スラ研の思い出(第4回)

外川継男(上智大学)    

1966年の夏には長くスラ研の事務全般を引き受けてこられた芳賀さんが退職されて、そのあと理学部に勤務していた秋月孝子さん(旧姓高橋さん)が来られて、ここにスラ研の図書部門はずいぶんと強化された。秋月さんは松原さんと高校・大学を通じての友達で、北大では西洋史を専攻され、鳥山さんの教え子でもあった。秋月さんはわれわれから「仕事の鬼」という渾名を頂戴したが、朝早くから夕方おそくまで図書の仕事全般を背負って、本当に熱心に働いておられた。今日スラ研の蔵書がわが国の多くの研究者に寄与しているとすれば、それは秋月さんの存在を抜きにしては考えられない。 

百瀬さんと出さんがスラ研に赴任される少し前に、札幌のアメリカン・センターから誰かアメリカのロシア関係の専門家を二、三ヵ月北大に招いて、学生に講義をしたり、研究者と討論したりしてもらってはどうか、費用は全額アメリカの国務省が持つからという話があった。そこで鳥山施設長と私は相談してプリンストン大学でロシア近代史を教えているブラック教授を候補にあげた。ブラック教授は近年『ロシア社会の変貌』や『共産主義と革命』などを編集したりして、そのなかで帝政ロシアの本質やロシアの近代化について数多くの論文を発表していた。このブラック教授に、鳥山教授は「エディター屋」という渾名をつけたが、それはこの人が少なからぬ本の編集者だったからであった。

思えばこれが後年スラ研に外国人研究者が短期・長期の研究で来るようになるはしりだったといえよう。当時はまだ北大には外国人教員用の宿舎といえば戦前からの語学教師の二、三軒しかななかったので、施設に頼んでようやく北24条の一戸建の家を借り受けた。ブラック一家の日常生活の世話は、当時短大生だったわたしの家内の妹が、英会話を勉強できるいいチャンスだからとボランティアのメードを買って出てくれた。

まもなくブラック教授は文系学生を対象とする講義を開始した。この講義にはアメリカン・センターの大江さんが毎回通訳をしてくれて、固有名詞とロシア史の専門用語が必要なときだけ私がお手伝いした。当時 GNP per capita という用語がまだ一般には普及しておらず、ブラックさんの講義に何度もでてくるこのことばを大江さんはいつも「ひとりアタマの国民総生産」と訳した。 

ブラック教授はこのような形でおこなわれた講義のあと試験をおこない、聴講した学生諸君は日本語で答案を書いた。その答案を私が英語に要約して、それにもとづいてブラック教授と鳥山教授が採点したが、不思議に二人の評価は一致していた。

このあと7月の夏の研究員会議の際に「近代化をめぐる」報告と討論がおこなわれたが、これには江口教授とブラック教授が報告し、私が前座をつとめた。このときの様子は『スラヴ研究』の10号(1965)に掲載されているが、ヨーロッパ諸国の近代化の過程がそれ以外の地域の近代化を阻止する要因となるという江口教授の指摘は、その後の日本における近代化=資本主義化とか、アメリカ帝国主義の先兵としての近代化論といった左翼の主張とは一味ちがった歴史学的内容を包含するものだった。またこのときブラック教授が1957年のソ連の GNP per capita が$600で、日本を上回っていると述べたのに対し、猪木教授が、いや今や日本はもっと多くなっていると反論したのが忘れられない。このときのブラック教授の結論は、近代化の社会的・経済的達成度という点では、世界 120ヵ国中、ソ連は第20位で、日本は第21位だと述べたが、今日ふりかえって思い出してみると、まったく昔日の感がある。

このあと百瀬さんはフィンランドに留学され、私も1966年の秋から翌年初夏までフランス政府給費留学生としてパリのスラヴ研究所に留学した。すくない研究員のなかから二人の同時留学を施設長の鳥山教授は快くみとめてくださったが、有り難いことだった。

1969年は大学紛争がピークに達した年で、北の北大は中央より約半年おくれて紛争が波及し、スラ研の占めていた法学部研究棟をはじめ文系の建物が学生によって占拠され、授業もおこなわれなくなった。この年の3月末にそれまで長年主任・施設長としてスラ研をリードしてこられた鳥山教授が文学部に去られ、スラ研は百瀬新施設長のもとであたかも「孤児」のような存在になった。このとき私は助手から助教授に昇進し、後任の助手のポストには佐野優子さんという北星大学の英文科を卒業されたばかりの人が事務助手として就任した。この方はスラ研を担当していた紀国屋書店の若い男性と結婚されて退職された。

