秋野 豊 氏 逝去

スラブ・ユーラシアを専門領域とする国際政治学者、秋野豊・前筑波大学助教授が1998年7月20日、タジキスタン共和国において逝去されました。享年48歳。 秋野氏は今年4月以来、外務省から国連タジキスタン監視団(UNMOT)に政務官として派遣され、PKO活動に従事しておられましたが、搭乗する国連車が首都ドウシャンベ東方の山岳地帯を走行中、身元不詳の武装集団による待ち伏せを受け、秋野氏は同乗のシェフチク少佐(ポーランド)とシャルペジ少佐(ウルグアイ)の両軍事監視員、タジク人のマフラモフ通訳兼運転手とともに射殺されました。殉職された4人の国連関係者に対し、合掌。 センターは、早稲田大学政経学部を卒えた秋野氏が北海道大学法学部へ学士入学されて以来、20年以上にわたって、さまざまな形で氏の支援・協力を受けてきました。とりわけ法学部助手就任の翌年(1982年)以降は、センター共同研究員としてセンターの研究活動にも積極的に関わってこられました。
8月6日札幌での「偲ぶ会」:
終了後も名残を惜しむ人々
1995〜97年にセンターが実施した重点領域研究「スラブ・ユーラシアの変動」では、研究分担者として活躍されました。その研究会やシンポジウムにおいて、自らの足で稼いだ「ホットな情報」を駆使しつつ果敢に発言しておられた秋野氏の姿は、いまだわれわれの記憶に新しい。今夏のセンター主催国際シンポジウムに、タジキスタン出張中の秋野氏の出席はもとより望むべくもありませんでしたが、その前日に悲報が伝えられるとは、まさに青天の霹靂でありました。開会の冒頭では出席者全員が秋野氏の冥福を祈って黙祷を捧げました。 >秋野氏の遺骸は7月25日に札幌の御実家に到着し、御遺族の意向により翌26日に内輪で密葬がとりおこなわれました。その後、8月6日には札幌で、また9月5日には東京において、「秋野豊氏を偲ぶ会」が多くの参会者を集めておこなわれました。秋野氏の友人の間では、氏の遺志を継ぐ若い研究者を支援することを目的として「秋野豊基金」を創設する運動が展開されていると伝えられます。なお、センターに寄せられた弔文は随時、センターのホームページ(http://src-h.slav.hokudai.ac.jp)に掲載しています。[井上]

 

学者としての秋野豊さん(弔辞)

秋野豊さんを偲ぶ会における挨拶 1998年9月5日 於東京国際フォーラム

伊東孝之(早稲田大)


