1998年夏のモスクワにて

小島 定(福島大学)     

昨年1998年3月から10ヶ月間、文部省長期在外研究でモスクワに滞在しました。私にとっては、久方ぶりの長期滞在であったために、モスクワの変貌ぶりには何もかも驚くことばかりでした。そこで、滞在中その都度見聞きした出来事や遭遇した諸事件について、自分の印象を書きとめて置こうと思い立ち、「モスクワ便り―T君への手紙」を書き綴りました。以下の文章は、そのなかの一部を再録したものです。なお、当時書いたものに全く手は加えてはおりません。したがって、その内容は、いまになってみれば、当然その「鮮度」は落ちていますし、常に最新の情報を求めておられる「センター・ニュース」の読者の皆さんのニーズに、必ずしも沿うものではないかもしれません。しかしながら、題材となっている1年前のちょっとした出来事は、私にとってはとても印象深いものでありました。したがって、編集部の許しを得たうえで、あえて再録をさせていただいた次第です。読者の皆さんには、久方ぶりにモスクワを訪れた、一ロシア史研究者の私的な印象記として理解していただくようお願いする次第です。(1999年7月7日記)

T君へ―モスクワだより(4) 1998年7月22日

前便から一月近くたったかと思います。そちらもちょうど夏休みに入る頃でしょう。本当なら、海におこなき、山に登ったりして、―そして、貴兄の場合は好きな温泉につかる―のんびり過ごすのが本来の休暇の意味ですが、われわれの商売、特に日本の大学教師のあり方からすると、この長期休暇中こそ「稼ぎ時」というわけで、まして勤勉な貴兄のことだから、ひょっとしてもう論文の執筆に余念がない頃かもしれませんね。また、今年は僕がこうしてモスクワに居ますから、この時期われわれの恒例行事である、あの「秘湯巡り」ができないので、ちょっと残念でしょう。僕としてもそれは同じで、一年に一度、貴兄と山奥の温泉に浸かり、大学のことや仕事のことで話をすることが楽しみでした。会っても、お互い照れ屋だから、まじめくさって話すわけでもなく、会話はいつもいわば「ジャブ」の応酬みたいなものですが、それでもお互いの意見の一致点や食い違うところがわかって、良い刺激になっていました。今年は、こういう事情ですからインターネットによる電子メールの交換ということになりましたから、どうしても話がお互い一方的になり、内容もややまじめ腐った話ばかりになってしまいますが、これもまあ、たまには良いでしょう。

さて、モスクワも夏休みに入り、図書館も休みが多くなって(イニオンなどは金、土、日と休みで、開館時間も9時半から3時半までという調子です)、自分の仕事の方もちょっと中間整理をしておく必要を感じています。今回は少し君の専門のロシア史にまつわる話をしようかと思います。

素材は先週の土曜日に、スターリン時代の研究をしているA君らとともにレニンスキエ・ゴルキへおこなった時の話と、先日テレビで放映されたサンクト・ペテルブルクでのロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世とその家族の遺骨埋葬の式典にまつわる話です。後者の方は、ひょっとしたら日本のテレビでも報道されたかも知れませんがどうでしょうか。

