ホッカイドウ・モナムール 
− 私家版「枕草子」より −

アルフレッド・マイェヴィチ 
(アダム・ミツキェヴィチ大学・ポーランド/センターCOE外国人研究員として97年6月〜10月滞在)

   暦は予期せぬことを一切排除するとはいえ、あたかも幾らか予期に反するかのように、北海道は粛々と、その麗しくも短かすぎる秋の季節に突入した。私がただ口惜しく思うのは、島の東北端にある知床半島を舞台に繰り広げられる魅惑の大団円、将に息をのむような自然の移り変わりの中を散策できぬという事実のみ。

けれども間もなくすべてが終わって、色鮮やかな秋の彩りは否応もなく、長くて雪深い北海道の冬の、圧倒する白一色に席を譲るであろう。ヨーロッパにおける私の職責を全うするため、そしてまた同窓生の多くが暮らすポズナンから25キロ離れたステンシェフという小さな町に蟄居するため旅立ったあとの私には、その冬を眼にする機会が今年は恐らくあるまい。ステンシェフでは北海道よりもさらに厳しい冬が予想され、零下30度を下回る日々が長く続くものの、通常は積雪が殆ど見られない。 道産子やアイヌといった北海道の地に土着する住民にとって、延々と続く雪深い冬は、毎年決まって訪れる正常な営みであって、彼らはそれと付き合う術を身につけ、従容としてそれを受けとめる。私もまた、少なくとも4回はその辛さを経験したことで、その中で暮らすことを学ぶ機会に恵まれた。だがしかし、イスラエルの温暖な地中海気候から来られたモルデハイ・アルトシューラー教授のような、スラ研の他の外国人研究員にとって、今年の冬は将に挑戦だろう。

私の北海道との関係は頗る特別で、情念に関わるように思われるが、率直に言えば、この事実上の情熱もその源泉は、私自身にとってもやはり不分明で、秘密のベールに覆われているようである。実のところ、この種の態度は奥深いところに根ざし、私の内部のいずこかに巣くっているというのが真相である。今回は私にとって第6次ないし7次の訪日である。私はこれまでに極めて多くの国々を訪れ、そのうちの幾つかは日本よりもしばしば再訪しているとはいえ、どの国にもまして私が長期滞在を果たした外国は、日本に他ならぬようである。そして私が記憶する限り、日本にやって来ると、このいにしえのアイヌの故地にも必ず足跡を残してきた。私の来日は、予め北海道滞在を意図することが多いが、その訪問先がこの最北の親島から遠く隔たる場合ですら、私の内なる声はいつも私をこの地へと誘った。 多くの人々はしばしば、日本と私との絆の始まり、北海道再訪を巡る私の執念、日本に対する私の関心について訊ね、私がどこで日本語を学んだか、などといった質問を浴びせ続けてきたので、大須賀みかさんからセンターニュースのために執筆を依頼された、このささやかな随想の場を借りて、少なくともその一部についてお答えすることで、この私の稀なる告白を本稿の読者とともに分かち合うことにしたい。 極めて曲折に富んだ私の学問遍歴中の出来事や仕事の殆どがそうであるように、私の日本との出会いもまた誠に偶然であった。私は早くも高校時代(私の学歴は小学校の7年と、大学教育に先立つ高等学校の4年からなる。これは、私の時代のポーランドでは標準的だったが、殆ど変化なく今日に引継がれている)から、今や「より少なく使用される言語」と婉曲に表現されるようになった諸言語、ならびにヨーロッパ域外の大言語のすべてにわたって、辞書、文法書、入門書をできるだけ多く収集することを志して、言葉に対する関心を活発に示し始めた。このコレクションは歳月を経るにつれて成長を続け、今や世界的にみても個人が所蔵するその種のコレクションでは最も充実した、かつ知名度の高いものの一つとなった。学生時代の私は、1ダースを優に超すヨーロッパの諸言語を流暢に操ることでも比較的有名であり、そして大学での専攻も当初は先英語(アングロ・サクソン語)文学と初期・中期英文学で、この専攻における師匠(沈滞した社会主義の歳月のもとで、アカデミズムの神髄そのものを私に開示し続けた彼の存在がもしなかったならば、私は殆ど確実に大学をドロップ・アウトしていたろう)の記憶を今なお抱懐するにもかかわらず、修士論文では言語学専攻に転じて、英語を初め、日本語、中国語、スワヒリ語、エスキモー語のように系統を異にし、また時には相互に極端に異なる75種の言語を取り上げて、動詞句構造を精査した。 私が大学を卒業した1973年には、母校のアダム・ミツキェヴィチ大学に言語学研究所が新設され、私は説得を受入れてその末席を汚すことになった。かくて私は、その後現在に到るまで長年にわたって同大学と関わりを持つこととなり、次々に大学の職階を登りつめて、上記の研究所においては一般投票で選ばれた初代所長に就任した。同研究所が二分されて、一つは言語学に、いま一つは東洋研究にそれぞれ特化することとなったため、私はその最後の所長を務めることも余儀なくされた。私は勿論後者の所長になったが、その頃までには日本への、もっと一般的に言えば東洋への私の関心も、当然ながらプロフェッショナルなものとなる。