秋野さん、私があなたを知ったのは、もう四半世紀も昔のことです。あのとき、あなたは北大の学生で、私は教師でした。たまたま教師としてあなたを知りましたが、当初からわれわれは教えると同時に教えられる仲でしたので、私はずっと友人であると考えておりました。本日も友人の一人として挨拶させていただきます。
あなたは私と同じ学者の道を選びました。私は学者には二つのタイプがあると考えています。学者にしかなれなくて学者になるタイプと、学者以外のいろいろなものになれるのにあえて学者であることを選ぶタイプの二つです。私などは典型的に前者のタイプですが、あなたは後者のタイプでした。あなたは多面的な人でした。マルチ人間でした。学者にはなりましたが、学者の枠に収まるような人ではとうていありませんでした。
しかし、本日はあなたという大きな人間の、たくさんある側面のうちの、学者という、ごく小さな一面に焦点を当てて話させて下さい。それは私がいちばんよく知っている面だからだけではありません。あなた自身にとってもやはり学者であることが大切だったのではないかと思うからです。なんといってもそれはあなた自身が選んだ道ですから。
あなたは48歳で亡くなりましたが、学者として活動できたのはそれほど長くはありませんでした。32歳で処女論文を発表していますので、それから数えるとわずかに16年間でした。この16年間にあなたは驚くほど多数の、多くの分野にまたがる著作、論文を発表しています。あなたの著作については、あなたのお弟子さんの伊藤庄一さんが詳細な目録を作っています。あまりに多すぎて、実は私も全部には目を通すことができませんでした。
あなたは学者として何の専門家ということができるでしょうか。あなたは自分のことをあるときは国際政治学者、あるときは地域研究者と呼んでいます。たしかに国家と国家の間の関係を研究したという意味では国際政治学者でしょう。しかし、わが国では一般に国際政治学は特定の地域とは関係のない、理論を扱う学問だと考えられています。あなたは地域にこだわりましたので、この意味では地域研究者というべきでしょう。
主としてどの地域を研究したのでしょうか。東欧でしょうか、ソ連=ロシアでしょうか。多くの人々はソ連=ロシアだと考えています。あなた自身も本の中で自分は1970年代からソ連研究をやってきたと書いています。しかし、これは必ずしも正確ではありません。わたしの知る限りでは、あなたは大学院時代にロシアよりも東欧諸国、とりわけチェコスロバキアに関心を抱き、最後まで東欧への関心を失いませんでした。ロシア語を勉強しはじめたのは、モスクワ大使館に専門調査員として赴任することが決まってからです。あれはあなたが33歳のときですから、ずいぶん遅い出発でした。赴任中にみごとにロシア語をマスターし、研究の重点を東欧からロシアへと移しましたが、専門のロシア研究者と比べると、言葉の面でも知識の面でもハンディキャップを負っていました。
あなたはもともと外交史研究者でした。外交史研究から出発して、いろいろな方向に関心が拡大しました。主な方向は三つだったように思います。一つは歴史から現代へ、もう一つは外交から内政へ、三つ目は中心国から周辺国へ、という方向です。しかし、それはあくまでも拡大であって、出発点を捨てたわけではありませんでした。
あなたの研究は、私の見るところでは、大きく分けて三段階の発展がありました。最初の段階は、第二次大戦中の連合国間の外交交渉に関する研究です。このときはまだ私の直接の研究指導のもとにありました。あなたは猛烈に勉強しました。毎週一回は徹夜して、指定された50ページぐらいの英文を読んできて、目を真っ赤にして報告したことを、私はまるで昨日のことのように思い出します。あなたの博士論文はイギリスの未公開文書に基づいていて、非常に価値が高いものでした。最初の4年間に発表した研究論文は、すべて外交史に関するものでした。
この時期のあなたの仕事は、厖大な外交文書を丹念に読むことでした。外交は国家と国家がパワーを競い合う場である。また、いろいろな国の外交政策を担う人々、つまりエリートが相互作用をする場である。こういう考え方が伝統的な外交史研究の根底にあります。あなたはこの考え方をしっかりと身につけました。あなたはのちに外交史研究を離れますが、このときに身につけた研究態度、研究視角が良きにつけ、悪しきにつけのちの研究を方向づけたように思います。