まずは前者、レニンスキエ・ゴルキの話から始めましょう。貴兄もご存知でしょうが、ここは、レーニンが病気で倒れてから晩年を過ごしたところで、ソ連時代にはロシア革命史のいわば「聖地」でした。A君が一度は行ってみたいというので、ソ連邦解体後にロシア史の勉強を始めた若い友人も連れ立って、一緒に出かけました。その場所はモスクワのはずれからバスで40分足らずのところにあり、「ゴルキ」という名前だけあって、やや小高い丘になっていることが、バスの中からわかりました。ここは元々、貴兄が論文で分析されたことのある例のモスクワ大資本の一つ、モローゾフ家の別荘があったところで、ボリシェヴィキ革命後ソヴェト政府によって接収されたのですが、白樺の林が広がる広大な敷地に、いずれもなかなかしゃれた館が散在しています。貴兄もかつて行かれたことがあるかもしれませんね。そのなかの一つの館で「ロシア革命の父、レーニン」が息を引き取った、というわけですから、かつては「レニンスキエ・ゴルキ」の名前はどのガイドブックにも載っていました。また、こうした所には、ロシアでは決まって博物館があるものですが、ここにもやはり、巨大な建物の「レーニン博物館」があります。そのなかの展示物は、もちろんすべてコピーですが、ソ連時代の革命史の通説的な区分に沿って、しかも革命後の20年代の経済建設、対外関係などの分野ごとに整然と整理され、したがって―というべきでしょう―きわめて「わかりやすく」展示されているので、われわれなどもロシア革命史、ソヴェト社会主義建設の歴史の「おさらい」ができるというわけです。ちょっと話の本筋からは外れますが、ロシアにおける博物館は一般に、ほかの国、たとえば日本などと比べて非常に数も多く、学芸員もしっかりしていて、私などはかなり「充実している」という印象を持ってきたのですが(したがってまたかなり専門的な博物館学といったものも、発展しているように思うのですが)、ロシアの博物館(学)は、ちょっと面白い考察の対象になる気がしますね。これは、一つにはボリシェヴィキの「大衆的プロパガンダ」という考え方にその源を持っているのではないかと想像しますが、特に歴史ものというのは、ともかく「評価」が一義的に明確でないと、そもそも展示できませんものね。資料を配置する問題とか、諸資料の関連性とかといった問題が必ず出てきますからね。その点で、旧ソヴェト歴史学が常に「公式の」歴史区分や「公式の」歴史的評価を持ってきたという―純学問的な観点からすれば、「悪しき」ということになりますが―特徴があるものですから、博物館(学)もその「枠組み」を所与のものとしていわば「安んじて」「専門化」することが可能となり、「技術的理性」が大いに発揮できたのではないでしょうか。

さて、僕はたまたまこのレニンスキエ・ゴルキへやってきて、ちょっと大袈裟に言えば、いい「歴史」の勉強になったように思いました。もちろん僕が言うのは博物館の展示物を見て、というのではありません。こういう事です。われわれが路線バスから下りた停留所の前には、それはそれは広大な、しかも全面アスファルトできちんと整備された駐車場が広がっています。私はモスクワでこんなに整備された駐車場はこれまで見たことがありませんし、向こうの端の人が小さく見えるほどに本当に広いんです。ところが、その日は土曜日で休日にもかかわらず、その駐車場に車一台も見えません。まったく一台も止まっていないのです。博物館も空間を一杯取った巨大な近代風の建物ですが、その中に響くのはわれわれ4人の足音だけ。レーニンの亡霊でも出てきそうな、そんな森閑とした状態です。係りのおばちゃんが一人、われわれの一歩前を行き、その個所ごとでリモコン・スイッチで照明をつけてまわります(何と「文明的」か!)。人のよさそうなおばちゃんでしたが、われわれが何を尋ねても、「二・ズナーユ」といって、照れ笑いを繰り返す、そんなおばちゃんでした。貴兄ならばさもありなんという、ご感想を述べられるでしょうね。

それからもう一つ。この公園の一角に、レーニン時代の人民委員会議(内閣)室とレーニンの書斎と書庫が移されていました。これは元々モスクワのクレムリンの中にあったもので、僕も昔クレムリン見学をしたとき見た記憶がありますが、そこのガイドが言うには、1995年にというわけですから、つい最近になってこの地に移されたということになります。昔はクレムリンの中ではこの「歴史的な」部屋も静かに遠くから眺めるだけだったという記憶が残っていますが、ここでは、会議室の机も椅子も手で触っても平気です。A君などは革命時の古参ボリシェヴィキ指導者達の写真も飾ってあるこの部屋に感激して、レーニンが占めた人民委員会議長席に座って写真を撮ろうとしたんですが、これだけはだめでした。写真を撮るのに、10ルーブリも払ったんですが、もう10ルーブリぐらい上乗せしておれば、A君の望みはかなっていたかもしれませんね。もう一つのレーニンの書庫については、私も10年以上も前にチャヤーノフを勉強していた頃、クレムリン内にあった彼の蔵書の中にレーニンが読んだチャヤーノフの本が5冊あるということが話題になったことを思い出して、本をあちこち眺めて見ましたが、時間がなくて残念ながら目的のものは見つけることはできませんでした。

