スラ研の思い出(第6回)

外川継男(上智大学)

 制度上のことについて少し勉強しはじめると、当初めざしていた「研究所」としての独立というのは困難というより、不可能であることがわかった。文部省は原則として新たに研究所はつくらない方針で、学術会議が決議した新設の研究所が数多く店晒しになっていた。小規模な研究所としては、九州大学に「石炭研究資料研究所」というのがあって、これは独立した事務機構をもっていたが、国の石炭振興政策の一環として例外的にできたもので、国立大学の研究所は、大なり小なり、いずれもそのときどきの国家の政策と結びついてできたものだということがわかった。そこで唯一モデルになり得るのは、スラ研よりあとでできた京大の「東南アジア研究センター」であるが、これは京大の学長をはじめ、かなりの部局が積極的に後押しをし、しかも農学部や理学部など自然科学系まで含むものであった。その後いくつかの大学にセンターと称するものができたが、それらは「東南アジア研究センター」をのぞいて、いずれも独自の事務組織はもっておらず、文部省は共同利用施設である「大型計算機センター」をのぞいて、独立した事務組織は認めないということもわかってきた。  木村さんが赴任した翌年、百瀬さんが二年間の施設長の任期を終えられた1971(昭和46)の4月からわたしが施設長をつとめることになった。本来ならこの年教授に昇格した百瀬さんが継続されるはずであったが、かねてからご家庭の事情から東京へ帰られることを希望されていて、いつ割愛願い(これも昔からもちいられてきた用語で、他大学へ転勤になるときは同じ国立大学はもとより私立大学へ移るときでも、この「願い」が求められ、それにもとづいて教授会で転勤あるいは辞任が承認されるのが慣例だった)が来るかもわからない情況だったので、一期をもって施設長を辞任したのだった。このときのスラ研の専任教官は、百瀬教授、山本・木村・外川の三人の助教授、研究助手の出さん、事務助手の佐野さんの計5人、そして事務は図書の秋月さんと、それにこの年から大垣さんに代わって会計専門の佐藤安一さんがきて、経理の面は法学部会計と連絡を保ちつつ、新米の施設長ともどもだんだんと会計の仕組みや制度をおぼえていった。  学外兼任研究員には、この年から江口さんの後任に神戸大学の木戸さんが国際関係部門に、また学内兼任研究員として茨城大学から北大経済学部に赴任してきた日南田さんが経済部門に加わった。

