◆ タンペレからストックホルムへ ◆

松里公孝(センター)

 7月29日から8月3日まで、第5回中欧・東欧研究国際学会(ICCEES)世界大会(以下、世界スラブ学会と略称する)がフィンランド第3の都市タンペレで開催された。私は、この大会の後、ストックホルムに足を延ばして、スウェーデン国際問題研究所と防衛問題研究所が共催するバルト海地域安全保障に関するワークショップ(8月7-8日)に参加したので、この二つの経験について記したい。
 木村汎氏によれば、ほんらい今年の世界大会は日本で開催されることが、1990年代の前半、ほとんど決まりかけていたのだが、そうはならなかったし、日本で世界スラブ学会を開催することは予想される将来には困難な状況である。というのは、社会主義体制が崩壊したため旧共産圏のスラブ学会が大量にICCEESに加入し、かなりの比重を占めるようになった。この同僚たちは困窮の中で研究しているわけで、このような世界大会はできるだけ東欧の近くで、また物価が安い国で開催されるようにと運動する。そのため、日本はおろかオセアニアでさえ開催可能地域のリストから除外されてしまうのである。次の開催国はドイツだそうだが、ハロゲイト(1990)、ワルシャワ(1995)、タンペレ(2000)、そしてドイツのいずれかの都市(2005)と、ごく近いところだけでこのような重要な国際学会を回していてよいのだろうか。

タンペレ市の中心部にあるダム

 タンペレは、帝政ロシア時代に発展した工業都市・労働者都市であるということをこんにちでも観光資源としており、労働者文化博物館や(ロシアではほぼ消滅した)レーニン博物館がある。まち全体が赤煉瓦づくりで、おそらく革命前に建てられたと推察される工場が美しく保全され、いまも煙を噴き上げている。まちを南北から挟む湖をつなぐ水路が市の中心を流れているが、二つの湖の間の水位差が大きいのでまちの中心にダムと小さな水力発電所がある。水を上手に使った景観は沿ヴォルガで最も美しい都市と言われるチェボクサルィに非常に似ている。
 世界スラブ学会の第一印象は、文字通り開催国の面目躍如、顔をもった学会であったということである。パネルのうちかなりの比重を占めたのは、@フィン・ウゴル学、Aサンクト・ペテルブルク研究、Bカレリア研究、Cバルト海安全保障研究の四つであったが、これらはいずれも、開催国がフィンランドであることを抜きにしては考えられない。個性的であるからこそ、フィンランドのような小国が、スラブ研究の国際的な学界において確固たる地位を占めることができるのだろう。もし日本で世界スラブ学会が開催されたとしたら、日本のスラブ学の個性が発揮される学会になるだろうか、そもそも日本のスラブ学に日本ならではの個性があるだろうかと考えずにはいられない。もちろん、だからといって、日本人なのだから極東や中央アジアを研究せよ、といった議論も短絡的である。結局のところ、フィンランド社会は、日本社会とは比べものにならないほどに、ロシア社会との接点を持っているのである。また、ロシア極東はロシアの臀部にすぎないのであり、ロシアの頭部は欧露の北半分に横たわっているのだ。
 @のフィン・ウゴル学に付随してタタルスタンやバシコルトスタンなどのチュルク系の民族共和国からも多くの研究者が招かれ、全体としてヴォルガ中流域の諸民族の歴史と現状に関するパネルが多く開催され、私にとっては願ったり叶ったりだった。これも、かねてからフィン・ウゴル系の民族共和国を物心両面で援助してきたフィンランドにとっては誇らしいことだっただろう。サランスクやイジェフスクに行くと、銅鑼や太鼓を叩きながら行進するかのようなトルコ・ファクターとは対照的な、背後からひたひたと迫ってくるようなフィンランドの影を感じるが、そうした友人を作る地道な努力は日本も見習うべきである。今世紀の初め、ロシア帝国治下のフィンランド(特にカレリア)で民族主義が高揚したとき、(フィン・ウゴル系の民族が居住する)エニセイ川まではフィンランドの影響圏と主張する汎フィン主義が広まったと聞くが、こんにちの状況はその頃を彷彿させる。