第二段階は、旧ソ連の内政と外交に関する研究です。転機となったのはモスクワ大使館における勤務でした。あなたはペレストロイカ前夜のモスクワに赴任しました。それから数年の間、自分の目の前で、数世紀に一度しかないような時代の大転換を経験しました。これが契機となってあなたは先に述べたように三方向に関心を拡大させます。まず、歴史から現代への展開です。あなたは1990年に書いた本の中で「私は1989年の東欧の激動の中で、ふと、自分が歴史家でなくなったことに気づいた」、「すべてが『今』になった」と書いています。次に、外交だけではなく内政にも大いに関心を寄せるようになります。ここではじめてあなたは本来の意味での政治学との接点を見出すようになります。最後に、あなたは、旧ソ連を軸にして、それと関係のある世界のさまざまな地域に関心を広げます。東欧諸国には初めから大きな関心がありましたが、それだけではなく、中国、モンゴル、北朝鮮、ベトナムのようなアジアの社会主義国、さらにインドネシア、日本のような非社会主義国にも関心を広げました。
研究対象は大きく拡大しましたが、研究態度はあまり変わらなかったように思います。調査するものが外交文書から旧ソ連の政府声明や新聞論説に変わっただけでした。あなたは、当時のクレムリン・ウォッチャーの正統的な流儀にしたがって、必死になって公式文書を読みました。「行間を読む」のが自分の仕事だったとどこかで書いています。これは実はたいへんなことでした。たとえば、ゴルバチョフがおこなった演説、発表した論文、インタビューの類は無数にありますが、あなたはそれを丁寧に読んで、内容分析をおこなっています。ソ連政府が外国政府と会談をおこなうたびに発表する声明や、協定内容を時間の縦軸、横軸にしたがって詳細に比較しています。これは根気を必要とする、きわめて退屈な作業でした。あなたはそれをやりとげました。そして、それによって掴んだ確かな感覚に基づいて、ソ連の内政と外交の大きな方向について、大胆な予測をおこなったのです。
第三段階は、旧ソ連の周辺地域の研究です。転機となったのは、プラハの東西研究所欧州センターへの2年間にわたる出張でした。あなたはこのころから旧ソ連周辺地域での紛争に関心をもつようになり、足繁くプラハから、あるいは直接日本から、旧ユーゴスラビア、コーカサス、モルドヴァ、クリミア、中央アジア、中国の新疆地方、モンゴル、中ロ国境地帯など、いずれも危険きわまりない地域に出張して現地調査をおこないました。
この段階であなたの研究態度に大きな変化が見られました。あなたは文献調査だけではなく、現地調査を重視するようになりました。ここからあなたについて今日一般的な「行動派の学者」という理解が生まれました。なぜあなたはこのような方法を採ったのでしょうか。3年前に、『ロシア研究』のアンケートに答えて、こう書いています。体制変動後、公式報道を読むというような「伝統的職人わざ」が通用しなくなった。研究者の間の分業も難しくなった。文献などの知識では不十分である。現地調査が欠かせない。つまり、あなたは、好きこのんで冒険的な調査をおこなったのではなく、現段階ではこのようなやり方以外にないと確信するようになったのです。もう一つ、地域紛争をいかに解決するかという実践的な関心が次第にあなたの心を捉えるようになりました。プラハでの研究課題は、まさに地域紛争をいかに調停するかを、将来そのような調停に関わりそうな同世代の諸外国の研究者とともに検討することでした。
あなたの学問はだいたいこのような発展をたどったように思います。それではあなたの学風はどのように特徴づけることができるでしょうか。私はあえて単純化の危険を冒して、三つの言葉で特徴づけてみたいと思います。それは、マルチラテラル、オリジナル、インテグラルです。 まず、マルチラテラル、すなわちマルチです。これはすでにあなたの人柄を特徴づける際に使いましたが、その学問を特徴づける際にも使えるように思います。一つには、あなたが学問分野、いわゆるディシプリンにこだわることなく、役に立ちそうなものは何でも利用しようとしたことです。したがって、あなたの学問は一つの専門分野、一つのディシプリンに収まるものではなく、マルチディシプリナリーでした。それは地域研究の然らしめるところですが、それだけではなく、旧ソ連東欧諸国のように研究対象が激しく変動しているときは、既存のディシプリン中心のやり方では役に立たないという認識があったように思います。たとえば、地政学的アプローチの導入はその一例です。
