ある学者政治家の肖像 − ナガシュバイ・シャイケノフ元カザフスタン副首相 −

宇山 智彦

昨年12月5日、東京出張から戻った私は、自宅の郵便受けに一通の手紙が入っているのを見つけた。開封すると日本国際問題研究所からの案内状で、カザフ国立法科大学学長のナガシュバイ・シャイケノフ氏が日本に短期滞在中なので、10日に懇談会を開くというものであった。同氏はカザフスタンの元副首相で、1995年前後の政治変動におけるキーパーソンの一人であり、また現地のマスメディアでよく発言をしておられたため、私はかねてから注目していた。直接お話をしたことはなかったが、アルマトゥの劇場で夫人と一緒に劇を見に来ておられるのを見かけたことがあり、親しみも感じていた。前回の出張も急だったので私は疲れていたが、再び東京に飛ぶことにした。

シャイケノフ氏は、いろいろな意味で異色の政治家であった。1947年、ロシアのオレンブルグ州生まれのカザフ人。鉄道での労働と東欧での兵役ののち、スヴェルドロフスク法科大学を卒業。同大学助教授を経て、1992年までソ連邦科学アカデミー・ウラル支部(スヴェルドロフスク市)哲学法学研究所上級研究員。つまり、45歳までの人生のほとんどをロシアで(生地はカザフスタンとの境にごく近い場所だとはいえ)、それも学者として送っていたのである。ちなみに1990年に博士号を授与された際の論文タイトルは、「個人の利益の法的保障」であった。 1992年、彼の運命は一変する。同年6月からカザフスタンのナザルバエフ大統領のもとで働き、10月から大統領顧問。1993年6月から法務大臣、1995年7月から副首相兼法務大臣、同年10月から副首相。カザフスタンは新興独立国だから、閣僚などにもどんどん新しい人材が登用されてはいるが、大半はソ連時代のカザフスタンの省庁や共産党、コムソモール、軍需産業、エネルギー産業などで勤務した経験を持つ人々であり、ロシアの一研究員がいきなり招かれて副首相まで登り詰めたというのは類例がない。1996年11月に自ら辞任し、現在は閣僚ではないが、かつて彼自身のイニシアティヴで設立され、法律・司法・内務畑の専門家養成を使命とする大学の学長だから、要職である。

