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 エッセイ

スラ研の思い出(第8回)

外川継男(上智大学)

ブラック教授一家と藻岩山頂にて 百瀬 鳥山夫人 ブラック氏 出 ブラック令息
外川夫人 ブラック夫人 ブラック令嬢 百瀬夫人

現在のスラブ研究センターには外国人客員研究員の定員があって、かならず毎年のように外国から研究者が来ているが、初めてスラ研が招聘したのはポーランド科学アカデミーの民族学研究所のシルジンスキー教授だった。(第4回で述べたプリンストン大学のブラック教授はアメリカ文化センターのイニシアチブで、学生に講義をしてもらうのが第一の目的だった。)シルジンスキー教授は日本学術振興会の短期外国人研究者招聘のプログラムで、私の名前でお呼びしたのだったが、この人の推薦はスラ研の学外兼任研究員だった神戸大学の木戸さんだった。しかし、木戸さん自身はユーゴスラビアを中心とする東欧の国際政治の専門で、スラヴ民族学とは直接関係はなかったが、ワルシャワを訪れたときこのシルジンスキー教授からたいへん歓待され、ぜひ日本に招待してもらいたいと懇請されたということが背景にあった。私自身もソ連から研究者を招くのはまだ時期尚早なので、この際ぜひ東欧圏からだれかと思っていたところだったので、今後の参考までにと考えて軽い気持ちで応募したら、いっぺんで通ってしまったというのが実情だった。 
これ以後スラ研はいろいろな予算で外国人研究者を招くようになるが、まず最初に痛感したのは、外国語で文通する手間がずいぶんとかかるということであった。やがて教授の日本到着の日時が知らされたが、いま思い出しても隔世の感があるのは、このとき札幌の私と神戸の木戸さんがわざわざ東京まで出てきて、羽田空港に教授を迎えに行ったことである。木戸さんは少し遅れそうになったので、タクシーを飛ばしてきたが、このころはまだ急ぐ時はタクシーを利用したものだった。

1974年(向かって右後ろは外川 前は秋月)