 
 佐野さんの結婚式で:右から百瀬、出(後ろ向き)、
 秋月(後ろ向き)、外川、木村
 翌1972年にはベルリン自由大学に留学中の伊東孝之さんが助教授として赴任し、結婚されて退職した佐野さんの後任に北大文学部を出たばかりの坪谷七魚子さんが就任した。この伊東さんのポストは翌年北大を辞任されて、東京の私大に移ることが決まっていた百瀬さんの後任人事を先取りしたものだった。百瀬さんのあとは同じ国際関係部門の人をということがきまっていたが、この年からこの部門の学外兼任研究員となった斎藤孝さんが江口さんの意見を聞いた上で、伊東さんを推薦したのだった。この年には出さんが助手から助教授に昇進し、伊東さんはそのあとの助手のポストにつくはずであった。しかし、法学部の場合、大学院の博士過程を終えた30歳くらいの人は助教授で赴任するのが普通であるところから、わたしが法学部長と話し合って、法学部の国際政治の講義を担当することを条件に、助教授のポストを借用したのだった。伊東さんの奥さんは当時関西に実家に住んで、生まれて間もないお子さんの養育をされていたが、わたしはベルリンの伊東さんとの連絡が確実とはいえなかったところから、奥さんにもお手紙を書いて事情を説明した。  百瀬さんが在任中のスラ研の研究活動として、文部省の特定研究への参加があげられよう。これは林健太郎・東大学長を代表に、東工大の永井陽之助教授、東外大の中嶋嶺雄助教授らを事務局にした、それまでにない大がかりな国際政治・国際関係のプロジェクトであった。これには日本中の大学からそれぞれの地域の「国際環境」を専門にする人が加わっていたが、スラ研は矢田教授を代表に、百瀬さんが事務局長になって、ソ連・東欧地域を分担する形で参加した。神戸大学の木戸さんや学習院大学の斎藤さんがスラ研の研究員になってもらったことも、この研究プロジェクトの一環であった。このプロジェクトでスラ研の図書購入予算はかなり増えた。さらに外国出張旅費もとれて、専任以外にも矢田教授と日南田教授が外国出張することができた。  この特定研究に参加したことで、スラ研は多くの他大学の研究者にその存在が知られるようになっただけでなく、懇親会の席で当時文部省の学術国際局長だったK氏と親しく話をするようになったことが、のちの改組・拡充の上でたいへんプラスになった。その後次官になったこの人は京大法学部の出身で、痩せて神経質な、まったくお酒を飲めない人だった。この人はたまたま現在わたしが住んでいる家の近くに住んでいて、たまにバスで一緒になることがあり、席が隣り合ったすると昔の話をすることがある。さきごろ中・近東問題がうるさくなって新聞を賑わせたころ、K氏はその昔、東大にこの地域の研究所をつくるという考えがあったのですが、どうも人がいなくてと、ことばを濁した。  さらにこのころ大学課長だったO氏も京大法学部出身で、木戸さんと同期だった。わたしは木村さんを通じて猪木さんの線から、わたしのほうは林健太郎さんを通じて、文部省の幹部にスラ研をアピールするように働きかけた。木戸さんもクラス会の折りなどに、O氏に自分が北大スラ研の研究員であり、スラ研のことをよろしくたのむと言ってくれた。
 前列右より:加藤、一人おいて外川、丹羽、尾上、気賀、
 安平、藤田、松下、一人おいて辻村
 施設長になってまもなく、ある日わたしは慶応大学の気賀健三さんから手紙をいただいた。そこにはソ連・東欧の研究者の学会を作りたいので、今度上京するときにはぜひ時間を作って会ってもらいたい、とあった。まもなく上京したわたしは昔住んでいた東横線の学芸大学の駅まで気賀さんに迎えに来てもらい、ご子息の運転する車でご自宅にうかがった。気賀さんは外務省の外廓団体である欧ア協会に関係し、反ソ的な色彩がかなり明瞭な立場の人だった。このとき気賀さんはソ連・東欧研究の学会を作りたいのだが、ついては日本でただひとつのこの地域の研究機関である北大のスラ研に参加していただき、わたしにも設立準備委員となってもらいたいとのことであった。  このころ気賀さんは慶応の経済学部長で、「ソ連・東欧学会」の設立準備の会議はそこの会議室で行なわれた。スラ研関係では歴史の岩間教授が出席していたが、岩間さんも一時外務省に勤務していたことがあったと聞いていた。このほか都立大の安平さん、東大の辻村さん、京大の勝田さん、京産大の丹羽さん、神戸大の松下さんなどがいて、事務局は有能な加藤寛さんが取り仕切っていた。たぶんいちばんの年長は戦前ハルピン学院で教えていた神戸学院大の尾上さんだったろう。  わたしはこの「ソ連・東欧学会」にいわばスラ研のエクス・オフィシオの理事として参加したが、会員の多くはソビエト経済や政治の専門家で、文学や歴史の人はほとんどいなかった。ソルジェニーツィンの専門家の木村浩さんなど、ロシア文学専門の人はすこし場違いな存在に見えた。わたし自身も最初から違和感を感じていたが、スラ研のことを中央にアピールするためにも、この際できるだけ協力するのがいいだろうと考えてのことだった。数年後、この学会の全国大会を北大で開催したとき、わたしは事務局長をつとめたが、このときにはすでにスラ研はセンターへ昇格していて、わたしはこれで「ソ連・東欧学会」における自分の役割は終わったと思った。  


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