遥かな、謎めいた国 ・日本との4カ月のおつき合い

ヴォロディムル・ポトゥルニツキー    
(ウクライナ科学アカデミーウクライナ史料学研究所/センター外国人研究員)  


私たちが日本に来てからすでにまる4カ月になろうとしています。しかし、アッと言う間に時が過ぎてしまいました。おそらく、新しい土地で、とりわけ私たちにとって未知の国では、初歩的ながら本質にかかわる、生活に欠かすことができない事柄をおぼえるのに、多くの時間を割かなければならないせいでしょう。知るべきことが多いのは、単に日本がテクノ面で(私たちにとっては)すでに久しく来世紀に属しているからばかりではありません。いたるところで私たちヨーロッパ人の脳にとって、慣れないだけではなく、しばしば正反対の中身を持つ大量の事物と出くわすから なのです。たとえば、道を渡ろうとして車の流れを見るとき私はいまでも最初に左を、次に右 を機械的に見てしまいますが、日本では安全上、これは絶対間違っているし危険です。日本で は車はみなハンドルが右についていて、私たちのところとは逆のラインを走っているからです。 歩道ではつい右側を歩きたくなるので、よく反対側から向かってくる歩行者の群れにつき当た ります。こんな、些細とはいえ重大な違いに、文字どおり一歩毎に出くわすのです。

私たちにとって新奇な世界で“窒息”したりすることのないよう、何冊もの本を読み返して きました。その中には私を元気づけてくれる本もありました。19世紀のイギリスの旅行家が日 本の印象についてこう述べています。「6週間ここにいると、あなたはすべてを理解したつもり になるだろう。6カ月後には疑いはじめる。そして6年後、確信をもって言えることなど、何 もなくなるだろう。」ソクラテスの「無知の知」とも通じる言葉です。私は今のところおめでた い“半可通”の段階におり、何も筋道立てて理解しないままここを去るだろうとは、まだ信じ られないし、自覚もできていません。

本の著者のほとんどが「日本とは良い意味での“保守性”と高度な現代技術との有機的な結 合体である」と主張していますが、いつもそのことを思い知らされています。もちろん外国人 の私たちは日本人の人間関係や生活のほんのうわべしか見ることができません。でもうわべの 観察からでも日本人が自分たちの伝統に忠実なことが確信できます。たとえば日本の伝統のシ ンボルであるキモノ、日傘、扇子などが、こんにちも札幌(もっとも近代的で歴史が浅く、国 際的な都市のひとつ)の街中に、ごく自然に生きています。着るものだけに伝統性がみられる わけではありません。(多くの人は日常着としては洋服のほうを好んでいます。)歩き方、赤ん 坊の連れ運び方、おじぎの仕方、ほほ笑み方などのしぐさにも伝統性が存在します。そして、 色々なお祭りや年中行事に伝統がより深く息づいているのが感じられます。それらの行事に身 をもって参加すると、たんなる娯楽や気晴らし以上に(それもありますが)、自分も祝い事にじ かにかかわっていると実感することができるのです。

例をあげましょう。8月の数日間はオボン・フェスティバルがおこなわれ、夕方には単調な 太鼓と唄のメロディによる伴奏で、踊りがあります。4〜5時間ぶっとおしで、希望者はみな 踊るのですが、希望者というのはほとんど全員なのです。踊る人は輪になって前の人のあとを 同じ向き、同じテンポで追いながら、うちわを持った手でたった6つの動きを繰り返します。 まん中のやぐらの上には鼓手と唄い手が立っています。腰の曲がったヨボヨボの80のお年寄り も、メタリックな飾りのついた革ジャンを着た若者も、蝶々のような派手なゆかたを着た娘も、 胸や背中に赤ん坊を特別なリュックで結わえつけたママも、エレガントなニューモードに身を つつみ帽子をかぶったご夫人も、伝統的な飾りのたくさんついたキモノを着、ゲタを履いた男 女も、役人風の貫録のある男性も、みな一緒になって踊ります。ひとりの伝統的な祭り装束の 中年男性が、かけ声をかけ、剣ドーのように腕を振りながら、とても鮮やかに、かつなめらか で優雅に踊っているのを見たときは、学校時代にフェンシングをやっていた私は思わず彼のそ ばに立ちたくなりました。

たくさんの提灯、おおぜい子供がいるにもかかわらず静かな雰囲気、太鼓のリズムにのった 男性の情緒的な独唱、踊りに熱中したたくさんの人々の表情、反復、単調さ、そしてキリの無 さ ― こうした全体の光景が、何か遠い昔の、永遠なるものを感じさせます。それはサムライ と将軍の時代でさえなく、もっとはるか昔の根源的なもののような気がします。私と妻もこの 魅惑的な踊りに加わることにしました。息子のゲオルギーは3回お祭りに出かけ、そのうちの 1回はおはやしのそばの内側の輪で日本人といっしょに踊り、とても満足して帰ってきました。 だいたいこのお祭りは沈んだもの思いにふけらせるようです。