 とはいうものの、初日、二日目は、フィンランドならではの企画の多さに興奮したが、最終日が近づくとあまりの多さに食傷気味になる。ロシアからの参加者が多いのは結構だが、ロシア語のセッションが多すぎである。ヨシカララの「国際学会」でやればいいようなパネルをフィンランドまで出向いてやっているのではと感じさせられることもあった。もちろん、なかには優れた報告もあった。たとえば、マリ・エル共和国歴史民族文化研究所のウラジーミル・クドリャフツェフは、次のような報告をした。フィン・ウゴル系の住民は、歴史のたんなる客体であったかのような描かれ方をすることが多いが、実際には、たとえばブルガール文明を底辺で支えたのは古代マリ人なのだ。ほんらい遊牧民であったブルガールに定住生活と農耕を教えたのはフィン・ウゴル系の住民なのだ。その後、カザン・ハン国に至るまでの時期のチュルク系とフィン・ウゴル系との関係も、「イスラム化」、「同化」といった言葉で表現されるものよりは、はるかに相互的なものだった。ヴォルガ中流域のチュルク系の民族のフォークロアの中には、フィン・ウゴル系のそれから借用したものが多く見られる。
この他、スラ研の宇山氏とも面識のあるチェボクサルィのタイマソフ、ヨシカララのアナトーリー・イワノフ等が報告したパネル(これは、レニングラードのアナニチとウィーンのアンドレアス・カペレルが討論者を務める豪華なパネルであった)では、19世紀初頭における正教から伝統宗教(ヤズィチェストヴォ)への「オトパデニエ」が論点のひとつとなった。これは、最近、スラ研が出版した『ロシア・イスラム世界へのいざない』の中で、西山氏がタタールについて議論したことのフィン・ウゴル版である。一般には、住民がいったん一神教を受け容れてしまうとシャマニズム・アニミズムには戻りにくいと言われるが、この問題に限らず、本大会ではフィン・ウゴルに関して流布している俗説へのチャレンジが目立った(詳述する紙幅がないのが残念である)。
 ヴォルガ中流域は中央ユーラシアの臍のような位置にあるので、そこの研究者は、様々なパネルの接着剤となることができる。たとえば、日本でも良く知られたタタルスタン科学アカデミー歴史学研究所のムハメトシンと、モスクワの東洋学研究所のドミトリー・マカロフが同じパネルで報告した。マカロフは、フェルガナ盆地に位置する諸リージョンのうち、ウズベキスタン、タジキスタン、クルグズスタンからそれぞれ1州ずつ選んで、イスラム運動のあり方について比較検討した。その結論は、「イスラム原理主義」が必ず暴力化するとは言えず、それは権力との特殊な相互関係の中で初めて説明できるというものだったが、これはまさに日本で宇山氏が指摘していることではないか。総じて、日本で行われている研究が国際的な動向から外れているわけではないことがあちこちで実感されたが、それだけに日本人が少数しか参加していないことが悔やまれる。同種のインターリージョナルな企画の中では、タタルスタンのアルファベットのラテン文字化法、ダゲスタンとコミの政治体制について検討するパネルが優れていた。  パネルの組織上の工夫としては、類似したパネルが同一日に集中しているのは有り難い。大会は日曜日から木曜日まで続いたが、たとえば私にとっては、月曜日はムスリム・デー、水曜日はウクライナ・デーであった。私は、この大会から、1998年、1999年に出席したAAASSの年次大会から受けたよりもはるかに多くの刺激を受けたが、AAASSの年次大会が往年の意義を失いつつあることが悔やまれる。というのは、1996年以来、新興勢力のASN(民族研究協会)の年次大会に圧されまくっているからである。まず、学会の性格上、ロシア以外の旧ソ連諸国の研究者、ロシアの非ロシア人の専門家は、ほぼ自動的にAAASSの大会
 ストックホルム市庁の塔から旧市街を眺望する
ではなくASNの大会で報告するようになる。それだけでもAAASSにとっては打撃だが、最近では、ロシア人州に関する研究さえASNの大会で報告した方がよいという風潮さえ生まれてしまった。それにはいくつか理由があるが、まず、開催地が毎年ニューヨーク(コロンビア大学)に固定されており、魅力的であること。リーダー格のドミニク・アレル(ウクライナ研究者)の組織能力もあって、春の大会であるにもかかわらず、企画のプロポーザルの締め切りがAAASSとほぼ同じ12月であること。つまり、AAASSが、大会の11ヶ月前には企画内容を決定していることを要求するのに対し(これは全くのナンセンス。普通に勉強していれば、1年経てばやっていることも考えていることも変わるはずだ)、大会4、5ヶ月前に企画を提出すればいいこと、が考えられる。
