナ人は個人主義的になる」などと言う人がいるが、私は決してそうは思わない。キエフ以西のウクライナ人が会話の最初に「何語がご都合よろしいですか」と必ず尋ねるのが、とても上品な感じがして私は好きである。「ウクライナの首都をキエフからウィニペッグに移すべきだ(その方が国家語であるウクライナ語で話せる人が多いから)」というアネクドートをハリチナで聞いたが、実際、キエフ市民の不親切さは尋常ではない。母語を失ったがために人格まで歪んでしまったと言えば、ウクライナ民族主義者の肩を持ちすぎであろうか。
4月に行なったリヴィウ州でのフィールドワークは、2年間の留学の中で最もエキサイティングな経験であった。私は州都、ドロホブィチ、ラデヒフ両郡で仕事をしたが、行政府の幹部とホリルカ(ウォッカ)を飲み、大いに盛り上がった。もちろん、彼らの主張の内容には首をかしげざるをえない面も多い(人種主義的な傾向、宗教的・言語的少数派への不寛容など)。しかし、彼らが教養ある紳士であり、ロシアや東部ウクライナにまま見られる風見鶏とは違って、自分の信念に忠実な人々であることは間違いない。1990年3月革命以後の西部ウクライナの地 方エリートには、UPA(ウクライナ・パルチザン軍)兵士の子弟やグレコ・カトリックの聖職者の子弟(したがって、能力があっても高等教育を受けられなかったり、共産党に入党できなかった人)が多いようだ。かつてKGBが家系学に熱中したことは旧体制下で笑い話のネタにしばしばされたが、ハリチナの民族主義者の家族史を見る限りでは、KGBの方法も案外外れていなかったことがわかる。
当然ながら、こんにちのウクライナにおいてUPAは英雄化されている。その際、「二つの全体主義(ナチズム、スターリニズム)と闘った」という契機のみが強調され、UPAがそもそも戦間期の反ポーランド運動を起源としていること、それが戦中・戦後を通してハリチナのポーランド人コミュニティをしばしば襲撃し、その際、女、子供も容赦しなかったことなどは触れられていない。ハリチナは、ユーゴ紛争に類する紛争を50年前に経験したのである。1947年の「住民交換」(ポーランド領内ウクライナ人をウクライナに、ウクライナ領内ポーランド人をポーランドに強制的に移住させた)がハリチナのポーランド人の大きな抵抗を受けなかったひとつの理由は、UPAのハラスメントによってポーランド系住民が事実上住めないような状況がすでに創出されていたからである。スターリニズムとUPAとは戦争していたわけであるが、東スラブ族の東への膨張という点においては奇妙な協力関係にあったのである。

リヴィウのベルナルデンスィキー修道院(正面と外壁側) リヴィウの市壁の外にあり、オスマン・トルコ等との戦闘に際しては出城の役割を果たしていた。ソ・ヴェト権力により閉鎖される前は旧教に属していたが、数年前、グレコ・カトリックの寺院として活動を再開した。かつてのカトリックの教会建築を修復して、それをグレコ・カトリックかキエフ大司教座に引き渡すのはハリチナの地方権力がよくやることであり、(カトリックはポロニズムの手先、モスクワ大司教座は大ロシア主義の手先とみなされているのである。)、住民間の深刻な宗教紛争の一因となっている。

 
 わずかな期間にわりと効率的に現代のリージョン研究を進めることができたのは、大統領付属ウクライナ国家行政アカデミー(旧上級党学校)に助けてもらったことが大きい。特に副学長のカナダ人政治学者ボフダン・クラフチェンコ氏には非常にお世話になった。概して口先だけのウクライナ・ディアスポラとは違って、クラフチェンコ氏は1991年以降一貫してキエフに住み、祖国に骨を埋める覚悟で、国家幹部教育という新生ウクライナにとって死活の課題に従事しているのである。この頃、私の歴史研究においても光明が見えるようになった。私は、前述のテーマゆえ、科学アカデミー・ウクライナ史研究所の「外交史部」によく出入りするようになった(ポーランド人、ユダヤ人などのウクライナの少数民族の研究は、どういうわけか