それにしても、エリツィンも、完全に廃棄処分にできなかったのか、あえてしなかったのか、その辺りの事情はわかりませんが、いずれにせよクレムリンから「余計もの」となって追い出された、ロシア革命とレーニンの遺品の数々は、その行き先としては、モスクワ郊外の、人がまったく寄りつかなくなったこの場所が、むしろ打ってつけの所だったのかもしれません。いまではレニンスキエ・ゴルキは「歴史のごみ捨て場」に成り果てているのです。そこの中年男性の学芸員は、明晰なロシア語で、しかも張りのある声で説明するんですが、それがかえって「滑稽な」感じを与えるのです。他方、同行した若い日本人の友人達は、「陳腐な内容の説明をなんであんなに厳めしくするのか」と、むしろ怒っていたのが印象的です。

こうして一回りした後休憩することになりましたが、ちょうどこの日は、天気の悪い日がしばらく続いた後の一日で、高い白樺の木々の根元から空を仰ぐとさわやかな青空が広がり、白い雲が足早に流れるのがみえました。郊外の散策には打ってつけの日和です。A君の奥さんが作ってくれた弁当をほおばり、しばし歓談です。みんなここへやってきて、一体何を感じたのでしょうね。話題はこのさわやかな気候と白樺の木の話、日本にはこういう所はないね、といった、もっぱらここの自然の話ばかりです。「歴史」の話は一つも出ませんでした。

一台の車も止まっていないだだっ広い駐車場、人っ子一人入らないレーニン博物館、クレムリンから追い出されて行き場のなくなったレーニンの遺物、レーニン博物館では何も知らないガイドのおばちゃん、お堅い説明を繰り返すレーニン執務室の中年男性学芸員―レニンスキエ・ゴルキのこの「今の」姿を見て、ロシア革命後80年、栄華盛衰のロシア現代史の「歴史」を感じないわけにはいきませんでした。ちなみに、帰ってから見た最新版の「地球の歩き方」からもレニンスキエ・ゴルキの名前はやはり消えておりました。(正確には97年版には掲載されていますが、95年版には載っていません)

この話を書こうと思っていたら、ちょうどその翌日(7月17日)こちらのテレビで面白い番組を見ました。第1チャンネル、ロシア公共テレビ放送なのですが、その日サンクト・ペテルブルクでおこなわれた、ロマノフ王朝最後の皇帝、ニコライ二世とその家族の遺骸の埋葬式典を、2時間近くだったと思いますが、特別番組で放送しておりました。あとでも触れますが日本もこの問題とちょっとした関わりがありますから、日本でも報道されたのではないかと推測しますが、そちらの報道の仕方はどんなものだったでしょうか。