シャイケノフ氏は法相時代に、現憲法(1995年憲法)の起草を指揮した。カザフスタンは1993年1月にいったん憲法を制定したが、1995年にそれを廃止し、大統領の権限を大幅に拡大した新しい憲法を国民投票で採択したのである。カザフスタンでは1995年3月から1996年1月まで国会が存在しない状態のもとで大統領令の形で多くの法律が作られ、その後も大統領・政府主導で少なからぬ法律が国会で制定・改正されたが、それらにもシャイケノフ氏が関わった。
シャイケノフ氏(左)とスレイメノフ氏(右)の対立を
伝えるカザフスタンの新聞
また彼は、裁判制度・裁判所機構の改革にも大きな力を注いだが、その過程で他の政治家・法律家と激しい対立を起こした。1994年11月に彼は、カユルベク・スレイメノフ国家顧問やイーゴリ・ロゴフ憲法裁判所副長官らが司法改革を妨害していると非難する声明を出した。カザフスタンでは、体制派の政治エリートの相互批判は決して例のないことではないが、このようなあからさまな対立は前代未聞のことで、マスコミは「スキャンダル」として大々的に報じた。新聞に載せられた写真では、シャイケノフ法相の痩せて神経質そうな学者の顔と、スレイメノフ顧問のたたき上げ内務官僚らしいがっしりした顔が、視覚的にも対照をなしていた。おもしろいことに、スレイメノフ氏もロシア出身で、ノヴォシビルスク生まれ、スヴェルドロフスク法科大学ノヴォシビルスク分校夜間部卒業だが、1975年からカザフスタンで働いている。また、1996年1月には再びシャイケノフ氏とロゴフ氏(この時は大統領補佐官)の対立が表面化した。 シャイケノフ氏の発言はいつも直截で断固としたものであり、状況に応じてころころと言うことを変える他の政治家とは違って一貫した信念が感じられ、発言の内容に賛成するかどうかは別としても、私は好ましい印象を持った。しかし他方では、これほど他人への非難に精力を使わなくてもよいのではないかという感じもあった。また、彼が目指すのは現代的な法制度の整備という正しいものだとしても、彼が地位を上昇させてそのような改革を実行する権限を得たのは、大統領への権力集中に積極的に協力したことによってだったはずである。シャイケノフ氏は正義と信念の人なのか、それとも他人を貶めて名を売るスキャンダリストなのか、はたまた目的のためには手段を選ばないマキアヴェリストなのか。私のこの人物への興味は高まるばかりであった。 懇談会の会場に現れたシャイケノフ氏は、背筋を伸ばし、物静かな口調にユーモアやたとえを交えながら、1時間の講演をおこなった。最初に旧ソ連諸国の現状、カザフスタンの全般的状況について話をした。カザフスタンを含む旧ソ連諸国が直面しているのは専制ではなく国家機構の崩壊であり、5〜10年続くであろうこの状況への対処が主要課題だと述べた。次に本題である法改革の問題に移った。彼の意見では、1993年憲法は多くのソビエト的制度を残し、私有財産に関する規定も不十分だった。三権分立(これはカザフスタンでは、三権の相互不干渉と行政府の事実上の優位を意味する)が不明確で、法・裁判制度にもソビエト期と変化がなかった。そしてその時期の最高会議は、変革のブレーキとなっていた。1995年憲法の草案は、数人で作成した。この憲法は政府を議会から自立させると共に、大統領からも距離を置かせた。新しい国会はコンパクトでより非政治的なものとなった(ちなみに、カザフスタンで「政治的」という言葉はしばしば不思議な意味で使われる。政府は執行機関だから政治の外にいなければならないとか、国会は法律を作るのが仕事だから非政治的でなければならないとかいうのである)。このほか、民法や政党、遷都、通貨の問題などに触れたあと、国が国民の生活に行政的に介入することが少なくなった一方で、政治的無風状態・アパシーが見られることを指摘して、シャイケノフ氏は話を終えた。 不思議だったのは、氏が第12最高会議(1990年4月〜1993年12月)と第13最高会議(19944〜1995年3月)を完全に混同し、ソビエト期に選ばれた議会が1995年まで残っていたかのように話していたことだった。当事者といえども記憶に誤りが生じるということなのか、それとも第13最高会議の廃止を正当化するための故意の誤りなのか。

講演の後の質疑応答では、シャイケノフ氏は非常にていねいに質問に答えた。岡奈津子氏(アジア経済研究所)の憲法と憲法裁判所に関する質問に対する答では、1993年憲法ができたのは自分がカザフスタンに来てすぐの時で、採択延期を大統領に提案し、また採択後には憲法が長持ちしないと予言したことを明らかにした。また憲法裁は自ら訴訟を起こすことができ、司法機関としての仕事ではなく国民の人気を取るための政治的審理に熱中したため、1995年憲法で廃止されて憲法評議会(憲法裁よりも大統領への従属性が強い)が設置されたが、憲法裁と憲法評議会のどちらがいいというわけではない、よりよい判事がいれば自分は憲法裁を守っただろうと述べた。また、民主派は自分を「悪い民主主義者」と呼ぶが、法律家は憲法を見守ってさえいればよいのだとも語った。

私は二つの質問をした。一つめは、1995年憲法の制定過程で7月に最初の草案が、8月に最終案が発表されたが、この1ヵ月足らずの間の「全国民討議」はあまり盛り上がらなかったにもかかわらず、最終案では最初の草案の95カ条のうち55カ条もに変更が加えられ、特に国名(最初の草案では「カザフ共和国」とされ、最終案で「カザフスタン共和国」に戻った)や憲法裁判所(最初の草案では存続、最終案で廃止)といった重要な問題で変更があったのはなぜかというもの。二つめは、シャイケノフ氏が1995年10月に法相兼副首相から専任の副首相になった際、法相兼任では内務大臣に命令できなかったがこれからは治安機関の改革に着手できる、任務を果たし終えたら研究活動に戻ると述べていたが、実際に1年後に辞任するまでに所期の改革を実行できたかというものである。

