ソビエト・ロシア国際法協会第40回記念大会
(97年9月17日−20日)

岩下 明裕    
(山口県立大学)


最初が間違いだった。「国際」法学者たちによる「国際」会議だと油断していた。

I

今年5月、ロシア国際法協会 (1) 会長コロトキンから送られてきた「英文FAX」はロシア国 際法協会のスタンプもなく、「国連国際法10年ロシア連邦委員会」というレターヘッドの下、 「ロシア国際法協会、国連国際法10年委員会、法律家協会が共催する“The First Conference of the World International Law Association in Russia”におまえをよろこんで招待する」と書かれてあった。繰り返される「国際」という文字とヘッドの「国連マーク」が英文ペーパー を要求するのを自然にしていた。

だがスタンプも押されず、登録料キャッシュ200ドルとだけ書いてあるこのFAXは単なる案 内状だとしか思えない。早速、パスポートのデータを送り、正式の招待状を送るように要請し た。だが、何度先方にFAXを送っても返事はない。僕は思った。7月だから、きっと夏休みで 会長は不在なのだろうと。

8月末、モスクワを訪れる友人に、協会へのペーパー引き渡しとビザ用の正式な招待状の照 会を依頼した。ハルビンにいた僕へ届いたFAXには、物静かな友人の口調とは思えない「激し い言葉」が並んでいた。「なぜ何度も招待状の件で問い合わせが続くのかコロトキンは不快感を あらわにぶつけてきた。例のFAXはビザがとれる正式なものだ。早くモスクワ到着の時間と便 名を教えろ。彼との話は極めて不愉快に進行し終わった」。

「英文FAX」を中国から東京の旅行社へ転送した私は、帰国した日に留守番電話のメッセー ジを聞いた。「先生から送ってもらった招待状は正式なものではありません。領事部に頼み込ん でもこれではビザはとれません」。

II

9月12日、僕はシュレメチボに着いた。コロトキンの「英文FAX」をみたモスクワ国際関係大学の友人がこれではビザは出ないと判断し、気をきかせてすぐに招待状を用意してくれたお かげである。会長はといえば、「VIP待遇として空港で迎える」「すでにホテルを予約した」か ら飛行機の便を教えろと繰り返すのみであった。ビザのあてのない私に返事のすべはなかった。 「自分のことは自分でする」。これが日本から彼に送った最後のFAXである。

とはいえ、大会での「CISアンケート」の組織 (2) という「助平心」のある僕にとって会長との「関係修復」は急務であった。だが、コロトキンは僕との面会を「拒否」した。「こっちは空 港で会おうといったのに、おまえは自分のことは自分でするといった。なぜ今更、会う必要が ある」。僕の「登壇」が19日(大会最終日)らしいという情報だけが収穫となった。

17日の大会初日、会場の外務省プレスサービスの入り口にコロトキンの秘書は待ちかまえて いた。「今年からビザの取り方がかわったので外務省の協力が必要だった。だけどおまえはその とき中国にいた・・・」。

驚くべきことに外国からの参加者は50人を超えていた。半分はイギリスからだ。中国人は1 人もいないのに台湾人は6人もいた。日本人?「東京大学」所属にされた僕一人であった。外 国からのお客のほとんどが「(世界)国際法協会」のメンバーだと判明する(会長はイギリス 人、来年は台湾で国際大会の予定。ちなみに中国はメンバーではない)。今回の国際会議は「(世 界)国際法協会」の協力によってこぎつけたらしい。従って、ロシア語を理解したり、ロシア 国際法に関心を寄せる人は皆無であった (3)

プログラムは英語版とロシア語版が用意されていた。外国人は登録料として200ドルとられ たが、ロシア語のプログラムには「5000ルーブリ(=1ドル以下)」とかかれていた (4) 。プログラムには「ディスカッション」とかかれてはいたが、すべては「登壇( 糺??・G蛛j」に過ぎなかった。偉い年輩の先生方が次々と「登壇」し、脈略に関係なく持論を展開する(これは ロシアに限ったことではない)。議長たるコロトキン会長はマイクロホンをコンコン叩く(これ はあまり日本ではみられない)。あるいは無理矢理拍手を起こす。まるでペレストロイカ初期の 議会をかいま見るかのようだ。「素晴らしい報告だけれど、時間がない」。しつように壇上でね ばる名の売れた「大先生」たちにあの手この手で引導を渡していくコロトキン氏の「手腕」は 見事であった。さすがに36年間も会長を務めたトゥンキンの後任だけのことはある。彼が私に 示してきた「不可解な行動」の一端を私は理解し始めた。