もう一つ、研究対象について、慣れ親しんだ地域に限定せず、拡大路線をとったことです。先のアンケートの中で自分は約30ヶ国をカバーすると宣言しています。この「カバーする」という言葉ですが、あなたは「ハイポリティクスにかかわる諸問題について、一次資料を定期的に読んで理解できる状態に自らをおく」、「いくつかのシナリオを用意し、さきどり的に情報を整理できるようにしておく」という意味で使っています。
ふつうの学者なら、なるべく自分の専門分野を固定し、対象地域を狭く限定するやり方を採ったでしょう。それの方が学者として生き残るには安全だからです。しかし、あなたは逆の拡大戦略を採りました。もちろんそのためにはたいへんな努力を払わなければなりませんでした。たしかに行動力は大きな助けとなったでしょうが、行動力だけでは研究はできません。先に見たように、あなたは若いころから文献調査にこだわりました。ぎりぎりまで文献で調査して、それでできない部分を現地調査で補ったのでした。
こうして、新しいタイプの学者が誕生しました。あなたはチェコ問題についても、タジキスタン問題についても、また中ロ国境問題についても、ほとんど同じ程度の権威をもって語ることができました。しかもみごとな英語で発表することができました。こんな学者は日本にはありませんでした。いや、世界でも稀でした。
つぎに、オリジナルということですが、一般に学問はオリジナルでなければならないといわれます。しかし、実際には独創性を心がける学者はなかなかいません。とくにわが国では少ないのです。というのは、わが国には、先人の歩んだ道をできるだけ忠実に歩むことが評価される傾向があるからです。あなたはまさに逆でした。あなたは自分の本や論文の中で先人の業績を引用し、それに沿って議論を進めるということが滅多にありませんでした。数少ない例外は、ロンドン大学時代の恩師シートン=ワトソンでしょう。あなたは主として自分が読んだ資料、あるいは自分で歩いて目で確かめた事実に基づいて叙述しました。しかし、これは必ずしもあなたが先人の業績を読んでいないということではありませんでした。読んでいて、なおかつ同じことは言うまい、独自の観点を打ち出そうという心意気があったように思います。あなたの支えとなったのは、自分は一次資料を知っている、一次資料を踏まえて、自分の頭で考えた結果がこうなのだ、という自負でした。これは初期の外交史研究から一貫しています。
オリジナリティの意味は、社会科学と歴史学ではやや違います。社会科学の場合は新しい論理的な連関、歴史学の場合は新しい事実的な連関を発見することを指します。したがって、社会科学はモデルを競いますが、歴史学者は事実を競います。あなたはどちらかといえば、後者のタイプであるように思います。あなたは歴史学者であることを否定しましたが、やはり外交史家という母斑は拭い消すことができませんでした。近年、政治学において、伝統的な外交史研究のやり方が見直されておりますので、国家と国家の間のパワー関係(ネオリアリズム)やエリートの相互作用(アクター中心主義)に着目するあなたの研究方法はむしろ時代に沿うものといってよいでしょう。とはいえ、あなたは誰かが開発したモデルを適用するとか、新しいモデルを開発するとかいうことには関心がありませんでしたので、典型的な社会科学者であるということはできません。
方法的にはあなたは無手勝流でした。しかし、それによってあなたは数多くの新しい事実的連関を発見しています。二つだけ例を挙げましょう。一つは、ロシアとスロバキアが軍事面を含む密接な協力体制を作り上げている、ということを早くも1993年段階であなたが指摘したことです。これはスロバキアの新聞を丹念にフォローした結果であり、世界で最も早い指摘でした。もう一つは中ロ国境交渉に関する研究です。あなたは1995年にさまざまな公開情報を集め、また中ロの長い国境地帯を調査して、これがかなり複雑な問題であること、モスクワは1991年に思い切った譲歩をしたが、現地が強く抵抗していて、国内ではどれだけ譲歩したかを詳しく公表していないことを明らかにしました。それまでこの重大な事実を日本の研究者だけではなく、諸外国の研究者も見過ごしていたのです。
無手勝流でも論理的な連関を発見することはできます。しかし、それはもちろんしばしば素人っぽく、泥臭く、見方によっては幼稚にさえ見えることでしょう。あなたが得意としたのはモデルを開発することではなくて、人の意表を衝くような比喩を使うことでした。たとえば、ゴルバチョフは「生の政治学」だが、エリツィンは「死の政治学」である、とか、東欧革命は「孫の手を引いたバプカ」の革命だったが、天安門事件はそうではなかった、とか、タジキスタンの国家建設は「皮膚縫合手術」のようなものだ、などと言っています。こうした比喩の意味は、はじめて接したときにはよく分かりません。しかし、しばらく読みすすむと、なるほどそうかと膝を打ちたくなります。それは一種の芸術でした。