しかしながら、私のアカデミズム参加の当初にはそうではなかった。にもかかわらず、私に課せられた初仕事は、日本語の音韻組織に関するモノグラフの執筆に他ならなかった。この課題に熱中したとは言い難いものの、私は職務としてそれを果たした。1978年頃、その著作に対して博士号(Ph D)が授与され、それはまた後に刊行された。上記の課題と取り組む上で日本学関係文献目録をかなり手広く渉猟した際に、アイヌ研究に関わるポーランド人の名前があまた記録されている事実を発見して、驚愕を禁じえなかった。その当時、私のアイヌに関する知識と言えば、そのような民族が存在するという以上のものではなったから、自らの発見に啓発されて、ブロニスワフ・ピウスツキが1902〜1903年にアイヌ・フォークロアを記録した古蝋管と遭遇するのが関の山だった。極度に悲惨な保存状態で見出された蝋管コレクションを、私は仔細に点検して、綿密なメモを取った。

1976年、私は頗る予期せぬ形で − 十分な準備もなく、また何らの研究計画も受入れ態勢も欠くままに − 日本へ派遣された。私は、誰一人として私を待ち受ける者も、また私を必要とする者もいないと思われた京都産業大学に、頗る限られた滞在費を携えて到着した。あらゆる観点からみて、そこに介在したのは、私を同大へ派遣するという決定それ自体に対する責任感以外の何ものでもなかったが、私にとって幸いだったのは、当時の日本を代表する3人の言語学者のうち故泉井久之助、故村山七郎両教授の2人までが、他ならぬ京産大に在職しておられたという事実である。今日の視座からそれを眺めるにつけ、これら二人の大碩学に触れ合うという好機を十二分に認識するには、私は余りにも愚かであり、何よりもまず、如何に未熟かつ準備不足であったことか、ましてや彼らを十分に活用することなどは論外であった。にもかかわらず、私という取るに足らぬ人間に示されたお二方の厚情と友情を、私は決して忘れることができない。ピウスツキ蝋管に関する私のメモをちゃんとした論文に仕上げて、それを北海道大学、北方文化研究施設へ送付するようにと、私を説得されたのは村山教授だった。私はそうしたが、長いこと何の返答もなく、とどのつまりに受取ったのが「マイェヴィチさん、あなたは一体何者ですか。」という御挨拶だった。それは度肝を抜く返事のようにも思えたが、彼らは私の論文を公刊する意向で、ただ単に自らの執筆予定者の紹介文のため、私のデータが必要だったに過ぎぬことが判明した。恐らくはこれが、私の北海道に対する愛情に灯がともった瞬間であったろう。私は北海道への初旅行を実行するに足るだけの資金を調達すると、日本からの初帰国を間近に控えた1977年3月、北海道へ旅立った。私が北海道行きの決意を京都の知人や大阪の飲み友達に伝えた時、それがこの上ない驚きと不信をもって迎えられたことを覚えている。「何もない」北海道へ赴くことは、彼らの理解を絶する愚行と見なされたわけである。この想い出は、全国津々浦々に及ぶ私の日本紀行で得られたあまたの体験とも相俟って、青森以南に住む人々が北海道について如何に無知であるかを如実に物語る。
サハリン最南端の村を示すロードサインと著者

今回のスラ研滞在を含めた、その後に繰り返された数々の北海道滞在の目的は明確であって、ブロニスワフ・ピウスツキ著作集の編集に対する私の関与と関連する。著作集の第1巻と第2巻は、初校の全体と再校の大半ならびに膨大な量の索引の作成作業が、わが妻エルジュビェタの絶大なる協力を得てセンター滞在中に完了し、近々の出版が予定されている。われわれは素晴らしい仕事をすべて完遂した、と語れる日の近からんことを願っている。

