エッセイ

ロシアの剣道事情と日露関係

溝端佐登史(京都大学)

1999年11月11日付けのロシア紙『モスコフスキー・コムソモレッツ』はモスクワで寒さから184名の凍傷者(うち13人死亡)がでたことを報じました。99年11月は急に寒くなり、雪も10-15センチほど積もりました。そんな時期にモスクワに滞在していました私が剣道に関わることになりました。
実は、私は大学時代(大阪外国語大学)に剣道部に所属していました。もう25年ほど前のお話です。大阪外大と東京外大の間には毎年秋に定期戦があります。すべての体育会系のサークルが競うもので、年間の体育会の1大イベントと申し上げてもいいでしょう。そうした関係から、東京外大の選手とも親しくなり、私のほぼ同級生にあたる友人もたくさんできたのですが、卒業してしまうとなかなか再会できないものです。そんな友人の一人とふとした経緯でほぼ25年ぶりに連絡をとることができました。彼とモスクワに来る時には剣道をと話していたのですが、99年10-12月のモスクワ滞在期間中にその機会に恵まれました。剣道をとおしてモスクワ、ロシアを知り、剣道をとおして友人を再発見できたようです。
モスクワで旧友に会ったことを契機に、「第2回全ロシア剣道選手権大会」をお手伝いすることになりました。審判が主要な仕事ですが、日本の全剣連から専門の先生方が総勢4名でおいでになりましたので、むしろ私が先生方から直接に学ぶ機会になったようにも思っています。それでも、副審を現地ボランティアでということになり、審判団に加えていただきました。