ただ、学問の言葉としては熟しているとは言い難いものがありました。ですから、あなたのやり方は日本の学界では必ずしも評判がよくありませんでした。しかし、私はあなたが自分の目で見て、自分の頭で考えようとしたこと、そして自分のやり方で多くのことを解明したことを評価したいと思います。
最後に、インテグラルということですが、これは翻訳が難しい言葉です。一般には「統合的」と訳されますが、これでは何のことか分かりません。私は「裏表がない」、「一個の原石から彫られた彫刻のように、内的な統一がとれている」という意味で使いたいと思います。あなたはさまざまなコンプレックスやタブーから解放された人でした。わが国の旧社会主義国研究者には、親共主義とか反共主義のようなさまざまなイデオロギー的コンプレックスがありました。また、さまざまな「象牙の塔」のタブーがありました。政策判断を問われるようなテーマ、たとえば北方領土問題は慎重に避けて通りました。ジャーナリズム受けしそうなテーマや表現は避けなければなりませんでした。重要と思っても文献資料の入手が困難であるようなテーマは避けることになっていました。なぜなら、研究の成果が挙がらず、学界で認められそうもないからです。あなたはこのようなコンプレックスやタブーからまったく自由でした。自分の関心の学問的純粋さ、真正さに自信をもっていましたので、ふつうの研究者が避けるようなテーマにどんどん踏み込んでゆき、ふつうの研究者が使わないような表現もためらいなく使いました。あなたにおいては学問と人間が一体となっていました。
このためあなたはしばしば誤解を受けました。実は、私自身もそうした誤解をもった一人でした。あなたがモスクワ大使館に出張していたとき、それまでの歴史研究から一転して現代ソ連の内政外交研究を始めたので、われわれ北大の一部教師陣はあなたが外務省のために政策研究をやっているのではないかと疑いました。これに対してあなたは烈火の如く怒りました。もちろん自分の研究成果が外務省かどこかの役に立つかも知れない。しかし、それは関係がない。自分は外務省かどこかのためにやっているのではなくて、自分のためにやっている。学問的価値があると思うからやっている、ということだったように思います。あなたにしてみれば、そのことをこともあろうに自分の教師から疑われたことが悲しかったのです。
あなたの学問的業績はなお歴史の評価を待っています。あなたが発表したもののあちこちに、十分に熟していない定式や概念が散見されます。もう少し暖めておいてから発表したらよかったのにな、と思うことがしばしばです。しかし、考えてみると、あなたにはそんな暇はなかったのでした。厖大な著作目録を眺めるにつけ、あなたはなぜこんなに仕事をしたのか、なぜこんなに焦ったのかと思います。あなたは、自分の死が遠くないことをひそかに感じて、生き急いだのではないかという気さえします。
他方では、こんなに生き急いだけれども、実はあなたは自分がしたことのごく一部しか発表できませんでした。とくに中央アジアに関する研究成果は断片的にしか残していません。あなたは道半ばにして倒れました。学問の同僚として勝手なことをいわせてもらえば、もっともっと書き残してもらいたかった。それができなければこんなに早く死んでほしくなかった。あなたにはやるべきことがまだまだたくさんあったのです。
歴史の評価はまだ定まっていませんが、今日すでに次のことは言ってもよいのではないかと思います。あなたの学問がソリッドな基礎に基づいていたこと、対象が激しく変動しているときの社会科学の研究の一つのあり方を示していること、人間と学問を統一したインテグラルな学問であったこと。それは後進に一つの道を指し示しているように思います。
私は学者として、また人間としてあなたに多くを教えられました。友人であったことを誇りに思います。それだけにあなたの死が残念でたまりません。
あなたという素晴らしい学者を、そして人間をわれわれに授けて下さったことを、ここにご列席のご遺族の方々、とりわけ母君のコトさんと奥様の洋子さんに感謝したいと思います。秋野豊さんの死に心からの哀悼の意を表します。