ニコライ二世とその家族は革命後にソヴェト権力の下部機関の手で、エカチェリンブルク(元のスベルドロフスク。エリツィンが中央に出てくる前に州の第一書記を勤めていたところというのも面白い)で銃殺され、その遺骸がペレストロイカ以後、いわゆる「歴史の見直し」の雰囲気の中で「新たに発見」されて、その遺骸は本物なのか、特にソ連邦解体後は、またそれをどう扱うかが、ロシア史の歴史認識の問題とも深く関わる問題として議論されてきました。その事は貴兄も多分ご存知のところかと思います。また埋葬をどの場所にすべきか、国家がその埋葬式にどう関わるかをめぐって、ちょっとした政治問題にもなり、ロシアの議会では国家はこれに関わるべきではないという決議もありましたし、次の大統領選の候補者の一人と言われているモスクワ市(モスクワ政府とこちらでは通常呼んでいますが)の市長ルシコーフは、例の再建されたモスクワの「救世主キリスト大聖堂」でおこなうべきだと主張して、サンクトペテルブルク市と綱引きをする、といったこともありました。さらに、この「スペクタクル」の登場人物として欠かせないロシア正教会が、この遺骨をニコライ二世のものと認めないという態度を取り続けていて、話を余計複雑なものにしていました。さきほどこの問題が日本ともちょっとした関係があるといいましたのは、これも周知のところですが、ニコライ二世は皇太子時代に日本で例の大津事件で傷を負い、その時彼が着ていた血痕のついた下着が日本に残されていて、数年前でしょうか、ロシアの学者がやってきて、かの発見された遺骸とこれとをDNA鑑定で照合実験するということがありました。これ自体によっては、しかと判明しませんでしたが、その後政府の調査委員会は、ほかの材料をつかって、この遺骸の一つが99・9パーセントニコライ二世のものであるという報告書を出したと、われわれは聞かされていました。貴兄も覚えておられるでしょう。だが、ロシア正教会がどうしてこの結論を認めないのか、そこのところはいま少し分かりません。まだ皇太子と四女の遺骸が発見されていないこともその理由に挙げているようですが。しかし、一番の焦点は、やはり国家元首であるエリツィンがこの埋葬式に参加するかどうかにありました。しかし、エリツィンは前日までこの問題に一切触れようとはしませんでした。

こうした議論や背景があったニコライ二世とその家族の遺骨の埋葬式が、彼らが銃殺されたこの日7月17日〔1918年〕を記して、サンクトペテルブルクのペテロパヴロフスカヤ要塞の一角にある大聖堂でおこなわれ、結局はエリツインも出席して、それがロシア公共テレビで特別番組として、全国に流されたというわけです。したがって、この儀式は事実上国家的行事となったわけです。エリツィンの出席については、後のプレス発表では「私人の資格で」(「人間として」とロシア語で表現されました)という、どこかで聞いたような理屈が付け加えられましたが。

ところで、エリツィンがこの式に参列することは、当然既に決めていたことに違いないのですが、この参加についてちょっとした演出がありました。記者発表では、前日になって「急遽」しかも、ドミートリー・リハチョフという「ロシアの良心」といわれる老学者と相談をして、その意見を聞いて大統領自身が「決断」したという説明がなされました。彼はなかなかの役者です。エリツィンは式場ではニコライ二世の棺に花輪をささげ、首を垂れました。そして、皇帝とその一家のことをさして、「これらの罪無き人々」を銃殺したのは「犯罪」であり、その遺骸を土の中に葬ることは、自分達の「先達」が犯した罪を贖う行為なのだ、と語りました。つまり、エリツィンの弔辞の意味は、罪はあげて「不法な権力」、ボリシェヴィキ政権の「不法な行為」(正式な「裁判」がなされなかった、というのがその理由です)にあるということを浮かび上がらせた上で、しかし事件は今となっては遠い昔のことだから(いまは「民主国家ロシア」になったのだからということでしょう)、ここは一つ政治問題としてではなく、遺骸を土に返すという人の道として当然の立場で対処しましょう、そしてそれを全国民が確認し合う形にしましょう―これがエリツィンの「弔辞」の大筋だといっていいでしょう。したがって、この式典全体のキーワードになったのが「パカヤーニエ」(悔悟)という言葉であり、またこのセレモニーを通じて、エリツィンは対内的にも対外的にも難題を抱え厳しい情勢に置かれているロシアの国民に向かって、「プリミレーニエ」(和解)を訴えたのです。ちなみに、「パカヤーニエ」も「プリミレーニエ」もロシア正教の宗教倫理につながる言葉です。当日は、ロマノフ家の末裔、90人が世界各地から集まり1913年以来はじめてロマノフ家につながる人々が一堂に会したということです。ちなみに1913年という年は、第一次世界大戦開始のすぐ1年前に当たりますが、ロマノフ王朝成立300年の年でもあり、戦争前夜のロシアナショナリズム高揚にも一定の寄与を果した事は、貴兄の良くご存知のところです。なお当日の出席者の中には、政治家の姿は少なく(有力政治家ではヤブリンスキーとレーベジが出ました)著名な文化人が並びました。先ほど述べたアカデミークでロシア文化論で名高いリハチョフと今世紀最大といわれるチェリスト、ロストポーヴィッチ、その妻でこれまた世界的に有名なソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤが、大統領の横に並び、テレビで大写しになりました。映画監督のニキータ・ミハルコフも参加したとのことです。この演出効果は抜群なものがありました。「ロシアの国民精神」を代表する老学者の言葉に「耳を傾けて」式の前日に「決断」した、というエリツィンの演出も見事にその意図を実現したように思われます。たとえば、政治家は大嫌いだといつも語っている、我が家のハジャイカも、遺骸を土に埋めるというのは人としての当然の道だと、私にその感想を語りました。おまけにレーニンも土に返すべきだとテレビの解説者もどきの解説を加えてくれました。