日本のその他の地域に関して言えば、その最西端の与那国島、有人地点としては最南端の波照間島、最東端の納沙布岬(そこではタワーに登って歯舞諸島の写真を撮った)、そして最北端は弁天島(宗谷岬の北、数十メートルの鼻先にある小島で、海鳥のみが住む)を連ねる形で、その興味は大小様々ながら途方もなく多くの場所を訪ね歩いた。私はまた宮島、松島(ここへは芭蕉に倣って「松島や、松島や、ああ松島や」と復誦するために訪れた)、天橋立(正直に言うと、私はここで少々失望した)の日本三景も見た。博多から仙台までは何とか乗り継いだものの、新幹線の南北全区間の走破は達成できなかった。とはいえ、西鹿児島から博多まで列車で走破した事実は、間違いなくより短い仙台・盛岡区間の未走破を十分に埋め合わせるものであった。

北海道に関する限り、私は殆どすべての場所を訪ねている。今度のスラ研滞在中は、天売、焼尻、奥尻の島々、および松前と桧山を訪ねたことで、私の研究調査旅行のリストには新たに5地点が追加された。

これらの旅のうち、純粋に観光を目的としたものは殆ど皆無であり、それらはいずれも、事前によく練り上げた計画通りに実行された、必要に裏付けられた研究旅行であった。これらの旅行は数千枚の写真やメモによってしっかり記録され、また現地で収集された無数のその他の資料も、ステンシェフの私の文書庫に保存されている。ひとえにこれらのコレクションのお蔭で、ポズナンの日本研究は多年にわたって着々と成果を積み上げることができたのである。 私はいまだかつて四国、大東島、小笠原諸島を訪れたことがなく、北海道で私の足跡が及んでいない地点は、瀬棚と岩内、ならびに宗谷とサロマ湖の間の海岸線である。かくて、私の積年の念願である日本に関する書物、20年以上にわたるその全期間を通して、望むらくはその全領域を包摂した上で、「私」が経験したままの「私の日本」を叙述すべき書物は、その執筆準備が完全に整うまでに少なくともあと一度の訪日、そして北海道訪問が不可欠のようである。

実際は日本との出会いのそもそもの当初から私が最も関心を抱き、そして実際にもその関心を常に堅持してきたのは、「北海道と琉球、日本民族圏の双極」と命名された大プロジェクトである。私はそれを20年以上も前から、日本の様々な研究機関に対して提案し始めたが、回答はいつも決まって否定的であった。今や、それが如何にホットな問題となっているか、また必ずしも先駆的とは言えぬとしても、私のアイデアが如何に正しかったかを確認するためには、大書店を訪ねるだけで十分である。 ここで取り上げるべき最後の話題は言語の問題である。率直に言えば、私はかつて一度も日本語を学んだことがなく、私の誤用(時としてお手上げのこともあるが、理論的には誤りを犯した途端にそれに気付くこともしばしばである。その言語に、理論面では遙かによく習熟しているからである。)を正してくれる教師が主宰する正規の言語教室には、1分たりとも出席した体験はない。要するに、私は日本語資料を読みこなす必要に迫られ、日本語以外の言語では誰とも会話ができぬような、大都市からは遠く離れた村々で生き延びねばならなかったに過ぎない。その上、私を受入れてくれた人々に対する敬意と礼儀の故に、もしも彼らが望むなら、彼らとは彼ら自身の言葉で交流することを、少なくとも試みるのが私の個人的ポリシーである。その結果は様々である。順調に振舞えた日々も、また失敗の日々もあり、私とは殆ど完璧に相互了解の達成できる個人がいる半面で、意志疎通の協業を受けつけぬ個人もあり、何の束縛もなく討論可能な話題もあれば、それが生活の場であれマスメディアにおいてであれ、私には全く了解不能な話題もある。私は一般に、自らの能力によって容易に生き延びることができるが、私と関わりを持つ日本人の側に私を理解しようと努める誠意があるなら、また私の努力という事実それ自体を彼らが評価してくれるならば、私はそれを常に評価し、感謝するに吝かでない。私の伝達能力は、日本語よりも他の多くの言語による方が遙かに勝っているが、日本人の殆どは彼ら自身の言語で私と対話する方を好むため、その結果、日本にいる他の外国人の同僚たちと比べて、私はやや不利な立場に置かれることもある。しかし私の努力が気付かれて評価される限り、私はそれを多としたい。

日本の秋の美しさは、奥尻からの帰途の定山渓地区において、今年はその絶頂期を満喫した。奥尻では荒海のため数日間足止めを食らう羽目となり、南サハリンでの生き残り作戦に赴くため、航空券を取りに札幌へ急行する途上の出来事だった。サハリンでは将に修羅場をかいくぐって、生存を全うすることになった。  Oct. 6, 1997/札幌にて (英語より井上紘一訳)