われわれはまず最初にシルジンスキー教授を学振にお連れして、二、三人の幹部に引き合わせた。まったくの儀礼訪問だったが、できるだけそうするように学振から要請されていたからだった。このあと木戸さんと私はシルジンスキーさんに昼は銀座で天丼を、夜は神田で鳥鍋をご馳走した。いずれも畳の上の食事で、ポーランド人のシルジンスキーさんにとっては、まったく初めての経験だった。
いまから見ればこれは完全に過剰接待だったが、その頃はまだ外国人研究者といえばめずらしく、まして東欧圏となると、学振でもほとんどはじめてのケースで、そこには不安と期待があった。しかし、こういうときの接待の予算はまったくないから、その費用はわれわれのポケットマネーで出す以外になかった。その後スラ研にはソ連からも研究者が来るようになるが、およそ社会主義圏でこのようなポケットマネーでの接待などは考えられない。欧米でもおそらく同様だろう。また日本でも理工系の分野だったら、このようなことはないかも知れない。
このあと何年かして札幌へ来たソ連の日本政治研究者は、千歳空港に出迎えた私にススキノへ案内してくれと頼んだ。彼らはアキハバラについても、ギンザ、ススキノについてもわれわれ以上によく知っていて、わたしはそんな一人からヨドバシカメラの存在を教えられた。
翌日、羽田から千歳までの飛行機の中で、私はシルジンスキー教授から日本のことをあれこれ聞かれた。そのひとつは、「日本では大学教授は兵隊の位ではどのくらいか?」ということだった。(これより少し前、すこし知能の発育が遅れた天才画家の山下清が、よくこの質問をして、評判になったことがあった。)私は「おそらく大佐でしょうか」とこたえた。これにたいしてシルジンスキー教授は、ポーランドでは元帥であって、たとえ大統領といえども教授の称号と地位を奪うことはできない、と力説した。そのあと教授は持ってきた鞄のなかから一冊の本を取り出して、あるページを広げて見せた。そこには世界中のいろいろな国の勲章に交じって、日本の文化勲章が載っていた。教授はもし自分がこの勲章をもらえるなら、非常にうれしいのだが、不可能だろうか? 今回、ポーランドのスラヴ学の研究成果について北大で発表するのだから、その功績が評価されないだろうか?としきりに聞くのだった。
このときから7、8年後に私はワルシャワ郊外のシルジンスキー家に招待された。初雪の降った寒い日で、暖房のきかない部屋で私は教授の大きな毛糸のセーターを借りて、部屋のあちこちに飾られた勲章を拝見することになった。それはほとんどすべて、旧東欧圏の社会主義国のものだったが、バッジから勲章にいたる飾りが、社会主義文化のひとつであることを私は理解した。
われわれは北大におけるシルジンスキー教授の宿舎として、クラーク会館の特別室を確保しておいた。学振から一日いくらと比較的余裕のある経費がでるので、小さなワンルームより、バス・トイレとキッチンのついたスイート・ルームの方がよかろうと判断したからであった。しかし、部屋の差額を知ったシルジンスキー教授は、一人なのにこんな大きな部屋はまったく不要だから、今夜からでも小さな部屋に取り替えてもらいたいと強硬に主張した。そしてポーランドから持ってきたパンとチーズとソーセージを取り出して、これで二、三日の食事は十分間に合うと言った。
このシルジンスキー教授の例から、われわれは外貨の持ち出しが制限されている社会主義圏の研究者には、できるだけ廉価な食堂や理髪店などを紹介することを学んだ。食堂といえば、研究会が終わったあと、われわれはよく札幌駅の北口のビルの地下にある安食堂に一緒に行った。ここではシルジンスキーさんは「ホルモン丼」というのが気にいって、いつもそれを注文した。ポーランド語の通訳をしてくれた伊東孝之さんはこれを「生命の力(シーワ・ジーチア)」と訳したが、この訳も気に入ったようであった。
民族学者であるシルジンスキー教授は、北海道に来たらぜひアイヌの人に会って、その文化を見たいという強い希望をもっていた。これは来日前にポーランドから送ってこられた手紙にも書いてあった。そこでわれわれは文学部でこの分野の研究をしている浅井亨さんにお願いして、一泊か二泊でシルジンスキーさんを平取や近文へ案内してもらった。まだこのころは外国人の研究者の訪問もめずらしく、何より浅井さんの人柄とコネで、シルジンスキー教授はずいぶん歓待され、お土産まで頂戴してニコニコして帰ってきた。
この後ポーランドからはロシア思想史のアンジェイ・ヴァリツキさん、ピウスツキーの専門家でポーランド近代政治史のアンジェイ・ガルリツキーさんなど、何人かの忘れられない研究者がスラ研に来たが、シルジンスキーさんはこれらの人より一世代前に属する人で、その考え方も古いタイプのポーランド人の典型だったように思われる。「私の家は16世紀までさかのぼるシュラフタの家柄だが、家内の方はさらにそれより2世紀も古い家柄だ」と言っていた。私がこの話を北大に留学していた戦後生まれの若いポーランド人の研究者に言うと、彼はこれだからポーランドは困るんですと嘆いた。  
外国人研究員のことでどうしても忘れらないのは、この後スラ研がセンターになってから来られたポーランドのベクシャク教授のときのことである。ベクシャクさんはポーランドの財務関係の官庁の高官もしたことがあるということだったが、ある日事務の人が外務省の領事部からベクシャク先生のことで電話が入っていますが、どうも自分では答えられないので、センター長が代わって出てください、と言った。電話口に出てみると、あなたのところにいま「共産圏」から研究者が来ているだろうが、その人の毎日の記録を取って、こちらに送ってもらいたいとのことであった。失礼ですがあなたの官職・姓名は?とたずねると、答える必要はないという。そこで私はわれわれのところには出勤簿があって、それに日本人なら印を押すし外人ならサインをするから、もしご要望ならこの出勤簿のコピーを送るから、その旨文書で請求してもらいたいと言った。すると相手は、われわれが要求しているのは出勤簿のコピーなんかではなく、一日の出入りの記録や、出張ならどこへ何の用でいつ行ったかという記録である、と重ねて要求してきた。これにたいして私は、正式に文書でその件を要求するのだったら、教官会議にかけた上で承認されたらご要望に応じるが、文書での請求ができないというなら、こちらもご要望には応じかねると返事した。このとき相手が言った最後のことばを忘れることができない。「もしこちらの要求を断るなら、今後そちらにとって不利なことになりますよ。」これが外務省の領事部と称するところからかかった電話の内容であった。私はこの件をだいぶ後になって親しい外交官に話したところ、「それは警察庁から領事部に出向している人ですよ」ということであった。
訂正 1. 80号[第6回]九州大学の「石炭研究資料研究所」とあるのは「産業労働研究所」の誤りで、この研究所は1979年に「石炭研究資料センター」に改組された。
2. 81号[第7回]2枚の写真のキャプションの「右より」は「向かって左より」の誤り。


センターニュースNo82 リスト