さてこの式典の意味は、いろいろな角度から考えることができますが、まず第一に、現在の政府権力がこれに与えた意義は明白です。ロシア革命以来ロシア社会にもたらされた敵味方の論理(これをロシアでは「内戦の論理」と呼び習わしています)を捨て、これを「プリミレーニエ」(「国民和解」)のシンボルにしたいということ、これでした。ちょっとうがった見方をすれば、この「国民全体のパカヤーニエ」という表現で、エリツィン自身が過去の自分の行為の「免罪」を図ることにうまく成功したともいえます。というのは、エリツィンの場合かつてソ連共産党スベルドローフ州の第一書記の時代に、この遺骨があった建物を取り壊す決定を下した「責任」が、今日までしばしばいわれ続けてきたという事情もあったからです。あるいは、93年のあのベールィ・ドーム攻撃による流血事件、政治的にはすでに決着がついている問題ですが、旧ソヴェト議会を実力を持って解体したこと自体には、(たとえその後憲法修正の国民投票で事後的に正当化したとは言え、)大統領エリツィンの側になお正統性の問題として、やや問題が残されていたわけですから、その問題の「倫理的な」免罪も、ひょっとしたら彼の念頭にあったかもしれません。いわば「国民総懺悔」ということで、彼の過去の個人的な「罪」も洗い流せるというわけです。現行ロシア憲法の上できわめて強力な大統領権限の規定を思い浮かべつつ、テレビでしばしば彼が政府閣僚や軍幹部達と接見する時のパフォーマンスを見ていますと、私などはさしずめエリツィンは現代ロシアの「立憲君主」にみえます(最近面白い論文を読みました。A. N. Meduwevskij の論文で、ロシアの立憲主義の歴史を、スペランスキー改革から現代エリツィンまで、ウェーバー流のmnimyj konstitucionalizm(外見的立憲制)の概念で描いてみせようというものです。関心があればぜひ読んでみてください。)脛に傷を持つ身では「人民投票的連邦大統領」(ウェーバー)にはなれても、権力に権威の花輪を冠するさらに安定した実権型の「立憲君主」にはかなわないからです。ですから、悪しき「過去」を洗い流し、―やや比喩的に表現すれば―自己の権力に更に光を添えるためには、エリツィンはあの式典に出ることは絶対に必要であった、と私は思います。