スラ研に残ったわれわれ一同が「孤児」のように感じたのは、スラ研の親ともいうべき鳥山教授がいなくなったからだけではなかった。最初から法学部の教授会に出席してこなかったわれわれには、みるみる拡大する大学紛争のなかで、大学がどのように対処しているのか、各部局はいかなる対処をし、今後どのような見通しを立てているのかということが、まったくわからなかった。私はこの年の春から文学部の教養課程の西洋史を学内兼任講師として担当するようになったが、しばしば学生から吊し上げのかたちで、いったい大学当局はどう考えているのか詰問されたが、それにこたえることができなかった。そしてその理由を説明したが、「それではお前は北大教官ではないのか?」と問い詰められると、「いや自分は北大教官だが、法学部付属のスラブ研究施設の教官であり、しかもその施設と学部との関係は云々」と説明しても、そんなことが一、二年生に通じるはずはなく、逃げ口上としか受け取られなかった。

大学紛争はそれぞれの大学・部局にそれぞれ異なった影響を与えたが、北大の場合は紛争のヤマが中央より約半年遅れたところから、大体のコースが見通せていたということがいえる。しかし、当時の学長が北大内の左翼勢力から担がれていたところから、これに反発する反日共系学生のセクトの動きがかなり激しかった。紛争が拡大するなかで、これら反日共系の各派が次第にウチゲバをやるようになり、それが法学部と図書館の間の渡り廊下で武力闘争をおこなうようになった。このころが北大紛争のクライマックスで、やがて機動隊が導入されて法学部を占拠していたセクトが退去させられたあと、スラ研の占めていた研究棟の二階は水びたしとなって、多くの文献・資料が水をかぶった。紛争のあと、大学当局から紛失した図書などの「被害届け」を出すようにとの通達を受けたが、これが逮捕された学生に裁判のとき不利な証拠になると考えられたので、スラ研は被害届けは出さずにおいた。あとから聞いたところでは、このとき以前からの未整理の文献をまとめて被害にあったと届け出た部局もあったとのことであった。

大学紛争をどう見るか、そこから何を学んだかは各人各様だろうが、わたしは「人間というものはセクト的な存在である」ことを実感した。学生の分派もそうだったが、それに対処する大学側もさまざまなセクトに分かれて、一概に学生ばかり非難できないように思われたのである。逮捕された学生の裁判に際して、二人の北大教官が特別弁護人をかってでたり、法学部と教養部の二、三の教官が証人として大学執行部の対処の仕方を客観的に説明したが、これなどは全国的にみても異例なことであった。

ある日私は、自分が顧問をしていた落語研究会(オチケン)の一学生が拘置所から出した差し入れを依頼する手紙をもらった。この学生は裁判を傍聴していて、「裁判官横暴!」と何度も叫んだ。かれは「そこの某傍聴人、静粛にしなさい」と裁判長にいわれて、それでも止めなかったために、ついに監置されたのだった。わたしはいくばくかの金と石けんとタオルと一緒に、つい最近自分が訳したゲルツェンの『向う岸から』を持って苗穂の札幌拘置所におこなった。

新たに施設長になった百瀬さんを中心にしてわれわれがまずはじめにやったことは、スラ研と法学部ないし北大当局との関係を整備することであった。その結果、施設長は法学部の教授会において審議事項がおわったあと、報告事項に入った段階で、教授会を傍聴すことになった。最初は施設長が学部長のところに定期的におこなって、そこで部局長連絡会議や評議会のことを聞いて、メモをとり、スラ研に帰って報告していた。しかし、これは法学部長にとっても時間と手間のかかることだし、細かい内容は伝えられないので、法学部長の方からこのような傍聴の申し出があったのだった。法学部の教授会ではかなり詳しく大学全体の動きが報告されるので、われわれはこれ以後ようやく大学の紛争処理の方針や、それにたいする法学部の対処の仕方を知ることができるようになった。

つぎにスラ研が形式的には法学部に付属するものの、実際には北大文系四学部の共同研究施設であり、さらに小規模ながら全国共同利用施設であるところから、われわれは一日もはやく独立した研究機関となるように、文系各学部の理解と協力を得るように努力しようということがきまった。百瀬さんは施設長として初めて文系四学部長会議に出席して、スラ研のこの意図を説明し、好意的な了解を得ることができた。しかし、これができたのはそれまでのスラ研の実績があったからで、さらに鳥山・百瀬両施設長が政治的にまったく偏向することのない、信頼できる研究者だということが背景としてあった。

百瀬施設長の二年目の夏に、それまで学外研究員だった猪木教授が京大を去って防衛大学校の校長に就任した。このとき北大の日共系の学生・院生がスラ研に対してただちに猪木教授を罷免するようにという運動をはじめた。これを受けてわれわれは協議をかさねた結果、猪木教授離任の旨を施設長名で発表した。すなわち猪木教授は京都大学から防衛大学校に移った段階で、北大スラブ研究センタ−の研究員のポストから離れたということを文書にして張り出したのであった。これによって、勢いこんだ罷免要求運動は機先を制せられて、立ち消えになった。最近わたしはこの「離任」ということばを松田潤助手がスラ研を辞めたときの「ニューズ・レター」で見い出し、いささかの感慨をおぼえた。



スラブ研究センター・ニュースレター 78号(1999年7月)