とそのとき、一人の女性が突然ステージに割って入った。赤く髪を染めたこのひとこそ、ソ ビエト国際法学への長年貢献を讃えられたメダリスト、モジョリャーン。かつて50年代にコ ロービンらとともに「民族自決権」をめぐって論陣を張った、ソビエト国際法の「生きる歴史」 であった。彼女はまだ生きていたのだ! 相次ぐフロアからのシャッター音に向かい30分近く 「登壇」した彼女を、さしものコロトキン氏も止めることはできなかった。おかげで、その日の 最終報告者の「登壇」は中止となった。

18日(2日目)の議事も終わり、いまだ「登壇」の順番を知らされていない僕は不安を感 じはじめた。ペーパーは確かにみんなに配布されていた。だが「登壇」は本当にあるのだろう か。これは国際会議ではない。外国人オブザーバーの前での「ロシア国際法協会大会」だ。確 認した方がよい。秘書を通じて会長は答えた。「おまえの登壇はない!」。
誰も彼女を止められない!

III

200ドルの登録料を払った僕らの3日間の昼食はなかなかのものであり、短い昼休みに食べ終わるには窮屈だった。初日の夜はクレムリン宮殿でバレエ鑑賞。2日目には外務省が主催し たらしいパーティもあったし、最終日はレストラン・プラハで市長招待晩餐会が開かれ、副市 長も来ていた (5) 。オープニング・セレモニーのとき、パーティの挨拶のとき、会長はいろんな国から参加者が来てくれたことに繰り返し感謝の意を表明した。「イギリス、ドイツ、アメリ カ、日本、・・・そして、その他の国」 (6)

「登壇」の件はさすがの秘書氏もまずいと思ったのだろう。外務省主催パーティ会場でコロト キン氏が私に近づいてきた。「おまえの登壇は明日(19日)の昼食後。持ち時間は15分」。「登 壇できない」と聞かされたばかりの僕は、ありがたくて思わず涙がでそうになった。「偉い先生 方しか登壇できないような大会で、こんな若輩者に時間をくださるとは」。私が日本人だからな のだろうか。いずれにせよ、VIP待遇にかわりがない。

「持ち時間15分」といわれた僕のペーパーは実は20ページ近くに及んでいた。ロシアの国内 大会は事前に短いテーゼを用意するだけのことが多く、このペーパーの長さは僕が会長にひん しゅくをかった一因でもあった。とはいえ、今回の会議では幸いにも英語とロシア語の同時通 訳が用意されている。僕はその夜15分のプレゼン用原稿に手を加えた。

19日。大会最終日ともなるとさすがに参加者も疲れぎみとなる。しかも、午後の最初の登壇 となると昼食から戻らない人も多い。だがその昔、某学会で聴衆3人を相手に「ソビエト国際 法」を報告をした経験をもつ僕はめげることはない。いざ気持ちをふるいたたせて舞台へと向 う。「今回は登壇させてもらうだけでも光栄なのだ!」 そのとき、通訳者もまだ席に戻ってな いのを知った。

 どうしてロシア語で報告を準備しなかったのか。参加者からの問いに答える気力も失せて いた。秘書はいい放った。「おまえのペーパーは300部刷って配ってある。ロシア人は英語は わかる。何の問題があるというのか!」。

IV

十分だ。おまえはよくやった。もう、ロシア国際法研究とはおさらばしよう。何度そう思っ たろう。だけど、もう一人の僕がつぶやく。がまんしろ、もっと面白いことが待ちうけている ぞ。恐らく国際法に「ロシア」の形容詞が冠されている限り、僕は決断することはできない。 実際、「腐れ縁」ほど後ろ髪を引かれる関係もない。まして、これは「ロシア」での「最初の国際会議」なのだ。僕らが初めて自分たちで「国際会議」をやったときのことを思い出してみよう。

