新たなバベルの塔

リュー・クイリ(中国社会科学院少数民族文学研究所 /センター外国人研究員として滞在中)

 「次の号に何か書くように」とセンター・ニュースの責任編集者の方が私のところに来たとき、私は何について書き、また何から始めようかと長い間考えました。実際のところ、北海道大学の図書館はスラブ研究者にとって十分によい場所であり、また天ぷらも寿司も非常においしいものでした。誰にも何についても不満はなかったし、それ以上に全くもって感謝しています。
 とりわけスラブ研究センターの学者に代表される、日本におけるスラブ研究の学会の高い水準や、当地の、研究に適した条件には非常に強い印象を持ちました。ですがこれら全ては前もって予想出来たことであり、私もこれについてある程度は以前から知っていました。
 しかし、私をひどく驚かせ、思いもかけておらず、また札幌行きの準備の際には全く考えていなかったこと − それはセンターの雰囲気でした。私たちが通常、無愛想に官僚的に「生活環境」と呼んでいるものです。
 この表現で私が何を言おうとしているか、わかりますか? これは集団におけるお互いの感覚であり、お互いの評価であり、お互いの結びつきなのです。またこれはあなたの心の底にある他人のための場所であり、同時に他人の心の中にあるあなたのための場所でもあるのです。またこれはムードと言ってもいいでしょう。働く時の雰囲気であり、また仕事を始めたり家路につく際の雰囲気でした。気配りのせいで、これら全ては淡く、地味に現れていますが、これはどんな人にとっても、花の香り、春の鳥の鳴き声、雨の後の虹のように重要なのです。人は緊要の課題のみで、すなわち「パンのみで」生きるのではなく、雰囲気や希望、生活の喜び、自分の仕事への愛着でも生きているのです。
 私たち新来者は、脇から注意深く観察しています。日本の私たち同僚の僅かに明らかな微笑みの向こうに、彼らの軽快な足取りの向こうに、互いへの注意深い眼差しの向こうに、研究における彼らの熱意や意欲の向こうに、自分の生活や活動における大きなパトスや、同僚や集団に対する尊敬が秘められているのです。これこそが好ましい雰囲気なのであり、こうした実り豊かなライトモチーフに私たちも染まっているのです。
 招聘された外国人研究者として、我々は当初、4人でした。アメリカのシンシアとロバート、ブルガリアのカーチャと私でした。次いで時期はばらばらですが、イザベル(アメリカ)、イーゴリ(ロシア)、ポールとその奥さん(イスラエル)、ヴァレリー(ドイツ)が加わりました。各々がそれぞれの専門分野、具体的テーマ、言語、そしてもちろん特徴ある人たちでした。私たちは面白半分に私たちの集団を「国際部隊」と呼んでいます。
 最初の頃、こうした場合によくあるように、わたしたちは幾らか違和感を感じていました。デリケートに、そして遠慮がちに互いに応対していました。ですがすぐに、スラ研の指導部によって組織された歓迎セレモニー及び「自然のローン」での夕食会で、私たちはセンターの人たちと親密になることが出来ました。
 私たちが来てから最初の日曜日に、日本人の教授陣が私たちを恒例の踊りの祭(編者注:年々盛大に催されるようになったヨサコイ・ソーラン祭り)に連れていってくれました。なんと見事な光景だったことか。通りに出ていたのは、数百の自主的なダンス・グループでした。あらゆる参加者は、老人から子供まで、完全にこの盛大な祭りの行列に夢中になり、あたかも魔法にかかったかのように全てを忘れ、集団の民族舞踊に完全に引き込まれ、この親しい、ダイナミックなダンスに酔いしれました。私はこの熱狂や意気揚々とした雰囲気、集団の無我夢中の力にぼう然としました。涙が止まらないほど、強く感動しました。あたかも精神的にこの行列や祭りの参加者 − 浅黒い老若の農民や漁師、地方の住民たちと一体になったようでした。北海道はこれで私の共感を勝ち取ったのでした。
 二日後に、シンシアとロバートの二人が私たちを歌謡コンサートに招いてくれ、また食事に呼んでくれました。センターと関係するロシアの教授陣も領事館でのコンサートやハイキングに親切にも誘ってくれました。これら全てが私たち「国際部隊」を更に強く団結させました。
 国際部隊の面々:後列左からカーチャ、キャロル、イザベル、ロバート、
 シンシア;前列左から美鈴(筆者の夫人)、イーゴリ、筆者、パウル

