スラ研の思い出(第9回)

外川継男(上智大学)

 スラ研の存在理由のひとつとして、今日ではその豊富な蔵書をあげることにだれも異論はないだろう。欧米諸国の場合、アメリカのライブラリー・オブ・コングレス,イギリスのブリティッシュ・ミュージアム、フランスのビブリオテク・ナショナルというような、それぞれの国を代表する中央図書館には豊富なスラヴ関係の蔵書があるが、残念ながら日本の国立国会図書館のこの分野の蔵書は、決して豊かだということはできない。最近のように、パソコンで資料の検索が行なわれるようになると、この分野の文献のかなり多くが、北大スラ研の蔵書に突き当たるというのが、多くの研究者の経験するところである。
 スラ研は設立当初から資料の収集についてはずいぶん予算と人手をかけてきた。研究員の重要な仕事のひとつは、新着図書目録に目を通し、予算と見合わせながら、発注の印をカタログにつけることだった。もし貴重な文献が一冊しかないときときには、たとえそれが自分の専攻分野の必須文献であっても、まずスラ研の蔵書として購入することが研究員のモラルであり、それは暗黙の了解事項になっていた。
 スラ研の改組・拡充に関する概算要求で、われわれが強調したのはアメリカのイリノイ大学の「ロシア・東欧センター」との対比であった。スラ研より4年おくれて1959年に設立されたこの研究センターは、「夏季研究ラボ」とすぐれたライブラリアン、そして豊富な蔵書で、すでに専門家のあいだに知られていた。 1975年ころスラ研が2万4千冊ほどの蔵書を有し、毎年ほぼ1千冊くらい購入していたのに対し、すでにイリノイ大学の方は38万冊からの蔵書を持ち、毎年約1万2千冊くらい購入してしていた。
 アメリカにはユージン・コレクションなど世界でもトップクラスのスラヴ関係の蔵書を誇るライブラリー・オブ・コングレスがある上に、ニューヨーク市立図書館もあれば、ハーヴァードやコロンビアといった老舗の大学付属のソ連・東欧関係の研究所にはそれぞれ豊富な蔵書があって、しかもそれらはインターライブラリー・ローン・システムで結ばれていて、すでに50年代から相互貸借の制度が確立していた。
 スラ研がモデルにしたイリノイ大学は、ハーヴァード、コロンビア、バークレイなどと比べると、おくれて出発したインディアナ大学やミシガン大学などと並ぶ、いわばスラブ・東欧研究の分野では中進的な大学であった。このうちインディアナ大学は、ロシア史専攻のバーンズ教授を中心に大学院教育に力を注ぎ、ロシア・東欧研究の分野で全米でもっとも多くの Ph.D.を輩出していた。それに対しラルフ・フィッシャー教授という献身的な所長をいただくイリノイ大学の方は、チョル