2日目の午前中に「軍備管理」と「軍縮」をめぐるセッションがあった。今はなき「民族主 権の旗手」ウズベク人トゥズムハメードフの息子バヒャティルがコーディネートしたこのセッ ションは素晴らしかった。CIS平和維持の法的不備の問題をめぐってフロアと議論の応酬も あった。ロシア国際法学界にも「星」はいる。

登壇する機会を与えられるべくもないが、会場につめかけていた数多い中堅の国際法学者た ちと出会うことも出来た。そして、壇上から行った僕の「CISアンケート」調査への呼びかけ に、誰よりも熱心に応えてくれたのも彼らである。「ロシア国際法学」への修行の旅は当分終わ りそうもない。

*本論に関する学術的情報は、山口県立大学国際関係論I研究室ホームページ(http://www.yamaguchi-pu.ac.jp/iwashita/)「ロシア・東北アジアの最新研究」上で公開していま す。

- 注 -

  1. 1957年にソビエト国際法協会として創設され、「平和共存の旗手」トゥンキンが93年に死ぬまで会長を務めていた 唯一の全国学会。その『年鑑』にはソビエト時代年1回の大会報告とそこでの論戦が収録され、「一枚岩」的なソビ エト国際法理論の「裏側」をさぐる数少ないソ−スであった。88年の第31回大会では、国家と法研究所のヴェレェ シチェチン(現国際司法裁判所判事)がペレストロイカのキャ ンペ−ンにのって「学会のタブー」に挑戦し、激論を巻き起こしたことは記憶に新しい。

  2. ロシアの国際法学会が現在直面している最大の難問はCISを国際法上どう位置付けるかということで ある。頭のなかでは国際法の対象だとわかっていても彼らの多くは心理的に割り切ることができない。 しかも、CIS諸国の関係はこれまでソビエト国法学で議論してきたのであるから、突然ふってわいた 「未知なる対象」ともいえる。とはいえ、5年も立つとさすがにCIS諸国の国境は国際法国境ではなく 「行政的国境」だというような暴論はなくなり、CIS諸国関係もようやく主権国家間の関係として認め られつつある。彼らの対CIS意識調査をやったら面白い。そう思いついたのはスラ研での国内研修も 終わろうとしてた昨年3月のとある夜のことだ。

  3. (世界)国際法協会のなかでも強力なブランチをもつ日本から誰一人参加しなかったのはビザが取れな かったせいではないだろう(岩下は非会員)。会長は「日本とロシアの関係の問題だろうか?」といぶ かっていたが、恐らくは日本の国際法学者の多くがロシアの国際法に関心がないからに過ぎない。

  4. ところで英語のプログラムには登録料が書かれていない。また登録料200ドルのクビタンツィヤはも らったが、番号も機関名も入ってはいない。聞くところによるとこれは正式な領収書ではないらしい。 200ドルの50人分は1万ドル! 資金不足からか、最近、発行地や出版社を変え、年次発行が途絶え がちだった『ロシア国際法協会年鑑』だが、来年はきっと素晴らしい装丁で出版されるに違いない。

  5. ちなみに外務省の主催者は誰も参加していなかった。聞くところによると、その日外務省の役人は「と ても忙しく」て来られなかったという。ここで注意すべき点は、外交官の使う「忙しい」という用語 が日常用法と異なっていることである。外務省で働く「古い友人」(アメリカ担当部局)はいつも「忙 しく」て会えないのだが、アジア担当部局の知り合いは明日にでも会ってくれる。後者は「忙しくな い」からいつでもあえるのだろうか?

  6. 大会の席上で何度も「人権」という言葉を聞いた。国際法学者が「人権」「人権」と繰り返すのはノー マルなことだ。だが、その中身に一度立ち入ると業の深さに立ちつくさざるを得ない。今回、大会に 参加していた黒人研究者たちの姿をパーティでついぞ見かけることはなかった。会長が外国からの参 加者への謝辞のなかで、「・・・その他の国から」といった瞬間に聞こえた「イズ・アフリキ( 育 ??-?・)」という声を忘れることもできない。この話は決して個人的な「推測」ではない。