 

豊さん、「さようなら」!

林 忠行

最初に、秋野氏に会ったのは、多分、伊東孝之先生のお宅で、ふたりが修士論文を終えたばかりのころだったと思います。もう20年以上も前のことになります。同い年で、小樽と札幌という違いはありますが同郷だったこと、それに扱った時代こそ少し違いますが、秋野氏と私はチェコスロヴァキア史に関する修士論文を書き、しかもそこではエドヴァルト・ベネシュという人物が重要な存在だったこともあり、親しいつきあいが始まりました。
その後、秋野氏はロンドンに、私はプラハに留学しました。この時期、私は資料収集を目的に2度、家内といっしょにロンドンを訪れ、その都度、秋野氏のお宅に居候させてもらいました。家族を含めたつきあいはここから始まったと思います。秋野氏の手ほどきを受けながらキューガーデンの英国政府文書館で史料を探した数週間は、これまでの私の研究生活の中でも最高の日々に数えられます。その行き帰りに、それぞれの研究内容を語り合いましたが、思い起こすとそれはふたつのモノローグが果てしなく交互に続いていた、というほうが正確かも知れません。
ロンドン滞在期間中に秋野氏は英ソ関係史という領域に関心を広げ、それが博士論文になりました。その後、モスクワ滞在を経て、秋野氏はソ連、ロシアの現状分析に仕事の比重を移し、マスメディアでの活躍も始まりました。他方、私はチェコスロヴァキア史という狭い世界にとどまりましたので、ふたりの研究志向にはかなりの差ができました。しかし、両者の研究が接点を失ったというわけではありませんでした。
今、思うと、どうも私の研究は秋野氏の研究を後追いをしている節があります。1980年代後半から、私はチェコスロヴァキアのロンドン亡命政府の研究を始めましたが、これは秋野氏の博士論文とかなり多くの接点を持つ内容でした。1988年あたりから、私も現状分析を始めましたが、いうまでもなくそれ以前から秋野氏は東欧も含めた社会主義世界の現状分析を続けていましたので、遅れ馳せながら私は秋野氏の世界にたどり着いたということになります。もちろん、私の守備範囲はチェコスロヴァキア、せいぜい無理しても東中欧世界にかぎられ、「スラヴ・ユーラシア世界」を視野に入れていた秋野氏の世界のほんの一部に接点を作ったというにすぎませんでしたが。でも、この時期からさまざまな形で秋野氏との共同研究が始まったといえます。そして、この3年間は、私が所属する北大スラブ研究センターが組織した大型の研究プロジェクトで、同じ研究チームに属して研究をすることができました。
1993年に秋野氏はプラハの東西研究所に籍をおいて研究活動をしていましたが、その時にスロヴァキアとロシアの関係に注目する論文を発表しました。その見解は明らかに私の持っていた見通しと異なる内容でした。その時の自分の見解を修正する必要はないと思っていますが、秋野氏が注目していた論点は私の視野の中にはありませんでした。少なくとも現在までの推移にかぎるならば秋野氏の洞察は的を得ていて、私は自分のホームグランドで手痛い失点をしてしまいました。 今回、比較的長い在外研修の機会を与えられた私は、あえてプラハではなくブラチスラヴァをおもな滞在地に選びました。もちろんそれだけとはいえませんが、秋野氏の存在をかなり意識した選択ともいえます。秋野氏に一矢を報いようと準備を始めた矢先に、突然私は標的を失ったことを知りました。
ロンドン留学時代の秋野氏の歴史研究は、かなり徹底した一次史料の調査にもとづいた上で、既存の議論にとらわれない視点を打ち出すという性格を持っていました。ときとして危うさを感じることもあり、そうした批判をしたことを記憶していますが、その議論のダイナミックさに大きな魅力を感じていました。最近の研究会などの場では、あえて私は秋野氏の「地政学的」な論点を批判しつづけました。それは、秋野氏が、やはり徹底した現地情報に依拠した議論を展開していて、イデオロギー的な「地政学」とは異なるものを感じ、十分に議論に値するものと私には思われたからです。このどちらの議論も、ついに中途半端のまま突然終わってしまいました。
残念ながら、最後に秋野氏に会ったのがいつだったのか、思い出せません。研究会でいつもいっしょだったし、頻繁に札幌に現れた秋野氏は、当時センター長室で書類の山と格闘している私を同情の目で見ながら、短い会話をして帰ることが多かったからです。 私だけではないと思いますが、人と別れの挨拶をするとき、どちらかといえば再会を前提としたあいまいな言葉を交わすことが多いように思われます。しかし、秋野氏はいつも、どこかにさびしさを含んだ優しい微笑みとともに、「さようなら」と明瞭に別れの言葉を述べていたのが今でも印象に残っています。 私もまねをしてみます。豊さん。「さようなら」。

ブラチスラヴァにて (1998年8月5日)