古い歌謡、楽器、衣装、舞台、寺社の お祭りなどはみんな、自分たちの伝統を守ろうとする日本人の生活 の一部として、ごくふつうの日常的なものとして見うけられま す。私は今になって父や祖父が存命中に愛唱していたウクライナや ロシアやポーランドやそしてソ連のたくさんの古い唄や新しい唄をほとんど記憶しておかな かった事を、彼らの愛唱歌をすべて存命中に書き写しておかなかった事を、残念に思います。 でも、なにがしか理性的なアイディアというのは、だいたいいつもあとから浮かぶものです。

専門も人文系で機械もただ利用するだけという、いわば科学技術のありがたみを知らぬ大衆 に属している私たちですので、当然感嘆の対象もそうしたテクニカルな領域以外のことが大半 です。日本のすばらしい産業技術の成果を見せられても、しかるべく評価し、堪能するだけの 力がないのです。私たちが感嘆するのは他の多くのことです。まず第一に愛嬌があって、優雅 でしとやかな日本女性 ― 近代的なのにロマンチックで、着こなしが良く、物腰も、ほほえみ も、バッグの持ち方も、帽子のかぶり方も素敵です。私はヨーロッパでもアメリカでも、こん
盆踊りを楽しむポトゥルニツキー夫妻
なにおおぜいのしとやかで女らしい女性にはお目にかかったことがありません。おそらく経済的豊かさはさまざまでしょうし、しばしば重たいカバンや袋をさげ、おおくの場合さらに背中や胸に子供までいたりするのにです。

日本社会の保守性は、日本語が独占的なまでに優勢なことにも現れており、それにはそれ自 体、根深い訳があります。日本に来る前は、私たちは「日本のような技術先進国では、英語さ え知っていれば十分だろう」とたかをくくっていましたが、これは私たちの誤解のひとつでし た。研究者はもちろん英語を使えますし、場合によっては欧州語のひとつも使えます。センター ではさらにロシア語も、時には他のスラブ語のひとつも使えたりします。私たちが札幌に到着 して到着ロビーに入って、出迎えにきた助教授の松里さんが、私たちに向かってウクライナ語 で「こんにちは!ポトゥルニツキーさんのご一家ですね。日本にようこそ!」と言ったときの、 私たちの驚きを想像して下さい。私にとってこれは、2日間のウクライナからの旅行を終えて 残っている、もっとも強い印象のひとつです。

毎日の生活では、私たちのまわりの日本人にウクライナ語の知識はなく、至るところ漢字だ らけなのです。店での買い物では、買おうとしているのが塩なのか砂糖なのか、ヒマワリ油な のか酢なのかも分かりません。まだまだ生活上重要な問題もあります ― どうやって地下鉄に乗るのか、何がどこにあるのか、券はどうやって買うのか、ウクライナに手紙を送るのにどんな封筒と切手が要るのか、などなど・・・。その上息子はほとんど毎日のように小学校から行事予定や、持たせるもの等についての、日本語の色々なお知らせを持って帰ります。学校の先 生や柔道クラブの先生ともやりとりしなければなりません。

そういうわけで私が日本語を習いはじめてもう3カ月目になります。この言語がこんなに興 味深く、ユニークだとは考えてもみませんでした。3種類の“アルファベット”を持つ筆記体 系も、文の構造も。しかしその習得の難しさについては言うまでもないでしょう。今、初めて ロシア語でいう“中国語の読み書き(・琺・゚ 胙瑟C?)”という表現 ― 何かとっても複雑怪奇なもの、チンプンカンプン、習得が困難なもの ― の意味するところが理解できるようになりました。私は現実主義者なので日本語を完ぺきに使えるようになることには悲観的です。私の能力には限りがありますし、日本滞在の期間も長くないのですから。でも、すこしの間でも日本語を習ったことで、日本の文化と日本人について多くの理解がもたらされました。日本人が自国の言語を習得するのに、どれだけの忍耐と恒常性が不可欠なことか。私が思うに、これはそっくりそのまま、日本人に固有の性質ではないでしょうか。これらの特質なしには、限られた資源と土地、ひっきりなしの天変地異などの条件のもとでの“日本の奇跡”は不可能だっ たことでしょう。つい考えてしまうのですが、せっせと働く能力、自分の労働の成果を使いこ なす能力、始めた仕事を、常に練り直しながら、最後までやり抜こうとする意欲と能力、また 第二次大戦後の日本人とドイツ人のように、気を引き締めて物を節約することがすべての人に とって不可欠だという自覚(危機や災害時にはみんなで助け合わなければなりませんから) ― まさにこういった美点が現代のウクライナの政治家に、そしてウクライナ人一般に欠けている ような気がします。ひとつの漢字を千回も書き、スポーツや芸術で、ひとつの細部、ひとつの 技を何日もかけて練り上げ、それぞれの動作、手順、または知識を完ぺきに自動的にこなせる まで追究し、それを規律にまで高めること ― これらはすべて今日の日本で具現されているのです。