第2回全ロシア剣道選手権大会のもよう

ロシアで剣道が始まったのは、1922年に日本に生まれ剣道を学び、1960年代末にソ連にもどったV.ヤヌシェフスキー先生(4段、日本語教員)がモスクワ大学で学生に教えたことが最初だと言われます。このときには、学生は剣道の礼に欠かせない「そんきょ」(つま先立ちで深く腰を下ろし膝を開いて状態を正した姿勢―『広辞苑』)もできなかったそうです。それよりも、剣道そのものが禁止の対象になりました。剣道が日本軍国主義の象徴であり、さらに日本礼賛の行為だとして、KGBが剣道の普及を禁じ、圧力をかけたからです。しかし、ヤヌシェフスキー先生の周囲で剣道に関心をもち実際に剣道にたずさわる人が「地下で」増え、約10年前になってようやく日本の商社が二つの防具を寄贈してそれを基礎にしてモスクワ大学で剣道が再開されたそうです。ヤヌシェフスキー先生は昨年亡くなられましたが、先生の奥様は「1杯のかけそばではありませんが、大変な道のりでした」とこの間の過程を述懐しておられました。当事者の財政的負担も並々ならぬものだったでしょうし、協力した日本の方々のご負担も相当なものと推察致します。そのかいがあって、モスクワ駐在の日本の方々との協力で剣道が普及し、現在のロシアの剣道人口は170名になるそうです。1998年に第1回全ロシア剣道選手権が行われ、1999年11月13-14日が第2回目となったわけです。
もっとも、今回の大会も簡単なものではなく、関係者の準備、働きかけは相当なものであったようです。剣道では国際協力にならないし、文化協力にもならないと見なされたのかもしれません。実際には、大会は橋本龍太郎杯と冠をつけ(当日は大きなロシア語の横断幕が張り出されました)、橋本前総理がモスクワに稽古をかねて文化交流をするということで青年交流の一環として今回の大会が成ったと聞いております。剣道を愛する私としては、経緯はともかくも橋本前総理の訪ロに感謝しております。
さて、今回の大会(赤軍中央体育館)には13都市から、およそ60名が参加し、賑やかな大会となりました。1日目に団体戦(3人によるチーム戦)があり、2日目に男子個人戦、女子個人戦と昇級・段審査があります。さらに、11月16日にはモスクワ国立国際関係大学で橋本前総理を招いた稽古がありました。昨年の大会ではすべてにわたってモスクワが優勝したそうです。ひとことで言えば、経済格差と同じように地域間の剣道の実力格差が相当大きいわけです。練習相手、防具や竹刀などの調達、日本人との接触機会、どれひとつをとってもモスクワに勝る地域はないのです。
今年の結果の方ですが、男女の個人戦はモスクワの選手が優勝しました。男子の優勝者(アンドレイ)の見事な小手が目に焼き付いています。また、団体戦はノヴォシビルスク・チームが勝ちました(2位モスクワ、3位ニジニノヴゴロド)。剣道のロシア全域への普及という意味では、地方都市のチームが優勝したことに大きな意義をもつ大会になったようです。経済・政治では地方の自立した行動が目立ちますが、剣道でも地方の活性化が確実に強まっているようです。大阪外大の剣道部の後輩が2000年春からノヴォシビルスクに留学しており、かれから剣道だよりが届きますので,この地方での意気込みはなお持続していることは間違いありません。そして、勝利チーム、モスクワの有力選手を軸にして、2000年に開かれる世界選手権への代表チームが編成され、過日同チームが練習のため訪日したと聞いております。市場のグローバル化が叫ばれますが、剣道に見られるように文化交流のグローバル化もまた確実に進んでいると言えましょう。
かれらの実力は最高の段位が3段で、日本の高校から大学の水準と考えていいでしょう。さらに、中・下位の選手の水準は中学水準とみていいと思います。予選の段階では、お互いになかなか勝負がつかない試合もあり、最初は中段の構えで真っ直ぐに構えていても、いつしか右手に力が入って「上段のような形」になることもしばしばあります。どうしても、右手に力が入って竹刀が真っ直ぐにふれない、フェンシングのように考えてただあてることに関心がいって剣道の形にならない、足さばきがばらばらで基礎ができていない、もちろん「そんきょ」ができないなど基本的な問題がたくさんありますが、それでも剣道をしようという熱意と関心の高さは見る者に十分に伝わります。
先ほどの勝負がつかない試合を演じたのは、ヴォロネジの選手でした。しかし、かれらを称賛することはできても非難はできません。何とかれらは本(文字)で剣道を学んで、今回初めて参加してきたのです。その熱意には頭が下がります。聞くところによると、最初は韓国のビジネスマンが剣道を紹介し、防具を調達したそうです。そのビジネスマンが最初に教えたわけですが、その後帰国してしまい、剣道の教本を残ったヴォロネジの選手なりにロシア語に翻訳して練習を重ねてきたということです。剣道は実際に手合わせして初めて技量が伸びるものですが、この独学の熱意は大したものでしょう。試合後、日本の先生方から戦後の厳しい時期に独学で稽古した話をうかがい、私には物が満ち溢れた日本に欠けているものをかれらから学んだような気がしました。
大会の2日間、私は、朝7時過ぎに下宿先をでて、体育館に向かいました。普段9時過ぎに下宿をでるというのんびりした生活でしたので、まだ暗いうちから飛び切り早く起きなければならない2日間でした。2日間とも下宿先の「私の両親」は「たくさん食べてしっかり戦ってきなさい」といつもよりも大量の朝食を用意してくださいました。どんなに私はお手伝い、審判だけといっても聞き入れてくれません。帰宅すると、二人は大会の景色を細かく聞くのです。剣道のルールは?、誰が勝ったの?、寒くはなかった?などなど話はつきません。夜のテレビニュースで剣道の風景が映し出されると嬉々として私をテレビに誘います。少なくとも、ボランティアでロシアの剣道を援助したことにかれらは満足し、より日本を、日本人を知ろうとされたのでしょう。
1994年11月橋本プラン、1997年ロシアに対する信頼・互恵・長期展望に基づく態度、2000年までの平和条約締結提案、さらに2000年3月の若手交流での小渕フェローなど、日本とロシアの関係が改善されてきましたが、私はこの間の経験から剣道のような小さな交流の積み重ねが重要であることがあらためて明らかになったように思います。
1999年11月16日付けロシアの日刊『コメルサント』紙は「橋本が平和を求める剣を携えて我が国を訪れた」という見出しで今回の訪ロを好意的に紹介しましたし、11月17日付け“The Moscow Times”も「橋本がロシアに武道の稽古をもたらす」とこれまた好意的です。多額の支援や大規模な交流団の行き来など派手で目立つ交流も必要なのでしょうが、剣道に限らず研究や教育、文化面の地道な交流は当事者の意識そのものを変えるに足りるものと思います。ロシアの側にある「文字だけからでも知ろうとする情熱」にほんの少し実像が加わることで、両者の距離はぐっと近くなるのです。プーチン大統領となり今度は柔道で交流が深まるかもしれません。ロシア経済研究者の立場から言えば、こうした充実感を今度は研究・教育面で味わいたいものです。


センターニュースNo82 リスト