 私がストックホルムを訪問することは、現地の同僚であるイングマル・オールドバーグ(スウェーデン防衛研究所)とかねてから約束していたことであった。ところが、偶然、滞在予定期間中にバルト海地域安全保障をめぐるワークショップが、防衛研とスウェーデンの国際問題研究所の共催で行われることになったので、オールドバーグはこれ幸いと私を招いたわけである。そもそも私がストックホルムを訪問することにしたのは、私が最近関心を持っている「リージョン疑似外交」あるいは「地域安全保障のリージョン・ファクター」について、極東やカスピ海地域との比較が可能であるかどうかを実地で観察するためだった(スラ研の近刊、Regions: A Prism to View the Slavic-Eurasian World 所収のステファン・スピゲレア論文参照)。もし比較が可能なら、来年1月のスラ研のシンポジウムを皮切りに、スウェーデンの同僚も巻き込んで、何らかの共同プロジェクトを組織したいと考えた。こちら側には、岩下明裕氏、アルバハン・マゴメドフ氏といった、この問題でのかなりの権威がいるのだから、それは容易であろうと予想したのである。
 金曜日にタンペレからストックホルムに移動、その日のうちに、有名なSIPRI(ストックホルム平和研究所)を訪問し、人捜しを開始する。月曜日にはワークショップが始まる。非常に驚いたことに、世界で最もグローバライゼイションが進んだ地域であるバルト海地域のそれは、伝統的な主権国家が推進力となっているのである。この地域には、「地球化がサブナショナルな主体の自己表出を促進する」という一般法則は妥当しない。私は、地域外交が非常に活発(主体としても客体としても)で、かつてのハルビンのような地位にあるカリーニングラードをモデルとしてバルト海地域の国際化をイメージしていたのだが、カリーニングラードはこの地域においてはむしろ例外に過ぎないことがわかった。したがってワークショップも、私が討論者を務めたオールドバーグ一人を除けば、「主権国家・プラス・若干のNGО」を分析単位とした、伝統的なスタイルの報告ばかりだった(オールドバーグはリージョン政治学者なのだから、サブナショナルな主体に関心を払うのはアタリマエ)。
 「ロシアは」などという主語で話を切り出されると、ロシア専門家としてはギョッとする。「ロシアは形容詞としては存在するけれども名詞としては存在しませんよ。利害を異にする様々なエンティティーの束にしかすぎませんよ」ということを私は繰り返し言ったのだが、どこまで通じたか...。若い同僚たちに、「誰かラトヴィア政治におけるウプサラ・ファクターを研究している人はいませんか」と尋ねると、「何でここでウプサラなんて地名が出てくるの」と笑われ、「ヨーロッパはリージョンから成る、なんてのはEUの宣伝、イデオロギーにすぎない。EUは圧倒的に主権国家によって運営されている」と言われた。
 まあ、考えてみればこれも当然で、ロシア極東やカスピ海地域において、聞き分けのない、石油だのパイプラインだのに賭けて一攫千金を夢見る、しかも場合によっては武装したサブナショナルなエンティティーがひしめいているのとは対照的に、北欧も沿バルト3国もすこぶる単一主権的な体制を採用しており、ロシアの北西地方のリージョン権力は個性に乏しくモスクワべったりである。極東や北コーカサスに見られる、一癖もふた癖もある千両役者の知事はここにはいない。つまり、グローバライゼイションが進んでいても、政治が安定(停滞?)していれば主権国家システムは深刻な挑戦を受けないのである。
