スラ研の思い出(第5回)

外川継男(上智大学)

鳥山さんが文学部に移られたのは、それ以前から「藤井事件」でもめていた文学部が大学紛争に入ってますます多くの処理しなくてはならない案件を抱えるようになった上に、さらに鳥山さんの古巣の西洋史学科では、板倉さんや成瀬さんが東京に去ったあと講座主任が欠けて、是非もどってくるようにと懇望されたからであった。文学部に移られてから鳥山さんはすぐに学部長事務取り扱いに選任されたが、このころ文学部では正式の教授会で学部長を選出することもできなくて、変則的な事務取り扱いしか置くことができなかった。 

鳥山さんのあと、北大に赴任して五年しかならない百瀬さんが助教授で施設長に選ばれたときは、大学紛争をはさんでスラ研にとっても北大全体にとっても、まことに多事多難な時代であった。

百瀬施設長の在任期間(1969〜1971)にスラ研では「制度改革の件」と「施設運営に関する申し合わせ」のふたつの文書がまとめられたが、これは大学紛争をひとつの契機にして、それまで慣例として行なわれてきたことを再点検した上で、不合理な点は是正し、さらにスラ研の今後の発展に備えようという意図から生まれたのであった。当時はどこの学部も研究所もいつも会議を開いている感じだったが、スラ研も百瀬さんを中心に今後研究所として独立するにはどうすればよいかをめぐって、四人の専任教官がしょっちゅう話し合っていた。

しかし、スラ研の場合、いちばん基本的な問題は、制度的には法学部付属でありながら、法学部の必要から生まれた機関ではなく、すでに学内にできていた小さな研究機関を制度化するに際して、研究所の規模に達しないものは、いずれかの学部か研究所に附置されなければならないという国立大学の制度上の制約から、法学部にむりに頼んで付属施設にしてもらったということからきていた。その次の問題は、スラ研が小なりといえ、事実上北大内の文系四学部の教官のみか、北大外の教官をも研究員に擁して、これらの研究員の参加する年二回の研究員会議で、予算・人事などすべて基本的なことが審議・決定されるという、制度上から言ってはなはだ変則的な存在だったことに由来していた。もちろん立前としては、施設長の上に法学部長がいて、スラ研の研究員会議で決まったことは議事録としてまとめられ、各研究員の捺印を得た上で法学部長に提出され、法学部所属の研究員が法学部教授会で報告し、教授会の了承をとりつけた上で、法学部長の決済となることになっていた(本稿第2回参照)。しかし、文部省にたいする概算要求など、もっとも根本的な問題で法学部とスラ研の利害が対立することがある。どこの学部も要求順位という点では以前からの計画や行き掛かりがあって、きびしい教授会の議論をへた上で学部長が学部の要求として学長に提出する。法学部には法学部独自の要求順位があるから、ここで付属研究施設であるスラ研の要求とどちらを優先させるかという問題が生ずる。そこで、法学部とスラ研に関しては、別々の部局としての扱いを学長、事務局長、経理部長などにみとめてもらわなければならないが、これは長年の慣行を打ち破ることになり、当時は至難のことがらであった。またこれは学内の他の部局から見れば、虫のいい要求ともとられかねないところだった。ここにおいてわれわれは、このような慣行を打破するには、まず第一に文系四学部の学部長と教官に、スラ研の特殊性と存在意義とを十分に理解してもらわなければならない、ということを再認識した。

ペケレット湖畔にて 百瀬 外川
秋月 佐野 出
文部省や大学本部の事務官に関していえば、当時スラ研の存在はほとんど知られていなかった。三、四年の任期で文部省から送られてくる部局長にしてみれば、学部付属の小さな研究施設のことなど、とるにたりない存在だったに違いない。このころ文部官僚がなにより警戒していたのは、教職員組合と学生組織の動向であり、共産党との関係であった。敏腕で聞こえた若手の庶務課長は、組合と渡り合って一段と名をあげ、のちに文部省の局長を退職後、自民党の参議院議員になった。

あとから聞いたところだが、そのころ文部省ではスラ研をもって「赤の巣」と見ていたという。いまからみれば驚くというより呆れるような誤解だが、当時はロシア・ソ連といえば共産主義の本拠で、その研究をしているというからには、当然共産党となんらかの関係があるだろうと、単純に見られていたらしい。これは紛争当時の学長がかなりはっきりした左寄りの人だったこととも関係があるかも知れない。また本部の事務官には「スラ研」がいったいなにをするところかがまったく知られておらず、それがロシアをはじめとする「スラブ民族」の研究をする地域研究機関で、このようなところはアメリカには少なくないが、日本には北大にあるだけだということから説明をする必要があった。

しかし、その後の経過をいまふりかえって見ると、われわれが大学のふるいしきたりや慣行をよく知らないドン・キホーテであったことと、大学紛争後の全国的な大学改革の気運に居合わせたこととが、結果的にはプラスになったように思われる。

このようにして、独立するためにはスラ研が文部省の担当官や、北大の事務局長や経理部長、主計課長など予算担当の事務官によく知られるようになること、法学部との関係をいままで以上によくすること、とくに法学部の事務長はじめ会計・庶務係長などとの連絡をよくすることが不可欠だということが次第に実感としてわかってきた。