第二に、この式典のもう一人の影の主役はロシア正教会です。先にも述べましたが、ロシア正教会は、「科学的調査」に基づく結果が出ているにもかかわらず(とわれわれは信じていますが)、あの遺骸が皇帝のものだと今日まで認めていません。その理由付けはよく分かりませんが、そうした態度ですから、葬式の読経では必ず「故人」の名前をよぶことになっているのですが、礼拝を主宰したピョートルパブロフ寺院の主教は単に「エカチェリンブルクの遺骸」と呼び、ニコライ二世の名前は一切口にしませんでした。ロシア正教会を統率するモスクワ総主教アレクシー二世―世俗権力の長、エリツィン大統領に並ぶロシアの教権制権力の頂点に位置する存在です―は、ペテルブルクには行かずに、モスクワ郊外にあるセルギエフ・ポサードの寺院(昔の名前ではザゴールスクです)で祈祷をおこないました。ですから、正教会は表向きには私人の、とはいっても特別な私人ですが、魂を送る当然の勤めをしたのだということができます。正教会のこの問題に対する態度も今一つ分かりにくいのですが、いずれにせよ「パカヤーニエ」と「プリメレーニエ」はいずれもロシア正教が提供した用語ですから、前面に出なくても、ちゃんと自分の固有の役割は果たしたということができるかもしれません。

エリツィンが「私人」として参加したと言い、他方モスクワ総主教アレクシー二世が参加せず、弔いの儀式でもニコライ二世の名前を口にしなかったこと、ここには「政教分離」の建前を取らざるを得ない「民主国家」ロシア連邦の「現在」が表現されていると同時に、このある種の曖昧さを伴いながら、事実上の「公式参拝」を実現することによって、国民の「和解と統一」の根拠をこの「ラスト・エンペラー」ニコライ二世の埋葬式に求めたことは、間違いの無いところでしょう。

またこの儀式の国民の側での受け止め方ですが、新聞の論調などを見ていますと、正教会が従来の態度を堅持したことには、おおむね肯定的な評価を下していますし、エリツィンの行動や弔辞についても厳しい批判はあまり見られません。エンペラーは「ロシアのシンボル」だという、リハチョフのインタビューでの表現は、ロシアが「民主国家」になったのだという歴史認識の上に立脚した過去の歴史への投影ですが(歴史家ならば、こういう態度は取れないでしょうが)、そうした声が、安定を求めるロシア国民の今の心境には何がしかヒットするものがあるのかも知れません。リハチョフと話して「懸念」が払拭されたというエリツィンは(どんな懸念だったのかは、もちろん説明はなされませんでしたが)、これからますます「立憲君主」としての地位を強めていくように私には思われます。

さてこのセレモニーを全体としてどうとらえたらよいか。大きな問題だと思いますが、正直なところ私には今一つすっきりと描けません。そちらでの大方の捉え方はどうなのでしょうか。またロシアの近代政治史を専門にしている貴兄は、これをどう分析されますか。一度意見を聞かせていただきたいと思います。

外国人にはとても評判の悪い大統領をもっている国民でも、国内ではおそらく「安定した社会」と「誠実な権力」(これがいかにもロシア的ですが)を望んでいるに違いありませんから、少なくともその一つ、「安定」を表面上は少なくともこれまで保証してくれている権力が存在している間は、国民は、過去の悪しき遺産は、あるいは「非人道的なこと」はすべてボリシェヴィズムとその源であるレーニンのせいにしてしまえばいいわけで、今はみながみなヒューマニストと善人になったと思いたいわけです。今回のセレモニーは、ロシアの権力も国民もみんな「人の道」に戻ったのだ、とお互いに確認しあったというような、私にはある種奇妙な感じが残るものでした。だから一部で予想される評価、たとえばロシアに帝政復古への雰囲気があるという見方はちょっと違うと思います。

こうして、たまたまレニンスキエ・ゴールキのあの情景をみた、その直後にニコライ二世の国家的埋葬行事(「ロシアが最後の皇帝を埋葬した」と『ノーヴァヤ・イズヴェスチヤ』は書きました)があったものですから、否応なくロシアの「歴史と現在」ということを考えさせられました。そしてまた、それぞれかつての評価とは180度異なる対照的な「歴史評価」を見ることになりましたので、今日は少し貴兄の専門領域に触れる問題を書いてみました。私の見方はいかがなものでしょう。

またいつものように刺激的なお返事をお待ちします。

7月22日 モスクワにて   



スラブ研究センター・ニュースレター 78号(1999年7月)