 たとえアプローチが(主権国家中心という意味で)古典的だったとしても、フィンランドとならんで、スウェーデン政治における対ロ政策の位置づけは、日本におけるそれとは比べものにならない。たとえば、スウェーデン防衛研究所は2部門から構成されているが、そのうちひとつはEU拡大とスウェーデンのEU加盟問題を扱う部門、もうひとつは対東欧(旧共産圏)部門である。つまり、対東欧政策が、スウェーデンにとって国運を賭けた争点であるEU加盟問題と同程度の位置づけを与えられているのである。外交の世界は相互的なものだから、この姿勢はロシア側にも反映する。1996年にエリツィンが再選される前に最後に訪問した国がノルウェー、再選後(そして病気回復後)に最初に訪問した国がフィンランドであったことはそれを象徴している。ドイツやポーランドも含む沿バルト貿易は、共産主義体制の崩壊と同時に減退したが、1995年には共産主義時代の対ソ貿易のピークの水準を回復し、いまも年々拡大している(以上、Arkady Moshes, The Baltic Sea Dimension in the Relations between Russia and Europe. Stockholm, 1999)。

 スカンセン博物館の職員さんたち

翻って日ロ貿易を見れば、1998年の金融危機以降回復基調にあるものの、いまだに共産主義時代の対ソ貿易のピーク時の半分くらいの水準で推移している。がめついロシアにとっては、要するに金を持ってきてくれる顧客が良い顧客なのである。「口は出すが金は出さない」といった姿勢では、ロシア政治における対日政策の優先順位は下がるばかりである。
 ところで、ワークショップが始まる前の土日は、無論のこと、ストックホルムを見て回った。実はストックホルムは、私にとって初めての「西欧」都市だったので、圧倒された。しかも市の中心部は、17世紀までに建設されたのである。いまさらながら、よくまあピョートル1世がこの国を破ったものだと感心させられる。まちのはずれのスカンセンという高台には、スウェーデンの古い農家、貴族の館、教会や水車小屋を集めた野外博物館がある。デンマーク映画の『ペレ』に描かれているように(ちなみに、ストックホルムの若い同僚たちに『ペレ』の話題を出したら、この映画を知っている人が一人もおらず、仰天した。自分の歳を自覚するのはこうした瞬間である)、北欧が豊かになったのはつい最近のことというイメージがあるが、この博物館を見た印象では、たとえば同時代のカルパチア地方とは比べものにならないほど、スウェーデンの18、19世紀の農民は豊かである。
 同種の博物館は、札幌では開拓記念館に付属して、またウシュホロドにもあるが、スカンセンのいいところは、博物館の職員・ガイドが当時の服を着ていることである。説明は見事なブリティッシュ・イングリッシュ。タンペレでも、デパートの店員の7、8割が英語を話すのに驚かされたが、ストックホルムでは市民が皆、鼻を使ったブリティッシュ・イングリッシュで話すのにもっと驚かされる(そのため、「キャッスル(城)」は「クースゥ」としか聞こえない)。IT革命が本格化すれば、日本に勝ち目はない。まあそれを言いだせば、香港やシンガポールに勝てるかという話になるが。
 ストックホルムは、実に国際的・多人種的である。少子化を移民受入によって打開する方針が、すでに戦後まもなく採用されたからである。アメリカのような「多民族社会」との違いは、人種間恋愛・結婚に対する抵抗がないところであろう。実際、肌の色が違うカップルを多く見かける。アメリカなみに開かれており、治安はアメリカよりもずっといいということで、移民にとっては住み易い国だろう。
 スカンセン博物館に付属して動物園があるが、いわゆるエンリッチメントの典型で、広大な、地面むき出し、雑草生え放題の空間に少数の動物が飼われている。人間の視線が彼らを苦しめないように工夫されている。こんな北国に熱帯動物が飼われているなどという不自然なこともない。円山動物園の残酷ショーに心ならずも子供をつきあわせている親としては、このような動物園はうらやましい。喫煙者はほとんどおらず、酒はほとんどビールのみ、売春は買った側も科罰(日本ではこれは確か共産党が掲げている政策である)......まあ、正しい理屈が必ず通る社会ではある。6日住んで、若干息が詰まったところで、賑やかなエカテリンブルクに向けて飛び立ったのだった。
センターニュースNo83 リスト