概してこの地で私たちは、日常の細かいことでも大事なことでも、日本人の行き届いた世話 を受けています。でも私の見たところ、それはうちだけではないようです。ここには気のいい 外国人たち ― さまざまな国から来た研究者が何人もいます。ポーランドから来たマイェヴィ チ教授一家とも知りあいました。マイェヴィチ氏は中国語と日本語を含むいくつもの外国語を

知っており、世界中を歩き回っていて、とにかくとてもおもしろい人です。私たちはハンガリーのジャーナリスト兼作家のアーゴシュトン氏と、イスラエルのアルトシューラー夫妻と特に親しくおつき合いしています。教授はロシア語を話し、夫人はポーランド語を話すので、私たち の交流ではよく幾つもの言語が使われます。一緒によくお祭りに出かけたり、公園を散歩した り、博物館に行ったり、写真をとり合ったりしています。写真に写っている日本の市民は、国 際交流団体のボランティアで、あるお祭りの時に私たちの世話をなにくれとなくやいてくれま した。息子のゲオルギーとアルトシューラー教授はすっかり仲良しです。

ゲオルギーは私たちの日本到着後まもなくから日本の小学校に通っています。クラスメイト たちは、息子を「ゴーシャ君」という、彼らに呼びやすい名で呼んでいます。学校では息子に とって新奇なことがいっぱいありますが、大事な点はとても好意的で楽しい雰囲気です。ゲオ ルギーがクラスの友達と初対面のとき、子供たちが息子を取り囲み、教室の中に招いたのは、 私たちをとても感動させました。ひらがな、かたかな、漢字を楽しく勉強しており、すでに日 本語でいろいろ話そうとしています。作文の時は、テーマを理解すると、ウクライナ語かドイ ツ語でではありますが、書きます。論理や直感でなんとか理解しようと努力しています。自分 を理解してもらえないときは、使えるすべての言語(ウクライナ語、ロシア語、ドイツ語、そ して少し英語)でただちに説明しようとします。

ゲオルギーは夏休みの宿題として、北海道とウクライナに育つ植物の標本集を作成しました。 私たちはオオバコ、クローバ、ライラック、ハッカ、ネコヤナギ、その他の植物を採集し、乾 燥させました。ゲオルギーの植物標本集は生徒の参考作品として選ばれ、学校の展覧会に出品 されました。それから、ゲオルギーは日本で、初めての証明書 ― 水泳の能力の認定証を獲得しました。私たち3人で1カ月以上大学のプールに通って、彼に泳ぎと潜水を特訓したたまものです。昔、私の学校の先生がこう言いました。「男は、2本の脚でしっかり立たねばならない。 外国語を一つ使いこなせなければならない。そして、泳ぐことができなければならない。」私た ちの息子はウクライナで歩くことをおぼえ、ドイツでドイツ語を習得し、泳ぐことは日本でお ぼえました。
公園にて
(むかって左からアーゴシュトン氏、 日本人の女教師、息子のゲオルギー、妻のタイーシア、アル トシューラー教授、その妻イオナ、日本人の弁護士)
9月1日から、私たちは彼とウクライナの学校の科目の勉強も始めています。妻は算数、ウクライナ語、ドイツ語と日本語を担当し、私はドイツ語会話、ロシア語会話、歴史、読解、そしてチェスを担当しています。

ヨーロッパ、とりわけウクライナは、学者・専門家をのぞいた一般の日本人にとって、とて も遠く、想像しがたいもののようです。私たちはすぐ「アメリカから来たのですか」と訊かれ ます。そのあと「ロシアからですか」と訊かれます。でも「ウクライナからです」と答えると、 関心なさそうな顔になります。「チェルノブィリ」という言葉を聞くと、日本人は私たちがどこ から来たのか、すぐ合点がいくようです。

札幌にはヨーロッパ人はあまり多くいないようですが、その割にはロシアからの研究者や音 楽家がとてもよく訪れます。最近もクラシックコンサートのために、モスクワからピアニスト とバイオリニストが来札しました。彼らは日本人の協力で音楽教室を創設しようとしており、 すでに個別レッスンをとっています。

ちなみにゲオルギーのクラスの女の子が世界の地図を描きました。ウクライナから来た男の 子と一緒に学んでいるので、ヨーロッパの中にちゃんとウクライナを明記しました。これはと ても大事なことです。

(ロシア語から大須賀みか訳)