 この最初のパーティーのときに私たちは非常に遅くまで居座ったことを覚えています。夜中の12時になって、強い雨の中、私たちは隣人のイザベルとともに徒歩でやっと家までたどり着きました。私たちは遠くに住んでいて、道を知らず、知っていたのは私たちのアパートの隣が病院であったことだけでした。タクシーはなく、歩行者も稀でした。辛うじてカップルをつかまえ、道を訊ねようとしました。彼らは英語も中国語も知らず、また私たちも日本語を知りませんでした。疲れていて、濡れていた私たちはどう説明してよいのかわかりませんでした。私たちは一つの言葉−病院−だけを繰り返していました。彼らは私たちの言うことがわからなかったようなので、私たちは繰り返しました。「ビヨウイン」と。彼らは傘の下で半分驚いて、また半分嘲笑した目でこの年配のアメリカ人女性と中国人男性を見ていました。その後やっと、私たちは病院ではなく、「美容院はどこですか」と熱心に叫んでいたことが明らかになりました。それでも結局最後には、彼らは、私たちが病院を探していることを理解し、道を親切に教えてくれました。このときから私は決心しました。道を訊ねることが出来るように、日本語を学ぶ必要があると。
 最初の夜会以降、三、四週毎に一度、日曜日の夕方に、私たちは決まって様々な人のところへお邪魔しました。私たちは今、お互いに、堅苦しい人間関係の垣根を既に越え、本当の友人として関わりあっています。私たち全員が、カーチャが長い間送られてきた本を受け取ることが出来なかったときに、彼女のことを気遣いました。イーゴリが親類を亡くしたときには、私たちはひどく心配しました。私たちは仲間の成功を喜びました。出張にいくと私たちは、喜んで土産話を持ち帰りました。私たちはまた、あれこれの諸問題をしばしば討議しました。それは文明と文化との差異についてであったり、国民の定義であったり。帰国する仲間と別れるときには深く悲しみました。私たちは共感しあっていたのです。
 日本の教授陣がどれ程、気遣って愛とともに私たちに応対してくださったのか、もう言う必要はないでしょう。彼ら全員が、自分の研究に打ち込んでいるのです。それはしばしば夜遅くや日の出まで仕事をしているほどでした。それにも拘わらず、彼らは私たちに十分に多くの時間を割いてくれています。食事に招いていただいたり、エクスカーションを企画してくださったり、出張の計画において助けていただいたり、研究している学問的問題に関して助言をいただいたり。
 スラブ研究センターは様々な国から有名な専門家 − スラブ学者を講演のために定期的に招致しています。ここセンターでは、まさに一流の、そしてローカルではなくグローバルな重要性を持った、スラブ学の会議が形成されていました。センターの学問的スタッフはスラブ学の発展において、また諸国の学者同士の迅速な協力において、多大な貢献をしています。
 人間の仕事が専ら人々の幸福、あらゆる民族の調和的友好的共存のためにあり、岐路や対立、一方の他方への従属のためでないのであれば、どれほどよいことでしょうか。そのときバベルの塔はすでに事を最後まで成し遂げることが出来ないというシンボルや不協和音のシンボルであることをやめるでしょう。そして大勝利のシンボル、調和的な声のシンボル、地上における楽園の営みを築く際の、成功した、実り豊かな団結のシンボルになるのです。

(ロシア語から宮野裕訳、村上監修)
 

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