1982-83年冬 向かって左から秋野 ベクシャク 外川

ディン女史をはじめすぐれたスラヴィック・ライブラリアンを助教授クラスで集め、寄付を募って蔵書収集に力を入れるとともに、夏季には全米はおろか全世界から、著書や学位論文を執筆する研究者のために低廉な費用で研究所と図書館を自由に使用する便宜を提供することで、専門家のあいだに知られていた。 わたしはイリノイ大学のロシア・東欧研究センターを訪れたとき、フィッシャー所長の自宅に食事に招かれ、親しく話をする機会があったが、この人とハーヴァードのウクライナ研究所のプリツァーク所長の二人からは、それこそスラヴ研究の伝道師といった強烈な印象を受けた。両教授とも全生活を研究所の発展にささげ、日本でただひとつの研究機関であるスラ研の将来のために、種々助言を惜しまれなかった。
 ところで北大法学部は大学紛争後の改革の一環として、学部図書係を廃止して、中央図書館に統合するという、他の部局の目をみはらせるような思い切った改革をやった。これは法学部の今村教授が図書館長だったこと、石川学部長はじめ教授会のメンバーの多くが定員削減を目前にして合理的な事務組織の在り方について考えていたこと、さらに今田事務長という、かつてない熱心で有能な事務の責任者がいたことなどによるものだった。
 しかし、法学部の改革はその付属施設であるスラ研に、もろに影響を与えるところとなった。スラ研の改組・拡充に熱心に取り組んでくれた今田事務長は、なんども新任の施設長であるわたしのところに足をはこんでは、スラ研が法学部と足並みをそろえて統合してくれなければ、せっかくの改組が半分しか実らないことになってしまうと訴えた。
 ここにおいてわれわれは、図書担当の秋月事務官を交えて何回も協議をかさねたが、現段階でスラ研の図書係を廃止して中央図書館に統合するとなると、ただちにいくつもの問題が生ずることがあきらかになった。そこで、まずその問題点を列挙して、それについて図書館側の説明を聞くことからはじめようということになった。
 このようなスラ研の要請にたいして、中央図書館側は担当の課長ではなく、係長のI氏を協議の席に派遣したが、こちらの疑問点に対しては、後日回答すると言っただけで、ついに一年たってもその回答は得られなかった。このときのわれわれの疑問点のいくつかにについては、『スラヴ研究』の第16号(1972)に秋月さんが「スラブ研究施設図書室報告(1971)〜大学図書館の集中管理制をめぐって〜」という一文を書いている。このなかで秋月さんは、合理化という観点から集中管理方式=図書館への統合はたしかに利点があるが、その前提として図書館の管理組織の改革と図書職員の質的向上のふたつが不可欠であることを力説している。この二点に関してはわれわれもまったく同意見だったが、実はこのほかにもこの秋月さんの文章には書かれていない、あるいは書くことのできなかった隠された理由があった。それは、定員の問題である。前述のようにスラ研には事務官ポストはふたつしかないのに、もしそのうちのひとつを図書館に与えてしまうと、将来独立のセンターとなるとき、事務組織の上で大きな問題が生ずる。たとえ文部省が教官定員の増大や振り替えは認めても、事務官や技官の定員増はぜったいにみとめないだろう。そうなれば、将来スラ研の事務はいったいどこがやるのか、たとえどこかの部局の事務室が片手間にスラ研の事務をやるにしても、いったいだれがロシア語をはじめとするスラブ諸語の資料を収集・整理し、だれが科研費などの経理をやり、だれが研究員会議の準備や概算要求等の資料を整えるのか、という疑問が残った。
 今田事務長と図書の件でなんどか話をしているときに、今田さんとわたしとのあいだに事務組織の考え方に違いがあることが明らかになった。スラ研が北大だけでなく、現在も将来も全国のスラブ研究者のセンターであることは今田氏も認めてくれたが、氏にしてみれば、それらの研究者が研究の必要上どうしても必要な文献が要るなら、スラ研に来て勉強すればよいのであって、そのような人のためにスラ研の事務がサービスをする必要があるとは思えないというのである。これは会計畑出身の今田氏の考えからもきている。国の予算で購入した図書は国有財産であって、一冊ごとに物品番号をつけて、図書館に配架し、それを研究者は学内で見るのがいちばん紛失の危険がない。そうでなくても人員も予算も足りないのに、どうして北大の一機関が他の大学の教官のために本のコピーをとって送ってやったり、カタログを作成したりしなければならないのかわらない、というのである。
 図書については、アメリカのイリノイ大学はじめ各地の大学付属研究所をたずねた際に、ソ連の図書の購入に関して、つぎのような話をよく聞かされた。ソ連側は英語の出版物が欲しいが外貨がなくて、買うことができない。しかし、ロシア語の本なら全部国立の出版所から出版されているから、無料で入手できる。そこでアメリカのスラヴィック・ライブラリアンは、めぼしいソ連の図書館に行って簡単な交換の協定を結んでくる。相互に欲しい文献のリストが交わされて、ほぼ同じくらいの冊数が交換されるようになる。そこでライブラリアンとしては、前任者は年間いくらの予算で何千冊購入したが、自分になってからは同じ予算でその二倍も三倍も入手している。しかもその中には西側の本屋では買えない地方出版物も入っている云々。そしてこれはその人のメリットとして認められ、昇給や昇進の重要な参考になる。しかし、単年度予算で文献・資料はすべて備品として国費で購入する日本の場合、そのようなことは絶対にできない仕組みになっている。
 しかし、スラ研の場合、実際にはアメリカの例をまねて、はるかに小規模な形ではあったが、レニングラードのサルトィコフ=シチェドリン図書館の交換部と話をつけて、図書の交換をやってきた。だが、これは個人のポケット・マネーでやるほかないから、その規模は年間せいぜい数十冊くらいにすぎなかった。しかもこれはその性格上、事務官をわずらわせることができないところから、出さんがずっと担当されてきた。教官である出さんがこのようなライブラリアンの仕事をやるのは、あきらかに過剰な仕事だったが、しかし、まったくマイナスばかりでもなかった。後年、出さんがシチェドリン図書館を訪れたとき、担当者は歓迎して、この図書館の交換用の本を見せてくれたが、出さんはそれがかなり大きな部屋にいっぱいあったこと、そして、そのなかには国外持ち出し禁止の、戦前に発行された本も含まれていたのに驚いたという。この出さんの訪問以後、シチェドリン図書館からの交換用の図書のなかには、毎回わずかながらこのような古書が「ご褒美」として、スラ研にも送られてくるようになった。
(前回の「ポ−ランドのベクシャク教授」は、「ハンガリ−のシ−ポス教授」の誤りでした。なお、外務省領事部からの電話があったのは1983年6月27日のことでした。)
センターニュースNo83 リスト