それまでスラ研の施設長は法学部事務官・技官の忘年会や歓送迎会に出席したことがなかった。ただ一度、どうしてだかわたしが助手になった年に、法学部の事務長と四係長を招待する形でクラーク会館の和室で、鳥山施設長、豊田事務長とわたしとで接待したことがあった。しかし紛争があったりして、いつしかこのような事務との懇親の機会は消失してしまった。それが紛争後、施設長も出席することが慣例になり、それからは法学部事務との関係もスムーズに行くようになった。この点では学部長や事務長の人柄がおおいに関係してくるが、石川、小暮といった歴代の法学部長がスラ研に好意的だったことがずいぶんプラスになった。さらに事務長についていえば、わたしが助手になったころ法学部の会計係長だった今田末吉さんが、紛争後法学部の事務長になってきて、施設からセンターへの改組・拡充に際して、じつによくやってくれたことを忘れてはならないだろう。

北大の場合、学部や研究所の事務長は現地採用の職員のトップの地位であって、仕事熱心で、有能な人が少なくなかった。また事務官のなかには教官以上に北大パトリオットとでもいうべき人がいて、自分の職場である北大を誇りにしている人がいた。さらに三、四人いた用務員さんたちは、いずれも閉山になった炭鉱の離職者で、大工仕事でも雪掻きでもなんでもこなしていた。懇親会はこれらの人たちと親しくなるよい機会であった。

北大内外の研究者の糾合ということに関しては、まず百瀬施設長の二年目の1975年5月に「北海道スラブ研究会」が発足したことが特筆されなければならない。北大の文系四学部(教養部所属の教員も制度上は文学部・法学部等の各学部に所属していた)には、ロシア・ソ連・東欧を専門とする教官が二十人近くいた。これは全国の国立大学のなかでも抜きんでて多かった。このほか新設の札幌大学外国語学部にはロシア語科があり、北海道教育大学札幌分校、小樽商大、北海学園大学、札幌学園大学などを含めると、かなりの数のスラヴ・東欧地域を研究対象とする研究者がいた。大学紛争後、これらの人々に正式にスラ研のメンバーになってもらえないかといろいろ検討してみたが、「非常勤講師手当て」と「講師等旅費」の枠の問題がネックになって解決はなかなか難しかった。そこでスラ研が呼び掛け人になって、北海道の各地のスラヴ研究者を糾合した「北海道スラヴ研究会」という官製によらぬ研究組織を作り、月例研究会を中心にして、研究活動を開始した。そのころの反権威主義の風潮もあって、この会には理事とか評議員とかを置かず、「世話役」数人を選んで、連絡・会計などの実務にあたり、その代表を「世話役代表」とした。この「北海道スラヴ研究会」はいまでもつづいているが、これからはたぶん大学院生の研究発表の場としての役割が大きくなるかも知れない。この研究会のよさは、学部単位の研究会と違って、さまざまなディシプリンの研究者が出席して、いろいろ多様な角度から質問やコメントが出ることであった。最近の傾向として、ロシア・東欧の地域研究の分野でも、ますます細かい研究発表が多くなり、それが評価されるようになってきているが、いかに細かい問題を扱っても、それと全体との関係がどこかになければ、学問−とりわけ地域研究としては偏ったものになってしまうだろう。

教育活動の面については、それまではスラ研の専任教官には教育義務がないところから、他の学部から頼まれれば、学内非常勤講師として授業を担当するという程度であった。鳥山教授は文学部からスラ研の専任になっても、依然として文学部でロシア史の講義を担当していたが、スラ研でも全専任教員が文系四学部の共通カリキュラムとして「スラヴ地域特殊講義」とでもいったものを開講することができないだろうか、ということが検討された。しかし、従来の慣例からしてこのような講義を開くことは上でなかなか困難で、せいぜいできることは、スラ研が法学部に付属しているところから、法学部教授会の了承を得て、法学部の学生に半年(2単位)ないし通年(4単位)の講義を行い、それを他学部の学生にも聴講してもらい、単位として認定してもらうことになった。 

百瀬施設長の二年目の1970年の春に、スラ研は有力な新人を迎えた。政治分野の兼任研究員だった猪木教授の弟子で、コロンビア大学で学位をとり、神戸学院大学に勤務していた木村汎氏が政治部門の助教授として赴任した。このポストは助手ポストを振り替えてつくったもので、これ以後スラ研は法学部とのあいだで、ポストを借りたり(伊東助教授のとき)、助手・助教授ポストの教授ポストへの振り替え(センター昇格のとき)など、なんどもウルトラCのやりくりをするようになった。

まだ独身で、33〜34歳だった木村さんを、われわれは日本航空のバス・ターミナルに迎えに行った。4月というのに厚手の黒の外套を着た木村さんは、年よりだいぶ老けて見えた。木村さんはしばらくはクラーク会館に部屋を借りて、もっぱら研究室を生活の場にも使っていたが、やがて良縁をえて、豊平河畔の新しいマンションに新所帯をもつようになった。木村さんの結婚式は京都駅前にできたばかりのタワー・ホテルで行なわれ、猪木教授夫妻が媒酌人をつとめた。このときスラ研を代表して百瀬さんが挨拶され、「いままで夜おそくまで研究室に明かりがついているのをみると、早くよい伴侶を得られるようにと願わずにはいられれなかったが、これからは暖かい家庭で落ち着いてお仕事をされることでしょう」と言った。

猪木さんは京都大学の「東南アジア研究センター」の設立や運営にも関係していたので、スラ研の会議のあとで、カーネギー財団の資金援助などをめぐって、京大の左翼系の学生と教職員の反対運動について解説してくれた。このことからわれわれは新しいセンター設立に際しては、なによりも政治的に偏向せず、アカデミックな立場を貫かねばという気持ちが一層つよくなった。


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