シャイケノフ氏は第1の質問に対しては、国民による討議・投票は憲法の練り上げには向かず、あくまで憲法採択の手段であるが、だからといって草案に変更を加えないのでは討議が形だけだと取られてしまうから、変更を加えたのは憲法が採択されるための戦術であった、変更点は我々が計算済みであったし、討議によって探りを入れた部分もある、憲法裁は廃止しても国民の怒りを買わないことが討議で分かったのだ、と答えられた。第2の質問に対しては、裁判所や治安機関は全体主義の背骨であり、権力は独立した裁判所を好まないが、改革の手段は国家権力そのものであるという問題がある。自分は閣僚を思ったよりも長く務めたが、学者でなくなりつつあることを自覚し、また新聞からの批判にさらされたため、辞任を申し出たのだという答であった。裁判所と治安機関の改革は思うように進まなかったと解釈してよいだろう(実はシャイケノフ氏が専任の副首相になった直後、論敵のスレイメノフ氏が内務大臣に任命された)。どちらの質問に対しても、予想以上に率直な答が得られた。

懇談会の後、国問研と外務省の関係者のご好意で、私は短い時間だがシャイケノフ氏と個人的にお話することができた。ここでは、彼と対立した政治家やジャーナリストの背後にいた勢力についてなどの微妙な話も聞くことができた。もっと早く辞任したかったが、当時のカジュゲルディン首相に止められたのだという。カジュゲルディンのほか、アビルセイトフ(現在は反対派)、ジュケエフといった元閣僚とは強い信頼の絆で結ばれていたようである。また、そもそもカザフスタンに招かれた事情を聞くと、最初はスヴェルドロフスクの著名な法学者セルゲイ・アレクセーエフ教授の紹介で、クルグズスタンのアカエフ大統領のもとで働く予定だったが、出発直前に、それまで交流のなかったナザルバエフ大統領から、君はカザフ人なのだからカザフスタンで働けと言われたのだという答であった。ロシア出身のカザフ人であるために、ロシアではロシア的でないと言われ、カザフスタンではカザフ的でないと言われる、とも言って苦笑されていた。

直接話を聞いて、私はシャイケノフ氏の論理が以前より少しよく分かったような気がした。改革の手段は国家権力しかない、というのはロシア・ソ連の改革のジレンマとしてよく知られていることだが、シャイケノフ氏を動かしている主要な意識でもあるように思われる。ソビエト体制の遺産を引きずるカザフスタン国家だが、それを改革するためには国家権力を使わなければならない。国民世論は戦術的に利用するものの、基本的には少人数の立案によって強行突破しようという改革のやり方である。そこでは、対立者は厳しく排除される。つまり、シャイケノフ氏は信念の人であるがゆえにマキアヴェリスト的な手法も取るのであり、また他人から見てスキャンダリストと映りうる行動もするのである。

全てを思い通りにおこなったわけではないとはいえ、憲法や数多くの法律を作り、裁判制度のある程度の改革をなし得たのは、彼の非妥協的な意志の強さによるものだったろう。しかしそこには、必然的に決めつけや狭量さも付きまとっている。彼が目の敵にした1993憲法は、市民の権利の保障や三権のチェックとバランスという点では1995年憲法よりも西側的民主主義の規準に近かったのであり、決してソビエト体制的色彩の濃いものではなかった。また、スレイメノフ氏やロゴフ氏との対立にしても、本質的な意見の違いは特になく、人格的な対立だったのだと指摘する声もある。ともあれ、シャイケノフ氏がカザフスタン現代政治を彩った強烈な個性の一人であることは間違いない。

カザフスタンでは、基本的にはノメンクラトゥーラが生き残っているとはいえ、「政治のプロ」ではない新しい人材が少なからず登用されている。そのことは、大胆で新しい発想が政治の世界にもたらしてもいるし、政治の予測可能性を減らしてもいる。つまり良きにつけ悪しきにつけ、カザフスタンの政治にダイナミズムを与えている。ひるがえって日本の政治を見るなら、そこでは「政治のプロ」と官僚が強固に自分たちの場所を確保しており、政権が交代しようが政党再編が起きようが本質的に何が変わったのか見えにくい。日本でもシャイケノフのような学者政治家が高位についたら、何か変わるだろうか。いや、この国の風土では、学者が政治家になっても、本職の政治家や官僚以上に官僚主義に染まるだけではないか。余計なことだが、ふとそんなことを思う。