「外交史部」によってなされる仕組みになっている)。政権には薬にも毒にもならない地味な研究を行なっている部門だけに、ここでは、「廊下の向こう側」とはうってかわって、ごくごく普通のアカデミックな雰囲気に触れることができた。そのほか、ウクライナにおける「ポーランド人」史の大家であるナターリヤ・ヤコベンコ女史、また彼女に近い若い同僚たちと交際するようになったことも幸運だった。リピンスキーの濃厚な思想的影響下でウクライナ・シュリャフタの形成史(現地エリートのポーランド化の過程)を扱った彼女の博士論文は、私にとって衝撃であった。
どうやら、21世紀はコンフェデレーションの時代になりそうな風向きである。ウクライナは、どこに行くのか。西に行くのか、東に戻るのか。いまの政権が続けば西へ行きたい行きたいと、少なくともおねだりは続けるだろうが、デフレ、失業、低賃金、給料・年金不払い問題がなにせロシアよりも深刻であり、しかもエリツィンを支えているような有能な幹部をクチマは有していないのだから、彼が1999年を乗り切るのは容易なことではない。そもそもウクライナの親西欧路線は眉唾物である。戦後民主主義期の日本のように、自らが経験した全体主義への嫌悪から、欧州文明をやや美化するような傾向が生まれたのならば理解もできる。しかし、本稿の前半で紹介したような、お世辞にもヨーロッパ的とは言えない政治体制や人権状況を温存しながら(あるいは、まさに温存するために)NATO、EUといった他人の名前で語らせてもらおうというのは、虫が良すぎるのではないだろうか。
では、1999年に左翼もしくは親露政権が成立すれば、ウクライナはベラルーシの後を追うのか。ウクライナの国家性が確立せず、経済が自立の域に達せず、ウクライナ語が国家語として確立されていない段階におけるコンフェデレーションは時期尚早である。それは、表向きをどんなに取り繕っても、ロシアへの併合にしかならないだろう。しかも、私がウクライナの左翼勢力と何回か面談した限りでは、彼らをロシアに惹きつけているのは安い資源以外の何物でもない。たいへん憂欝なことだが、CIS圏においては、「世界文明」なるものに一本釣り的に併呑されてゆく力学か、ロシアの安い資源目当てに疑似ソ連を再興しようとする力学しかないのである。キエフ在住の新進気鋭の政治学者で日本に1年暮らした知日家でもあるワレンチン・ ヤクーシチク氏は、「きたるべきコンフェデラーツィヤ・ルーシの首都はキエフにすべきだ」という所説である。いかなる国家連合においても、文明の親近性と歴史的正統性(ロシア風に言えば、歴史的運命を共有してきたこと)こそがその基礎に置かれるべきであるとの建前からすれば、これは傾聴に値する説である。しかし、こんにちのウクライナ、ロシアにこのような正論に耳を貸す政治勢力があるとは思えない(せいぜいヤブロコくらいか)。近い将来、露ウ国家連合が成立するとすれば、首都は当然のことのようにモスクワになるだろうし、実態においては一枚岩国家が生まれるだろうし、ウクライナ語は再び衰退し始めるだろうし、そのかわりロシアがウクライナを「養う」プラクティスが再開されるだろう。つまり、ソ連の誤りが繰り返 されるだろう。
東スラブの家族は奇妙な家族である。「兄」は「兄」であるという思い上がりを捨てることができないし、「弟」は、弟コンプレックスに絶えず苛まれている。しかし、この家族の運命を決してきたのは、いつも「弟」の側だったのである。ロシア帝国がレーチ・ポスポリータとの闘争に勝ったのはウクライナが帝国の側についたからであり、ソ連が崩壊したのはウクライナが独立を決めたからである。ところが、「兄」はこの事実を全く自覚していない。「兄」と「弟」が対等の立場で話せるようになるまで、文明的なコンフェデレーションがこの地域に成立することはないだろう。
(この2年間の海外研修は、国際文化会館「新渡戸フェローシップ」の援助を受けて実現されたものである。)